出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話816 ジイドの時代と『ソヴエト旅行記』

 やはり白水社のアンドレ・ジイドの『贋金つくり』(山内義雄訳)を入手している。これは昭和十年二月初版発行、十四年八月十三版と奥付に示され、順調に版を重ねているとわかる。『白水社80年のあゆみ』を繰ってみると、前々回も記述しておいたように、昭和六年に『窄き門』、十年に前書と『贋金つくりの日記』(鈴木健郎訳)、十一年に『二つの交響楽』『地の糧』(いずれも今日出海訳)が出されている。
(『白水社80年のあゆみ』) (『窄き門』)(『贋金つくりの日記』)
(『二つの交響楽』)

 その一方で、春山行夫が「私の『セルパン』時代」(林達夫他編著、『第一書房長谷川巳之吉』所収)で、昭和十二年の『セルパン』五月号の「出版部だより」掲載の「ジイド日本の読書界を席捲す」にふれている。そこで小松清訳『ソビエト旅行記』の売れ行きが三ヵ月で七千部に達していて、「本年度の最高のレコードホールダーになるでせう」との言を引いている。

第一書房長谷川巳之吉 

 この実際の表記は『ソヴエト旅行記』で、手元にある。奥付を見てみると、昭和十二年二月初刷三千部、四月二刷一千部とあり、「出版部だより」を裏づけている。巻末広告にはいずれも堀口大学訳のジイドの著作『未完の告白』『新しき糧』『一粒の麦もし死なずば』『女の学校・ロベール』の四冊が並び、これらもこの二十日間ほどで、合わせて七千部が重刷となり、「こんな例は日本でもいままで余り類例がないことで、今日の知識人がいかに読書の選択に於いて本格的になってきたかが立証されて頼もしいかぎりです」との言も引かれている。それに春山は『未完の告白』と『女の学校・ロベール』が、いずれも昭和十四年二月に第十六刷に達し「当時の記録としては驚異的な数字だ」と記し、他の文芸書重版状況も示し、「第一書房にとっては、その繁栄の序の口であった」と証言している。先の『第一書房長谷川巳之吉』所収の「第一書房刊行図書目録」を見ると、ジイドはさらに昭和十二年『ソビエト紀行修正』、同十三年『田園交響楽』(いずれも堀口訳)、十四年『芸術論』(河上徹太郎訳)と続いている。

 しかし『ソヴエト旅行記』はジイドの他の著作と異なる読まれ方をされ、そのことで、三ヵ月で七千部にまで達したのではないだろうか。ジイドは一九三六年六月にゴーリキーの瀕死の病を知らされ、飛行機でモスクワに向かい、その翌日、その死に接し、赤の広場での告別式で追悼の辞をのべた。それから二週間、モスクワに滞在して様々な施設や人々を訪れ、さらに一ヵ月ほどソビエトの地方を回り、帰国した。そこで同行した一人である『北ホテル』の作者ウージェヌ・ダビを猩紅熱で失ったために、『ソヴエト旅行記』はダビに捧げられている。

 それまでジイドはコミュニズムの同調者だったが、この旅行から戻ると、『ソヴエト旅行記』を書き、反スターリン主義の立場に転じ、フランス共産党からも離反することになったのである。それはこの旅行記の次のような言葉にも明らかだろう。

 今日ソヴエトで強要されてゐるものは、服従の精神であり、順応(コンフォルミズム)である。したがつて現在の情勢に満足の意を表しないものは、みなトロツキストと見なされるのである。われわれはこんなことを想像してみる。―たとへレーニンでも、今日ソヴエトに生きかえつてきたら、どんなに取扱はれるだらうかと。
 スターリンはいつも正しいといふことは、とりも直さず、スターリンがすべての権力を握つてゐるといふことと同じである。

 フランスで同書が発売されると、わずか二ヵ月で百五十版を超え、政治、思想、文学界に侃々諤々の論議が引き起こされたという。それを受けて、小松清による邦訳も刊行されたことになり、まさに日本でもポレミックの書となったことは想像に難くないし、実際にそうであったと推測される。

