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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

混住社会論145 窪 美澄『ふがいない僕は空を見た』(新潮社、二〇一〇年)

ふがいない僕は空を見た



私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは生きていさえすればいいのよ。」 
と言いました。
太宰治『ヴィヨンの妻』

窪美澄の『ふがいない僕は空を見た』は五つの短編、中編からなる連作集で、それは次のような構成になっている。

 1 ミクマリ
 2 世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸
 3 2035年のオーガズム
 4 セイタカアワダチソウの空
 5 花粉・受粉

これらの集積が『ふがいない僕は空を見た』という連作長編を形成しているので、本来であれば、それぞれ視点と主人公が異なる1から5までの祖型をたどってみる必要がある。だがそうすると長くなってしまうので、ここでは互いに入れ子の物語となっている1と2に主として言及してみたい。ただそうはいっても、この二作に『ふがいない僕は空を見た』のエッセンスが表出していると見なせるからでもある。

1の「ミクマリ」は夏休みを迎えた高校生の「おれ」の、あんずとのコスプレセックスのシーンから始まっている。彼女はマンションに住み、十二歳年上で結婚しているので、「おれ」とあんずがやっていることは「不倫」であり、「淫行」ということになり、「おれ」は最初から、「ガキの典型的で健康的なセックスライフ」の道を外れてしまったのである。そのきっかけは友だちに連れていかれたコミケで、あんずにナンパされたことによっている。それは「おれ」がアニメの「魔法少女マジカル★リリカ」の「むらまささま」にそっくりだったからだ。だからあんずと「おれ」はそれらのコスプレ衣装を着用し、セックスをして、デジカメで写真を撮ることを繰り返し、その代わりに「おれ」は一万円札をもらった。「あんずのやっていることはおれを金で買ってるってこと」だった。

そのようなコスプレセックスシーンの一方で、「おれ」のおふくろが助産師であることから、自宅がそのまま助産院となり、「おれ」もお産の手伝いに駆り出されたりしていた。それらの事情でお産の苦しみの声を聞いて成長し、その声があんずのセックスの時の声と同じことに気づいた。あんずの住むマンションは助産院緒前を流れる川の真向かいにあった。それは川をはさんで、セックスと出産が通底しながらも、コントラスト化されていることを意味していよう。

ここでコスプレセックスが単なる「不倫」や「淫行」にとどまらず、「妊娠」と「こども」の問題へともつながり、それは「おれ」のオブセッションともなり、あんずと別れようとする。しかしショッピングセンターで、あんずがコスプレではなく、Tシャツにデニムの高校生のような恰好をして、赤ん坊用の靴下を見ているのを目にして、「生まれて初めて恋をしている」気になり、あんずと細くつながっていた糸を切ったのは「おれ」だと思い、涙が流れた。

その翌日、「おれ」はあんずのマンションに向かい、「何かの罰ゲーム」のように、初めてコスプレ姿でない彼女とセックスをする。だがその後、あんずは代理出産の女性に会うために、夫とアメリカにいくことを告げる。そして彼女は「今までありがとう」と小さな声でいった「おれは子どもだから」、「行かないで」と繰り返したが、あんずは「もうおうちに帰らないとね」というばかりだった。

もはや夕方になっていた。「おれ」=斉藤は「夕焼けではちみつ色に染まった空を、橋の真ん中に突っ立ってばかみたいにながめていた」。このシーンこそはタイトルの『ふがいない僕は空を見た』を表象するものだ。それは4の「セイタカアワダチソウの空」において、「ぼく」=福田の視点から、「急に通せんぼされたような気持になって、ぼくは空を見上げた。細い月が見えた。星は見えなかった」として、もう一度繰り返されることになる。

