出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1157 征矢野晃雄『聖アウグスチヌスの研究』、長崎次郎、長崎書店

 前回のヤコブ・ベーメ『黎明』の訳者の征矢野晃雄は『キリスト教大事典改新訂版』(教文館、昭和四十三年)に立項されていなかったけれど、その後版と考えられる『日本キリスト教歴史大事典』(同前、同六十三年)において、立項を見出すことができる。それは昭和五十一年の牧神社よる『黎明』の復刻、及び南原実の意を尽した別巻解説といえる『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』の刊行による影響だったのではないだろうか。それを引いてみる。

日本キリスト教歴史大事典 :黎明(アウロラ (牧神社版『黎明』) f:id:OdaMitsuo:20210520171538j:plain:h110 (『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』)

 そやのてるお 征矢野晃雄 1889・1・22-1929・4・26 学者、哲学者。1910(明治43)年富士見町教会で植村正久から受洗。第一高等学校、東京帝国大学を卒業、その間、富士見町協会有志青年の寄宿舎山上寮には在寮。卒業後は福岡高等学校の教授となる。26(大正15)年、東京に戻り、東京神学社、東京女子大で哲学を教授。東京神学社の同僚に高倉徳太郎がおり、戸山(信濃町)教会に転会し、高倉の協力者となった。哲学や神学の研究によって信仰生活を深め、やがて神学への関心が強くなり、カント、ベーメ、トマス・アクィナス、アウグスチヌス・A、など宗教的に深みのあるものへと研究を進めた。主著『聖アウグスチヌス研究(ママ)』、『信仰と道徳』。茅ヶ崎海岸の寓居で病没。

 ここに主著として挙げられた『聖アウグスチヌスの研究』は手元にある。二年ほど前に名古屋の古本屋で見つけ、購入したものだ。同書の内容に言及することは私の素養からしてはばかられるので、やはりその出版事情などに注視したい。裸本ではあるけれど、樺色の本体の背に小さな黒い題簽が貼られ、そこに金箔でタイトルと著者名がひっそりと記され、征矢野のプロフィルをしのばせるような敬虔な佇まいの造本となっている。

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 それもそのはずで、同書は遺稿出版として、『近代出版史探索Ⅲ』530の長崎書店から昭和四年に刊行され、「序文」は哲学面から桑木巖翼、神学ら石原謙が寄せている。征矢野の人生は、桑木によれば、「知は愈々鋭くして信は愈々固い」ものであり、石原から見て「我々の若くして逝ける友」の仕事は、前半期が哲学研究で、『シヨウペンハウエルの研究』、ヘフディング『現代哲学批判』の翻訳、後半はアウグスチヌス研究であったとされる。

 だが編輯、校訂などに関する「後記」は長崎書店の長崎次郎が記している。先の拙稿は『出版人物事典』における長崎の立項を紹介していないので、ここにあらためて引いてみよう。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [長崎次郎 ながさき・じろう]一八九五~一九五四 新教出版社創業者。高知県生れ。北大農学部卒。横浜県立女学校教頭、関東学院教授を経て、一九二六(大正一五)長崎書店を創業。四四年(昭和一九)戦時企業整備により、キリスト教関係出版社一〇社で株式合社新教出版社を創業して社長に就任。『聖書大辞典』『高倉徳太郎全集』など大冊を出版。またハンセン病者の文書、歌集などの出版に意を注いだ。三八(昭和一三)刊行の長島愛生園医師の活動記録、小川正子『小島の春』もその一つで映画化されベストセラーになった。

 征矢野や長崎の立項からわかるのは高倉徳太郎との深い関係であり、高倉は大正時代の神学者として日本神学校を創立し、そのかたわらで戸山(信濃町)教会をおこし、牧師ともなっている。先の拙稿で、長崎書店の処女出版が高倉の『恩寵と召命』だったことを既述しておいたが、『聖アウグスチヌスの研究』の巻末広告にも、それを含めて高倉の著書が五冊並び、高倉を通じて征矢野の遺稿集も刊行の運びとなったのではないかと推測される。奥付の著作権者として、征矢野静江の名前が記載されているのは、『聖アウグスチヌスの研究』がその夫人らしき遺族への印税を配慮して刊行されたことを意味していよう。

f:id:OdaMitsuo:20210528173134j:plain:h120(『恩寵と召命』)

