出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話925 金子光晴『マレー蘭印紀行』

 前回の神原泰『蘭印の石油資源』にふれながら、タイトルのこともあり、絶えず想起されたのは金子光晴の『マレー蘭印紀行』だった。ただ私が読んでいるのは中公文庫版なので確認してみると、初版は昭和十五年十月に山雅房から刊行されていて、神原の著書とほぼ同時代に出されているとわかる。やはり昭和十年代後半は大東亜戦争と併走するように、蘭印も含めた東南アジアに関する多くの出版物が次々に企画され、本連載でもそれらを取り上げてきた。その時代ならでは著作や研究として刊行されたのであろう。金子の旅行記にしても、そうした一冊だったと考えられる。
マレー蘭印紀行(中公文庫版)

 それを物語るように、金子は「跋」において、「南洋の旅行記を山雅房の川内氏の好意で出版するはこびになった。/この旅行記は、もっと早く出版したかったのだが、都合が悪くて今日まで延びてしまった」と記している。それに加えて、私は『金子光晴』(新潮日本文学アルバム)で、山雅房の『マレー蘭印紀行』の書影を見ているけれど、山雅房のことや「川内氏」が川内敬五であること以外は、残念ながら何もつかめていない。

金子光晴  f:id:OdaMitsuo:20190614163847j:plain:h115(山雅房版)

 だがこの「南洋の旅行記」は、昭和三年から七年にかけての渡欧の途次に立ち寄ったシンガポール、マレー半島、ジャワ、スマトラなどの「熱帯地の陰暗な自然の寂莫が読者諸君に迫ること」を意図し、帰国後に徐々に書き継がれていたとされる。その事実を知ると、やはり内容が時期尚早で、その出版を受ける版元がなく、ようやくこの時代になって、山雅房が名乗りを上げたと見ていいように思われる。またこの旅は妻の森三千代を伴っての、金子の二回目の渡欧に他ならなかった。それにこの戦前における『マレー蘭印紀行』の上梓があったからこそ、戦後になってそれらをトータルに記録した自伝的小説ともいえる『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』(いずれも中公文庫)も書かれるに至ったのではないだろうか。 私も『どくろ杯』の上海滞在記を参照し、以前に拙稿「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)を書いていることを付記しておこう。

どくろ杯  ねむれ巴里  西ひがし  書店の近代

 さてここで『マレー蘭印紀行』に戻ると、そこには前回の石油資源としての即物的な蘭印とはまったく異なる、金子のいうところの「熱帯地の陰暗な自然の寂莫」を孕んだ蘭印が十全に描かれている。そこからその特有の熱気と湿度に包まれた熱帯地の原色の色彩が迫ってくるし、それは金子が日本人としてはまさにアンリ・ミショーの『アジアにおける一野蛮人』(小海永二訳、弥生書房)ではないけれど、「東南アジアにおけるエイリアン」のような眼差しとポジションを有していたことを伝えているかのようだ。
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 それゆえに「熱帯地の陰暗な自然の寂莫」が浮かび上がってくるし、それは昼の世界と異なる熱帯地の闇の深さに他ならない。熱帯地の夜のジャングルとは、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』(鼓直訳、水声社)のエピグラフに記したヘンリージェイムズの「人生のメタファーとしての狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」のようにして現れる。金子は書いている。
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 夜の密生林(ジャングル)を走る無数の流れ星。交わるヘッドライト。
 そいつは、眼なのだ。いきものたちが縦横無尽に餌食をあさる炬火(たいまつ)、二つずつ並んで疾走(はし)る飢渇の業火なのだ。
 双の火の距離、火皿の大小、光の射(や)の強弱、燃える色合いなどで、山に人たちは、およそ、その正体が、なにものなにかを判断する。ゴムの嫩葉(わかば)を摘みにくる麋、畑の果物をねらう貍(モサ)、鶏舎のまわりを終夜徘徊する山猫、人の足音をきいて鎌首をもたげるコブラ、野豚(バビ)、怖るべき豹、―それぞれに、あるものは螢光、あるものは黄燐、エメラルド、茶金色、等々。あやめもわからぬ深海のふかさから光物は現われ、右に、左に、方向をそらせて條光(しゆつこつ)と消える。(後略)
  