この夕焼けの空に重なって思い出されるのは、親父とおふくろが激しい夫婦げんかをした後、そのふもとの山に家族三人ではなく、どちらかが「おれ」を連れていったことで、親父もおふくろも早歩きで後ろも振り返らないので、「おれ」は走って追いかけるしかなかった。そしておやじが家を出て、おふくろが助産院を始めるが、小学校に入ったばかりの「おれ」を山の中の「水分神社」に連れていき、「すいぶん」ではなく「みくまり」と読むのだと教え、長い間手を合わせたままでいた。

 「何をおいのりしているの?」
 「子どものことだよ」おふくろは目を閉じたまま言った。
 「ぼくのこと?」
 「もちろんあんたも、ぜんぶの子ども。これから生まれてくる子も、生まれてこなかった子も。生きている子も死んだ子もぜんぶ」

ここに『ふがいない僕は空を見た』の基層が表出している。それに『日本国語大辞典』や白井永二他編『神社辞典』(東京堂出版)によれば、「みくまり」とは「山や滝から流れ出た水が種々の方向に分かれる所。水の分岐点」をさし、「みくまりの神」とは「流水の分配をつかさどる神」で、「みくまり」を「みこもり(御子守)」と解し、子どもを守り育てる霊力を持つ神、子守明神信仰も生まれたとされ、実際に水分神社は奈良や大阪に存在している。

神社辞典
ここでようやく1の「ミクマリ」という意味不明だったタイトルが、そうした「みくまり」や「水分神社」縁起からとられていることが判明する。そしてこの後でまたしても助産院での「おれ」が手伝う出産シーンが描かれ、コスプレセックスシーンから始まった「ミクマリ」はあんずをめぐる子どもを産むことの問題、及び「おれ」と親父とおふくろの関係が浮かび上がってくることになる。それに「おれ」が中学生の時に目にした「女の子の場合、生まれたときから卵巣の中にはすでに卵子のもとになる数百万個の原始卵胞が詰まっている」という文章に加え、赤んぼうが生まれ、「ちんこが見えた。おまえ、やっかいなものをくっつけて生まれてきたね」との述懐を並べてみる。するとこの「ミクマリ」がセックスとは何か、家族とは何か、子どもとは何かを深く問い、人間が個々の男や女として現われる場所としての家族、その表象としての子どもを描こうとしたのではないかと思えてくる。

「ミクマリ」には「おれ」やあんずの他に、クラスメートでバイト仲間の福田、ガールフレンドの松永が登場しているが、物語が進むにつれて、誰もが斉藤のように「ふがいない僕」と変わらぬ姿で現われてくることになる、だが前述したように、ここでは残念ながらそれらの全員の姿を追跡することはできない。それでも4の「セイタカアワダチソウの空」で示されている『ふがいない僕は空を見た』のトポスだけは、ここに至ってようやく示されているので、提出しておくべきだろう。

 駅前に並ぶスーパーマーケットとコンビニエンスストアとファストフードとチェーン店の古本屋。この沿線のどの駅で下りても代わり映えしない店が並ぶ商店街と、マンションと建て売り住宅が並ぶ、比較的新しめの住宅街。その間を埋めるようにいきなりあらわれる梨畑。目立った特徴のない小さな街をぐるりと囲むように低い山並みが続いている。
 この町で一番大きな市民病院に続く、駅からのまっすぐな道を越えた山の奥には火葬場があって、さらにそれを越えると、部分的に舗装されたアスファルトのパッチワーク、つぎはぎだらけの道が続く。その道を山の頂上に向かって上がり、短くて暗いじめじめとしたトンネルを抜けると、ニュータウンという名前が皮肉に聞こえるほど、古ぼけた団地群があらわれる。団地のわきには学校のプールほどの大きな汚い沼がある。団地に住む人は池と呼ぶ人もいれば、沼と呼ぶ人もいるけれど、ぼくにとってはどっちだってかまわない。だって、ただの、汚い水たまりだ。

