出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話739 土居客郎、恒星社、渡辺敏夫『暦』

 本連載730の山本実彦『蒙古』の参考資料として、水島治男の 『改造社の時代・戦前編』『同戦中編』(図書出版社)を読み、ふたつほど気になっていたことが氷解したので、それらを二編挿入しておきたい。

f:id:OdaMitsuo:20171219142738j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20171114154526j:plain:h115

 水島は大正十三年に創立された夜間の大学である早稲田専門学校に入学し、いずれは新聞記者を志していたが、昼間の仕事として校正係を選んだ。そのきっかけは次のような次第であった。

 叔母の家に下宿していた土居客郎という、もと警醒社にいた人に会わせてもらった。(中略)当時、土居さんは独立して「恒星社」という出版社をおこして、星座や天文学の本を出していた。私は、もともと堺利彦の弟子で、土居さんの警醒社の同僚でやはり独立して厚生閣の主人となっていた岡本正一さんに紹介されて、校正係として入社した。(中略)
 厚生閣の出版物は小学校国語教科書の教授法の研究指導が主であった。当時、アメリカのパーカスト女史が創始したダルトン・プランという新教育方法が流行していた。私の仕事は校正が主で、他は新聞にのせる小さな広告、雑誌ののせる広告作成といった仕事もした。そこで出版界の事情や校正、活字の大きさや、組み方、用紙のことなどを覚えた。

 ここで恒星社の土居のこと、本連載107などの厚生閣の岡本正一が堺利彦の弟子だったことが語られている。これらは知らなかった事実だが、とりわけ前者の恒星社の土居への言及は初めて目にするし、『出版人物事典』における立項を裏づけることになる。
出版人物事典

 [土井伊惣太 どい・いそうた 別名土居客郎]一八九九~一九六六(明治三二~昭和四三)恒星社厚生閣創業者。香川県生れ。同志社大神学科に学び、警醒社編集部を経て一九二二年(大正一一)岡本正一、志賀正路と恒星社を創業、“天文学に憑かれたアマチュアの一人”として天文書の出版を続けた。三七(昭和一二)に『図説天文講座』を出版、三八年には荒木俊馬『天文と宇宙』を刊行、長く版を重ねた。四四年(昭和一九)戦時企業整備で厚生閣を合併、恒星社厚生閣と改めて社長に就任。以来、一貫して学術専門書を中心に出版を続けた。(後略)

 土井と土居のふたつの名前は前者が戦後、後者が戦前に使われていたように推測される。それは水島の証言と昭和十五年の恒星社の渡辺敏夫 『暦』の奥付にも表われ、発行者は土居客郎となっているからである。

 また巻末には五十冊を超える「恒星社出版書目」も掲載され、それらは立項に見える『天文と宇宙』を始めとする天文書で大半が占められ、土居と恒星社の天文書出版の実績がうかがわれる。これは未見だけれど、山本一清、村上忠敬の『天文学辞典』も挙がっていて、同時代の天文学ばかりでなく、星や天文マニアである野尻抱影や稲垣足穂も恒星社の天文書と併走していたにちがいない。

 しかし恒星社の取次を通じての流通販売は厚生閣に委託されていたようで、『暦』の奥付には発行所が芝区南佐久間町の恒星社、発売所が麹町区六番町の厚生閣となっている。これが意味するところを説明してみる。『出版人物事典』の立項は恒星社も厚生閣も大正十一年創業としているけれど、『日本出版百年史年表』を確認すると、同年には岡本による厚生閣の創業しか記されていない。


 
 水島の証言にあるように、厚生閣は教科書関連の出版物を主として、岡本や土居が立ち上げ、岡本がそれらに携わる一方で、土居は天文書の出版を志向していたと思われる。それで厚生閣の出版物と区別するために、厚生閣の別名としての恒星社を使用した。だが当時の出版状況から考えても、天文書の刊行は販売環境が整っておらず、恒星社としての独立した取次口座の開設は無理だったのではないだろうか。また営業の問題もあっただろう。

 そこで発行は恒星社として編集に専念し、取次などの流通販売は厚生閣に委託することになった。それは恒星社の天文書出版が軌道にのったと見なしていい昭和十年代になっても変わらず、その分担が続いていたことを示している。そのような事情から、昭和十九年の出版社整備で両社が合併することになったのだろう。ちなみにこの合併には、『婦人画報』の東京社と「袖珍文庫」などの三教書院も加わっている。

 またこれは拙稿「春山行夫と『詩と詩論』」(『古雑誌探究』所収)でもふれているが、水島が昭和二年に改造社に入り、厚生閣を去る代わりのように、翌年に春山行夫が入社し、『詩と詩論』を創刊する。そのかたわらで、「私の『セルパン』時代」(『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)で述べられているように、「社主は根っからの商人で、広告文などは一切書かなかったので、毎月でる四、五冊の新刊書の編集や広告は私がひとりで担当」していたのである。つまり岡本は経営と営業に専念していたのであろうし、それが恒星社との関係にも反映されているはずだ。
古雑誌探究  第一書房長谷川巳之吉

 なお春山は戦後に恒星社厚生閣の社長になったのは「平井君という営業係」だったとも記している。それは岡本から平井への、恒星社厚生閣の営業からの経営の引き継ぎを意味していよう。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com