出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話930 デュルケム『自殺論』と宝文館

 デュルケムの『自殺論』はかつて中央公論社の『デュルケーム・ジンメル』(『世界の名著』47)に抄訳が収録されているが、昭和六十年になって、同じ訳者の宮島喬によって新たに全訳が中公文庫として刊行され、宮島自身の論稿『デュルケム 自殺論』(有斐閣新書)が書かれている。

 f:id:OdaMitsuo:20190618114445j:plain:h115(『デュルケーム・ジンメル』) 自殺論 (中公文庫)デュルケム 自殺論

 これらによって、本連載928の『宗教生活の原初形態』、同929の『社会学的方法の規準』よりも明確にフランス十九世紀末における新しい学としての社会学の誕生の息吹きを感じることができる。具体的な要因をたどり、社会のアノミーなどに基づく自殺分析を通じて、その向こう側に提起される同業組合と職業分権化による共同生活の回復は、現在でもそのインパクトを失っていないようにも思える。
宗教生活の原初形態 f:id:OdaMitsuo:20190617222817j:plain:h120(創元社)

 だがこの『自殺論』は戦前にも全訳が出され、作田啓一の『デュルケーム』において、入手し難い稀覯本とあったが、このほど幸いにして見つけたので、それをここで取り上げておきたい。これはやはり『自殺論』として、昭和七年に鈴木宗忠、飛澤謙一共訳で、宝文館から刊行されている。入手した一冊は裸本だけれど、菊判五一四ページの上製本で、おそらく函入だったと推測される。

デュルケーム (『人類の知的遺産』57、講談社)

 鈴木宗忠は訳者序文「デュルケム『自殺論』の翻訳に就いて」で、自分は社会学専攻ではないが、多大の興味を有し、東北帝国大学において、大正十四年から昭和四年まで社会学講座を担当し、その間にデュルケムの社会学を演習題目に選び、それが『自殺論』翻訳の遠因になったと述べている。その演習に参加したのが飛澤で、読書会で『自殺論』を紹介し、さらにその詳細に及び、これが『自殺論』共訳の直接の原因となったとされる。そして飛澤が下訳、鈴木がそれを原文と対照して訂正し、共訳定稿が成立した。
 また飛澤も同じく「デュルケム『自殺論』の梗概」を寄せ、同書の簡略なスケッチを示すと同時に、デュルケムの研究モチーフは当時のヨーロッパ社会における自殺の異常な増加によるとする。そしてデュルケムが「個人と国家の中間的集団である職業団体の再興が、集団の健全な統制を回復して、利己的自殺を緩和する上にも、又無統制的自殺を減少する上にも、唯一の有効な方法」だと結論づけていることにも言及している。それに「職業団体に、昔の公権と、家族団体の有した特徴」が備えられなければならないことも。ここで挙げられている「職業団体」が宮島訳の「同業組合」、「無統制的自殺」が同じく「アノミー的自殺」をさしているのはいうまでもあるまい。

 そして次に「原著者序文」が続き、「最近社会学が流行して来た。この語は、十年程前には余り知られてゐなかつた。(中略)が、その使命は、段々重大視されるやうになり、謂はばこの新しい科学に有利な臆測といつたものが、世人の間に、存在するやうになつた」という社会学の成立が謳われたことになる。この鈴木と飛澤のプロフィルは明確ではないけれど、ともに「仙台にて」とあるように、『自殺論』の最初の全訳は東北の地から送り出されたことになる。

 それならば、その版元の宝文館のポジションにもふれておくべきだろう。奥付発行者の大葉久吉は『出版文化人物事典』に次のように立項されている。
出版文化人物事典

 [大葉久吉 おおば・きゅうきち]一八七三~一九三三(明治六~昭和八)宝文館創業者。岐阜県生れ。一九〇一年(明治三四)大阪宝文館東京出版所を譲り受けて独立、中等教科書・書籍を出版、二二年(大正一一)月刊『令女界』を創刊、一時期非常な人気を博した。同誌は戦時中休刊、戦後復刊したが、五〇年(昭和二五)九月休刊。一九三三年(昭和八)NHKのラジオ家庭大学講座の番組で大島正徳の哲学に関する話を聞き『哲学の話』にまとめたのが、放送ものの出版の先駆けともいわれる。二代目社長大葉久治(明治四一~七昭和四三)が戦後五二年(昭和二七)、ラジオ放送の菊田一夫作『君の名は』を出版、大成功を収めたこともその縁につながるものであろう。