 この『ソヴエト旅行記』は例外に属するとしても、本連載でも昭和十年代の様々な外国小説や翻訳シリーズ、及び外国文学全集などを取り上げてきたが、このような翻訳出版状況は第一書房だけでなく、白水社にしても同様だったのではないだろうか。マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』 (山内義雄訳)にしても、同時代に出されているのである。それはデュ・ガールが一九三七年、昭和十二年にノーベル賞を受賞したことも影響しているのだろう。また小津安二郎の『晩春』(昭和二十四年)で、『チボー家の人々』をめぐる会話が交わされているが、私のような戦後世代にしても、昭和四十年代初めに図書館で読んでいたのである。
白水社
晩春

 それはジイドも同様で、多くが新潮文庫化され、ジイドの時代が戦後も続いていたことを示し、私もやはり同時代に最初に挙げた『贋金つくり』の改題であるジッド『贋金つかい』を新潮文庫で読んでいる。その『贋金つかい』の巻末のリストにあるジッドの作品を見ると、十二冊を書終えられるし、またジイド=ジッドが読まれていたことを教えてくれる。

(『贋金つかい』)

 それはデュ・ガールと同様に、ジッドの戦後の一九四七年のノーベル賞受賞も作用してだろうが、昭和二十五年に新潮社から『ジイド全集』 全十六巻が、原書のガリマール書店版そのままのフランス装で刊行され、それに続いて『ジイドの日記』(新庄嘉章訳)の全五巻も出されている。またこれらは未見だが、同時代に新樹社、角川書店、河出書房からも『ジイド全集』が試みられていたようで、確かに戦後まで、ジイド=ジッドの時代が続いていたことになろう。

(『ジイド全集』、新潮社版)ジイド全集 (角川書店版)


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古本夜話815 ポオル・モオラン『レヰスとイレエン』と伏字

 前回の堀口大學訳『ドルヂェル伯の舞踏会』の「同じ訳者によりて」一覧に示したように、ポオル・モオランの『夜ひらく』『夜とざす』『恋の欧羅巴』の三冊は挙げられていたけれど、私が浜松の時代舎で入手している『レヰスとイレソン』の記載はなかった。これは同じく大正十四年に第一書房から、『恋の欧羅巴』よりも先行して出版され、初版が千五百部だったので、『ドルヂェル伯の舞踏会』刊行時の昭和六年には品切になっていたことによっているのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20180809142644j:plain:h120(『ドルヂェル伯の舞踏会』) f:id:OdaMitsuo:20180809114854j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20180809115213j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20180811115207j:plain:h120

 ただ私も『レヰスとイレエン』は購入したものの、『夜ひらく』『夜とざす』は未見未読のままだ。それは長谷川郁夫『堀口大學』も同様なようで、堀口がパリでモオランに出会い、翻訳許可を得て新潮社から出されたことは記されているが、内容にはふれておらず、むしろ『レヰスとイレエン』の紹介に紙幅を割いている。そうしたことから、よく引用される『夜ひらく』の「私の開いた口の中へ、咽喉の奥までダリアの花がとびこんだ。花合戦。花園が空中に浮かんで消えた」といった文体に直接ふれてこなかった。

堀口大學

 それにこの二冊は大正十三、十四年に新潮社から「仏蘭西文芸叢書」として刊行されているが、『新潮社四十年』では言及されていない。またモオランの文体が横光利一たちの新感覚派に大いなる刺激と影響を与えたとされるけれど、それは一過性の流行であったようで、篠沢秀夫の『立体フランス文学』(朝日出版社)において、モオランは立項どころか、言及すらもない。

 やはりリアルタイムでの認識は、例によって『世界文芸大辞典』によるしかないので、それを引いてみる。これはまさに堀口自身によるものである。

世界文芸大辞典(日本図書センター復刻)

