出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話978 和歌森太郎『修験道史研究』

 前回、堀一郎との関係から、和歌森太郎が『民間伝承』に寄稿するようになり、昭和二十四年には編集委員、二十六年から翌年十二月号の終刊まで、編集兼発行者を務めていたことを既述しておいた。
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 だがそれらについて、『[現代日本]朝日人物事典』の和歌森太郎の次のような立項には記されていない。それはどうしても、編集や出版への関わりは当人の業績からすれば、立項担当者にとって単なる寄り道的エピソードに過ぎないからだが、とりあえず引いてみる。

[現代日本]朝日人物事典

 和歌森太郎 わかもりたろう 1915・6・13~77・4・7 日本史学者、民俗学者。千葉県生まれ。1939(明14)年東京文理大助手となり46年助教授、50~76年教授。76~77年都留文科大学長。日本宗教社会史を専攻し、中世修験道の研究から民俗学に近づき、日本の社会史について民俗学と歴史学を結びつけた幅広い研究を行った。歴史学の研究成果の普及にも務め、多くの啓蒙的歴史書を著し、また建国記念日問題についても歴史家の立場から積極的に発言した。(後略)

 私たち戦後世代にとって、ここに示されているように、和歌森は『日本史の虚像と実像』 (毎日新聞社、昭和四十七年)などの啓蒙的な日本史家の印象が強いが、中世修験道の研究から始まっていたのである。それは数年前に古本屋で、和歌森の『修験道史研究』を見つけ、彼の原点を知らされたことになる。この河出書房の菊判上製三六〇ページの一冊は無地のカバーに黒い活字のタイトルと著者名だけが縦書きで記され、あたかも山伏の姿が浮かんでくるようなイメージをもたらしてくれた。

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 奥付を見ると、定価四円五十銭、昭和十八年一月初版、五月二版で、その部数は千部とあった。とすれば、初版は二、三千部と推測され、大東亜戦争下にあっても、このような専門書が刊行され、順調に売れていた事実を伝えている。ただそれらの詳細は判明していないので、そうした意味においても、これまた戦前を含めた河出書房の全出版目録が出されていないことが惜しまれる。

 そのような近代出版史の問題はともかく、和歌森はその「序」において、「山伏といふものは、昔話や伝説を通じて、私にとつては幼いときから親しいものでありました」と始めている。それが「或時には天狗妖怪の如くうす気味悪く、或時には神仏にもまして頼もしいもの」で、「殊に不思議としたことは、落人や密使が身を隠してわびしい旅をなすとき、きまつてといつてよいほど山伏の姿に変装すること」だったと続けている。ここに提出された山伏のイメージは、戦後になっても時代劇や映画を通じて変わっていなかったし、私たちもそのように受容してきたといえよう。

 和歌森はそれから長じて東京高師で歴史を専攻するに至り、このようなイメージの山伏と吉野山と朝廷の関係を通じ、あらためて修験道と山岳宗教の問題に行き当たる。そして山伏の姿は、現在でもよく見られる白装束の行者姿での敬虔な登山者、遭難するアルピニストなどへとリンクしていく。そのきっかけは和歌森が京都の本屋で購入した本連載945など山窩山窩の宇野円空の修験道に関する論文であり、それは当時の「修験道研究の最高段階」に位置づけられるものだったという。これは後の記述によって、「神道講座」(宮地真一編、昭和六年)所収の「修験道の発生と組織」、「日本宗教大講座」(東京書院、同四年)所収の「修験道」、「郷土史研究講座」(雄山閣、同六年)所収の「修験道と郷土」のいずれかだったと思われる。この三つの「講座」は未見だが、これらに寄稿された宇野の論文はほぼ同様だったとされる。

 それらの影響に加え、その後の和歌森の『民間伝承』寄稿者、及び編輯兼発行者となることを考えれば、どうしても堀一郎や柳田国男との関係を想起せざるを得ない。和歌森はやはり「序」において、堀の『大東亜文化建設研究―東亜宗教の課題』(国民精神文化研究所、昭和十七年)にふれ、そこで堀のいう日本仏教における「惟神道の仏教的展開」が修験道にそのまま当てはまるものだと述べている。