 奇しくもここには大葉久吉のみならず、その後の宝文館の戦後の『君の名は』のベストセラー化まで語られていることになる。
f:id:OdaMitsuo:20190629172903j:plain:h115

 ちなみに『自殺論』刊行時の宝文館は中等教科書・辞書から始めて、巻末の大学教授の著作出版に見られるように、大学関係の出版にも進出していたと思われる。そこには東北帝大教授の山田孝雄著『国民道徳原論』もあり、ひょっとすると山田を通じて、『自殺論』は宝文館から出されることになったのかもしれない。これも奥付に示されているように関西専売として、大阪宝文館も挙げられていることからすれば、双方が学術書に関しては共同出版のかたちを取っていたとも考えられる。だが、『自殺論』刊行の翌年に大葉久吉は亡くなっているので、その後二代目大葉久治は『令女界』や放送ものへと出版物をシフトさせ、それが戦後の『君の名は』とリンクして行ったとも推測できる。
 それにしてもデュルケム『自殺論』と菊田一夫『君の名は』の結びつきは意外であったと記しておくしかない。
f:id:OdaMitsuo:20190629174931j:plain:h115

odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com

 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話929 デュルケム『社会学的方法の規準』と田辺寿利

 前回デュルケムの『宗教生活の原初形態』の他にも、戦前には彼の著作が翻訳されていたことを既述したが、それらは田辺寿利『社会学研究法』(刀江書院、昭和三年)、鈴木宗忠、飛沢謙一訳『自殺論』(宝文館、昭和七年)である。 
宗教生活の原初形態

 前者の初版は未見だけれど、昭和十七年に『社会学的方法の規準』と本来のタイトルに解題され、創元社の「哲学叢書」の一冊として刊行に至っている。私が所持するのはその昭和二十二年版で、戦後のこの時代特有の並製の粗悪な用紙による一冊だけだが、「訳者前がき」は初版をそのまま継承し、昭和に入っての日本におけるデュルケムとその学派の受容状況を伝え、興味深いので、それを引いてみる。
f:id:OdaMitsuo:20190617222817j:plain:h120(創元社)

 昭和二年(一九二七年)十一月十六日、私の関係してゐる「フランス学会」と「東京社会学研究会」との共同開催のもとに、デュルケムの没後十週(ママ)年祭を行つたそして講演者として、コレージュ・ド・フランス教授で当時東京日仏会館フランス学長であつたシルワ゛ン・レヰ゛氏、宇野円空氏、赤松秀景氏、及び私の四人が、デュルケムの学的活動の諸部面を明らかにした。なほこの集りには、デュルケムの高弟の一人で当時外務省の法律顧問として来朝中のジャン・レイ博士も出席され、集会者も非常に多数で、仲々の盛会であつた。
  十五年を経過した今日から、この十週(ママ)年祭の光景を回想すると、まことに感無量である。その夜レヰ゛博士は、デュルケムの盟友として、デュルケム及びデュルケムの協力者たちについて感激をもつて語られたが、世界の誇りであつたこのサンスクリット学者も、今はこの世の人でない。また赤松氏は、デュルケムの教育学的業績について熱心に述べられたが、氏もまた春秋に富む身をもつて、数年前故人となられた。すなわち今回の私にとつては、デュルケムの十年祭は、レヰ゛博士と赤松氏とを回想するための十年祭でもある。

 田辺訳『社会学的方法の規準』は絶版となって久しいし、これらのデュルケム十年祭にまつわる事柄も、ここでしか述べられていないと思われるので、省略をほどこさず、長い引用になってしまった。田辺にとっても、この十年祭をきっかけとして、『社会分業論』の翻訳にかかっていたが、それを中断し、『社会学的方法の規準』の翻訳に着手し、「何と難解な『規準』よ」と嘆息しながらも、翌年に『社会学研究法』のタイトルで公刊に及んだのである。