 窓の外は、どんよりとした闇空であるが、雨は一静雲落ちてこない。
 雨の樹(レイン・トリー)が、オラン・ウータンのように、毛むくじゃらな枝を、次から次へ、縦横にのばして、からみあっていた。その枝のあいだにのぞく闇が、毒血を吸込んだ蛭のように、まるくふくれかえっていた。

 このような夜の闇と動物たちのざわめき、風景描写を前にすると、高度成長期以前の田舎の闇の深さや森の不気味さを思い起こしてしまう。そういえば、二十年ほど前のことだったが、ロンドンで貿易商を営んでいる友人がベトナムに出張した際に手紙を寄越し、ここにはイギリスや日本で失われてしまった闇の暗さがまだ残っていると書いてきたことがあった。かつての日本の農村は街灯もなければ、人通りもなく、もちろん車も走っていなかった。だから星が見えなければ、夜は漆黒の闇に近かった。

 日本は熱帯地ではないけれど、『マレー蘭印紀行』は東南アジアの夜の風景や闇の深さが日本と地続きであることを示唆し、日本も紛れもない東南アジアの一画に位置していることを暗示しているかのようだ。それは大東亜共栄圏幻想を胚胎させたファクターでもあったかもしれないし、金子の後の『どくろ杯』に始まる三部作と異なる色彩を放つ描写を形成するものとならしめているのだろう。

 この『マレー蘭印紀行』に触発され、そこからの一節を添え、一冊の写真集が編まれている。それは横山良一の『アジア旅人』(情報センター出版局)、『金子光晴の旅』(平凡社)で、前者は熱帯地の明るさに注視し、それらを映し出しているといえよう。
アジア旅人 金子光晴の旅

 なお戦後の山雅房は神道書出版を主としているようだが、戦前と同一の版元であるのかは確認できていない。
 

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古本夜話924 神原泰『蘭印の石油資源』と「朝日時局新輯」

 前回のリーゼンバーグの『太平洋史』の出版の翌年の昭和十七年に、やはり朝日新聞社から神原泰の『蘭印の石油資源』という七三ページのブックレット判の一冊が出ている。「蘭印」とはその見返しの地図に示されているように、オランダ植民地の東インド、つまり現在のインドネシア共和国をさし、具体的にいえば、その「石油資源」はスマトラ島、ボルネオ島、ジャヴア島などにあり、それらの油田はボルネオ油田組合、コロニアル石油会社、オランダ石油会社に支配されている。ただ神原によれば、これらの石油会社は英米資本の傘下に置かれているようだ。
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 神原はその「序説」を、「蘭印の石油は、大東亜戦争における大きな希望の一つであるが、更に大東亜戦争の最大な原因の一つであつたことは、断言しても誤りないである」と始めている。

 これを補足すれば、昭和十六年七月の日本に対するアメリカの「徹底的石油断交」によって、アメリカの石油はもちろんのこと、イギリスや蘭印の石油も断たれ、所謂「A・B・Dの石油封鎖」状況の中で、日本にとっては蘭印の石油を支配することが緊急の問題となっていた。それは「東亜共栄圏中最も多く石油を産出するものは蘭印であり、もっとも多く石油を消費するところは日本である」からだ。かくしてこの『蘭印の石油資源』が朝日新聞社の「朝日時局新輯」の一冊として刊行されたことになる。この巻末に「編者付記」が置かれ、そこに「皇軍は二月二十八日夜来ジヤバ島に上陸を敢行し忽ち戦火を拡大、一方スマトラその他蘭印全島の完全攻略も時間の問題」と記されている。

 その「朝日時局新輯」の「発刊の趣旨」は次のように謳われている。「世界は今や有史以来空前ともいふべき大戦と激動の最中にある。今日に一日一ヶ月は過去の歴史中の十年にも一世紀も匹敵する変転を続けてゐる。かうした異常極まりなき時機において最も大切なことは、矢継ぎ早に起きつゝある内外百般の出来事の中で、その主流的な題目につき正確な知識と認識とを持つことである」として、このブックレットシリーズは企画刊行されたことになる。