 また「緒論」において、柳田の『山の人生』(岩波文庫)が引かれ、柳田が提出した日本特有の山のイメージと物語から、和歌森が大いなるインスピレーションを受け、山伏と修験道研究に向かったと推測できよう。ただ『山の人生』にはダイレクトな山伏や修験道への言及はないけれど、本連載960の『山島民譚集』から始まる柳田民俗学における山のイメージや伝説のエンサイクロペディアとでもよぶべき著作である。これは大正十五年に郷土出版社から刊行されている。

山の人生

 これらを背景、ベースにし、『修験道史研究』の第一章「修験道の由来」と第二章「修験道成立と特権」も書かれたと見なせよう。そして修験道の「理想的祖師」として、役小角が挙げられる。それに関しても思い出されるのは、空海を高野山へと誘った狩場明神(高野明神)のことで、彼らは水の神や山の神とも称されている。和歌森が修験道の由来を役小角から始めているのも、そうした伝説をふまえているからだ。

 続いて和歌森は第三章「教派修験道の形成と特性」、第四章「中世修験道の近世的変質」へと進めていく。そしてその「結語」において、「宗教意識から超然としつつ、しかし、いろいろな派の趣、傾向を併せ含んでゐるといふ点に特異性を帯びてゐる修験道の特色は、実に日本民族のもつ特色と互いに触発し得る関係において意義をもつた」と述べているのは、戦時下での和歌森の修験道研究の位相を物語っているように思える。

 それもあってか、平成十二年の久保田展弘監修山の『山の宗教―修験道とは何か』(「別冊太陽」)の「主な参考文献」の筆頭に挙げられ、それを受けてか、昭和四十七年には平凡社の東洋文庫でも復刻されるに至っている。またそれらに先駈け、昭和五十三年には和歌森を編者の一人とする「山岳宗教大研究叢書」(全十八巻、名著出版)が刊行され始めていたのである。そうした修験道研究史の発端こそは、和歌森の『修験道史研究』を抜きにして語れないことを意味しているのだろう。

山の宗教―修験道とは何か 修験道史研究 (東洋文庫版)


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古本夜話977『民間伝承』、堀一郎、和歌森太郎

 前回は『民間伝承』の戦時下における流通販売の六人社と生活社への委託、及び戦後の六人社との再びのコラボレーションをたどってきたが、編集兼発行人に関しては守随一と橋浦泰雄にふれただけだった。
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 守随も木曜会同人で、東大新人会のメンバーだった。しかも亡父は柳田の一高時代の同級生で、エスペラント語に通じ、そのことでも柳田と結びついていた。また『山村生活の研究』でも四項目を担当し、『民間伝承』創刊に当たって、橋浦とともに編集をまかされることになったのである。しかしその守随も昭和十三年には満鉄調査部に職を得て渡満し、新京支社で経済調査に従事する。そして十八年に学者や研究者を弾圧する満鉄事件に巻きこまれ、十九年に四十一歳の若さで、獄中でかかったチフスにより死去している。

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 そのために昭和十三年から橋浦が引き継ぎ、戦後の二十三年まで編集兼発行人を担ってきたわけだが、『民間伝承』の昭和二十三年七月号に「緊急会告」が出された。それは「本会の編集並に一般事務を担当してゐた橋浦泰雄より健康不勝の理由により、右担当の辞任の申出がありました」というものである。そして柳田国男自らがそれらを総括し、新たに堀一郎を始めとする四人の編集部委員が発表され、民間伝承の会の出版物の「刊行配布及びその経営の責務は一切戸田謙介これを担当」との一節も同様だった。