コンビニとファストフード、マンションと建て売り住宅からなる新しめの住宅街、その奥には古ぼけた団地群からなるニュータウンが位置し、その間には梨畑があり、街は低い山並みに囲まれ、そこには水分神社もあることからすれば、『ふがいない僕は空を見た』の連作の共通の舞台は、郊外の混住社会と見なしていいだろう。

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫) (文庫版)

このようなトポスを背景として、「ミクマリ」のラフな物語展開を補うかのように、この「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」が置かれている。ここでの主人公は1の「おれ」=斎藤に代わって、「私」=里美=あんずである。彼女は結婚して五年経っているのだが、子どもができないので、夫の慶一郎さんの母であるマチコさんが探してくれた不妊治療のクリニックに通っている。しかし検査の結果、「私」の卵子と夫の精子に問題があり、自然妊娠は難しく、人工授精を試みていたが、それも失敗に終わっていた。だが「私」は子どもを望んでいなかったし、それは夫も同様だったので、「あんたたちは子どもを生まなくていいよ、と神さまから言ってもらったよう」に思われた。

「私」はママを早く失い、パパに育てられ、カトリックの中学に入ったが、アニメ中毒の「気持ち悪いオタク女」といじめられ、さらにまったく無視される存在となり、それが高校まで続いた。大学に入ると、パパが二重まぶた手術を受けさせてくれたせいなのか、急に男の子にもて始め、「セックスが気持ちいいなんて一度も思ったことは」ないのに、「やりマンのめす豚」と書かれるようにもなった。大学を出てから、パパのコネで小さなメーカーに勤めたが、勉強と同様に仕事ができず、上司から罵倒される日々を送るうちに、パパが急死し、借金返済のために財産もほとんどもっていかれてしまった。そんなときに出会ったのが製薬会社でMRと呼ばれる営業の仕事をしている慶一郎さんで、「ルックスは私の好みと正反対」にして、「丸顔で背が低くて、スーツがまるで似合わない」けれど、「里美ちゃんを大事にするからね」、また「結婚後は仕事をしなくていい」というプロポーズによって結婚を決めたのである。だが彼はかつて彼女の同僚に対して「ストーカー」だったようで、退職を報告すると、同僚たちは「あのストーカーと結婚する」のかと囁いていた。

マンションでの新婚生活がスタートするが、「それでも、私はしあわせだった」。家事はまったく得意ではなかったけれど、学校でいじめられたり、会社で罵倒されたりすることに比べれば、夫の出社後、自分の好きなマンガやアニメの世界にひたることができたからだ。しかし「でぶで、ぶすで、ばかで、不妊の主婦」に対する義母のマチコさんの不満はエスカレートする一方で、「かんばれと言われて妊娠できるわけでもないのに」、人工授精から対外受精にまでクリニックを強いられるようになる。

「私」はそのストレスからコスプレ衣装をまとい、疲れた主婦から魔法少女へとの変身を試みる。そして三人の魔法の少女の衣装を手作りし、やはり物理の先生で魔法使いの「むらまささま」も同様に仕上げ、慶一郎さんに羽織ってもらったが、まったく似合わず、そこに彼の老いだけでなく、自分の老いと結婚を続けていくことができるのかという不安を覚えたのだった。

かくして1の「ミクマリ」の最初のシーンのコスプレセックスに結びつくコミケでの斎藤くんとの出会いに至るのである。だがそれは慶一郎さんの体の「なまぐさい」においと異なり、「不思議なことですが、斎藤くんの体からはいつもミルクのような赤ちゃんのようなにおいが」した。それはコスプレセックスが子どもへと退行していくこと、疑似的出産や子育てのメタファーであることを暗示しているのだろうか。

