出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1332 陸軍画報社と中山正男『一軍国主義者の直言』

 『神近市子自伝』において、日蔭茶屋事件で出獄後の大正九年に、彼女が四歳年少の鈴木厚と結婚したことが語られている。彼は早稲田大学を中退した評論家で、文学、歴史、社会主義に通じていて、辻潤が連れてきたのだった。

 

 ところがその後、三人の子どもをなしたものの、支那事変が起きた昭和十二年頃から鈴木は『陸軍画報』の編集を手伝うようになった。そして飲酒と暴力が日常的になり、金使いも乱脈で、愛人も囲い始め、離婚へと至ったのである。残念ながら、鈴木は『近代日本社会運動史人物大事典』の「索引」に神近やエロシェンコとの関係から見出されるけれど、その他には言及されていないので、彼の編集者としての仕事がどのような軌跡をたどったかは不明である。

近代日本社会運動史人物大事典

 だがここで断片的でしかないが、『陸軍画報』のことが出てきたし、このような機会を得たので、陸軍画報社にもふれておきたい。たまたま陸軍画報社の金子空軒『近代武人百話』を拾ったばかりだし、表紙には「徴兵制度七十周年記念出版」「陸軍省報道部推薦」と銘打たれ、奥付には昭和十八年二月初版三千部、十九年六月再版一万部とある。口絵写真には「近代武人」たちの八ページがすえられ、「序」を寄せているのは陸軍情報局大佐松村秀逸、中佐秋山邦雄で、版元と出版コンセプトからして兵書に分類してかまわないだろう。

     

 著者の金子もその筋ではよく知られた人物らしく、明治末期より大正年間にわたり、軍人雑誌『文武』を主宰し、後に陸軍省嘱託として『つはもの』新聞を創刊し、編輯に携わってきたようだ。『近代武人百話』の巻末広告は姉妹篇として『陸軍史談』の広告も見られる。ただ敗戦によって、兵書出版は戦犯に問われるのではないかという危惧から、ほとんどが版元によって焚書化されたとも伝えられているので、兵書出版の全貌を再現することは難しいだろう。

 だが昭和九年から敗戦まで陸軍画報社社長を務めた中山正男は戦後に『一軍国主義者の直言』(鱒書房、昭和三十一年)などを残しているので、陸軍画報社のアウトラインはつかむことができる。『近代武人百話』の発行者は八木澤清とあるが、それは編集長だと思われる。また中山は『出版人物事典』には立項されていないのだが、『日本近代文学大事典』には見つかるので、それを引いてみる。

 中山正男 なかやままさお 明治四四・一・二六~昭和四四・一〇・二二(1911~1969)小説家、実業家。北海道佐呂間町生れ。専修大学法科中退。下中弥三郎に見いだされ雑誌「維新」「陸軍画報」の編集に当たる。日中戦争に陸軍嘱託として従軍。『脇崎部隊』(昭一四・一 陸軍画報社)以下の従軍記を発表。自伝小説『北風』(昭一七・三 平凡社)を書く。戦後追放。解除後は木材、石油、出版などの会社を興す一方『馬喰一代』正、続(昭二七・七 日本出版協同株式会社)『馬喰一代風雲篇』(昭和二八・六 東光書房)を書き、映画化もされた。日本ユースホステル協会会長、新理研映画社長。
 

 これを中山の『一軍国主義者の直言』によって補足してみる。中山は満州事変から支那事変に至る軍国主義の隆盛の中で大学生活を送り、必然的に国家主義者になっていく。そして平凡社の下中弥三郎が経営していた維新社に入った。維新社は時流に乗った日本主義標榜の雑誌『維新』を刊行し、自由主義や共産主義と戦う右翼の人々が論陣を張っていて、「多分に軍国主義昂揚の前座的」役割を果たしていたという。この『維新』は未見であり、『平凡社六十年史』にも、その発行の記載はあるけれど、言及はされていない。中山の証言は続いている。