 そのことと並んで興味深いは長崎書店の「大取次店」のことで、それは東京が基督教書類会社、教文館、伊藤書店、向山堂書店、田口書店、栗田書店、井田書店、京都が三菱書籍部、大阪が福音書店、神戸が福音舎書店となっている。これらは「大取次」といっても、当時の東京堂、北隆館、東海堂、大東館という「四大取次」ではないので、栗田書店は異なるけれど、書店を兼ねる専門取次に他ならない。早稲田鶴巻町の古本屋から始まった長崎書店はこれらの細いパイプというべきキリスト教書専門取次を流通販売の要として営まれていたことになろう。

 それに教文館は、戦後の出版だが、最初に挙げた『キリスト教大事典改新訂版』『日本キリスト教歴史大事典』の版元だし、大阪の福音書店や神戸の福音舎書店は『近代出版史探索Ⅱ』283の創元社、また八木書店や日本古書通信社のルーツであった。その事実が示すように、それぞれが単なる取次や書店ではなく、様々な物語を有していたことになり、長崎書店はそれらと併走していた。そのことによって、昭和十年代になって、『小島の春』というベストセラーが生み出されていったと考えることもできよう。もちろんその際には先の四大取次の口座も設けられていたであろう。

キリスト教大事典 改訂新版(『キリスト教大事典改新訂版』)小島の春―ある女医の手記 (1981年)


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古本夜話1156 南原実『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』と征矢野晃雄訳『黎明』

 確か最初にヤコブ・ベーメの名前を知ったのは、コリン・ウィルソンの『宗教と反抗人』(中村保男訳、紀伊國屋書店、昭和四十三年)で、その第一章がベーメに当てられていたからだ。だがその内容に関してはベーメが靴屋で、著者のウィルソンも靴屋の息子ということしか記憶に残らなかった。

宗教と反抗人 (1965年)

 その後あらためてベーメの戦前の翻訳を教えられたのは、由良君美の「ベーメとブレイク」(『椿説泰西浪曼派文学講義』所収、青土社、同四十七年)においてだった。そこで由良は大正十年に大村書店から征矢野晃雄訳でベーメの『黎明』が刊行され、それは『近代出版史探索Ⅲ』247の鈴木大拙訳のスエデンボルグ『天界と地獄』と並んで、戦前の神秘主義やオカルティズムの必須の翻訳文献だったと語っていた。しかし由良にしても、前者は二十年前に友人の書狼に盗み去られて以来、二度と入手していない一冊だったのである。

椿説泰西浪曼派文学談義 (1972年) (ユリイカ叢書) f:id:OdaMitsuo:20210520172549j:plain:h120(大村書店版『黎明』)

 そこで由良はベーメの肖像を示し、十七世紀のドイツの「大神秘思想家」のプロフィル、及びイギリスやロシアへの絶大な影響を指摘し、とりわけブレイク『天国と地獄の結婚』への深い浸透を伝えていた。だが『黎明』に関しては、私も『近代出版史探索Ⅲ』433で大村書店のことを書いているけれども、古本屋で見かけることはできず、それを読んだのは五年ほどたった昭和五十一年になってからだった。牧神社から『黎明(アウロラ)』復刻とともに別巻の南原実『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』が出されたことによっている。
:黎明(アウロラ (牧神社版『黎明』) f:id:OdaMitsuo:20210520171538j:plain:h110 (『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』)

 この復刻によって、『黎明』が大村書店の「哲学名著叢書」の一冊として、大正十年に菊判上製四四九ページ、定価四円で刊行されたことを確認したのである。そしてベーメがノヴァーリスを始めとするドイツロマン派の人々、ヘーゲルやシェリングなどの哲学者たちにも大きな影響を及ぼしたことも。『黎明』については私見をはさむより、南原の『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』に訳者や出版者名も挙げた簡にして要を得た紹介=「絵とき」があるので、それを引いてみる。