 『朝日新聞社図書総目録』を繰ってみると、この「朝日時局新輯」は昭和十六年九月に始まり、『蘭印の石油資源』はその19に当たり、二十年九月の嵯峨根遼吉『原子爆弾』に至るまで七十点ほどが出されたとわかる。全点は挙げられないけれど、18までリストアップしてみる。
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1 朝日新聞政経部編 『対日包囲陣と臨戦態勢』
2 益田直彦 『独ソ戦の長期化とソ連の抗戦力』
3 神川彦松 『米国参戦問題』
4 久門英夫 『物価問題と国民生活』
5 末松満 『世界動乱図』
6 奥野七郎 『要約マイン・カンプ』
7 朝日新聞政経部編 『戦時下の産業合理化』
8 室賀信夫 『シンガポール』
9 安藤一郎 『ルーズヴエルト』
10 太田正孝 『戦時財政と増税』
11 松下正壽 『フイリツピン』
12 久門英夫 『変貌する日本産業』
13 朝日新聞調査部編 『変貌する日本産業』
14 高山毅、高垣金三郎 『学年短縮と兵役』
15 杉本健 『太平洋海軍問答』
16 野村宣 『法幣の壊滅』
17 藤田義光 『防空法解説』
18 寺田勤 『労務調整令の解決』

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 これらの著者に関しては、本連載901でも8の室賀は取り上げているが、他の人々については別の機会に譲りたい。19に見える神原の紹介は、「中央大学商科、外国語学校イタリア語科卒業、現在日本石油株式会社調査課長、商工省燃料局、陸軍燃料廠 、企画院各嘱託員たり。美術並に石油に関する著訳書多し」とある。

 だが私たちは神原の顔を知っているし、それは『日本近代文学大事典』にも立項されている。

  神原泰 かんばら たい 明治三一・二・二三~平成九 (1898~1997) 詩人、画家、芸術評論家。東京生れ。(中略)大正後期から昭和初期にかけて、未来派を中心として前衛芸術運動の旗手として、指導的役割を果たした。「熱狂し、一日、二、三時間しか眠らないで議論し、製作し、講演し、執筆した」とみずから回顧するごとく、その精力的な活動は国際的にも評価をされ、F=T=マリネッティのLA GRANDE MILANO TRADIONALE E FUTURISTA にも、Tokioの同志としてTai-Kanbaraの名が記載されている。

 この立項は一ページ近くに及んで、彼の近代文学史における存在の意味と影響を伝えているのだが、長すぎるきらいもあり、要約するしかない。神原は前衛詩人として注目される一方で、個人展覧会を開催し、日本における最初のアバンギャルディスト宣言を発表し、新鋭画家としての名声を確立する。そして未来派のイデオローグとして、常に新興芸術のスキャンダラスな創造の嵐の中心に位置していた。これは本連載でも後述するが、昭和三年には春山行夫たちと『詩と詩論』を創刊するが、左傾し、北川冬彦らと『詩・現実』の創刊に至る。さらに未来派の機械文明讃美を断罪し、自らの命運を担った未来派に思想的訣別を告げたとされる。

 そのかたわらで、神原は大正九年から石油業界に半生を捧げていたとされ、私は『蘭印の石油資源』しか読んでいないけれど、石油に関する著作も多く刊行しているのだろう。日本における未来派詩人やアバンギャルディストにしても、このようにして大東亜戦争の渦中に向かいつつあったことになろう。

 
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古本夜話923 リーゼンバーグ、太平洋協会訳『太平洋史』

 続けてマリノウスキー『西太平洋の遠洋航海者』、マーガレット・ミード『マヌス族の生態研究』、マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』などの太平洋民族に関する文化人類学や社会学の著作にふれてきた。また以前にも本連載584などで太平洋協会とその出版物、同587で矢内原忠雄『南洋群島の研究』、同678で室伏高信『南進論』、同682でダイヤモンド社『南洋地理大系』、同687で東邦社『南方年鑑』を取り上げてきた。文化人類学の研究書の翻訳はいずれも昭和十七、八年に出されているけれど、それらも太平洋協会を始めとする出版物と併走していたことはいうまでもあるまい。

西太平洋の遠洋航海者(『西太平洋の遠洋航海者』) f:id:OdaMitsuo:20190518115248j:plain:h115(『マヌス族の生態研究』) 南洋地理大系 