 モーランPaul Morand(1888~1976)フランスの小説家、詩人。大戦直後の混乱した欧州各国の人情風俗に現はれた現代文明の断末魔のあがきを、映画風に変化の多い筆致と感覚的新奇なイマージュと豊な色彩とで描写するを得意とし、外交官としての旅行と外国生活の体験とに基く現実的な新エキゾティズムを文学の世界に樹立した。出世作たる『夜ひらく』『夜とざす』は忽ち世界の読書界を風靡し、各国の文学に影響を与へた。(後略)

 そしてさらにこの二作は別項として挙げられているので、それも示す。なおこちらはフランス文学者の根津憲三が担当している。

 「夜ひらく」「夜とざす」“Ouvert la nuit ”(1922)、“Fermé la nuit ” (1923)フランスの小説家ポール・モーラン(原語表記略)の小説。これらの作に於て、作者の作家的技巧は円熟の域に達し、多彩にして、スピリチュエルな筆致をもつて、気ままな人間の心により寸断された各国の夜の世界を遺憾なき迄に描写してゐる。共に堀口大学の邦訳があり、この邦訳により紹介された原作者の「感覚の花火」は、大正十三年頃の我が国の文壇、特に所謂、新感覚派と称せられた一群の人々の多大の影響を及ぼした。

 これらの立項、解題に加え、『レヰスとイレエン』の内容を紹介してみよう。主人公のレヰスは生粋の巴里人で、その特有の強い利己主義と老婆親切を合わせ持ち、勝手気儘に気力にまかせ、第一次大戦後の社会を生きていた。戦後社会はすべてが見掛け倒しで、投機の世界だった。レヰスは株券の大半を所有することに成功し、フランコ・アフリケエン銀行と傘下会社を支配するに至っていた。私生活においても、多くの女たちとの情事に励み、それを手帖に記録していた。そのひとりのマダム・マグニヤは次のような比喩で語られている。「かの女は小売店の店頭で色の褪せた、書店の『返品』みないた顔をしてゐた」し、その乳房は「戦争前の流行型」だった。原文を確かめられないのが残念だし、これが「感覚の花火」的描写だとは見えないけれど、女性に対しての「書店の『返品』みたいな顔」というレトリックはここで初めて目にするものである。

 レヰスがギリシャに向かい、そこでの鉱山採掘権の契約にこぎつけた後、海でイタリア語を話す女性と出会った。彼女は「腹這いひにねころんでゐた。青い血すじがかの女の太股の両側を刺青の蛇のやうに這つてゐた。黒い頭髪は、首すぢをあらわにして砂の上にまでひろがつてゐた」。これも「感覚の花火」的描写というよりも、ブラム・ダイクストラが『倒錯の偶像』(富士川義之監訳、パピルス)で提出した蛇と快楽をともにする女性に関する世紀末絵画を彷彿とさせ、セイレンのようである。それがイレエンに他ならなかった。

倒錯の偶像

 そうしてイレエンがギリシャのアポストラトス銀行の一族で、共同経営者の一人であることがわかる。彼女も鉱山の権利を買おうとしていて、レヰスに先をこされたことになる。だがそれで終わったわけではなく、イレエンに魅せられたレヰスは資金繰りの問題も生じ、鉱山をアポストラトス銀行に譲り、その後に彼女に求婚し、迫る。そのシーンは事業と男女間の闘争が重なるようなかたちで、数ページにわたって展開される。しかしそのコアの部分は、ここだけがフランス語のままである。それは伏字処置が施されていると見なしていい。そこで私訳してみる。

 もつれ合いながら、二人はベッドの上に倒れこんだ。英国製のベッドは、いわば冷ややかなベンチだった。イレエンは錠をかけて守るように、脚を閉じ、足で相手をはねつけた。

 現在から見れば、どうしてこのようなシーンが原文のままにされたのか、その判断基準が不明だが、この部分のフランス語はモオランの「感情の花火」的表出ともなっているのだろうか。だがその後のレヰスのセリフ、「そうだ! あなたの乳房あてを下さい、紙入れに入れてかへりますから」には苦笑させられてしまう。これもモオランの「感情の花火」的表出として読まれたのであろうか。