 私ははじめこの維新社の営業部員になって、広告とりや雑誌の特殊販売を受持った。ところが下中社長はいまひとつ、維新社の経営で『陸軍画報』というのを発行していた。この雑誌を維新社の名において、在満州兵の慰問品に売りさばくのが私の仕事である。私は入社早々この販売に相当の成績をあげて下中社長に認められた。まもなく維新社は経営困難の理由で『陸軍画報』の発行を分離した。
 『陸軍画報』はやがて陸軍省新聞班の応援のもとに、原口健三が主宰して発行をはじめた。ところがこれも半年ぐらいで経営困難になった。そのときピンチヒッターとして登場したのが二十四歳の私である。以後終戦まで十年、『陸軍画報』の経営者として、国防思想と軍事知識の普及に全力をつくすとともに、多くの軍人とも知り合った。

 これらの中山の立項と証言によって、軍事画報社の軌跡、及び『一軍国主義者の直言』における昭和十二年からの支那従軍記、北支軍宣撫班創立者にして、「どこまで続くぬかるみぞ」の作者八木沼丈夫への言及で、その軍歌のよってきたるところが明らかになる。

 それに私は十代の頃に、三船敏郎、京マチ子主演、木村恵吾監督『馬喰一代』(大映東京、昭和二十八年)を観ているが、原作者のことはまったく知らなかったし、後に『馬喰一代』(東都書房)を読んで、その事実を知ったのである。

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 なお『下中弥三郎事典』には『陸軍画報』が立項され、中山の証言を補足する内容であろうことを付記しておく。


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古本夜話1331 雑誌委託制の始まりと婦人誌の全盛

 明治三十年代後半から大正にかけて、多くの女性誌が創刊され、大正時代には神近市子や望月百合子たちが新聞の婦人記者となり、昭和に入ると婦人誌が全盛となっていく。だが二十世紀の昭和時代が婦人誌の全盛だったことを記憶している読者や出版人はもはや少数派に属するのではないだろうか。昭和五十年代まで、『主婦の友』『婦人倶楽部』『主婦と生活』『婦人生活』の新年号発売は出版業界の一大イベントのようで、それぞれに家計簿と付録を競い、料理などの実用記事と相俟って「主婦」や「婦人」が良妻賢母を表象するタームとして機能していたことになろう。

 しかしそのような婦人誌も昭和末期から平成にかけて、『婦人倶楽部』を始めとして休刊に追いやられ、主婦の友社に至っては図書館やカザルスホールを備えていていた御茶の水本社もなくなってしまい、往年の婦人誌の栄光も忘れ去られようとしている。だが戦中から戦後にかけて、『主婦の友』を創刊した石川武美は出版業界の重鎮として、しかも取次においても重要な役割を担っていたのである。『出版人物事典』の立項を引いておこう。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [石川武美 いしかわ・たけよし]一八八七~一九六一(明治二〇~昭和三六)主婦の友社創業者。大分県生まれ。中学二年で上京。同文館書店に入店。営業部を経て、『婦女界』『婦人之友』の編集に参加。海老名弾正に師事、キリスト教の洗礼を受ける。一九一六年(大正五)東京家政研究会を興し、翌年二月『主婦之友』を創刊、二一年(大正一〇)社名も主婦之友社と改称。『主婦之友』は実生活にすぐ役立つ雑誌として、婦人雑誌に新しい分野を開拓した。四一年(昭和一六)財団法人文化事業報国会を設立、四七年お茶の水図書館を開館、戦時中日本出版会会長、日本出版配給株式会社社長をつとめた。五〇年(昭和二五)東京出版販売株式会社(現・トーハン)社長。第一回印刷文化賞を受賞、五八年(昭和三三)、婦人家庭雑誌の創造と確立、大型化の先鞭をつけた功績で第六回菊池寛賞受賞。著作は『石川武美選集』(御茶の水図書館)に収められている。

 石川が戦時中の国策取次の日配、戦後の東販の社長に就任していることだけをとっても、彼の出版業界における特異なポジションと『主婦之友』の編集のみならず、流通販売の神話が了承されるであろう。残念ながら『主婦之友』は含まれていないけれど、明治から大正にかけて創刊されたそれらの婦人誌の複刻が手元にあるので、創刊編集者などを加えて挙げてみる。