 しかしこのデュルケム十年祭とその学派の聖典『社会学研究法』の翻訳刊行が、デュルケムの他の著作の翻訳へとリンクしていったのであろう。岩波文庫版『宗教生活の原初形態』の古野清人による「訳者序」には「田辺寿利氏の熱心な慫慂によって着手」と記されているし、『自殺論』にしても同じような文言が見つかるのではないだろうか。ただ『社会分業論』は田辺が翻訳予定だったので刊行されず、昭和三十七年に亡くなってしまったこともあり、昭和四十六年の田原音和訳『社会分業論』(『現代社会学大系』2、青木書店、ちくま学芸文庫を待たなければならなかった。それは宮島喬の新訳『自殺論』(『世界の名著』47所収、同四十三年)、同じく『社会学的方法の規準』(岩波文庫、同五十三年)にしても、田辺以後の戦後におけるデュルケム受容と紹介ということになろう。

社会分業論 (青木書店) 社会分業論 (ちくま学芸文庫) f:id:OdaMitsuo:20190618114445j:plain:h115(『自殺論』) 社会学的方法の規準 (岩波文庫)
 
 さてそのデュルケム研究の先達としての田辺だが、『[現代日本]朝日人物事典』には北海道生まれの社会学者で、デュルケムを中心とするフランス社会学の導入と研究に努め、大正十年東大社会学科選科中退、戦後は東洋大学、東北大学、金沢大学の各教授を歴任とある。しかし作田啓一の『デュルケーム』(『人類の知的遺産』57、講談社)にはその名前は見られず、もはや忘れられた社会学者とも考えられる。だが私はかつて拙稿「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究Ⅲ』所収)において、田辺に言及している。それは柳田国男を幹事役とする郷土会から始まり、その会員に『人生地理学』(文会堂、明治三十六年)を著した牧口常三郎がいた。いうまでもなく、牧口は後の創価学会の創立者である。

[現代日本]朝日人物事典デュルケーム 古本探究3

 柳田は「新興宗教の開祖」となった牧口に「大変な興味」を寄せ、それはその周辺人物だった「北海道出身の社会学者田辺寿利という人」にも及んでいく。牧口の『人生地理学』は地理学をふまえた総合社会学ともいうべき著作で、彼は田辺のデュルケムの社会学と教育論を読み、その影響と教えを受け、『創価教育体系』(聖教新聞社、昭和五年)を集大成として観億する。その序文を書いたのは柳田だった。

人生地理学 (聖教新聞社)創価教育体系 (『創価教育体系』1)

 一方で田辺は、柳田が大正十四年に岡正雄と創刊した『民族』の編集同人の一人となり、先に引用した『社会学的方法の規準』の「訳者前がき」に見える「フランス学会」や「東京社会学研究会」に関係し、「社会学叢書」や「社会学研究叢書」などの翻訳や出版に携わっていたようだが、それらの詳細は判明していない。だが新しい学問が誕生する時、それに寄り添う出版社と編集者が必ず存在していたように、社会学に関しては田辺がその役割の一端を担っていたにちがいない。

 なお未来社から『田辺寿利著作集』全五巻が刊行されていることを付記しておこう。
田辺寿利著作集5


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話928 デュルケム『宗教生活の原初形態』

 本連載926のレヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』がエミール・デュルケムの『宗教生活の原初形態』の影響下に書かれたこと、及び同922のマルセル・モースがデュルケムの甥であることはよく知られた事実であろう。
未開社会の思惟 (『未開社会の思惟』)

 デュルケムはドイツのウェーバーと並んで、フランスの社会学の創始者で、一八五八年にラビの子として生まれた。エコール・ノルマルに学び、八七年にボルドー大学でフランス初の社会学の教授として迎えられ、九八年に『社会学年報』を創刊する。そして一九〇二年にソルボンヌ大学に移り、人種主義、人種決定論などを批判する社会学の旗印の下に、モースを始めとするデュルケム学派の全盛となったが、第一次世界大戦におけるポアンカレ大統領の挙国体制への協力と息子の戦死による打撃の中で、一七年に心臓発作で死亡。主著は『社会分業論』『社会学的方法の規準』『自殺論』『宗教生活の原初形態』で、このうちの『社会分業論』を除く三冊は戦前に翻訳刊行されている。