 まだ『レヰスとイレエン』は続いていくが、この小説が『夜ひらく』などと同様の影響を、日本の近代文学に与えたとは思えない。いずれ『夜ひらく』などを読む機会を得て、そのことを再考してみたいと思う。


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古本夜話814 ラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』と堀口大学

 前回、長谷川郁夫の『堀口大學』における堀口、長谷川巳之吉の第一書房と東京、京都帝大仏文科の対立にふれたが、出版社の場合、そのような構図はあったにしても、フランス文学翻訳者は限られているし、売れる企画は耐えず追求されなければならない。
堀口大學

 前々回の白水社の二代目社長の草野貞之が、東京帝大仏文科出身であることからすれば、第一書房と対立関係の立場に置かれていたことになる。ところが実際にはそうでもなく、草野のアナトオル・フランスの翻訳『エピキュルの園』は昭和四年に第一書房から豪華版として出され、七年に普及版も刊行されている。草野の「長谷川巳之吉さんとの出会い」(林達夫他編著『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)所収、日本エディタースクール出版部)によると、この出版は恩師の辰野隆と岸田国士の紹介を通じて実現したのもので、ここで草野はそれ以後の長谷川との関係を語っているのである。
 第一書房長谷川巳之吉

 それゆえに、白水社から堀口大学によるラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』の翻訳が出されるのも必然だったと考えられる。この翻訳に関して、長谷川郁夫は草野が担当編集者で、長谷川巳之吉の了解を得るのに難儀したのではないかと書き、以下のように続けている。「しかし、当時の文芸書としては破格の初版五千部という発行部数には、さすがの巳之吉も脱帽するほかなかつたに違いない」と。長谷川のこの記述が何に基づいているのか不明だが、昭和六年一月発行の『ドルヂェル伯の舞踏会』の奥付には、確かに第一刷五千部とある。
f:id:OdaMitsuo:20180809142644j:plain:h120(『ドルヂェル伯の舞踏会』)

 それに注目すべきはその奥付裏に、「同じ訳者によりて」という、堀口の訳書一覧が出版社名とともに掲載されていることで、それを引いてみる。

1『夜ひらく』・『夜とざす』  ポオル・モオラン作 新潮社
2『恋の欧羅巴』        ポオル・モオラン作  新潮社
3『オルフェ』        ジャン・コクトオ作  第一書房
4『ドノゴオトンカ』     アンドレ・ジイド作   第一書房
5『パリュウド』        アンドレ・ジイド作   第一書房
6『文学』          ポオル・ヴァレリイ作  第一書房
7『燃え上がる青春』      アンリイ・ド・レニエ作  第一書房
8『詩人のナプキン』      仏蘭西短篇小説集  第一書房
9『沙上の足跡』        グウルモン語録  第一書房
10『青白赤』          仏蘭西現代詩選  第一書房
11『月下の一群』        仏蘭西近代詩集  第一書房
12『アポリネエル詩抄』              第一書房
13『コクトオ詩抄』                第一書房
14『グウルモ詩抄』                第一書房
15『ジャムオ詩抄』                第一書房
16『ヴェルレェヌ詩抄』              第一書房
17『ジャック・マリタンへの手紙』 ジャン・コクトオ (近刊)第一書房

 このような「同じ訳者によりて」という掲載は、フランス語原書に見られる「同じ著者によりて」という表記を範としているのだが、この場合は白水社が第一書房に対して敬意を払っていること、それからどうしても堀口を訳者として加えたかったことを表象しているように思われる。これは大正十四年から昭和六年にかけての翻訳一覧であり、絶版となっていたためなのか、やはり第一書房から出されたジャン・ロメオン『科学の奇蹟』、ポオル・モオラン『三人女』などは入っていないのだから、フランス文学において、堀口は特筆すべき翻訳者だったのである。しかし『白水社80年のあゆみ』を確認してみると、それ以後は堀口の翻訳が出されないことからすれば、やはりフランス文学翻訳ヘゲモニー争いが現実化してきたのかもしれない。再び堀口の翻訳が見られるのは、昭和二十六年のボードレール『悪の華』上下を待ってである。