1 『婦人画報』   明治三十八年  近事画報社   国木田哲夫(独歩)
2 『婦人世界』   明治三十九年  実業之世界   増田義一
3 『婦女界』   明治四十三年  同文館   森谷定逸
4 『婦人公論』   大正五年    中央公論社   麻田駒之助
5 『婦人くらぶ』  大正九年    大日本雄弁会  太田稠夫

 1の『婦人画報』だけは四六倍判でアールヌーヴォー調の表紙と照応するように、その半分近くは女性、絵画なども含んだ一ページの口絵写真による「画報」で占められ、タイトルにふさわしいイメージに包まれている。近事画報社に関しては拙稿「出版者としての国木田独歩」(『古本探究』所収)を参照してほしいし、『婦人画報』は東京社に引き継がれ、『近代出版史探索』30の柳沼沢介の武俠社から婦人画報社へと継承されていく。

 2の『婦人世界』の創刊は本探索でも繰り返しふれてきているが、近代出版史における事件だったのである。それはその創刊号や『実業之日本社七十年史』でも言及されていないが、博文館の雑誌に代表される買切制に対して委託制を導入したことである。大正六年創刊の『主婦之友』がそれにならったのはいうまでもないだろう。つまり『婦人世界』と『主婦之友』はともに手をたずさえて雑誌の委託制を推進したことになり、その事実が石川をして、取次の社長も兼ねるという出版業界の特異なポジションへと押し上げたのではないだろうか。

 3の『婦女界』は大正元年に都河龍の婦女界社へと譲渡され、昭和戦前の婦人誌の一方の覇を唱える存在となった。5の『婦人くらぶ』はいうまでもなく、戦後の講談社の『婦人倶楽部』として、これも婦人誌の範のような存在であった。

それらに対して、4の『婦人公論』は神近市子や伊藤野枝も同人だった『青踏』に影響を受け、『中央公論』の婦人問題特集の好評を背景とし、嶋中雄作が主として創刊企画に携わったこともあり、自由主義と女権拡張をめざしていたことが明白に伝わってくる。なおこれは近代文学館の「複刻 日本の雑誌」ではなく、「中央公論社創業100年記念」複刻版によっている。

  (「中央公論社創業100年記念」複刻版)

 これらの創刊号復刻をあらためて手にして比較してみると、束がある厚さにもかかわらず、『婦人くらぶ』を除いて、背に雑誌タイトルが付されていない。それはこれらの婦人誌が創刊時から書店において複数配本による平積み販売、もしくは面陳販売を前提として流通していた事実を物語っているし、そこにも委託制販売への移行が表われていると推測される。

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古本夜話1330 阿部真之助『現代世相読本』

 『神近市子自伝』に戻ると、そこには思いがけない人物が出てくる。それは神近の東京日日新聞社の婦人記者としての社会的ポジションと英語ができる女性という評判が作用していたのであろう。ところがそうしたキャリアも、大正五年に大杉栄との恋愛問題で反故にされてしまった。そこで頼ったのは玄文社の結城禮一郎で、神近は彼の私設秘書のようなかたちで庇護され、それは十数年に及んだとされる。結城に関しては「結城禮一郎の『旧幕新選組の結城無二三』(『古本探究』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。

 古本探究

 もう一人は阿部真之助である。彼は東京日日新聞の部長で、神近は結城と同様に、長きにわたって世話になったと述べている。私などの戦後世代にとって阿部はNHK会長のイメージが強いが、意外なことに『日本近代文学大事典』にも立項され、戦前はよく知られたジャーナリストだったとわかる。それによれば、明治十七年埼玉県熊谷生まれ、東京帝大社会学科卒で、東京日日新聞社を経て、大正三年に大阪毎日新聞に転じ、社会部長時代に吉川英治を起用し、『鳴門秘話』を連載させた。昭和四年東日部長、八年学芸部長として、社友顧問に菊池寛、久米正雄、横光利一などを迎え、長谷川時雨、野上弥生子たちの女流作家の東紅会を結成するといった東日学芸部全盛時代を築いたとされる。