 そして同号から奥付には編集兼発行者として堀一郎の名前が記載されることになる。私が最初に堀を知ったのは半世紀近く前で、ミルチャ・エリアーデの『永遠回帰の神話』(未来社)や『生と再生』(東大出版会)や『シャーマニズム』(冬樹社)の訳者としてであり、それからしばらくして、彼が柳田の女婿だとわかった。彼は柳田の次女三千と結婚している。あらためて確認すると、堀は昭和四十九年に亡くなっているので、私がそれらを読んでから数年後に没したことになる。

永遠回帰の神話 - 祖型と反復  f:id:OdaMitsuo:20191207112626j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20191207113218j:plain:h120

 それでも堀は木曜会や『民間伝承』に関する回想を残し、それは「紆余曲折―私の学問遍歴」と題され、『聖と俗の葛藤』(平凡社ライブラリー)で読むことができる。そこで彼は語っている。

聖と俗の葛藤

 私たちが結婚したのは昭和一二年でしたけれど、柳田さんの書斎で、「木曜会」が隔週の日曜の午後に催されていた、これはアカデミック・サロンともいうべきものでした。つまり、大学の講義とか講座というものじゃなくて、ひじょうに自然の形で出来上がった、アカデミズムというか、独特のものでした。発端は『民間伝承論』の口述のために木曜日とごとに後藤興善さんをはじめ多くの人々が集まってきて出来たもので、それが第二と第四の日曜の午後の集まりになっても木曜会といっていました。柳田民俗学の大先輩の人たち―橋浦泰雄、大藤時彦、大間知篤三、瀬川清子、関敬吾、最上孝敬、桜田勝徳、倉田一郎、守随一さんといった人々が柳田さんを囲んで並んでいる。私なんかは隅のほうへいって、そこでいろんな人たちの調査報告や研究発表を聞いてたわけです。その頃はのちに『海村生活の研究』という本にまとめられました海村の調査が行なわれていて、この会のメンバーが調べてきた報告を順番にしているわけですね。それを先生が聞いていて、批評や質問がある。そこはまだ調べ足りない、とか、そこはどうなっているか、とか、こういう問題があるといわれる。集まった人からも意見や質問が出る。

 長い引用になってしまったが、実際に木曜会なるもののイメージが浮かび上がってくるし、『海村生活の研究』だけでなく、柳田と『民間伝承』のあり方の関係をも伝えているからだ。このようなディテールを重ねることで、柳田民俗学は構築され、展開されていったのである。また『海村生活の研究』が挙げられているのも、堀自身が発行者として刊行されたことへの感慨も含まれているように思われる。

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 それから堀は当時、本連載124の国民精神文化研究所の助手を務めていたと述べ、そこで神社の祭の調査を始め、文理科大学の助手だった和歌森太郎にも加わってもらい、これが和歌森とのつき合い始めだったと語っている。実は堀が『民間伝承』の編輯兼発行者になってから、和歌森の「神島の村落構成と神事」や「社会生活の理解と民族学」(昭和二十三年十一・十二月号)などの寄稿が始まり、二十四年一月号には編集部委員としての名前も挙がっている。そして二十六年十一月号からは和歌森が編輯兼発行者となり、それを二十七年十二月号の終刊まで務めている。

 『柳田国男伝』でも国民精神文化研究所における堀と和歌森の関係にふれられ、和歌森が昭和十六年頃から木曜会に出席するようになったとあるが、それは堀を通じてであろう。そして橋浦泰雄の引退を受け、堀が編集のアシストを依頼したことから、最後には『民間伝承』の編輯兼発行者を引き受けざるを得なかったと推測される。そうした意味では橋浦がそうあったように、堀も和歌森も柳田の出版代行者だったことになろう。


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古本夜話976『民間伝承』の流通と販売

 前回の柳田国男篇『海村生活の研究』が、民間伝承の会の後身である日本民俗学会から、昭和二十四年に刊行されたことを既述しておいた。姉妹篇ともいえる『山村生活の研究』は戦前の十二年に民間伝承の会から出されている。大東亜戦争と敗戦をはさんでいるけれど、両書は昭和十年に創刊され、二十七年の終刊まで一七五号を出した『民間伝承』と併走する企画だった。

f:id:OdaMitsuo:20191121150554j:plain:h115(『海村生活の研究』) f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120(『山村生活の研究』)f:id:OdaMitsuo:20191205172628j:plain:h120