しかし二人のコスプレセックスは慶一郎さんが仕掛けた隠しカメラで発覚し、マチコさんはモニターでそれを見ながら、土下座して離婚を頼む「私」に、アメリカでの代理母による出産を強要し、その準備が進められていった。そうした中で、「私」は斉藤くんとコスプレによらないセックスをする。ここにコスプレセックスと異なる二人の対幻想の始まりを見るべきだろうか。それは再び隠しカメラに捉えられ、慶一郎さんは離婚するなら、これらの写真や動画も、斉藤くんの家や学校も含めて世界中にばらまくといっているので、きっとそうなるだろう。それはウェブサイトのアドレスに書いてあるwwwは章タイトルに示された「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」という意味だけれど、「その蜘蛛の章のなかで、私と斉藤くんのこの瞬間は、時間や空間を越えて永遠に漂い続けるのです。ごめんね斉藤くん。私と会ったことが、ふいに顔に触れる蜘蛛の糸のように、あなたの人生にまとわりつくことになるかもしれない。(……)」。そして実際にそれは「K市に住むS藤T巳くんの過激でただれたコスプレセックス」としてネットに流されることになり、3の「2035年のオーガズム」はそれを受けて始まっていくのである。

『ふがいない僕は空を見た』のうちの1と2の「ミクマリ」と「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」を簡略にたどっただけだが、両者は男と女、それぞれの家族の合わせ鏡のような関係にあり、いずれもがセックスと子どもをめぐる家族の問題として提出されていることが了承される。

しかもこの二作は、さらに視点を変えて、続く三作に引き継がれ、乱反射し、「ふがいない僕」だけでなく、「ふがいない登場人物たち」を召喚していく。それらを具体的に挙げてみれば、3の「2035年のオーガズム」は松永が語る『岸辺のアルバム』的家族の肖像、「セイタカアワダチソウの空」は団地でぼけた祖母と暮らす福田の生活を通じて浮かび上がる彼の家族の位相、「花粉・受粉」は再び斉藤助産院のお産の光景に戻り、「私」という助産師の「ばかな恋愛」と破綻した夫婦関係が語られ、息子に関するいやがらせメールなども押し寄せてきている。だが「私」を産婆へと誘った中国人のリウ先生はいう。「悪いことはずっと悪いままではないですよ。(……)オセロの駒がひっくり返るように反転するときがきますよ。(……)」と。

そうなのだ。『ふがいない僕は空を見た』の登場人物たちは全員が「ふがいない」存在として出現し、描かれ、そのような生活を送っている。だがそこには子どもたちの確固たるモラルが見出されるし、それらの全員を「ミクマリ」が守っているかのようなのだ。そして神の存在とか、「オセロの駒がひっくり返るように反転する」とかのフレーズは、太宰治の『ヴィヨンの妻』の「この世の中の、どこかに神がいる」とか、「トランプ遊びのように、マイナスをあつめるとプラスに変わる」という言葉を彷彿とさせる。それらは『ふがいない僕は空を見た』という連作が、二一世紀の郊外のヴィヨンの妻と息子と娘たちの物語であることを告げているように思われる。

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

なお『ふがいない僕は空を見た』は映画化もされている。
ふがいない僕は空を見た [DVD]