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 ここで『ドルヂェル伯の舞踏会』に戻ると、手元にある一冊の幾何学模様のコンポジションのモダンな装幀、挿画は東郷青児によるもので、菊判を少し小さくした判型を採用し、三二三ページにもかかわらず、厚い紙を使用していることによって、束は三・五センチに及んでいる。これは合判とされ、昭和六年の白水社の翻訳書のジイド『窄き門』(山内義雄訳)、デコブラ『恋愛株式会社』(東郷青児訳)、カルコ『追ひつめられる男』(内藤濯訳)も同じ判型で出されている。ちなみに東郷は昭和三年にパリから帰国した新進画家で、五年にはやはり白水社から、コクトオの『怖るべき子供たち』を翻訳し、宇野千代と同棲中だったことから、宇野も白水社で『大人の絵本』を出しているが、これらも東郷の装幀によると推測される。

f:id:OdaMitsuo:20180809103022j:plain:h120 (『窄き門』) f:id:OdaMitsuo:20180809103431j:plain:h120(『恋愛株式会社』)f:id:OdaMitsuo:20180809104043j:plain:h120 (『追ひつめられる男』)怖るべき子供たち (『怖るべき子供たち 』)

 その「序」はコクトオによるもので、次のように書き出されている。「レイモン・ラディゲは千九百三年六月十八日に生れ、千九百二十三年十二月十日に、奇蹟的なその生涯を終へて、死ぬと知らずに死んだ」と。つまり二十歳で夭折したのである。『肉体の悪魔』と『ドルヂェル伯の舞踏会』という二冊の小説を残して。そしてコクトオは続けている。
肉体の悪魔

 それ位な年齢では、到底書ける筈のない小説を発表したりする二十歳の青年を気味悪いものに思ふ。然し死んでしまつた者はもう永久の世界に棲んでゐる。日附のない本の年齢のない作者、これがこの「舞踏会」の作者の真の姿だ。

 このラディゲがいうところの「心理がロマネスク」で、「感情の分析に集中される」小説は、三島由紀夫の少年時代のバイブルともなった。三島はこの白水社版『ドルヂェル伯の舞踏会』を「堀口氏の創った日本語の芸術作品」と評した。鹿島茂編『三島由紀夫のフランス文学講座』(ちくま文庫)に、彼のラディゲと堀口訳論がまとめて収録されている。また大岡昇平は戦後の『武蔵野夫人』のエピグラフとして、やはり堀口訳の冒頭の一文「ドルヂェル伯爵夫人のやうな心の動き方は、果して、時代おくれだらうか?」を引いている。この翻訳の昭和六年以後の重版の行方は確認できないけれど、大きな波紋となって拡がっていったと思われる。

三島由紀夫のフランス文学講座 武蔵野夫人

 なお『肉体の悪魔』の翻訳に関しては、本連載211で既述していることを付記しておく。


odamitsuo.hatenablog.com


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古本夜話813 ヴァレリイ、堀口大学訳『文学論』と斎藤書店

 前々回、堀口大学と第一書房によるポール・ヴァレリイの翻訳『詩論・文学』と『文学雑考』を挙げておいたが、これは戦後の昭和二十一年四月に斎藤書店から、合本『文学論』として復刻されている。第一書房の二冊は所持していないけれど、こちらは手元にある。しかも同二十三年五月の装丁、表紙の異なる改訂版も入手していて、確認してみると、ページ数などはそのままなので、装丁などの改版だとわかる。
f:id:OdaMitsuo:20180808113546j:plain(『文学雑考』) f:id:OdaMitsuo:20180808102239j:plain:h119(『文学論』、昭和21年版) 文学論(昭和23年版)