 『黎明』は、(1)神秘体験をうけた若いベーメの心の動きが、そのまま詩的な言葉となってあらわれ出た文学的手記として、(2)人間・宇宙・神の重なり合いという、ルネッサンス自然哲学・錬金術のテーマを、みずからの神秘体験にもとづいて追及した作品として、(3)その次代に悪魔の跳梁をみて、おののき、悪魔を弾劾する預言者ベーメの姿を、生々とうつし出す、政治・社会史的にも興味ある作品として、独自の魅力に溢れていることにはかわりない。新しいキリストの教えは、預言者ルターによって姿をあらわしたが、終末の時代の真の救いは、宇宙・自然をも取り込んだ次元で、はじめて成就されるのであって、その救いは、神学者ルターではなく、神秘体験のうちに宇宙万物の行く末を見た「神のマギアの子供」ベーメを得て、はじめてあらわになるのであった。こうしたベーメの姿勢を伝える『黎明』の価値を征矢野晃雄氏は、いまからすでに五十年以上もまえに見抜き、『黎明』の日本語訳という困難な仕事をなしとげ、当時の大村書店店主・大村郡次郎氏と交渉し、『黎明』と題し、その哲学名著叢書の一冊として出版した。

 また『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』の第Ⅱ部の「パノラマ」は南原による『黎明』の「解釈」で、それは「まだ全くその姿をあらわさない未知の領域の問題をうちに含む複雑で型破りのベーメの世界」へのひとつの手がかりとなっている。

 四方田犬彦は『先生とわたし』(新潮社)において、由良が牧神社に「参謀格のような形で迎え入れられ」、「牧神社が健在である期間は幸福そうに見えた」と述べている。私も拙稿「牧神社と菅原孝雄『本の透視図』」(『古本屋散策』所収)などで牧神社の菅原孝雄と由良の関係にふれているが、由良と菅原は昭和五十六年の平井呈一の葬儀をきっかけとし、由良は牧神社の「参謀格」となり、『ノヴァーリス全集』の編纂、『黎明』や『奢灞都』の復刻企画を提案したのであろう。

先生とわたし (新潮文庫) 本の透視図: その過去と未来 (『本の透視図』)

 私は「四方田犬彦『先生とわたし』と由良君美」(同前)で、ベーメの『黎明』の復刻は本郷の宗教学科へと向かった四方田への贈り物だったのではないかと書いた。それに南原こそは宗教学科において、ミスティックなゼミを開いていた人物だったからだ。すると『古本屋散策』刊行後、四方田から私信が届き、由良と南原は駒場と本郷に分かれていたが、お互いに敬愛し合っていた関係であったと記されていた。

 その事実から考えれば、『黎明』の復刻にあたって、由良が南原に別巻解説としての『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』を慫慂し、牧神社からの二冊セットでの刊行となったと思われる。しかしその由良も南原もすでに鬼籍に入り、荒俣宏『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』(KADOKAWA)によれば、近年菅原も亡くなったと伝えられている。だが『黎明』は残され、またあらたなる読解に向かって開かれているように思える。

妖怪少年の日々 アラマタ自伝


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古本夜話1155 筑摩書房とベルトラム『ニーチェ』

 本探索1149の茅野蕭々『独逸浪漫主義』と同じく、高橋巖が『ヨーロッパの闇と光』で言及しているベルトラムの『ニーチェ』は筑摩書房から浅井真男訳で、昭和十六年十一月に刊行されている。私の手許にあるのは十七年二月の再版で、太平洋戦争が迫りつつある中で初版が出され、その開戦後の大東亜戦争下において、版を重ねたことになる。

 獨逸浪漫主義(『独逸浪漫主義』)ヨーロッパの闇と光 (1977年)  f:id:OdaMitsuo:20210517223304j:plain:h117 

 この機械函入菊判、六八六ページの翻訳哲学書の初版部数は不明だが、五円五十銭の高定価にもかかわらず、たちまち売り切れ、再版に続いて、さらなる重版も推測される。その函はともかく、本体の造本と装幀は戦時下を反映させていないシックな佇まいである。一元取次としての国策会社日配も誕生したばかりで、流通と販売もまだ安定していなかったと考えられるし、それは筑摩書房も同様であった。それを示すために、『出版人物事典』から創業者の古田晁の立項を引いてみよう。

 [古田晁ふるた・あきら]一九〇六~一九七三(明治三九~昭和四八)筑摩書房創業者。長野県生れ。東大倫理科卒。渡米して父の経営する日光照会に勤務するが、一九四〇年(昭和一五)筑摩書房を創業。社名は松本中学の同級生で、創業に協力、のち取締役になった臼井吉見が郷里の筑摩にちなんで命名。『中野重治随筆抄』、中村光夫『フローベルとモーパッサン』、宇野浩二『文芸三昧』でスタートした。四四年(昭和一九)戦時企業整備で数社と統合、戦災にあうが復興、四六年(昭和二一)総合雑誌『展望』を創刊、五三年(昭和二八)には『現代日本文学全集』全五四巻の刊行を開始。多くの文学全集や多岐にわたる全集やシリーズなどを刊行、熱心な筑摩ファンを獲得した。巨漢で酒豪として知られた。『回想の古田晁』、野原一夫『含蓄の人/回想の古田晁』が出版された。