 本連載973の『民間伝承論』としてまとまる、柳田の木曜会の講義に端を発する『民間伝承』については、拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究Ⅲ』所収)で、実質的な編集長だった橋浦に焦点を当て、論じているが、その流通や販売に関してはふれてこなかったので、それらをここでたどってみたい。長きにわたる雑誌刊行は流通や販売を抜きにしては語れないし、それに『柳田国男伝』は『民間伝承』が「日本民俗会のシンボルでありつづけ」、「そのまま日本の民俗学発展の歴史でもあった」と述べているのだから、『民間伝承』の場合はどうなっていたのだろうか。幸いにして『民間伝承』は全冊が復刻され、国書刊行会から全十一巻が刊行されていることもあり、確認してみよう。

f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110  古本探究3  

 昭和十年九月の『民間伝承』は四六倍判の八ページ仕立てで、「非売品」と表記され、民伝承の会の目的は「組織的採集及び研究の為に会員相互の連絡を図ること」で、そのために『民間伝承』を毎月発行会員に無料配布すること」が謳われている。「編輯雑記」は「在京世話人」の橋浦と守随一の名前で記され、当初は実質的に守随が発行と編集を担ったとされる。

 だがここではそれらについての追跡は差し控え、『民間伝承』の流通と販売に言及したい。『民間伝承』は年を追うごとに、ページや会員数も増え、内容が充実していく様子がうかがわれるのだが、昭和十三年から「非売品」という表記は消え、最後の四六倍判の十七年三月号からは、これまでになかった奥付が設けられ、編輯兼発行者は橋浦、発行所は民間伝承の会と明記され、そこに出版文化協会々員との記載も見える。

 そして昭和十七年五月号からは、これまでの新聞的イメージからA5判、六四ページの表紙のある「柳田国男編輯」と銘打たれた『民間伝承』へと移行する。奥付の編輯兼発行者などは三月号と変わっていないが、「配給元 日本出版配給株式会社」が付け加えられている。これは何を意味するかというと、戦時下の出版統制によって、民間伝承の会も研究団体というよりも、出版社として分類され、必然的に国策取次の日配の雑誌流通販売に組みこまれたことを物語っている。

 それに加えて、次の六月号からは表紙裏に六人社の「民俗選書」の一ページ広告があり、発行所のところに事務分室として、六人社が記載されている。この事実から推測すれば、『民間伝承』の取次書店販売が六人社に委託されたことを伝えている。

 また『柳田国男伝』は昭和十九年に『民間伝承』が二千部を超える部数に達していたと述べ、それに注を付し、次のように記している。

 財政面では、発行部数増加にかかわらず、毎号三、四百円前後の赤字を出していたため、経営を外部に委託することになった。(中略)こうした折り、六人社社長の戸田謙介(一九〇三~一九八四)へ橋浦泰雄から「有意義な仕事だ」と話があり、戸田は「柳田国男編輯」と銘打つこと、三千部印刷して内千五百部は会員配布など、いくつかの協定事項を決めて引受け、普通雑誌の体裁に切り変えた。編集面ではこれまでどおり民間伝承の会が担当し、財政面は六人社が負担していくことになったのであった。

 おそらくそれまでの毎号の赤字は澁澤敬三によって支えられたのであろう。しかし昭和十九年五月号からは事務分室が、これも本連載でお馴染みの生活社へと移され、同年七・八月合併号の休刊まで続いていく。