社会分業論 (ちくま学芸文庫)社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)自殺論 (中公文庫)

 ここで取り上げたい『宗教生活の原初形態』は、本連載910などの刀江書院から古野清人訳で昭和五年に上巻、八年に下巻が出され、十五年に岩波文庫化されている。刀江書院版は入手していないので、岩波文庫版によることを先に断っておく。このデュルケムの生前における最後の著作は一九一二年に発表され、彼の宗教社会学の集大成に位置づけられている。同書はオーストラリアの原住民のトーテミズムをめぐる研究であり、デュルケムはその最初のところで、「社会学の本質的な公準は、人類の制度は誤謬と欺瞞とに安住できないというにある」とし、「これらの原始宗教は現実に即しまた実有を表わしているとの確信」に基づくと述べ、そして続けている。
 
宗教生活の原初形態  宗教生活の原初形態 (岩波文庫版)

 もちろん法式に現れた文字だけを考えると、これらの宗教上の信仰や行事は時には蕪雑にも見えるので、これを一種の根強い錯誤に帰したがることがある。しかしわれわれは象徴のもとで、これが描き出しまたこれに真の意味を与えている実在に達しえなければならない。もっとも野蛮または無稽な儀礼も、最も奇異な神話も、人間の何かの欲求、個人的または社会的生活の何かの一面を表現しているのである。(中略)これを発見するのが科学の任務である。

 つまりここで宗教と社会学と科学の論理の間に深淵はなく、宗教はすぐれて社会的なもので、いうなれば、宗教が社会的現象というよりも、社会が宗教的現象として捉えられていることになる。そして原初的宗教の前提問題として、本連載906のタイラーやハーバート・スペンサーのアニミズム、同514などのマックス・ミューラーのナチュリズムという二つの体系が検討され、それらよりも基本的で原始的な礼拝に他ならないトーテムズムに向かう。その過程で、原初的な固有のトーテム的信念とそれらにまつわる信念の諸起源が問われ、さらにそこに見られる主要な儀礼としての礼拝などが分析されていく。

 これらをもう少し具体的に述べれば、デュルケムは宗教の本質的定義として、聖と俗の観念、及び教会という道徳的共同社会の存在を指摘し、この両者を具える未開宗教をトーテミズムに求める。トーテミズムとはオーストラリアの原住民が信じる宗教で、彼らはトーテムと呼ばれる動植物を崇拝し、これをその象徴とし、自分たちもこの動植物から生まれたと信じている。このようなトーテムと原住民が一体化する事実をたどり、デュルケムはそこにマナという力、非物質的で超自然的な感化力を見出すのである。

 そのマナの力は社会の力でもあり、集団生活が生み出した道徳的な力ともされる。それは宗教と社会がその機能において類似していることになり、すなわち社会も宗教的現象に他ならないことを提示している。トーテムを始めとするすべての宗教的対象は畏怖されると同時に信頼され、それは社会も同様で、宗教はすぐれて社会的な機能を有している。それゆえに宗教の祖型とその根源は社会にあり、神は社会から生まれたという推論へとリンクしていく。

 そしてデュルケムは「結論」において、第一次世界大戦前の国際状況をふまえてだろうが、オーストラリアだけでなく、宗教は通商や結婚によってインターナショナル化され、イニシエーションや儀礼を通じて神々が接近し、「特定の部族の彼方に、空間の彼方に赴く、インターナショナルな偉大な神々」が出現しつつあると述べている。それから『宗教生活の原初形態』は次のように結ばれている。

 すべての民族や国家は、他のあらゆる民族、国家を包みこむ多少とも限定されない他の社会と接触し、これと直接、間接に関連している。あらゆる国民生活は、インターナショナルな性質の集合生活に支配されているのである。歴史が進むに伴って、これらのインターナショナルな集団は、さらに、重要性と範囲とを増す。こうして、若干の場合、普遍主義的傾向が、どうして、宗教的体系の最高の観念だけでなく、この体系が依存している原則をそのものを感化するほどに発展するか、が瞥見されるのである。