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 それらの創業本三冊に加えて、『ニーチェ』の巻末広告には青山二郎装函入のヴァレリイ『ドガに就て』(吉田健一訳)、小林秀雄、大岡昇平、中原中也序『富永太郎詩集』など十三冊が並び、前者は好評十二版とあり、こちらも戦時下の出版とは思われないほどだ。

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 そうした筑摩書房の創業時を詳細に伝えているのは、古田からの依頼で書き下ろされた和田芳恵『筑摩書房の三十年』(昭和四十五年)である。同書によって当時の筑摩書房の住所が京橋区銀座に置かれていた事情が判明する。また田野勲の評伝『青山二郎』(ミネルヴァ書房)に古田は出てこないけれど、れっきとした「青山学院」の生徒で、筑摩書房のマークが青山のデザインであること、それゆえに創業時の装幀の多くが青山の手になることや、『富永太郎詩集』の由来などもわかる。青山装幀の『ドガに就て』に関しては初版二千部だったが、一万部近く売れ、これが昭和十七年の『ヴァレリイ全集』へと結実し、戦時下状況よって全十七巻のうち五冊が出たけで中絶してしまったが、やはり各一万部が売れたという。

 筑摩書房の三十年 1940-1970 (筑摩選書) 青山二郎:物は一眼 人は一口 (ミネルヴァ日本評伝選 210)  ヴァレリイ全集 第6巻  マラルメ論叢 筑摩書房 昭18

 ところで『ニーチェ』のほうだが、この企画は編集顧問の唐木順三から出され、装幀は春陽堂営業部出身で製作を受け持っていた和田英雄が手がけたようで、社内装幀本はすべて彼が担当していた。著者のベルトラムは一八八四年生まれのドイツの詩人、文学史家として、詩人のゲオルグの影響下にヨーロッパにおけるドイツ精神の意義を探求し、トーマス・マンとも親交があったが、戦後ナチス協力を疑われ、晩年は孤独うちに死んだとされる。

 ベルトラムの『ニーチェ』の原書は一九一八年=大正七年の出版で、ニーチェ研究、及び現代の精神史的著作の名著に位置づけられ、筑摩書房版の数年前に前半だけの翻訳が刊行されたようだが、絶版となり、ここにようやく全訳が上梓となった。現在の地点で読んでみても、ドイツロマン派を基層としての「在りしものは悉くただ比喩にすぎない」と始まる『ニーチェ』が、当時の読者に共鳴を与えたことは想像に難くない。戦後も「筑摩叢書」としてロングセラーだったことは、ベルトラムの著書とその翻訳の位相を伝えていよう。
 
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 とりわけ高橋巖のように、戦後を迎え、人間存在としての自己の意義を確かめることができる共同体の不在に直面した読者にとって、あらためてインパクトを伴い、迫ってきたし、彼はそれを次のように記している。

 戦後、私に全然別の見方を教えてくれたのは、エルンスト・ベルトラムの『ニーチェ』の最後の章、「エレウシス」だった。特に「秘儀」の本質が論じられ、孤立した人間にとっては、たとえそれが精神的にもっともすぐれた者であっても、いかなる秘儀も存在しない。したがってその人間はギリシア的意味におけるもっとも深刻な「神に見捨てられた状態」にある、というその前半の論述を浅井真男氏訳のすぐれた訳で読んだとき、それは啓示のように私の心を明るく照らしてくれた。

 そしてそこから共同体という「故郷を失ったものがそこに属することによって自己の個性が支えられ、確かめられるような場所」が求められ始め、高橋の場合、『近代出版史探索Ⅳ』666のルドルフ・シュタイナーの世界へ向かうことになるのである。


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古本夜話1154 村上静人、赤城正蔵、「アカギ叢書」

 前回『ハウプトマン名作選集』が村上静人訳編によることを既述しておいたけれど、村上は『日本近代文学大事典』に立項されておらず、「アカギ叢書」の訳者の一人としての記載を散見するだけである。

f:id:OdaMitsuo:20210514105617j:plain:h115 (『ハウプトマン名作選集』)