 これによって、ずっと前に阿部の『現代世相読本』(東京日日新聞社、大阪毎日新聞社、昭和十二年)を均一台から気まぐれに拾っていたのだが、発行所が二社となっている理由を理解した。東京の最初の日刊紙『東京日日新聞』は明治四十四年に『大阪毎日新聞』の傘下に入り、昭和十六年に『毎日新聞』に統一されることになるので、実質的に同じ新聞社だったのである。

 その『現代世相読本』は「政治論」「時事論評」「人物論」「婦人論」にわたる百二十編余の阿部の「毒舌」の集積で、おそらく昭和十年から十二年にかけて両社や様々な雑誌に掲載した「世相読本」だと思われる。

『神近市子自伝』で挙げられている「人物論・神近市子」は収録されていないけれど、「婦人論」の昭和五十一年五日付の「新聞記者の観た話題の婦人」で、村岡花子、神近市子、長谷川春子、平塚雷鳥、山川菊栄、吉岡弥生、吉屋信子、与謝野晶子、河崎なつの九人の女性を取り上げている。そしてその中でも神近市子が最も長く、親近感がこもっているし、彼女の阿部への言及も同様なので、やはり紹介しておくべきだろう。阿部は自ら「旧弊人」で、「淑女」と交際する機会はまったくなかった。それは男性に対して、「良家」は「絶対に門戸を閉鎖して居た」からで、接触するのは「余り名誉ならぬ職業の婦人方」に決まっていたとして続けている。

 自然私は、女の友達といふものを持つて居ない。たつた一人、神近市子君だけは、その除外例である。神近さんでは友人らしくない『君』と云はして貰ほう。神近君を知つたのは、私にとつては全く女性に対する新発見であり、驚異でもあつた。(中略)
 私が東京日日社へ入社して、三四年して、神近君が同じ社にやつて来た。左様二十年ももつと以前のことだつたから、私が若かつた如く、神近君も若かつた。そこでこの、若き美人と、美青年(?)との間に、恋愛関係でも持ち上りでもしたのだつたならば、それこそ天下の一大事で、一篇の映画物語位にはなつたであらうが、あの頃どうしてあんなに、淡々たる付き合いが出来たものか、今から考へても不思議でたまらない。多分、恋愛を求める対象が、正反対の方向を指して居たせいかも知れない。(中略)
 ある晩、晩飯に呼ばれて、神近君の下宿を訪ねたことがある。そこで、現在の山川均氏夫人、当時の青山菊栄さんも来合わせてゐた。牛肉を突きながら、どんな話をしたが忘れてしまつたが、何でも、何かの議論をおつ始じめて、二人の御婦人に、さんざん凹まされたやうに覚えてゐる。それは口が達者といふ計りでなかつた。頭脳の冷徹さに於て、世の中への知見の該博さに於て、なまけ坊主で酒くらひの、私なんぞは、太刀討ちのしようが無かつたのであつた。(中略)それにしても、あの人達は、私の持つ、女性の概念とは、全く別のカテゴリーに所属するのであつた。これが私の女性観を一変させた。一変しないまでも、女を見る目を、非常に遠慮深くさせたことに間違ひない。

 『青踏』に象徴される「新しい女」の出現に阿部という「毒舌」ジャーナリストがどのように対処したかが率直に語られているので、あえて長い引用を試みた。あまりにも散文的にして通俗的であるにしても、彼の「女性観」を一変させた「驚異」の事件であったことがよくわかる。しかし本探索1320の『女人芸術』創刊号の山川、神近、望月の「評論」三本立てが示しているように、「フェミニズム」の道はまだ遠かったのである。
 
  

 それに加えて、彼女たちのアイコンも問われなければならない。女性のアイコンが中條百合子たちだったように、男性アイコンは青山にとってはコミュニストの山川均、神近にとってはアナキストの大杉栄に他ならず、阿部のようなジャーナリストとの「恋愛関係」は「天下の一大事」でもなく、「一篇の映画物語」は成立するすべもなかった。神近は大杉との「恋愛関係」に向かい、それこそ「天下の一大事」的事件となり、戦後になって「一篇の映画物語」のテーマともされてしまったのである。