 これはほぼ一世紀前の言説であるけれど、現在のグローバリゼーションを前にしてのものに置き換えられるだろう。「あらゆる国民生活は、インターナショナルな性質の集合生活に支配されている」という言は、そのまま現代状況へと通じていくからだ。そこにはインターナショナルなトーテミズムも出現しつつあるだろうし、あらためてデュルケムを読むことの重要性を示唆しているようにも思えてくる。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話927 生活社「ギリシア・ラテン叢書」と田中秀央『ラテン文学史』

 前回はレヴィ・ブリュルの山田吉彦訳『未開社会の思惟』を取り上げながら、そこに山田が献辞を捧げていたジョセフ・コットのほうに紙幅を多く割いてしまった。それは近代文学史や出版史において、コットが創立したアテネ・フランセが果たした役割は想像以上に大きなものがあったのではないかと思われたからだ。山田だけでなく、本連載198の関義、同849の坂口安吾も在籍していたし、その他にもこの連載に登場する多くの人々がフランス語を学びに通っていたにちがいない。それにもかかわらず、詳細なアテネ・フランセ史やコットの評伝は出されていないことによっている。

未開社会の思惟 (『未開社会の思惟』)

 またこれも前回既述しておいたが、アテネ・フランセがフランス語のみならず、ギリシャ語、ラテン語も教えていたことも重要な事柄のように映るし、それはコットの他に誰が受け持っていたのかも気にかかる。実は企画の成立事情に加え、何冊刊行されたのかも不明なこともあり、言及してこなかったが、大東亜戦争下で本連載131などの生活社から、「ギリシア・ラテン叢書」が企画され、その内容見本も出されている。
f:id:OdaMitsuo:20190616134459j:plain (「ギリシア・ラテン叢書」、『エリュトラー海案内記』)

 この内容見本が生活社のどの出版物にはさまれていたのかは失念してしまったけれど、本連載913のフレイザー『金枝篇』の間にずっと保管してきたのである。それは十ページに及ぶもので、ギリシア文学がアイスキュロス『悲壮劇』(田中秀央他訳)歴史、地誌、科学がアッリアーノス『アレクサンドロス出征記』(栗野頼之祐訳)、哲学、思想、宗教がエウセビオス『教会史』(有賀鐵太郎他訳)などを始めとして五十点、ラテン文学、言語がアップレーイウス『変形譚』(服部英次郎訳)、歴史、地誌、科学がウィトルーウィウス『建築書』(森田慶一訳)、哲学、思想、宗教がアウグスティーヌス『三一神論』(原田信夫他訳)など、三十余点が刊行予定としてラインナップされている。

f:id:OdaMitsuo:20190408111522j:plain:h120

 その監修は京都帝大教授田中秀央、顧問が同落合太郎、編輯委員は青木巌、高津春繁、京都帝大助教授泉井久之助、同講師服部英治郎、松本千秋、同支社大学教授有賀鐵太郎、東京帝大助教授神田盾夫、日本大学教授呉茂一、広島文理大助教授高田三郎、東京文理大講師田中美知太郎、龍谷大学教授長澤信壽となっている。もちろん彼らも訳者を兼ねていて、その他にも戦後に著名な訳者と書名を挙げておけば、クセノポーン『アナバスィス』は寿岳文章、ピローン『信仰と理性』は井筒俊彦、ホラーティウス『詩篇』は西脇順三郎などである。

 これはいうまでもないことだが、私はギリシア・ラテンの古典に通じているわけではない。だがそれらの訳者たちとそこに挙げられた書名を見ただけでも、壮観だと思うし、これが大東亜戦争下に企画された叢書だとは信じられない気がする。監修、顧問、編輯委員たちのポジションから考えても、これが京都帝大を中心とするギリシア・ラテンの古典研究者と生活社のタイアップ企画と見なせよう。