 それに加えて、「アカギ叢書」は書影を見ているだけで、入手に至っていない。また「アカギ叢書」は文庫でも稀覯本に属するのか、岡崎武志、茂原幸弘編『ニッポン文庫大全』(ダイヤモンド社)でも、全目録の収録はなされていない。それらの事実からしても、入手していないのに書くのは本探索としてイレギュラーだけれど、『ハウプトマン名作選集』は「アカギ叢書」を継承していると思われるので、あえて言及してみる。

ニッポン文庫大全

 だがそれでも出版社の赤城正蔵に関しては『出版人物事典』『日本近代文学大事典』にも立項を見出せるので、ここでは前者を引いてみる。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

赤城正蔵 あかぎ・しょうぞう] 一八九〇~一九一五(明治二三~大正四)『アカギ叢書』創始者。東京生れ。府中(ママ)一中卒。同文館に入社したが、のち独立。一九一四年(大正三)三月、発行者「東京市麹町区三番町五〇赤城正蔵」として『アカギ叢書』の刊行を始めた。「日本のレクラム、紳士の標準知識、世界学術の叢淵」を掲げ、菊半截判、定価一〇銭で発売、「一〇銭文庫」とも呼ばれた。第一編、イプセン・村上静人訳『人形の家』にはじまり、ドストエフスキー、ダーウィン、モーパッサン、シェークスピアなど世界の名作を収め、約一ヵ年で一〇〇冊余を出版した。文庫本出版に大きな示唆を与え、『岩波文庫』の先駆けともいわれ、わが国出版史に記録される存在である。二六歳で夭折した。

f:id:OdaMitsuo:20210516093655j:plain:h118(「アカギ叢書」、『人形の家』)

 わずか一年間の出版であったためなのか、イプセンの『人形の家』に始まる村上の翻訳をたどろうとしても、国会図書館編『明治・大正・昭和翻訳文学目録』に「アカギ叢書」と村上は見当たらない。それでも念のために、紅野敏郎『大正期の文芸叢書』を繰ってみると、百冊を超える文庫にもかかわらず、「アカギ叢書」が「発刊の辞」とともに、その百八巻に及ぶ明細も含めて掲載されていたのである。ただ紅野にしても、その全収集は容易でないと述べているし、渡辺宏『アカギ叢書』(「古書豆本」39、日本古書通信社、昭和五十四年)によるところが大きいようだ。

大正期の文芸叢書 f:id:OdaMitsuo:20210516165002j:plain:h110

 そこで「アカギ叢書」の村上静人訳編をリストアップしてみる。番号はそれに付されていたものである。

1 イプセン 『人形の家(一名ノラ)』
8 ワイルド 『サロメ』
14 トルストイ 『復活』
17 モーパッサン 『女の一生』
18 メエテルリンク 『モンナ・ワ¨ンナ』
23 ストリンドベルヒ 『父』
24 シエイクスピア 『ハムレット』
27 ダンテ 『神曲』
32 イプセン 『海の夫人』
37 トルストイ 『暗の力』
38 イプセン 『鴨』
54 ホフマンスタール 『エレクトラ』
57 ゾラ 『女優生活』
60 ハウプトマン 『沈鐘』
76 シルレル 『ウィルヘルム・テル』
81 ピネロ 『第二のタンカレイ夫人』
97 ホオマア 『イリアッド』

このように村上訳編は十七冊を数え、「アカギ叢書」の訳編者たちの中でも群を抜いて多く、発刊者の赤城と並んで、「アカギ叢書」の中心人物だったと見ていいだろう。これらのリストと『ハウプトマン名作選集』所収の『日の出前』『平和祭』『寂しき人々』『ハンネレの昇天』『沈鐘』を照らし合わせると、このうちの『沈鐘』は「アカギ叢書」の60の再録だと考えられる。また53の『日の出前』は山本有三編とあるが、これも村上編として転載されたのではないだろうか。

 それならば、『平和祭』『寂しき人々』『ハンネレの昇天』はどこからの再録、転載なのかという問いが生じてしまう。これは推測するに、赤城の急逝によって、「アカギ叢書」は中絶してしまったけれど、一年間にこれだけ多くが刊行されたことを考えれば、それ以上の訳編が仕上がっていたり、進行中だったと見なせよう。それゆえにこれらの村上訳編のハウプトマンの三作はすでに書き上げられていて、同じような体裁のシリーズとして続刊されていた。しかしそれも長くは続かず、「アカギ叢書」も併せて、『世界文豪名作選集』のようなかたちで、譲受出版として刊行されていったのではないだろうか。