 阿部の死は昭和三十九年で、吉田喜重の映画『エロス+虐殺』の上映は同四十五年、『神近市子自伝』の刊行は同四十七年である。阿部が存命であったならば、映画と彼女の自伝にどのような戦後の「世相」を見たであろうか。

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古本夜話1329 中西悟堂と『野鳥』

 前々回、石川三四郎の近傍の人脈として中西悟堂の名前を挙げたが、彼は思いがけないことに『日本アナキズム運動人名事典』にも長く立項され、それは『日本近代文学大事典』も同様なので、悟堂にまつわる一編も書いておこう。

日本アナキズム運動人名事典 日本近代文学大事典

 小林照幸の「評伝・中西悟堂」とある『野の鳥は野に』(新潮選書、平成十九年)はタイトルが示しているように、昭和に入ってからの「日本野鳥の会」創立者としての悟堂に焦点が当てられている。そのためにアナキスト系文学者としての悟堂についてはほとんどふれられていない。それでも晩年になってからだが、その創刊にも関わった悟堂の『愛鳥自伝』(平凡社ライブラリー上下、平成四年)が残されているので、その前半生をラフスケッチしてみたい。

野の鳥は野に―評伝・中西悟堂 (新潮選書)  愛鳥自伝〈上〉 (平凡社ライブラリー) 愛鳥自伝〈下〉 (平凡社ライブラリー)

 悟堂は明治二十八年に金沢市に生まれ、十六歳で調布市深大寺において得度し、大正二年に東京駒込の天台宗学林に学び、愛媛県新居浜の瑞応寺で禅生活を送る。それとパラレルに『近代出版史探索Ⅵ』1023の内藤鋠策の歌誌『抒情詩』に同人として加わり、大正五年には歌集『唱名』(抒情詩社)を上梓し、同七年にはこれも拙稿「西村陽吉と東雲堂書店」(『古本探究』所収)の東雲堂に入り、『短歌雑誌』の編集に携わる。また同十年にはやはり『同Ⅵ』1052の詩話会同人として『日本詩人』などに詩を発表し、翌年には処女詩集『東京市』(抒情詩社)を刊行史、アナキズムや社会主義運動へと接していく。大正時代に彼は僧侶、歌人にして詩人、それに編集者でもあったのだ。

 このような悟堂の前史というものに注視してこなかったので、石川三四郎との接点もいまひとつ不明のままだったことになる。そして大正十五年に悟堂は三十歳を迎え、僧職を離れ、野鳥と暮らすかのように木食生活に入る。それが「日本野鳥の会」創立の端緒であり、先述の小林の紹介のほうが悟堂の『愛鳥自伝』の記述よりも簡にして要を得ているので、そちらを引いたほうがいいだろう。

 そして、東京府北多摩郡千歳村(現在の世田谷区烏山付近)の山谷の一軒家を、五年分(『愛鳥自伝』では二年分―引用者注)の家賃を前払いして借りた。それから約三年半、米食と火食を断った木食採食生活に入ったのである。主食は水でこねた蕎麦粉だった。茶碗も箸も用いない。木の葉や野草は塩で揉んで食した。
 風呂の代わりに川に入り、雑木林の中に敷いたゴザの上を書斎として、多くの書に触れた。ソローの『森の生活』を耽読し、さらにホイットマン、タゴールの詩に傾倒した。仏教のふるさとであるインドの古代から現代に及ぶ思想史の造詣を養ったのもこの時期である。木食生活は自然との一体感を養い、鳥、昆虫、魚、蛇などをじっくり観察する時間でもあった。

 こうした生活に加えて、『愛鳥自伝』における悟堂の証言によれば、千歳村の周辺には半農生活を営む石川三四郎の他に、田園生活を唱える尾崎喜八、百姓生活の実践者江渡狄嶺、『近代出版史探索』184の農民文芸会とその機関誌『農民』によっていた加藤武雄、鑓田研一、それに『同Ⅴ』807の徳富蘆花もいて、木食生活はともかく、石川のいう「土民生活」の実践がトレンドであったともいえよう。実際に悟堂は石川とも親交し、それゆえに『ディナミック』の寄稿者にもなったのだろう。