 そして昭和二十一年八月に『民間伝承』は復刊され、民間伝承の会の常任委員、及び評議員として戸田謙介も挙げられ、事務分室は六人社へと戻され、戦後も始まっていく。

 また昭和二十四年に民間伝承の会は日本民俗学会と改称されるが、そのまま同学会の機関誌として継続刊行されていた。だが二十七年十二月号で終刊となり、新たに翌年から『日本民俗学』として誌名変更となった。『民間伝承』はそのまま六人社に委ねられ、昭和五十八年六月まで刊行されたようだが、こちらは未見である。

 なお以前に「探偵小説、民俗学、横溝正史『悪魔の毛毬歌』」「六人社版『真珠郎』と『民間伝承』」(『近代出版史探索』所収)なども書いているので、ぜひ参照されたい。

近代出版史探索

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古本夜話975 日本民俗学会『海村生活の研究』と戦後の柳田国男

 前回の後藤興善の『又鬼と山窩』に収録されている「豊後水道への旅」と「萬弘寺の市」は、昭和十二年に柳田国男の木曜会メンバーを中心とする全国海村調査に対し、日本学術振興会の補助金が出されたことで実現した記録である。また「恠音・恠人」「神仏の恩寵冥護」「前兆予示と卜占」は、同じく昭和九年からの全国山村調査の記録で、これらは昭和十二年刊行の『山村生活の研究』にも収録されている。

f:id:OdaMitsuo:20191203141400j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20191121152424j:plain:h120 (『山村生活の研究』)

 この二つの調査は日本民俗学が始めて全国規模で行なった同時調査で、画期的試みとされる。しかし『山村生活の研究』の上梓はほぼリアルタイムで実現したけれど、『海村生活の研究』は昭和十四年に終了したこともあってか、戦後まで持ちこされてしまい、民間伝承の会の後身の日本民俗学会から刊行されたのは昭和二十四年になってからのことだった。A5判上製、索引も含めて四七二ページに及び、一〇〇の「海村生活調査項目」も挙げられ、二五の調査報告は木曜会メンバーの最上孝敬、橋浦泰雄、桜田勝徳、瀬川清子、大間知篤三、大藤時彦などの十一人によるものだ。

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 だが残念なことに、後藤は戦後になって何らかの事情で柳田から離れていたのか、先の二編に加え、念願の「宇和の大島」の民俗誌の収録は実現しなかったことになる。『柳田国男伝』においても、後藤の戦後の消息はたどられていないし、没年の記載もない。これまでも本連載756で富永菫や北野博美や地平社書房にふれてきたが、彼らも柳田の出版代行者や口述筆記者であったけれど、いつの間にか柳田の周辺から姿を消している。柳田民俗学はそうした人々によって支えられていたことも事実だし、後藤にしても同様だったのではないだろうか。

 それらはともかく、柳田国男は編者として「海村調査の前途」という「序文」を寄せ、次のように書き出している。

 待ちに待つた海村報告の一部が、やつと出るやうになつた喜びを記念するため、今思つて居ることを其まゝに、如何に我々の為し遂げたことが小さく、之に反して将来の希望が今に於てのなお如何に楽しいかといふことを、一つ書きのやうにして書き残して置かうと思ふ。

 遅延したけれども、戦後を迎えての『海村生活の研究』の出版に心を躍らせている柳田の姿が、この文章から浮かび上がってくるようだ。昭和二十年十月に臼井吉見は雑誌『展望』の創刊の相談をするために、柳田を訪問し、それを『蛙のうた』(筑摩書房)に書きつけている。「敗戦直後、僕が会った多くの人たちのなかで、七十歳を越えた柳田にくらべられるほど、いきいきした感覚と気力にはずんだ人をついぞ見かけなかった」と。そのような高揚がまだ続いていたのだろう。

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 『[別冊]柳田国男伝』の「年譜」を確認してみると、二十年九月には、十九年に一時中止していた木曜会を再開し、翌年には三百回ほど続いた木曜会を発展解消し、書斎を民俗学研究所として開放し、『民間伝承』も復刊する。その一方で、枢密顧問官、帝国芸術員会委員となり、二十三年には民俗学研究所は財団法人化され、二十四年には民間伝承の会を日本民俗学会として改称し、その会長となり、その直後に『海村生活の研究』が出されたわけだから、柳田の高揚が了解できるのである。