 最初の版は敗戦から八ヵ月後の刊行であり、印刷や紙の手配からして、困難な出版状況の中で出されたことを伝えるような四六判並製のもので、それは二年後の改版でも変わっていない。だがそこには戦後の出版に反映された思いと、日本の敗戦の年に亡くなったヴァレリイへの追悼の念がこめられていたにちがいない。

 刊行者を斎藤春雄とする斎藤書店は初版において、世田谷区代田を住所としていたが、改版は港区芝南佐久間町となっており、戦後の混乱状況の中で、少なくとも二年は存続していたとわかる。おそらく斎藤は第一書房と堀口大学の関係者だったと思われるが、彼についての証言は出版史に見出されていない。だが幸いなことに、『文学論』に関しては、長谷川郁夫の『堀口大學』(河出書房新社)の中で語られている。
堀口大學

 私は実物を見ていないので、『明治・大正・昭和翻訳文学目録』により、『詩論・文学』と記したが、長谷川によれば、それは『文学』で、「四六判、本文百二十頁の小冊子なのだが、天金・背革装の函入り本」である。そして『文学』とは別に、昭和十年にヴァレリイの旧著から「文学」と題された二章、及び「ヴァレリイ一家言」を加えた『文学雑考』を刊行する。それから同十三年に両者を合わせた『文学論』を出版するに至る。それは斎藤書店版の「例言」に記されているし、その際に書かれたとわかる。
f:id:OdaMitsuo:20180808114049j:plain:h120(『文学』)

 斎藤書店は第一書房の『文学論』の復刊で、しかも訳者による「再刊の序」は昭和十三年に書かれたものである。堀口は次のように書き出している。

 今この一巻に集成したこれ等の考察は、あらゆる意味に於いてのヴァレリイ思考の頂点であると同時に、またその詩人及び思索家としての態度、企図、方法等をつぶさに教ふる彼の詩論及び文学論の全貌である。ヴァレリイの文学は、彼の文学観なしには存在しない存在であるが、同時にまたこの思考の鍵を似つてしなければ開き難い知性の宝庫である。

 ヴァレリイのいち早い紹介といっていい昭和五年の『文学』の翻訳は、堀口のいうところの「知性の祝祭」として迎えられたにちがいない。「書物は人間と同じ敵を持つ。曰く、火、湿気、虫、時間。さうしてそれ自らの内容。」から始まるこのアフォリズム集はあらためて読んでみて、埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』や太宰治の『如是我聞』にまで影響が及んでいるのではないかと思われた。それに加え、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の「序」においても、この堀口訳『文学論』が引用されていたことも想起した。それゆえに戦後の始まりのカオスの中にあって、詩人としてではなく、このアフォリズム集の復刊が、斎藤書店によって試みられたのではないだろうか。

不合理ゆえに吾信ず 言語にとって美とはなにか

 それだけでなく、この斎藤書店版には第一書房版にはなかった、ヴァレリイの堀口に当てた自筆署名入りの手紙が収録されている。この手紙は堀口が昭和十三年の『文学論』の翻訳上梓に際し、ヴァレリイに三部を送ったことに対する礼状で、「組版と装幀の優美」を絶賛しているものだ。この手紙を堀口は「斎藤版再版あとがき」に翻訳して掲載し、そこに「再刊の序」にはなかったヴァレリイの七十歳での死をも伝えている。

 ここで堀口がヴァレリイと直接の文通を明らかにしたのは、筑摩書房の『ヴァレリイ全集』をめぐる問題が生じていたからだと長谷川は書いている。
ポオル・ヴァレリイ全集 (第7巻『精神について』)