 実際に監修の田中秀央は明治十九年生まれで、四十二年に東京帝大文科を卒業し、先述したように京都帝大教授を務め、『希臘語文典』(岩波書店、昭和二年)、『新羅甸文法』(同、四年)を出している。また顧問の落合太郎との編著として、『ギリシア・ラテン引用語事典』(同、十二年)も刊行され、この二人がどうして生活社版「ギリシア・ラテン叢書」の監修と顧問にすえられているのかを了承することになる。
f:id:OdaMitsuo:20190616155010j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190616155819j:plain:h120

 前の二冊は言語学者の川本茂雄の旧蔵書と推測されるもので、後の一冊も編集資料として手元に置いているが、それこそ半世紀ほど前に田中の『ラテン文学史』を購入している。そのきっかけは澁澤龍彥が貴重な文学史の一冊だと書いていたのを読み、その直後に古本屋で見つけたからで、近年名古屋大学出版会から復刊されたはずだ。「ギリシア・ラテン叢書」の一冊として、田中の『希臘・羅甸文学史』が予告されていた。あらためて『ラテン文学史』の「緒言」を読んでみると、次のような文言が見える。

 ローマ文学即ちラテン文学は近代西洋文学の直接の根源と背景とをなせるものであうって、よし直接に古代ギリシア文化にふれ得ない人でも、古来、ラテン文学を通してギリシア文学を味ふと共に、ラテン文学をも鑑賞してゐたのである。ギリシア文学とラテン文学とは切つても切れぬ姉妹関係にあるので、その一方の研究のみでは、西洋文化を内容において將又形式において完全に理解することは出来ぬであらう。この度、生活社が西洋古典文学の原典に拠る邦訳といふまことに有意義なる叢書の刊行計画をたてられるにあたり、その相談に預れる不肖として、まことに僭越ながら、その一般的紹介の意味で、簡単な古代ギリシア文学史とラテン文学史との姉妹篇を世に送ることにした。

 ここに図らずも、「ギリシア・ラテン叢書」の企画の意図が語られていることになる。ただこれらの文言が「皇紀二千六百三年三月二日」付で記されていることにも留意すべきだろう。

 結局のところ、『希臘・羅甸文学史』はまず『ラテン文学史』が出され、姉妹篇としての『古代ギリシア文学史』は未刊のままになったと思われる。巻末の「ギリシア・ラテン叢書」の既刊として、『ラテン文学史』の他に、ヘロドトスとトゥーキュディデースの『歴史』(いずれも青木巌訳、上下)、キケロー『ラエリウス(友情論)、大カトウ(老年論)』(長澤信壽他訳)が挙げられている。とすれば、昭和十八年五月までに四点六冊が刊行されたことは確かだが、その後の続刊は確認していない。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話926 レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』とジョセフ・コット

 本連載922の山田吉彦はモースの『太平洋民族の原始経済』に先駆けて、昭和十年二小山書店からレヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』を翻訳刊行している。これは菊判の裸本が手元にあり、まずモースの翻訳と同様に、「A Monsieur Joseph Cotte, mon cher maître et ami 」という山田による献辞が見える。このジョセフ・コットは自伝や評伝も出されていないと思われるので、竹内博編著『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ)などにより、その簡略なプロフィルを提出してみる。
未開社会の思惟 (『未開社会の思惟』) f:id:OdaMitsuo:20190616102918j:plain:h113

 コットは一八七五年フランスに生まれ、リヨン大学、パリ大学で学位を取得し、一九〇四年にイランのテヘランでペルシャ皇太子の家庭教師を務めながら、ラフカディオ・ハーンの著作に親しみ、日本に憧れ、一九〇八年=明治四十一年にシベリア経由で日本を訪れた。翌年に再来日し、ケーベル博士の後任として、明治四十五年まで東京帝大でフランス語とラテン語を教えた。そして大正元年に神田にフランス語を教える夜学校アテネ・フランセを独力で創立し、日本においてフランス語だけでなく、ギリシャ・ラテンの古典語、古典文学の教育に多大の貢献を果たしたとされる。日仏学院などのフランス政府の後援によるものと異なり、コットは自らの理念に基づく自由な教育方針を尊重し、戦後も戦災にあったアテネ・フランセの復興に取り組み、校舎を現在の駿河台に移転させた。そして昭和二十四年に雑司ヶ谷の自宅にて死去し、音羽護国寺に埋葬されたという。