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」144  畑野智美『国道沿いのファミレス』(集英社、二〇一一年)
「混住社会論」143  森絵都『永遠の出口』(集英社、二〇〇三年)
「混住社会論」142  本間義人『国土計画を考える』(中央公論社、一九九九年)と酉水孜郎『国土計画の経過と課題』(大明堂、一九七五年)
「混住社会論」141  『田中角栄『日本列島改造論』(日刊工業新聞社、一九七二年)
「混住社会論」140  『佐久間ダム建設記録』(ジェネオン、二〇〇七年)
「混住社会論」139  デイヴィッド・グターソン『殺人容疑』(講談社文庫、一九九六年)
「混住社会論」138  ニーナ・ルヴォワル『ある日系人の肖像』(扶桑社ミステリー、二〇〇五年)
「混住社会論」137  アップダイク『カップルズ』(新潮社、一九七〇年)
「混住社会論」136  トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮社、一九六七年)と高村薫『冷血』(毎日新聞社、二〇一二年)
「混住社会論」135  山上たつひこ、いがらしみきお『羊の木』(講談社、二〇一一年)
「混住社会論」134  古谷実『ヒミズ』(講談社、二〇〇一年)
「混住社会論」133  小田扉『団地ともお』(小学館、二〇〇四年)
「混住社会論」132  篠原雅武『生きられたニュータウン』(青土社、二〇一五年)と拙著『民家を改修する』(論創社、二〇〇七年)
「混住社会論」131  江藤淳、吉本隆明「現代文学の倫理」(『海』、一九八二年四月号)
「混住社会論」130  Karen Tei Yamashita , Circle K Cycles(Coffee House Press、二〇〇一年)
「混住社会論」129  高橋幸春『日系ブラジル移民史』(三一書房、一九九三年)と麻野涼『天皇の船』(文藝春秋、二〇〇〇年)
「混住社会論」128  邱 永漢『密入国者の手記』(現代社、一九五六年)
「混住社会論」127  宮内勝典『グリニッジの光りを離れて』(河出書房新社、一九八〇年)
「混住社会論」126  江成常夫『花嫁のアメリカ』(講談社、一九八一年)と有吉佐和子『非色』(中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」125  トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』(原書一九四九年、毎日新聞社一九七八年)
「混住社会論」124  スティーヴン・グリーンリーフ『探偵の帰郷』(早川書房、一九八五年)とリチャード・ピアス『カントリー』(ポニー、一九八四年)『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」123  『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」122  カムマーン・コンカイ『田舎の教師』(勁草書房、一九八〇年)
「混住社会論」121  谷恒生『バンコク楽宮ホテル』(講談社、一九八一年)
「混住社会論」120  矢作俊彦『THE WRONG GOODBY ロング・グッドバイ』(角川書店、二〇〇四年)
「混住社会論」119  スタインベック『怒りの葡萄』(原書、一九三九年、第一書房、一九四〇年)とピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(東洋経済新報社、二〇〇七年)
「混住社会論」118  ゾラ『大地』(原書、一八八七年、論創社、二〇〇五年)と長塚節『土』(春陽堂、一九一二年)
「混住社会論」117  渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、一九九八年)と久米邦武編『特命全権大使 米欧国回覧実記』(新橋堂、一八七八年)
「混住社会論」116  ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』(原書、一八八三年、論創社、二〇〇二年)
「混住社会論」115  M・M・ジンマーマン『スーパーマーケット』(経済界、一九六二年)
「混住社会論」114  『大和ハウス工業の40年』(同編集委員会、一九九五年)
「混住社会論」113  安土敏『小説スーパーマーケット』(日本経済新聞社、一九八一年)とテーラー『科学的管理法』(産業能率短期大学出版部、一九六九年)
「混住社会論」112  藤田 田『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ、一九七二年)と『日本マクドナルド20年のあゆみ』(同社、一九九一年)
「混住社会論」111  ジョージ・リッツア 『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、一九九九年)
「混住社会論」110  藤原伊織『名残り火』(文藝春秋、二〇〇七年)
「混住社会論」109  ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』(藤原書店、二〇〇六年)と矢崎葉子『それでも家を買いました』(大田出版、一九九〇年)
「混住社会論」108  庄野潤三『夕べの雲』(講談社、一九六五年)
「混住社会論」107  宮部みゆき『理由』(朝日新聞社、一九九八年)
「混住社会論」106  黄 春明『さよなら・再見』(めこん、一九七九年)
「混住社会論」105  日影丈吉『内部の真実』(講談社、一九五九年)
「混住社会論」104  ウェイ・ダーション『セデック・バレ』(マクザム+太秦、二〇一一年)
「混住社会論」103  松本健一『エンジェル・ヘアー』(文藝春秋、一九八九年)
「混住社会論」102  村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」101  赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1