 戦時下の昭和十七年、筑摩書房で『ヴァレリイ全集』が企画され、東大の辰野隆、鈴木信太郎、京大の落合太郎を監修者として、二月に第一回配本・第七巻「精神について(一)」が発行されたが、そこでは堀口の存在は完全に無視される。日本におけるヴァレリイは実像から遠く、異質な言語感覚による歪んだままのイメージで定着されるのだった。
が企画されていったと思われる。

 長谷川によれば、大正十四年の第一書房からの、ヴァレリイの詩も含んだフランス近代詩人六十六人の訳詩集『月下の一群』の刊行から始まり、堀口と日夏耿之介の絶交事件に端を発し、長谷川巳之吉の「第一書房は帝大仏文科、岩波書店との対立」へと及んでいったことを背景としている。それは昭和に入ってからのフランス文学へのヘゲモニー争いといった様相を呈し、これまでも本連載で取り上げてきた様々な全集などにも反映されているはずだ。おそらく堀口とヴァレリイの『文学論』は、帝大仏文科にとっては喉に刺さった棘のような存在だったように思われる。

 なお、この一文を書いてから、斎藤春雄が第一書房の元編集者で、その後、本連載468の八雲書店へと移ったらしいことを知った。


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古本夜話812 河盛好蔵と白水社『キュリー夫人伝』

 河盛好蔵の『河岸の古本屋』(毎日新聞社)所収の「著者略年譜」によれば、前回のヴァレリー『詩学叙説』の他に、昭和十三年にはジイド『コンゴ紀行』とエーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』 を翻訳刊行している。後者は川口篤、杉捷夫、本田喜代治との共訳である。これは四六判並製、六四八ページの一冊で、昭和十年代のベストセラーとして知られ、戦後もロングセラーであり続けた伝記だといっていいだろう。
f:id:OdaMitsuo:20180806222352j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20180807102902j:plain:h120 (白水社新装版)

 本連載773のエレン・ケイではないけれど、キュリー夫人も日本近代におけるヒロインの一人として、受容されたと見なせるし、それは奥付のすばらしい版の重ね方が証明していよう。ちなみにキュリー夫人の娘のエーヴによるこの伝記は、昭和十三年十月初版発行で、十二月には十七版に達し、翌年一月には二十五版を数えている。三センチを超える分厚い伝記の翻訳が、このように矢継ぎ早に版を重ねたのは異例であろうし、それはキュリー夫人が時代のアイコンと化していたことを伝えている。

 キュリー夫人はポーランド人で、貧しかったが、美しくて天分に恵まれ、パリへと研究の道に赴いた。そこで彼女のように天才といっていい一人の男ピエールに出会い、結婚した。二人は比類なき幸福にあったが、並々ならぬ努力も重ねた結果、ラジウムを発見するに至った。その発見はひとつの新しい科学や哲学を誕生させたばかりでなく、難病の治療法も人類にもたらした。それはまた二人の学者としての栄誉を世に広めたが、ピエールは死の手に奪い去られてしまった。だが彼女はその心の痛手と身体の不調にもめげず、夫妻によって創造された科学を発展させ、人類への不断の寄与に及んだ。それでいて、彼女は富を拒み、名誉にも関心を示さず、自分の使命を果たし、消えるが如く世を去ったとされる。

 エーヴはこのようなキュリー夫人の生涯を「神話にも似たこの物語」と見なし、修飾を一切加えることなく、「その汚れなき、水の流るる如く自然な、殆んど自らの驚く可き宿命を自覚しないかのやうな生涯」を描いたことになる。このようなキュリー夫人像は戦後になっても保たれ、日本の昭和三十年代に正確なタイトルは失念したが、おそらくエーヴの伝記を原作とするキュリー夫人を主人公とした外国ドラマがテレビ放映されていたのである。

 「後書」によれば、これは一九三七年(昭和十二年)にフランスの週刊新聞『マリアンヌ』に連載され、翌年にガリマール書店から刊行されると同時に、アメリカを始めとして翻訳され、ベストセラーとなっている。「いま、原著者より日本語への独占翻訳権を譲渡され、その邦訳を我が読書界に送り得ることは我々の欣快とするところである」との言はこの翻訳出版が、在仏の桑原武夫による翻訳権獲得にしても、共訳による短期間での完成にしても、実に用意周到なものであったこと、結果として満を持したベストセラーとして実現したことになろう。

