出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話703 井東憲『南洋の民族と文化』と「東亜文化叢書」

大東出版社は前々回の東亜協会との関係の他に、「東亜文化叢書」というシリーズも刊行している。国会図書館を調べると、九冊刊行されているが、昭和十六年十月時点で、四冊までは出版されている。それらを挙げてみる。

1. 実藤恵秀 『近代日支文化論』
2. 井東憲  『南洋の民族と文化』
3. 西本白川 『康煕大帝』
4.徳齢女士 実藤恵秀訳 『西太后絵巻』

このうちの2の『南洋の民族と文化』が手元にある。井東はその「序」で、「南洋に関する著書が、ハイスピードで書店に現はれ出した」と述べ、「大日本帝国の、大陸政策と、南洋問題とは、実に深い関係にあると同時に、その関連性は、東亜共栄圏の中心的重要性を持つてゐる」と記している。この言は大東出版社における前々回の東亜協会編『北支那総覧』や、中国と南洋問題が重なる「東亜文化叢書」の出版の背景を物語っていよう。
南洋の民族と文化(大空社復刻)

ただ「東亜文化叢書」における井東の著書の大筋は、前述の「序」に見合うタイトル通りの内容であるのだが、第八章「南洋華僑の問題」に「支那事変の南洋に於ける抗日宣伝の凡ては、ユダヤ系の通信社と新聞とラヂオ、映画の仕事であつた」という文言が見えている。これによって、その「序」にある「本著の為め、いろゝゝと御後援を賜つた、ユダヤ問題研究の権威、政経学会の増田正雄先生に、深謝する」との謝辞の理由が判明する。井東はどのような回路をたどったのか、本連載615などのユダヤ陰謀論者の増田にまさに親炙し、そこに記されているように、『ユダヤ問題の研究』なる一冊をも上梓しているのだ。

ちなみに井東は本連載25で既述しているが、昭和艶本時代の梅原北明の『文芸市場』の執筆者にして、やはり北明が文芸資料研究会から刊行した「変態十二史」シリーズの『変態人情史』と『変態作家史』の著者だったのである。先には彼の簡略なプロフィルを示しただけだったので、ここではあらためて『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。
日本近代文学大事典

  井東憲 いとうけん 明治二八・八・二七~昭和二〇・?)小説家、評論家、東京牛込生れ。本姓伊藤憲。質屋の小僧をはじめとし、数多くの職業を転々とした。この生活体験が社会主義文学のコースをたどらせたと思われる。正則英語学校を経て、大正八年明治大学法科卒業。「種蒔く人」「新興文学」「文芸戦線」で活躍、『地獄の出来事』(大一二・三 総文館)を刊行。「文芸市場」では編集にも関係した。もっとも早い時期の有島武郎の研究書『有島武郎の芸術と生涯』(大正一五・六 弘文社)の著者としても著名。(中略)ナップにも属し、一九二七年(昭和二)の上海の革命を克明に描いた『赤い魔窟と血の旗』(昭和五・四 世界の動き社)のような特異な作が注目されるが、小説としてはやや通俗的である。昭和十年代はもっぱら中国の書の翻訳、中国に関する啓蒙的解説書を刊行している。

本連載120や121を始めとして、マルクス主義者、宗教学者、碩学な研究者たちが大東亜戦争下に向かう過程で、奇怪というしかない言説やその磁場へなだれこんでいったことにふれてきた。それは井東も例外ではなく、彼の場合はプロレタリア文学者、梅原北明たちの『文芸市場』と文芸資料研究会のメンバー、有島武郎研究者、中国の啓蒙的紹介者の道をたどり、どのような経緯と事情があってなのかは不明であるけれど、ユダヤ陰謀論者の増田正雄と国際政経学会へと接近していたことがわかる。

しかもこれは既述しておいたように、増田は柳田国男のところに出入りし、高楠順次郎の『知識民族としてのスメル族』をもたらしていることからすれば、高楠ともつながっていたと思われる。これらに加えて、『文芸市場』や文芸資料研究会を主宰し、昭和艶本時代を築いた梅原もまた、大東亜戦争下で科学技術振興会を設立し、陸軍の仕事に従事していたと伝えられているので、『文芸市場』関係者もまた同様の軌跡をたどったのではないだろうか。