 「アカギ叢書」の「発刊の辞」にあるように、「外国語、古代語は、全部通俗にして度に適せる現代語に翻訳す。如何に膨大なる内容をも、妙味を失はざる限り、必ず袖珍百頁にコンデンス」し、「各冊を全部金十銭にて提供す」るとのコンセプトは、特価本業界の作り本のアイテムと共通するものがある。

 紅野は堂々とした「発刊の辞」だが、「大学を卒業したての著者に(ママ)、アルバイトがわりの意識で、一挙にあげた」「若干やっつけ仕事の観なきにしもあらず」と述べているが、それこそは特価本業界の造り本の特色だし、「アカギ叢書」を範として、多種多様な造り本が刊行されるようになったと思われてならない。

 村上のプロフィルは静岡県の医師の家に生まれ、木下杢太郎と知り合い、明治大学文学部へと進んだようだが、それらの詳細は判明していない。それでも『ハウプトマン名作選集』の奥付訳者住所は浅草区西三筋街とあり、「アカギ叢書」以後の村上が浅草の住民となったことを伝えている。その浅草は本探索1143の金星堂の門野虎三が「浅草畑」とよんでいたように、特価本業界の聖地であり、蔵前には坂東の上田屋を始めとする多くの造り本や赤本出版社があった。村上は「アカギ叢書」に表象される企画とリライト、語学力、編集と抄訳の才を買われ、特価本業界にスカウトされ、『世界文豪名作選集』などの編輯と出版に携わっていたのではないだろうか。だが売れない詩人、作家、翻訳者にとって、特価本業界はアジールだったが、一方で所謂ゲットーでもあり、それゆえにその後の村上の行方が明らかになっていないようにも思われる。

 なおその後、14のトルストイ『復活』を入手するに至っている。実物を手にし、あまりに小さくて薄く、古本屋で「アカギ叢書」に出会わなかったことを了承した次第だ。

f:id:OdaMitsuo:20210516105158j:plain:h118 (『復活』)


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古本夜話1153 『ハウプトマン名作選集』と『寂しき人々』

 前々回の「独逸文学叢書」に収録予定だったハウプトマン『ソアーナの異教徒』(奥津彦重訳)は、昭和三年に岩波文庫として刊行された。この特異な小説に言及するつもりでいたが、その岩波文庫が紛れてしまい、出てこないので、代わりに『ハウプトマン名作選集』を取り上げることにしたい。

ソアーナの異教徒―附・線路番ティール (1956年) (岩波文庫) (『ソアーナの異教徒』) f:id:OdaMitsuo:20210514105617j:plain:h120 (『ハウプトマン名作選集』)

 前回のストリンドベルクもそうだったけれど、大正時代からハウプトマンも作家、戯曲家として多くの作品が紹介され、ドイツ文学のひとつのトレンドを表象していたと思われる。ただ私の場合、ハウプトマンを意識したのは、明治四十年に『近代出版史探索』179の春陽堂の『新小説』に発表された田山花袋の『蒲団』においてだった。主人公の竹中時雄は若くて美しい女弟子の芳子のハイカラな容姿と「かおり」に魅せられ、懸想し、次のように考える。

 ふとどういう連想か、ハウプトマンの「寂しき人々」を思い出した。こうならぬ前に、この戯曲をかの女の日課として教えてやろうかと思ったことがあった。ヨハンネス・フォケラートの心事と悲哀とを教えてやりたかった。この戯曲を彼が読んだのは今から三年以前、まだかの女のこの世にあることをも夢にも知らなかったころであったが、そのころからかれは淋しい人であった。あえてヨハンネスにその身を比そうとはしなかったが、アンナのような女がもしあったなら、そういう悲劇に陥るのは当然だとしみじみ同情した。今やそのヨハンネスにさえなれぬ身だと思って長嘆した。

 『ソアーナの異教徒』はそうではないけれど、この『寂しき人々』などの五作が村上静人訳編として『ハウプトマン名作選集』に収録されているので、そのシノプシスを紹介しよう。ただこれは訳編とあるように、五幕からなる戯曲を小説へとアレンジしたものであることを先に断わっておく。なお戯曲としては『近代出版史探索Ⅲ』549の『近代劇大系』5に楠山正雄訳、『近代出版史探索Ⅴ』827の新潮社『世界文学全集』31に成瀬無極訳が収録されている。
 
f:id:OdaMitsuo:20210514115258j:plain:h120(新潮社版)