 たまたまそれらをトータルに表象するような一冊を入手したので、ここで書いておきたい。それは昭和十六年三月に朝日新聞社から刊行されたリーゼンバーグの太平洋協会訳『太平洋史』である。そこには『太平洋問題の再検討』という近刊の投げ込みチラシがはさまり、蠟山正道の「大東亜広域圏論」を巻頭に置き、続けて三木清「東亜新秩序の歴史的哲学的考察」など七編が収録されているとわかる。『朝日新聞社図書総目録』を確認してみると、これも太平洋協会編とあり、両書は姉妹書のようなかたちで出されていたことになる。いってみれば、タイトルに示されているように、昭和十六年は日米開戦を迎えつつあり、「太平洋問題の再検討」が迫られていたことを浮かび上がらせていよう。

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 そのことを象徴するが如く、『太平洋史』の表見返しには太平洋におけるクックの航行図、裏見返しにはマゼラン航海図が転載され、太平洋そのものの世界における構図、及びその覇権のよってきたるべき歴史を知らしめるような役割を伝えている。

 「訳者はしがき」は太平洋協会常務理事としての鶴見祐輔名で書かれている。そこで鶴見は著者のリーゼンバーグが探検家にして、海の権威者で、『太平洋史』は資料に基づき、探検家、開拓者の業績を叙述し、太平洋史の全貌を明らかにせんとする労作だと認めながらも、次のように述べている。「今や西洋の没落と共に世界史の中心が太平洋に移行せんとする大勢顕著なる秋」を迎え、「太平洋が如何にして世界史の上に登場して来たか」、「その探検開拓に活躍したる欧米各民族が日本の太平洋国策に如何なる影響を及ぼしたか」を明確に把握することが必要であり、そのためにここに訳出したと。そしてさらに付け加えている。

 勿論この本にも多くの不満はある。太平洋の開拓と称しつゝも、実はマゼラン海峡を通過して来た人々の事蹟を中心として描いてゐるが故に、例へばポルトガル人、オランダ人等のマラッカ海峡を拠点としての活躍や、十九世紀における西欧諸列強の帝国主義的活動については触れるところが少い。殊にこの書の最大の欠点は、ヨーロッパ人種の立場において書かれた歴史であるため、東洋人、即ち日本人、支那人、印度人等の東南アジアを舞台とする活動について全然触れてゐないことである。しかしながら、これらの研究を中心にした太平洋の新しき歴史を書くことは日本を中心とするる太平洋の新秩序の建設と共に、今後われゝゝに残された一大課題である。

 本連載584で既述しておいたが、太平洋協会は昭和十三年に鶴見によって設立され、ここで述べられているように、「日本を中心とするる太平洋の新秩序の建設」と「太平洋の新しき歴史を書くこと」を目的としていたと考えていい。それは太平洋問題に関する総合的なシンクタンクの形成を意図し、必然的にアカデミズムと提携し、雑誌や書籍の出版も兼ねることによって、これも同585で示しておいたが、多くの出版社とコラボレーションしていく。それには朝日新聞社も加わっていたことになるし、大東亜戦争と大東亜共栄圏構想と併走し、矢野暢が『日本の南洋史観』(中公新書)でいっているように、「昭和十年代は『南進論』の黄金時代」を迎え、太平洋協会の歩みとクロスしていったと思われる。
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 だがその全貌は明らかにされておらず、この『太平洋史』の翻訳は太平洋協会調査部の関嘉彦、中野博、上原仁の手になるとされる。やはり同584で、同調査局は平野義太郎を局長とし、関の名前も挙げておいたけれど、中野や上原はここで初めて目にする名前で、この二人にしてもどのような人物であろうか。かつてそこで「大東亜共栄圏は地政学をベースとして、人類学と政治学と民族学が三位一体となって推進される」と書いたが、それに左翼からの転向者も含まれることは自明だし、これらの三人もそうした関係者だったのではないだろうか。

 そしてこれは鶴見俊輔がどこかで語っていたし、黒川創『鶴見俊輔伝』(新潮社)でも明らかにされているが、戦後を迎え、『思想の科学』はこの太平洋協会の取次口座を利用して創刊されることになるのである。
鶴見俊輔伝

 なお関は河合栄治郎の弟子で、昭和二十一年に社会思想研究会、後の社会思想社設立に参加し、出版部取締役を経て、東京都立大教授、民社党の中枢人物となっている。


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古本夜話922 マルセル・モース『太平洋民族の原始経済』と山田吉彦