大東亜戦争下における奇怪な言説と同じくするような奇怪な転向というより他にないが、それはまた出版社における奇怪な書籍の刊行とも共通している。そうした作家や著者の動向と出版社も寄り添っていたことになり、その謎も実態も検証されることなく、戦後の出版業界も始まっていったと考えるしかない。なお井東の場合は静岡大空襲によって亡くなったとされるので、戦後の出版には関わっていない。

またここで「東亜文化叢書」の著者にふれておけば、1と2の実藤恵秀は中国研究者で、竹内好たちの中国文学研究会に参加し、戦後は早大教授となっている。3の西本白川は上海で活躍した中国通のジャーナリスト西川省三で、東亜同文書院を卒業後、日露戦争の通訳を務め、戦後は同書院の中国語教師となり、週刊『上海』を創刊し、反辛亥革命の論陣をはったという。

だがこの二人と井東がどのような関係にあったのかは詳らかではない。
ちなみに「東亜文化叢書」の5から9も以下に挙げておく。

5.徳齢女士 実藤恵秀訳 『西太后絵巻』下
6.後藤朝太郎 『支那風物志』第1(風景篇)
7.井坂錦江  『水滸伝と支那民族』
8.山下草園 『日本布哇交流史』
9.後藤朝太郎 『支那風物志』第2(民芸篇)


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古本夜話702 二宮尊徳偉業宣揚会と『二宮尊徳全集』

 前回、『東亜連盟』の発売所が育生社で、その住所が『要説二宮尊徳新撰集』の二宮尊徳翁全集刊行会と同じであることから、両社は同じではないかとの推測を述べておいた。

 そこで『二宮尊徳全集』の戦前における出版を、書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』に見てみた。すると、次のような刊行推移をたどっている。

1『二宮尊徳全集』 全三十六巻、二宮尊徳偉業宣揚会、昭和二年
2『解説二宮尊徳翁全集』 全六巻、其刊行会、昭和十二年
3『要説二宮尊徳新撰集』 全六巻、二宮尊徳翁全集刊行会、昭和十三年
4『解説二宮尊徳全集』 全六巻、其刊行会、昭和十四年

 なお4は「第三次」と付されているので、2とは異なる内容だと思われる。
 残念ながら、いずれも所持していないし、未見であるのだが、幸いなことに1の内容見本だけは入手しているので、それを紹介してみたい。いうまでもないけれど、『二宮尊徳全集』も円本時代に出されていて、この十八ページの内容見本にも「予約募集」が表紙に赤字で打たれている。その宣伝コピーとして、まず「一万巻の遺著発見!」が謳われ、「小なる二宮金次郎より大なる二宮尊徳へ/勤倹力行より社会奉仕へ/道徳と経済、天地相和、理想と現実の一円一元の大哲学!」との惹句がしたためられている。

 それに続いて第一巻の菊大判天金の実物大写真が織りこまれ、全内容一班とその由来、農村振興社会救済の根本指針、最も理想的な出版方法などを含む「二宮尊徳全集刊行趣意書」が披露される。その最も理想的な出版方法だけにふれれば、この出版は営利でなく、保存普及を眼目とし、三十六冊を実費三百六十円、一ケ月一冊十円を前納として、五百部の予約を募る。その実費が不足した場合、刊行会が負担し、剰余金が生じた時は予約者へ割戻すという一種の「組合法出版」もしくは「報徳識予約出版の一方法」で、初めての試みとされる。

 そして次に版元の二宮尊徳偉業宣揚会の発起団体として、大日本報徳社、中央報徳会、帝国教育会、大日本農会、帝国農会、産業組合中央会、全国町村会、平凡社、興復社の名前が列記される。次に理事、幹事、編輯委員も挙げられ、理事と編輯委員を兼ねているのは下中弥三郎である。それから内容組方見本が置かれ、最後に申込所として東京市四谷区の中央報徳会内二宮尊徳偉業宣揚会、静岡県掛川町の大日本報徳社、神田小川町の平凡社の三ヵ所が示されている。

 このうちの報徳社に関しては『日本近現代史辞典』の立項を引こう。

 報徳社 ほうとくしゃ 二宮尊徳の思想を実践し農村の経済再建をめざして組織された結社。天保14年(1843)小田原報徳社の結成にはじまり、弘化4年(1847)遠江の下石田報徳社、嘉永5年(1852)掛川の牛岡組報徳社などが結成され、以後おもに東海地方農村に波及し、自作農を基盤とする農民組織に発展した。遠江の庄屋で掛川藩用達をつとめていた岡田佐平治らが藩内に報徳社法を推進し、諸村の負債を整理し、1875年(明治8)遠江国報徳社を設立、その後静岡・三河各報徳社が設立された。1924年(大正13)それら各地の報徳社が合同して大日本報徳社が生れた。昭和初頭には傘下700社を数えた。(後略)

 この立項によって、二宮尊徳偉業宣揚会の発起団体の筆頭に大日本報徳社と中央報徳会がすえられ、両者が『二宮尊徳全集』の申込所となっている事情を了承することになる。それにやはり発起団体と申込所を兼ねている平凡社、同様に理事と編輯委員の双方に名前を連ねている下中弥三郎がリンクし、「最も理想的な出版方法」での『二宮尊徳全集』全三十六巻の企画が成立したと考えられる。先の立項に昭和初頭の大日本報徳社傘下は七百社を数えるとあるから、五百部限定出版もそこから見積られたのではないだろうか。

 それを確認するために、『平凡社六十年史』を見てみたが、大日本報徳社と『二宮尊徳全集』のことはまったく言及されていない。だが想起されるのは本連載242の権藤成卿の『自治民範』で、この出版は昭和二年であり、『二宮尊徳全集』と同年に刊行されている。この事実は両者の出版が何らかの関係を有していたとも推測できる。

 それから『二宮尊徳全集』の刊行は、私たちの世代にとっても身近なアイドルを生み出したともいえる。井上章一文、大木茂写真の『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(新宿書房)に具体的な全集出版への言及はないけれど、大日本報徳社に象徴される報徳運動の全国的拡がりと全集の出版が、金次郎の石像の普及とパラレルであったことを指摘している。そのようにして全国の小学校の校庭に金次郎像が置かれるようになったのであり、それは戦後を迎えても変わらぬ風景であった。さすがに「柴刈り縄ない草鞋をつくり」と始まる「二宮金次郎」の尋常小学唱歌を歌ったことはないけれど、戦前にはそれも広く歌われていたのだろう。

ノスタルジック・アイドル二宮金次郎

 『二宮尊徳全集』のことに戻ると、最初の出版は大部にして限定出版であったために、ダイジェスト版としての2の『解説二宮尊徳翁全集』や3の『要説二宮尊徳新撰集』が出されるようになり、やはりそれは1に関係した編集者たちが介在していたと思われる。3の場合、編輯代表として、吉池昌一、編輯委員として、本連載527、528の山崎延吉の名前が挙がっている。吉池は不明だが、山崎は二宮尊徳偉業宣揚会の理事でもあった。そのことからすれば、育生社もまたその人脈を継承して立ち上げられた出版社なのかもしれない。

要説二宮尊徳新撰集(『要説二宮尊徳新撰集』)


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古本夜話701 『東亜連盟』と育生社

 前回の東亜協会が北支事変と同時に創立された華北協会の後身で改称されたこと、また同時期に、石原莞爾や宮崎正義たちによって思想運動団体としての東亜連盟が結成されたことを既述しておいた。

 東亜連盟は『日本近現代史辞典』に立項されているので、それを要約してみる。東亜連盟というタームは「王道楽土・五属協和」のスローガンを掲げた満洲国協和会の発足以来、広く普及するものなっていた。その一方で、石原は中国ナショナリズムの高揚を見て、東亜連盟を結成し、日支関係を改善するしかないと唱え始めた。そして昭和十四年に代議士木村武雄を理事長として東亜連盟を発足させ、国防の共同、経済の一体化、政治の独立の三原則を掲げ、東亜連盟論を展開し、機関誌『東亜連盟』を発行するに至った。