 この「後書」は「訳者一同」となっているけれど、河盛好蔵が書いたのもので、実質的に彼がプロデューサーだったのである。訳者たちは東大と京大の仏文科出身者たちによるが、杉と桑原は京大で河盛と同窓だし、川口や本田は河盛と法政大学で同僚でもあったからだ。なお本田は仏文科ではなく、東大社会学科出身で、フランス社会学の草分けとされる。

 河盛は後に『フランス語盛衰記』において、自分が企画した『キュリー夫人伝』 は大ベストセラーになり、「我乍ら笑いがとまらぬほど売れに売れた」と述べ、「毎週三千枚を欠かさない検印紙に捺印するのはわが家では女房の仕事で、嘘のようだが、彼女のそのために手に平を腫らすという仕事であった」と告白している。そしていかにも河盛らしく、この大ベストセラーを「何よりも悦んだのは白水社で、この本のおかげで、たまっていた印税や原稿料を全部清算することができた」と付け加えている。
フランス語盛衰記

 このようなフランスにおける出版と日本での翻訳事情を背景とした『キュリー夫人伝』 は、河盛の証言からわかるように、版元の白水社にとっても特筆すべき出版であったし、それは白水社の社史とも重なっているので、まずその創業者を『出版人物事典』から引いておく。
出版人物事典

 [福岡易之助 ふくおか・やすのすけ]一八八五~一九三一(明治一八~昭和六)白水社創業者。秋田県生れ。東大仏文科卒後、一時帰郷したが上京、一九一五年(大正四)秋、白水社を創業。社名は「白水は崑崙の山に出で、これを飲めば死せずと。神泉なり。」との中国古書の言葉に由来するという。当初、『婦人』という雑誌を創刊した。二一年(大正一〇)、内藤濯ほか編の『模範仏和代大辞典』を心血を注いで完成、日本における仏文学の進歩に画期的貢献をしたものといわれた。関東大震災で資産を失ったが、翌年、神田錦町に新社屋を建設して再出発、『標音仏和辞典』『仏蘭西文学訳注叢書』をはじめ、多くの事典、単行本を出版した。二一年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が贈られた。

 ここに挙げられている『模範仏和大辞典』に関しては、かつて「『模範仏和大辞典』と仏文学者」(「古本屋散策」9、『日本古書通信』二〇〇二年十二月号所収)を書いている。

 『キュリー夫人伝』 の奥付発行社は福岡清となっているが、これは福岡夫人で、『白水社80年のあゆみ』によれば、「せい」と読み、昭和六年の福岡の死の跡を継いだのである。それから経営は草野貞之に委ねられる。草野も『出版人物事典』に立項されているので、続けて引いてみる。
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 [草野貞之 くさの・ていし]一九〇〇~一九八六(明治三三~昭和六一)白水社代表。福岡県生れ。東大仏文科。一九三一年(昭和六)中大教授のまま白水社に入社。編集業務につく。三三年、フランスの作家ルナールの『にんじん』を岸田国士の名訳で出版、翌年『にんじん』の映画が上映され、同書はベストセラーとなり、経営を助けた。以来、『モンテーニュ随想録』『ルナール日記』『独和言林』『新仏和中辞典』『キュリー夫人伝』など数々の名著を出版、経営を軌道に乗せた。四三年(昭和一八)社長に就任、四五年(昭和二〇)の東京大空襲ですべてを焼失したが、戦後いち早く復興、五一年(昭和二六)には『文庫クセジュ』を創刊。著書に『エピキュウルの国』『ヴェニス物語』などがある。

 なおもう一人の白水社のキーパーソンである寺村五一に関しては、『寺村五一と白水社』(日本エディタースクール出版部)があることを付記しておこう。
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