 明治四十四年に山田は開成中学時代に函館に家出し、トラピスト修道院にいたコットに出会い、その薫陶を受ける。大正六年に慶應大学理財科を中退し、コットのもとでフランス語と古典語を学び、アテネ・フランセの教師となっている。それからラマルクの小泉丹共訳『動物哲学』ファーブルの林達夫共訳『昆虫記』(いずれも岩波文庫)などの翻訳に取り組み、先の『未開社会の思惟』の刊行に至る。これには一九二八年付のレヴィ・ブリュルの四ページに及ぶフランス語の「序」が置かれている。
動物哲学 昆虫記

 しかしその「訳者序」は刊行の前年の一九三四年=昭和九年九月付で記され、そこには三校を中途まで見て、パリに立たなければならないとあるが、これは既述しておいたように、フランス政府奨学生としての出発のことをさしている。またそこには六年前に柳田国男に翻訳について相談すると、「本書は日本の民族学研究者が先ず第一に読まなければならない本である」との励ましを受けたとの言が見える。

 山田と柳田とブリュルの関係だが、「日本の民族学研究者」という文言からすれば、柳田たちが大正十四年から昭和三年にかけて刊行していた『民族』を通じて成立したと推測される。だが『民族』に山田の寄稿やブリュルに関する記事は見当らないし、柳田にしても『日本の祭』などにブリュルの名前は挙がっているけれど、山田と同様に具体的に言及されていない。それからブリュルの「序」と小山書店刊行年の六年に及ぶタイムラグは何を意味しているのか。
日本の祭

 山田は小山書店版を改訳し、昭和二十八年に岩波文庫化しているので、それを確認してみると、山田による「凡例」にいくつかの付記がある。それによれば、山田が自ら『未開社会の思惟』の翻訳権を獲得していたこと、及びコットとブリュルが親しい友人だったという事実である。これは詳細がまったく不明だが、山田は昭和四年に山濤書院を経営し、破産させている。おそらくこの書院の刊行物として、『未開社会の思惟』は企画され、翻訳権取得とともに、ブリュルの「序」も送られていたのではないだろうか。ところが破産したことで出版できず、昭和八年に岩波書店にいた小山久二郎が小山書店を創業したことから、未刊のままだった『未開社会の思惟』の刊行を引き継いだように考えられる。

 さて前置きが長くなってしまったけれど、この『未開社会の思惟』のアウトラインだけでもふれておこう。ブリュルは「諸論」に示されているように、本連載906や913などのイギリス人類学派のタイラーやフレイザーの影響を受けながらも、タイラーのアニミズムに代表される、現在から見ての知性主義的合理的推論を批判し、未開人の心性を社会的事実である集団表象として捉え、文明人とは異なる「原始心性」が存在すると見なす。未開人は道具や発明に驚くべき手際を発揮し、芸術品にも同じくその才能を見せ、言語にしても、文明人の国語と同じ文章構造を備え、子供たちも宣教師の学校で学びの能力を発揮する。そしてブリュルはその「序」でいっている。

 けれども、こららに劣らず驚くべき事実は大多数の例に於て「原始心性」は我々のもののやうに構造されて居ないと云ふことを示してゐる。それは他の方向に方位づけられて居る。それは異つた道を通つてゐる。我々が続発因を恒常的に先行件を求めるところで、この心性は到る処にその作用を感じて居る神秘的原因にしか注意を与へない。一つの同じ存在が同じ時に二つ或ひはそれ以上の場所にあると云ふことをこの心性は造作もなく認めてゐる。それは屡々融即の法則にしたがつてゐる。そしてその時、この心性は我々の精神が認容しない矛盾に対して無関心になる。それ故この心性を我々の其れに比べて論理前的だと云ふ事は許される。

 このような視座に基づき、原始人の集団表象から始め、分析されていくことになる。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら