窪美澄の『ふがいない僕は空を見た』は五つの短編、中編からなる連作集で、それは次のような構成になっている。
1 ミクマリ 2 世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸 3 2035年のオーガズム 4 セイタカアワダチソウの空 5 花粉・受粉
これらの集積が『ふがいない僕は空を見た』という連作長編を形成しているので、本来であれば、それぞれ視点と主人公が異なる1から5までの祖型をたどってみる必要がある。だがそうすると長くなってしまうので、ここでは互いに入れ子の物語となっている1と2に主として言及してみたい。ただそうはいっても、この二作に『ふがいない僕は空を見た』のエッセンスが表出していると見なせるからでもある。
1の「ミクマリ」は夏休みを迎えた高校生の「おれ」の、あんずとのコスプレセックスのシーンから始まっている。彼女はマンションに住み、十二歳年上で結婚しているので、「おれ」とあんずがやっていることは「不倫」であり、「淫行」ということになり、「おれ」は最初から、「ガキの典型的で健康的なセックスライフ」の道を外れてしまったのである。そのきっかけは友だちに連れていかれたコミケで、あんずにナンパされたことによっている。それは「おれ」がアニメの「魔法少女マジカル★リリカ」の「むらまささま」にそっくりだったからだ。だからあんずと「おれ」はそれらのコスプレ衣装を着用し、セックスをして、デジカメで写真を撮ることを繰り返し、その代わりに「おれ」は一万円札をもらった。「あんずのやっていることはおれを金で買ってるってこと」だった。
そのようなコスプレセックスシーンの一方で、「おれ」のおふくろが助産師であることから、自宅がそのまま助産院となり、「おれ」もお産の手伝いに駆り出されたりしていた。それらの事情でお産の苦しみの声を聞いて成長し、その声があんずのセックスの時の声と同じことに気づいた。あんずの住むマンションは助産院緒前を流れる川の真向かいにあった。それは川をはさんで、セックスと出産が通底しながらも、コントラスト化されていることを意味していよう。
ここでコスプレセックスが単なる「不倫」や「淫行」にとどまらず、「妊娠」と「こども」の問題へともつながり、それは「おれ」のオブセッションともなり、あんずと別れようとする。しかしショッピングセンターで、あんずがコスプレではなく、Tシャツにデニムの高校生のような恰好をして、赤ん坊用の靴下を見ているのを目にして、「生まれて初めて恋をしている」気になり、あんずと細くつながっていた糸を切ったのは「おれ」だと思い、涙が流れた。
その翌日、「おれ」はあんずのマンションに向かい、「何かの罰ゲーム」のように、初めてコスプレ姿でない彼女とセックスをする。だがその後、あんずは代理出産の女性に会うために、夫とアメリカにいくことを告げる。そして彼女は「今までありがとう」と小さな声でいった「おれは子どもだから」、「行かないで」と繰り返したが、あんずは「もうおうちに帰らないとね」というばかりだった。
もはや夕方になっていた。「おれ」=斉藤は「夕焼けではちみつ色に染まった空を、橋の真ん中に突っ立ってばかみたいにながめていた」。このシーンこそはタイトルの『ふがいない僕は空を見た』を表象するものだ。それは4の「セイタカアワダチソウの空」において、「ぼく」=福田の視点から、「急に通せんぼされたような気持になって、ぼくは空を見上げた。細い月が見えた。星は見えなかった」として、もう一度繰り返されることになる。
この夕焼けの空に重なって思い出されるのは、親父とおふくろが激しい夫婦げんかをした後、そのふもとの山に家族三人ではなく、どちらかが「おれ」を連れていったことで、親父もおふくろも早歩きで後ろも振り返らないので、「おれ」は走って追いかけるしかなかった。そしておやじが家を出て、おふくろが助産院を始めるが、小学校に入ったばかりの「おれ」を山の中の「水分神社」に連れていき、「すいぶん」ではなく「みくまり」と読むのだと教え、長い間手を合わせたままでいた。
「何をおいのりしているの?」
「子どものことだよ」おふくろは目を閉じたまま言った。
「ぼくのこと?」
「もちろんあんたも、ぜんぶの子ども。これから生まれてくる子も、生まれてこなかった子も。生きている子も死んだ子もぜんぶ」
ここに『ふがいない僕は空を見た』の基層が表出している。それに『日本国語大辞典』や白井永二他編『神社辞典』(東京堂出版)によれば、「みくまり」とは「山や滝から流れ出た水が種々の方向に分かれる所。水の分岐点」をさし、「みくまりの神」とは「流水の分配をつかさどる神」で、「みくまり」を「みこもり(御子守)」と解し、子どもを守り育てる霊力を持つ神、子守明神信仰も生まれたとされ、実際に水分神社は奈良や大阪に存在している。
ここでようやく1の「ミクマリ」という意味不明だったタイトルが、そうした「みくまり」や「水分神社」縁起からとられていることが判明する。そしてこの後でまたしても助産院での「おれ」が手伝う出産シーンが描かれ、コスプレセックスシーンから始まった「ミクマリ」はあんずをめぐる子どもを産むことの問題、及び「おれ」と親父とおふくろの関係が浮かび上がってくることになる。それに「おれ」が中学生の時に目にした「女の子の場合、生まれたときから卵巣の中にはすでに卵子のもとになる数百万個の原始卵胞が詰まっている」という文章に加え、赤んぼうが生まれ、「ちんこが見えた。おまえ、やっかいなものをくっつけて生まれてきたね」との述懐を並べてみる。するとこの「ミクマリ」がセックスとは何か、家族とは何か、子どもとは何かを深く問い、人間が個々の男や女として現われる場所としての家族、その表象としての子どもを描こうとしたのではないかと思えてくる。
「ミクマリ」には「おれ」やあんずの他に、クラスメートでバイト仲間の福田、ガールフレンドの松永が登場しているが、物語が進むにつれて、誰もが斉藤のように「ふがいない僕」と変わらぬ姿で現われてくることになる、だが前述したように、ここでは残念ながらそれらの全員の姿を追跡することはできない。それでも4の「セイタカアワダチソウの空」で示されている『ふがいない僕は空を見た』のトポスだけは、ここに至ってようやく示されているので、提出しておくべきだろう。
駅前に並ぶスーパーマーケットとコンビニエンスストアとファストフードとチェーン店の古本屋。この沿線のどの駅で下りても代わり映えしない店が並ぶ商店街と、マンションと建て売り住宅が並ぶ、比較的新しめの住宅街。その間を埋めるようにいきなりあらわれる梨畑。目立った特徴のない小さな街をぐるりと囲むように低い山並みが続いている。
この町で一番大きな市民病院に続く、駅からのまっすぐな道を越えた山の奥には火葬場があって、さらにそれを越えると、部分的に舗装されたアスファルトのパッチワーク、つぎはぎだらけの道が続く。その道を山の頂上に向かって上がり、短くて暗いじめじめとしたトンネルを抜けると、ニュータウンという名前が皮肉に聞こえるほど、古ぼけた団地群があらわれる。団地のわきには学校のプールほどの大きな汚い沼がある。団地に住む人は池と呼ぶ人もいれば、沼と呼ぶ人もいるけれど、ぼくにとってはどっちだってかまわない。だって、ただの、汚い水たまりだ。
コンビニとファストフード、マンションと建て売り住宅からなる新しめの住宅街、その奥には古ぼけた団地群からなるニュータウンが位置し、その間には梨畑があり、街は低い山並みに囲まれ、そこには水分神社もあることからすれば、『ふがいない僕は空を見た』の連作の共通の舞台は、郊外の混住社会と見なしていいだろう。
このようなトポスを背景として、「ミクマリ」のラフな物語展開を補うかのように、この「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」が置かれている。ここでの主人公は1の「おれ」=斎藤に代わって、「私」=里美=あんずである。彼女は結婚して五年経っているのだが、子どもができないので、夫の慶一郎さんの母であるマチコさんが探してくれた不妊治療のクリニックに通っている。しかし検査の結果、「私」の卵子と夫の精子に問題があり、自然妊娠は難しく、人工授精を試みていたが、それも失敗に終わっていた。だが「私」は子どもを望んでいなかったし、それは夫も同様だったので、「あんたたちは子どもを生まなくていいよ、と神さまから言ってもらったよう」に思われた。
「私」はママを早く失い、パパに育てられ、カトリックの中学に入ったが、アニメ中毒の「気持ち悪いオタク女」といじめられ、さらにまったく無視される存在となり、それが高校まで続いた。大学に入ると、パパが二重まぶた手術を受けさせてくれたせいなのか、急に男の子にもて始め、「セックスが気持ちいいなんて一度も思ったことは」ないのに、「やりマンのめす豚」と書かれるようにもなった。大学を出てから、パパのコネで小さなメーカーに勤めたが、勉強と同様に仕事ができず、上司から罵倒される日々を送るうちに、パパが急死し、借金返済のために財産もほとんどもっていかれてしまった。そんなときに出会ったのが製薬会社でMRと呼ばれる営業の仕事をしている慶一郎さんで、「ルックスは私の好みと正反対」にして、「丸顔で背が低くて、スーツがまるで似合わない」けれど、「里美ちゃんを大事にするからね」、また「結婚後は仕事をしなくていい」というプロポーズによって結婚を決めたのである。だが彼はかつて彼女の同僚に対して「ストーカー」だったようで、退職を報告すると、同僚たちは「あのストーカーと結婚する」のかと囁いていた。
マンションでの新婚生活がスタートするが、「それでも、私はしあわせだった」。家事はまったく得意ではなかったけれど、学校でいじめられたり、会社で罵倒されたりすることに比べれば、夫の出社後、自分の好きなマンガやアニメの世界にひたることができたからだ。しかし「でぶで、ぶすで、ばかで、不妊の主婦」に対する義母のマチコさんの不満はエスカレートする一方で、「かんばれと言われて妊娠できるわけでもないのに」、人工授精から対外受精にまでクリニックを強いられるようになる。
「私」はそのストレスからコスプレ衣装をまとい、疲れた主婦から魔法少女へとの変身を試みる。そして三人の魔法の少女の衣装を手作りし、やはり物理の先生で魔法使いの「むらまささま」も同様に仕上げ、慶一郎さんに羽織ってもらったが、まったく似合わず、そこに彼の老いだけでなく、自分の老いと結婚を続けていくことができるのかという不安を覚えたのだった。
かくして1の「ミクマリ」の最初のシーンのコスプレセックスに結びつくコミケでの斎藤くんとの出会いに至るのである。だがそれは慶一郎さんの体の「なまぐさい」においと異なり、「不思議なことですが、斎藤くんの体からはいつもミルクのような赤ちゃんのようなにおいが」した。それはコスプレセックスが子どもへと退行していくこと、疑似的出産や子育てのメタファーであることを暗示しているのだろうか。
しかし二人のコスプレセックスは慶一郎さんが仕掛けた隠しカメラで発覚し、マチコさんはモニターでそれを見ながら、土下座して離婚を頼む「私」に、アメリカでの代理母による出産を強要し、その準備が進められていった。そうした中で、「私」は斉藤くんとコスプレによらないセックスをする。ここにコスプレセックスと異なる二人の対幻想の始まりを見るべきだろうか。それは再び隠しカメラに捉えられ、慶一郎さんは離婚するなら、これらの写真や動画も、斉藤くんの家や学校も含めて世界中にばらまくといっているので、きっとそうなるだろう。それはウェブサイトのアドレスに書いてあるwwwは章タイトルに示された「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」という意味だけれど、「その蜘蛛の章のなかで、私と斉藤くんのこの瞬間は、時間や空間を越えて永遠に漂い続けるのです。ごめんね斉藤くん。私と会ったことが、ふいに顔に触れる蜘蛛の糸のように、あなたの人生にまとわりつくことになるかもしれない。(……)」。そして実際にそれは「K市に住むS藤T巳くんの過激でただれたコスプレセックス」としてネットに流されることになり、3の「2035年のオーガズム」はそれを受けて始まっていくのである。
『ふがいない僕は空を見た』のうちの1と2の「ミクマリ」と「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」を簡略にたどっただけだが、両者は男と女、それぞれの家族の合わせ鏡のような関係にあり、いずれもがセックスと子どもをめぐる家族の問題として提出されていることが了承される。
しかもこの二作は、さらに視点を変えて、続く三作に引き継がれ、乱反射し、「ふがいない僕」だけでなく、「ふがいない登場人物たち」を召喚していく。それらを具体的に挙げてみれば、3の「2035年のオーガズム」は松永が語る『岸辺のアルバム』的家族の肖像、「セイタカアワダチソウの空」は団地でぼけた祖母と暮らす福田の生活を通じて浮かび上がる彼の家族の位相、「花粉・受粉」は再び斉藤助産院のお産の光景に戻り、「私」という助産師の「ばかな恋愛」と破綻した夫婦関係が語られ、息子に関するいやがらせメールなども押し寄せてきている。だが「私」を産婆へと誘った中国人のリウ先生はいう。「悪いことはずっと悪いままではないですよ。(……)オセロの駒がひっくり返るように反転するときがきますよ。(……)」と。
そうなのだ。『ふがいない僕は空を見た』の登場人物たちは全員が「ふがいない」存在として出現し、描かれ、そのような生活を送っている。だがそこには子どもたちの確固たるモラルが見出されるし、それらの全員を「ミクマリ」が守っているかのようなのだ。そして神の存在とか、「オセロの駒がひっくり返るように反転する」とかのフレーズは、太宰治の『ヴィヨンの妻』の「この世の中の、どこかに神がいる」とか、「トランプ遊びのように、マイナスをあつめるとプラスに変わる」という言葉を彷彿とさせる。それらは『ふがいない僕は空を見た』という連作が、二一世紀の郊外のヴィヨンの妻と息子と娘たちの物語であることを告げているように思われる。
なお『ふがいない僕は空を見た』は映画化もされている。