 マリノウスキーは『西太平洋の遠洋航海者』などで、ニューギニアのトロブリアンド諸島におけるクラ、前回その名前を挙げたブランツ・ボアズは北米インディアンに見られるポトラッチという贈与の慣習を報告している。これらを参照しながら、「フランス人類学の父」と称されるマルセル・モースは一九二五年に『贈与論』と題する論文を発表する。
西太平洋の遠洋航海者

 これは本連載917でふれておいたように、有地亨訳『贈与論』(勁草書房、昭和三十七年)として刊行され、その改訳もモース『社会学と人類学Ⅰ』(弘文堂、同四十八年)に収録されている。そこに寄せられた「マルセル・モース論文集への序文」で、レヴィ=ストロースは「マルセル・モースの教示ほど、いつまでも秘教的魅力を失わないものはすくなく、また同時にこれほど影響を及ぼしたものもすくない」と始め、フランスの社会学、人類学だけでなく、「民族誌学者はだれひとり、かれの影響を受けなかったとは言いえまい」と述べていた。

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 さらにモースが社会学研究会に結集するジョルジュ・バタイユやミシェル・レリスや岡本太郎たちにも大きな影響を与えたことも明らかになってのことだとも思えるが、今世紀に入って吉田禎吾、江川純訳のちくま学芸文庫 (平成二十一年)森山工訳の岩波文庫版(同二十六年)にも新訳刊行された。またモース研究会『マルセル・モースの世界』 (平凡社新書、同二十三年)、最近では森山編訳『国民論』(岩波文庫)も出されるに至っている。
ちくま
贈与論(ちくま学芸文庫版) 贈与論(岩波文庫版)マルセル・モースの世界  国民論

 だが『贈与論』は戦前の昭和十八年に、本連載706の日光書院から山田吉彦訳で、『太平洋民族の原始経済』として刊行され、それは「古制社会に於ける交換の形式と理由」というサブタイトルが付されている。ここでモースは先述のマリノウスキーのクラやボアズのポトラッチなどに象徴される贈与の慣習を含め、ポロネシア、メラネシア、西北アメリカなどの原始社会における贈物の「広汎な研究の一断片」を提出している。それに大東亜共栄圏と南進論もクロスし、翻訳タイトルが選ばれたのであろう。その研究を貫く視座は傍線が付された次の一文に集約されていよう。原文はイタリック体だが、引用は傍線の代わりにゴチック体とする。

 それは「遅れた、若しくは古制型の社会に於て、貰つた贈物には義務的に返礼をせねばならなくさせる律掟と経済上の規則は何であるか。贈られたものの中には、貰つた人にお返しをさせるやうにするどんな力が存在してゐるのか」とある。そうして贈与が宗教、法、道徳、経済などの様々な領域に還元できない「祝祭」と「競覇型の全的給付制」として位置づけられるに至る。

 だがここでは『太平洋民族の原始経済』にこれ以上踏みこまず、ラフスケッチにとどめ、その訳書にまつわる事柄に言及したい。まずこの訳書は「A Monsieur Marcel Mauss et aux camarades de classe」、すなわち「マルセル・モース氏と教室の仲間たち」に捧げられている。訳者の山田吉彦は戦後になって きだみのるを名乗り、昭和四十六年には読売新聞社から『きだみのる自選集』 全四巻も出されているが、戦前の山田をたどってみる。彼は昭和九年にフランス政府留学生として渡仏し、ソルボンヌ大学で社会学と民族学を専攻し、マルセル・モースに学び、同十四年に大学を中退して帰国し、アテネ・フランセの語学教師となっている。その四年後に『太平洋民族の原始経済』は翻訳されたことになる。
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 その「凡例」に「この訳書には著者の序文がつく筈になつてゐた。しかし今次の戦乱のためにこのことは果されなかつた」とある。これは山田が帰国後、パリはドイツ占領下で、モースはユダヤ系のためにすべての公職から追放されたことによって、音信不通の状態に置かれていたことを伝えているのだろう。その影響は「後書」にも見られ、山田はほとんどを、ソルボンヌ大学内の高等研究実習院でのモースの宗教社会学の講義とその内容、学生たち、彼との個人的会話などに費やしている。