 それだけでなく、柳田は『先祖の話』(筑摩書房、昭和二十一年)、「新国学談」三部作としての『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』(いずれも小山書店、二十一、二十三年)も次々と上梓している。それらと併走するように、『海村生活の研究』も出されたのであり、先の書き出しに続いて、柳田はこの海村調査計画に関して、昭和十一、二年頃に立てられたが、戦争が進み、経費が続かず、また地方の人心が険しくなり、予定の三分の二に達したところで中断したことにより、「大きな期待を繋げて居た南方の諸島」などが後回しになってしまった。そして「それらの島々が、其後の僅かな年月のうちに、殆ど根こそげの変質変貌してしまったこと」が、「たとへ様も無く残念なこと」だったと語っている。これは沖縄諸島をさしていることはいうまでもあるまい。

f:id:OdaMitsuo:20191205170256j:plain:h115(「新国学談」)

 それに加えて、島の事情は「意外」なことに、農山村における類推がほとんど望まれず、近くの二島でも生活様式が異なり、また同じ島であっても言葉がちがったりする。また逆に遠く相隔った島や岬の端に習俗の一致が見られたりする。「大体に住民の移動が比較的新らしく、且つ水上の交通を支配した法則には、よほど陸上のそれとはちがうものがあつたからと、解しなければならぬ現象が海村には多かつた」のであり、そのことに気づいていなかった。そして柳田は「新手帖を豊かに供給して、自由に其見聞を採録し、かつは其所得を以て汎く総図の開悟に役立たせるやうにしたい。是が我々の生涯の志である」と結んでいる。

 なおここでいう「新手帖」とは海村調査のための新たな採集手帖をさしている。この「採集手帖」の様々な例に関しては書影を含め、拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」及びその「資料5・6」(『古本探究Ⅲ』所収)を参照されたい。
古本探究3

 柳田は『海村生活の研究』の出版の翌年に「宝貝のこと」や「海神宮考」を書き、二十六年には「みろくの舟」、二十七年には「海上の道」などを発表し、それらは三十六年に出版された『海上の道』(筑摩書房、岩波文庫)としてまとめられていく。それこそこの柳田の『海上の道』は、沖縄諸島への追悼と敗戦、及び各報告にまったく言及していないけれど、『海村生活の研究』をスプリングボードとして、構想されたといえるのではないだろうか。

海上の道


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古本夜話974 後藤興善『又鬼と山窩』

 ジェネップ『民俗学入門』の訳者、柳田国男『民間伝承論』の講義筆記者兼構成者としての後藤興善に続けてふれてきた。だがその後藤のプロフィルは明確につかめず、『柳田国男伝』の記述からたどってみると、明治三十三年兵庫県生まれ、国文学専攻で、昭和八年に民間伝承論講義に参加し、それが柳田の『民間伝承論』へと結実する。この講義は木曜日に行なわれていたことから、それにちなんで木曜会として、講義参加者を中心とする民間伝承研究のための新たな会がスタートした。後藤もそのメンバーであり、その後の民間伝承の会設立と『民間伝承』創刊などにも寄り添っていた。柳田との関係の始まりは不明だが、ジェネップの翻訳のことを考えれば、『民族』の寄稿者として名前は見当らないけれど、やはり『民族』を通じて生じたのではないかと推測される。

f:id:OdaMitsuo:20191122175107j:plain:h120 (『民俗学入門』) f:id:OdaMitsuo:20190805140653j:plain:h110 

 その後藤の著書として、昭和十五年に斎藤昌三の書物展望社から『又鬼と山窩』が刊行されている。「はしがき」によれば、「山窩や又鬼のやうな特殊な生活者を調査研究の対象とすること」も「総体的民俗学を進展せしめるために当然研究しなければならない」という視座から編まれている。しかしタイトルに加え、サンカとマタギを口絵写真としているにもかかわらず、二十三編の収録論考の中で、「サンカ」に関するものは五編、「マタギ」は四編と合わせて九編でしかなく、いささか羊頭狗肉の感を否めない。