 しかし悟堂の本来の野鳥家としてのターニングポイントは木食生活を切り上げ、井荻町善福寺へと移り住んでからで、鳥の放し飼いを始め、「鳥は野にあるべき。野の鳥は野に、鳥とは野鳥であるべし」との心境に達した。そして鳥のすみかは日本中の山林、原野、水辺で、野鳥を守ることは日本の山河を守ることになるのだと。野鳥というタームが悟堂によって唱えられ、それに賛同したのは英文学者の竹友藻風で、柳田国男も竹友に続き、昭和九年に「日本野鳥の会」が発足し、悟堂方の同会を編集所として、梓書房から『野鳥』が創刊される。そのきっかけは梓書房から竹友が『文学遍路』、柳田が『秋風帖』を刊行していたことによっている。

  秋風帖 (1932年) (『秋風帖』)

 梓書房は拙稿「人類学専門書店・岡書院」(『書店の近代』所収)の別会社で、私もすでに「柳田国男『秋風帖』と梓書房」(『古本屋散策』所収)を書いている。岡書院の岡茂雄は『[新編]炉辺山話』(平凡社ライブラリー)において、梓書房とその仕事をまかせた「S」=坂口保治に言及しているけれど、そこでは『野鳥』に関して何も語っていない。悟堂のほうも『愛鳥自伝』で坂口にふれているが、岡と同様に気の毒なほどの扱いで、引用をはばかるほどだ。

新編 炉辺山話 (平凡社ライブラリー)  書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 手元に出版科学総合研究所によって復刻された『野鳥』創刊号がある。A5判本文七八ページは四ページの写真も付され、探鳥というテーマゆえに、写真ページも不可欠だとわかる。それに悟堂を司会者とする竹友、柳田など十二人の「野鳥の会座談会」は『野鳥』創刊に至る経緯と事情が語られ、彼らが悟堂を中心として熱心に盛り立て、創刊となったことが伝わってくる。発行人は岡茂雄となっているが、実質的な編集実務は坂口が担ったと考えてよかろう。しかしよくある編集者の常として、その後の坂口の消息は不明のままだ。

 私は平野伸明『野鳥記』(福音館書店、平成九年)をよく見ているが、この大型の写真集も起源をたどれば、『野鳥』ということになるのだろう。昭和十年に悟堂は『野鳥と共に』(巣林書房)という一冊を出し、よく売れたようで、野鳥のタームも定着したとされるが、古本屋でも出会っていない。

野鳥記 (写真記シリーズ)


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古本夜話1328 上野英信編『鉱夫』と新人物往来社『近代民衆の記録』

 前回の最後のところで、本探索で続けて言及してきた田口運蔵、片山潜、近藤栄蔵、永岡鶴蔵たちと加藤勘十が社会主義運動史において、炭鉱と鉱(坑)夫というラインでつながり、そこにゾラの『ジェルミナール』の翻訳も必然的にリンクしていたことにふれておいた。

ジェルミナール

 それらに関連して、戦後の出版ではあるけれど、ここで上野英信編『鉱夫』のことも書いておきたい。この一冊は資料集として後述する宮嶋資夫『坑夫』のテーマとも密接な関係にあるし、まさに日本近代の社会主義運動史のひとつの水脈ならぬ「鉱脈」を形成しているからだ。これは余談だが、西部劇のひとつのテーマが金鉱探しであることは、同じく近代の表象ともなっていよう。

 (『坑夫』)

 実は『近代出版史探索Ⅵ』1180などのゾラの『ジェルミナール』の新訳を試みるにあたって、炭坑や鉱(坑)夫について無知だったことから、上野英信の『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑いばなし』(いずれも岩波新書)から始め、翻訳に際しては常に『鉱夫』(昭和四十六年)と山本作兵衛画文『筑豊炭坑絵巻』(葦書房、同四十八年)を座右に置き、その記録と描かれた絵を参照しながら進めたのである。しかもこの二冊の刊行はほぼ同時期で、後者の出版も上野の支援によることを教えられた。
 