 それはモースの言によれば、オックスフォード時代に、本連載でもお馴染みの高楠順次郎と親しく、日本は日露戦争を始め、戦費調達のために、奈良の五重の塔を売ってもよいとのことで、モースがルーヴル博物館に話を持ちかけたが、ルーヴルはわずかの金を惜しんで成立しなかったけれど、日本にとってはそのほうが幸いだったと。一九〇五年頃にユダヤ系フランス人のモースと高楠、ドイツを出自とするマックス・ミューラーが出会っていたのだ。さらにフレイザーとも。このエピソードはきだみのるの『人生逃亡者の記録』 (中公新書、昭和四十七年)でも語られている。さらにモースはかつて自分のところで勉学した宇野円空、赤松知城、松本信広の近況をも訊ねたという。
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 それらは後述するつもりでいるので、ひとまずおき、モース教授のことだけでなく、学生たちに目を転じてみよう。彼らは二十人ばかりの男女で、人間博物館に勤務している者が多かった。シベリア諸民族のシャマニスム研究レヴッキ―、グリンーランドのエスキモーの間で冬を過ごしたヴィクトール、エチオピアで暮らしたグリヨルやディテルラン夫人、朝鮮民俗に関心を持つボネ夫人、コロンブス以前のアメリカ文化に注視するレーマン、その他にシェフナー、ポール嬢、レーデラー夫人、プチ・ジャンなどの旅行家たちもいて、クラスの中心を占めていた。

 これらの人々の詳細なプロフィルは不明だが、山田を始めとするモースの日本人の弟子たちのことを考えれば、それぞれが研究者としての業績を残しているように思われる。両大戦間のパリは、本連載744の中谷治字二郎を含めて、日本人の考古学、民族学、人類学、社会学のメッカだったように思われるし、これも同125などでも取り上げておいたが、後にスメラ学塾に結集する「パリの日本人たち」の一人が山田でもあった。先の『人生逃亡者の記録』 において、スメラ学塾は出てこないが、ジュネーブで、本連載113などの藤沢親雄と一緒だったことにふれているし、この時代の山田のポジションは興味深いというしかない。


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古本夜話921 マーガレット・ミード『マヌス族の生態研究』

 ニューギニアで文化人類学のフィールドワークを試みていたのは、本連載916などのイギリス人のマリノウスキーばかりでなく、アメリカのマーガレット・ミードたちも同様だった。ただ前者が一九一四年から一八年にかけてのトロブリアンド諸島であったことに対し、後者は二〇年代からサモア、アドミラルティ、バリなどの南太平洋各地の未開社会のフィールドワークに従事していた。そのサモアに関しては『サモアの思春期』(畑中幸子、山本真鳥他訳、蒼樹書房、昭和五十年)が知られているが、ニューギニアについても、戦前の昭和十八年、金子重隆訳で『マヌス族の生態研究』が、本連載822の岡倉書房から刊行されている。
f:id:OdaMitsuo:20190518120145j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20190518115248j:plain:h120(『マヌス族の生態研究』)

 『文化人類学事典』(弘文堂)によれば、ミードは一九〇一年生まれで、二九年にコロンビア大学で博士号を取得し、近代アメリカ人類学の父とされるフランツ・ボアズに師事し、当時その助手のルース・ベネディクトと親交を持ち、心理学を学び、アメリカ自然史博物館民族学の助手となる。そしてサモア島に赴き、最初の著作『サモアの思春期』、それに続いてアドミラルティ諸島でのフィールドワークから『ニューギニアで成長すること』(Growing up in New Guinea)=『マヌス族の生態研究』を刊行する。
文化人類学事典  Growing up in New Guinea

 その「著者のことば」には彼女が社会科学研究所員のポジションにあることに加え、ボアズとベネディクトへの謝辞が掲げられ、先に示した軌跡と符合するように、ニューギニアの未開民族の研究にいそしんでいたとわかる。その次に置かれた「訳者序」は、昭和十七年五月のロレンガウ(アドミラルティ島)の海軍報道班員などによる記事を引用し、そこでの戦争状況を伝えている。この当時、帝国海軍特別陸戦隊はニューギニア北東のアドミラルティ諸島のマヌス島を無血占領し、「日章旗は南十字星輝く南海に翻つてゐ」たのである。