 『寂しき人々』の主人公のヨハンネスは大学時代に『近代出版史探索』153のヘッケルに師事した研究者で、卒業後も一大論文に没頭していたが、おとなしいだけがとりえの無教養な妻のケエテや信心深い両親の無理解に絶えず神経を苛立たせていた。そのような中で子供が生まれてもいた。そこに偶然訪れてきたのは知的な女学生アンナで、激しく愛し合うようになる。それでもアンナは彼の家庭の安息のために身を引き、去っていくのだが、ヨハンネスは妻と生まれて間もない子供を残し、自殺してしまうのである。

 このようなストーリーゆえに、『蒲団』で時雄が、「さすがに『寂しき人々』をかの女に教えなかった」と述べていることを了承する。つまり花袋の妻との実生活があり、そこに『寂しき人々』のヨハンネスとケエテの物語が重なり、さらにアンナならぬ芳子が出現することによって、『蒲団』という自己の体験を告白する自然主義としての所謂「私小説」が成立したことになろう。この「私小説」の虚構性や自然主義と「告白」には『近代出版史探索Ⅱ』で言及しているし、『蒲団』に対する当時の文壇の騒然たる反響には立ち入らないが、『東京の三十年』(博文館、大正六年)において、『蒲団』の「告白」という方法は世間と自己に対する戦いだったと回想している。また同じく自分がヨハンネスで、岡田美知代=加代をアンナに擬していることにもふれている。

 それらのことはともかく、『蒲団』に述べられているように、まだ『寂しき人々』は邦訳は出されておらず、主人公の時雄が英訳で読んでいるという設定だから、特定できないけれど、花袋もまた英訳によっていたはずだ。ところでずっと挙げてきた村上静人訳編『ハウプトマン名作選集』にしても、英訳に基づいていると思われるので、それにも言及しておくべきだろう。手元にあるのは裸本だが、菊半截判五二四ページの一冊で、発行所を世界文豪名作選集刊行会、発売元を上田屋として、大正十一年に出されている。奥付表記によれば、『同選集』第四巻、第参版だが、『全集叢書総覧新訂版』にも見えていないことから、この第四巻以降、何冊出されたのかは不明である。

 そこで注視すべきは奥付の二人の発行者で、彼らは並記され、一人は浅草区西三筋街の松木玉之助、もう一人は東京市外尾久の坂東恭吾となっている。松木は『近代出版史探索Ⅱ』286で既述しているが、博文館出身で特価本業界に入り、マツキ書店を創業し、これが戦後の金園社の前身である。また松木は同209の金鈴社として、矢野文夫訳『悪の華』を出版しているし、その住所は同選集刊行会と同じだ。坂東はやはり同261や283などで取り上げているように、特価本業界の寅さんというべき立役者で、発売元の浅草蔵前の上田屋は、彼を通じて博文館の月遅れ雑誌を手がけていた。

f:id:OdaMitsuo:20210515160243j:plain:h120(金鈴社版)

 この上田屋という屋号は若干の補足を加えておくべきだろう。これは拙稿「明治二十年代の出版流通」(『古本屋散策』所収)でふれておいたが、明治半ばには地本問屋系の取次書店の上田屋があり、また近代取次としての上田屋も立ち上がっていた。後者の上田屋が島崎藤村の自費出版『破戒』の版元となり、そこに勤めていたのが小酒井五一郎で、後に研究社を興すことは本探索1011で既述しておいたとおりだ。

 ややこしいことに同じ屋号であっても、『ハウプトマン名作選集』の発売元の上田屋は、先のふたつの上田屋と異なり、浅草蔵前新旅籠町を住所としている。この三番目の上田屋は坂東が入った頃、博文館の紙屑屋だった。明治末期に坂東が博文館の了承を得て、月遅れのつぶし雑誌を縁日で売ったところ、たちまち売り切れてしまい、坂東と上田屋は月遅れ雑誌の元締めとなっていったのである。

 その松木や坂東が発行者となった『世界文豪名作選集』が譲受出版であることは、そうした事情から明白だが、そのためにはもう一編書かなければならない。


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