追われゆく坑夫たち (岩波新書) 地の底の笑い話 (岩波新書) 近代民衆の記録〈2〉鉱夫 (1971年)  

 前者は昭和四十六年に新人物往来社から刊行され始めた『近代民衆の記録』の一冊である。その刊行に際し、宮本常一は「近代民衆と記録」という一文を寄せている。

 明治になって民衆も文字を学ぶことを義務づけられたのだが大正時代までは貧しくて学校へ行けない者がまだ多かった。その人たちが文字を学ぶために苦労した話はいまでも方々で聞くことができる。その文字で書かれたものが丹念にさがせばまだいくらでも残っているであろう。明治、大正時代の人びとはどのように生きたかということを学者やジャーナリストたちの筆によって語らせるのではなく、これらの民衆の資料に語らせることによって、そこに本当の民衆の姿がうかび上がって来るのではないかと思う。

 これは宮本が『近代民衆の記録』の発刊にあたって寄せた内容見本用の推薦文と見なせようが、帯裏に記されたもので、散逸してしまうかもしれず、あえてここに引いてみた。続けてその編者とリストも挙げておく。

1  松永伍一編 『農民』
2  上野英信編 『鉱夫』
3  谷川健一編 『娼婦』
4  林英夫編  『流民』
5  谷川健一編 『アイヌ』
6  山田昭次編 『満州移民』
7  岡本達明編 『漁民』
8  大濱徹也編 『兵士』
9  古田秀秋編 『部落民』
10 小沢有作編 『在日朝鮮人』

  近代民衆の記録〈7〉漁民 (1978年)

 このシリーズは3の『娼婦』と5の編著が谷川健一であることを考えれば、彼によって企画され、新人物往来社に持ちこまれ、同社から刊行されたことになる。谷川は平凡社時代に『日本残酷物語』全五巻(のちに現代編二巻を追加)を編集し、宮本もその監修者の一人であった。『平凡社六十年史』『日本残酷物語』の昭和三十四年の新聞広告が掲載されているが、そのキャッチコピーには「流砂のごとくこの国の最底辺に埋もれた人々の物語」とあった。

  

 このような『日本残酷物語』のコピーと『近代民衆の記録』が通底していることはいうまでもないし、前者の個別的物語がそれぞれの記録の集積として意図されたのであろう。しかし新人物往来社の前身の人物往来社は昭和二十六年に八谷政行によって歴史出版社として創業されているが、『近代出版史探索Ⅵ』1092で既述しておいたように、同四十三年頃に危機に陥り、会社更生法を申請したはずだ。それに伴い、先の拙稿で挙げた「幕末維新史料叢書」などの刊行は中絶してしまったし、まだ編集の段階にあり、刊行に至っていなかった『近代民衆の記録』にしても、出版中止の危機に追いやられたと思われる。

 だが昭和四十年代半ばにあって、このような史資料出版は本探索1278のみすず書房『現代史資料』ではないけれど、現在と異なり、書店外商などを通じて図書館、学校といった確実な職域需要があったはずで、人物往来社から新人物往来社へと引き継がれたことになる。それは当初の第一期五冊が第二期五冊の刊行となったことによって明らかだし、また管財人を引受け、『鉱夫』の発行者となった菅貞人の理解によっているのだろう。

 『鉱夫』の内容への言及が後回しになってしまったし、その詳細は挙げられないが、A5判上製、二段組六百余ページにはここでしか読むことのできない炭坑、鉱(坑)夫をめぐる記録がぎっしりと詰め込まれ、夏目漱石の『坑夫』(『朝日新聞』明治四十一年連載、新潮文庫)にしても、このような炭鉱からもたらされたのだと実感したことを思い出す。もちろんそれらの資料参照がどれほど翻訳に反映されているかは判断できないが、『ジェルミナール』の新訳がそのようにして進められたことだけは付記しておきたい。

坑夫 (新潮文庫)


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