 アドミラルティ諸島は旧ドイツ領で、第一次世界大戦後はオーストラリアの委任統治下にあり、マヌス島はその主島だった。それらの島々には三万人の原住民がいて、マヌス人は二千人を占め、マヌス島南岸の礁湖中に水上村落を営み、漁業と貿易を主とし、その特有な文化を有する種族とされる。そのマヌス人にしても、「新たに我が指導下に来る彼等原住民」と位置づけられ、この『マヌス族の生態研究』の翻訳にしても、「彼らに臨むに当つてはその風習と日常生活を知悉してかゝらなければならない」という目的で刊行されたことになる。

 それに加え、金子は『マヌス族の生態研究』に関して、次のように述べている。

 マヌス島南岸のペリ村に在住して、住民の生活を綿密に観察記録した著者が、彼等の出産から成人までの肉体的並びに精神的発展を詳述し、併せてその育児教育法をアメリカのそれと比較研究して長所短所を洞察し、以て文明社会殊にアメリカに於ける教育法の血管を指摘してこれが矯正の示唆としたものである。本書を茲に訳出したのは、(中略)マヌス人の生活を知り彼等を如何に理解し如何に扱ふ可きかの参考とするためであるが、同時に(中略)物質文明に毒されたアメリカの学校教育、家庭教育の結果、現代アメリカの中堅層が何を見、如何に考へるか、教育研究家たる著者のこの書を通じて窺ひ知らんがためである。

 また金子は同書がマヌスに関する最良の参考書であり、「アドミラルティ方面に発展せんとする人、現地指導に当られる方々の参考になり得れば幸甚である」とも述べている。この『マヌス族の生態研究』の出版にもマリノウスキー『未開社会における犯罪と慣習』と同様の昭和十七年だから、文化人類学的モチーフ以上に大東亜共栄圏と南進論が相乗し、そのトレンド上に刊行されたと見なしていいだろう。奥付には初版二千部とあるが、その奥付裏を見ると、同書が「岡倉選書」の一冊として出されたことがわかると、それらの出版は私の推測を肯っているようにも思えるので、そのラインナップを示してみる。

1 I・レーベル、池田雄蔵訳 『蘭領東印度』
2 M・イヴオン、延島英一訳 『スターリン治下のソ連邦』
3 C・ピアード、早坂二郎訳 『アメリカの外交政策』
4 C・ガバトン、瓜生靖訳 『東印度諸島誌』
5 Y・フローロフ、延島英一訳 『電話に答える魚』
6 K・ヘーネル、岡崎清記訳 『仏蘭西植民地』
7 M・ミード、金子重隆訳 『マヌス族の生態研究』
8 M.・ダグラス、平山信子訳 『グリーンランド横断記』
9 P・ベルナール、奥好晨訳 『仏印の新経済政策』
10 W・ダンピア、小川芳男訳 『ダンピア航海記』

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 これらは『マヌス族の生態研究』以外は未見だが、いずれ1、4、6は読んでみたいと思うし、ここでしか翻訳されていないのではないだろうか。

 また2と5の訳者の延島英一は本連載74の石川三四郎の近傍にいたアナキストで、『日本アナキズム運動人名事典』にも立項されているが、これらの翻訳と岡倉書房の関係については言及されていない。ここにも大東亜戦争下の出版の謎が秘められているのだろう。そのことに付け加え、ミードに関して知らなかったことが、今世紀に入って翻訳されたヒラリー・ラプスリー『マーガレット・ミードとルース・ベネディクト』(伊藤悟訳、明石書店、平成十二年)に書かれていた。
日本アナキズム運動人名事典(増補改訂『日本アナキズム運動人名事典』) マーガレット・ミードとルース・ベネディクト
 
 同書によれば、ミードとベネディクトはレスビアン関係にあったという。ミードが『精神と自然』『精神の生態学』(いずれも佐藤良明訳、思索社)のグレゴリー・ベイトソンと三回の結婚と離婚を経てきたことは承知していたけれど、これは意外の他はなく、あらためてミードの『男性と女性』』(田中寿美子、加藤秀俊訳、東京創元社)やベネディクトの『菊と刀』(長谷川松治訳、社会思想社)を読んでみるべきだと思わされた。それこそ『菊と刀』はマウス人ならぬ日本人の「生活を知り彼等を如何に理解し如何に扱ふ可きかの参考」のために書かれたからだ。

精神と自然 精神の生態学 男性と女性 菊と刀

 なお『マヌス族の生態研究』にはマヌス島でのフィールドワークの詳細や写真も収録されていることも記しておこう。

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