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 それは冒頭の「山窩記」が「猟奇的な大衆小説によつて、荒唐なサンカ概念(それは「山窩」なる字面にもふさわしいものであらう)を作り上げてゐる人は多からう」と始められていることからうかがわれるように、昭和十二年には三角寛の『山窩血笑記』(講談社)が発表され、所謂「サンカブーム」が起きていたのである。そうした中で、この『又鬼と山窩』は刊行され、それが「猟奇的な大衆小説」に抗する民俗学的「サンカ調査」として提出されていることになる。
f:id:OdaMitsuo:20191203140826j:plain:h120 (『山窩血笑記』)

 後藤は「サンカの概念」を次のように示す。

 サンカは西洋のジプシーを連想させる生活者で、わが中古の傀儡子と深い関係のある漂泊民だと屡々説かれる。彼等は定住して農を業とせず、山裾や川原に小屋を掛け、テントを張つて、箕・籠・簓・風車などの竹細工をなし、下駄表或ひは棕櫚箒などを作り、河川の魚を漁し、山の自然薯を掘り、猟をもし、その手細工品や獲物を近くの村や町に売り鬻いで生活してゐる。彼等と同系の生活者は、今日定住してゐる者の中にも多く見られる。全国的に散在してゐるともいへよう。

 その生活態度は本連載939でふれた大江匡房の『傀儡子記』がいうところの「不耕一畝田、不採一枝桑」にそのまま合致するし、次の「山窩談義」においては「中世の傀儡子の後裔」にして、「放浪のアナーキスト」と定義されるに至る。そして実際に後藤は故郷の播州のサンカに取材し、その生活と隠語などに言及している。

 これらは柳田国男の「『イタカ』及『サンカ』」(『柳田国男全集』4所収、ちくま文庫)、また資料として挙げられている本連載452の鷹野弥三郎『山窩の生活』などの影響下にあることは明白である。だがここでは後藤とジェネップと『民族』の関係を推察すれば、岡正雄『異人その他』(第三巻第六号)の投影を想像してみたい。柳田たちの論稿において、サンカは「放浪のアナーキスト」という色彩を帯びていないけれど、岡の「異人」はそれにふさわしいようにも思えるからだ。
 岡は書いている。
柳田国男全集4

 自分の属する社会以外のものを異人視して様々な呼称を与へ、畏敬と侮蔑との混合した心態を似つて、之を表象し、之に接触することは、吾国民間伝承に極めて豊富に見受けられる事実である。山人、山姥、山童、天狗、巨人、鬼、その他遊行祝言師に与へた称呼の民間伝承的表象は、今も尚我々の生活に実感的に結合し、社会生活や行事の構成に参加して居る。

 岡がこの「異人」に、柳田の「山人」や折口信夫の「まれびと」を幻視していることはいうまでもないけれど、ここに後藤の「サンカ」を想定することもできよう。

 それに比べて、東北のマタギのほうは熊を狩る勇敢なる猟師として、その出自、系譜、生活なども具体的に描かれ、「異人」というイメージは後退している。それなのにどうして、ここではタイトルでは「又鬼」として表象され、しかも『山窩と又鬼』であればともかく、「又鬼」のほうが先に示されているのだろうか。それは書物展望社の斎藤の何らかの思惑が絡んでいるのかもしれない。

 そのような事情もあってか、昭和六十四年に、後藤の『又鬼と山窩』が復刻され、三一書房の谷川健一編『日本民俗文化資料集成』1に所収の際に、『サンカとマタギ』というタイトルの変更へと投影されたようにも思える。
日本民俗文化資料集成 1
 なおこの一文はやはり同年復刻の批評社版によっていることを付記しておく。
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