 この『東亜連盟』の昭和十四年十月に出された創刊号を入手している。ただこれは昭和五十六年に石原莞爾全集刊行会によって復刻され、大阪の大湊書房から刊行されたものである。「月刊」の「新秩序建設の指導雑誌」と謳われ、表一、二、四に「祝発刊」の満洲重工業開発、日本発送電鉄、南満洲鉄道株式会社の一ページ広告が寄せられている。『東亜連盟』はA5判、一四五ページからなり、「創刊の辞」は編集兼発行人である木村武雄によるもので、東亜問題を扱う出版物は多いが、東亜連盟主張に基づく新秩序建設を主張するのは同誌が嚆矢だとの言が見える。

 木村は山形県から衆議院議員となり、中野正剛の東方会を経て、石原の東亜協会に所属し、東条政権に抗したとされる。私などにとっては戦後の田中角栄内閣にあって、建設大臣や国家公安委員長を務め、ロッキード事件に際して、田中逮捕は指揮権発動により阻止すべきだと発言した政治家として記憶に残っている。

 この木村のことはさておき、『東亜連盟』創刊号の主たる論稿を挙げてみる。

*宮崎正義 「東亜連盟運動の基調」
*里見岸雄 「王道は果たして皇道に非ざるか」
*中山優 「新秩序の東洋的性格」
*金子定一 「東亜大民族主義の政治団体を樹てよ」
*神田孝一 「欧州動乱と新秩序運動下の外交原則」
*内田藤雄 「欧州戦乱とソ連の政策」
*田中惣五郎 「日支提携失敗史(一)」
*石原莞爾 「ナポレオンの対英戦争」

  
 「編輯後記」も述べているように、日満財政経済研究会長の宮崎、建国大学教授の中山、日本文化学研究所長の里見の論文も「本誌創刊の雄篇」と呼べるかもしれないが、やはり特筆すべきは「特別寄稿」と銘打たれた巻末の石原の「ナポレオンの対英戦争」だといっていいだろう。彼は日本が支那に対して長期戦を行なっていることに対し、この日支事変がナポレオンの対英戦争と比較的に似ていると指摘し、次のように述べている。すべてに傍点が付されているけれど、これは外す。

 日支事変を古い戦争に求めればナポレオンの対英戦争であり、ナポレオンは日本の立場にあります。今度の戦争も、その智脳的敵は英国であります。英国は実力を持たないかはりに旨く外力を使ふ。さうしてナポレオンに対するヨーロッパ大陸に支那が使はれてゐるのであります。申上げる迄もなくあの欧米の搾取経済から日支共に救はれなければならぬといふことはわかりきつたことであります。又日本の東亜新秩序建設といふスローガンはあの停頓としてゐる支那の社会情勢を打破つて、本当に新らしい政治革命を完成してやらうといふことで、それが我々の気持であります。

 そしてこのような状況において、日本はナポレオンのフランスと異なり、「天皇を中心として億兆一心、最後迄団結を守つて行く国」で、「確固たる満洲国との同盟」を構築している。それゆえに日本による「東亜新秩序の建設というスローガン」が提出されなければならないのだということになろう。

 『石原莞爾全集』は未見だが、たまいらぼ版『石原莞爾選集』全10巻は架蔵していて、その第6巻は『東亜連盟運動』に当てられ、『東亜連盟綱領』『東亜連盟建設要綱』『東亜連盟運動』が収録されている。それらを読むと、石原が生涯にわたって取り組み、最盛期には二十万人以上の会員を擁したという東亜連盟の実体が浮かび上がってくる。また桂川光正の「東亜連盟運動史」に収録された「協会設立時の主要メンバー」表は、先述の『東亜連盟』寄稿者の他に、満洲の柔道家、政治家や東方会会員、日本農民連盟や国内の大学人たちも挙がっていて、その広範な人脈を想起させる。
東亜連盟運動(『石原莞爾選集』第6巻)

 それを目にして、『東亜連盟』の発売所が育生社であることが了承できるように思われた。この出版社に関する詳細は不明だが、本連載594と595で、伊藤書店の創業者伊藤長夫が育生社出身だと記しておいた。育生社の出版物は『東亜連盟』所収の広告から、尾佐竹猛『日本憲法制定史要』、グスタフ・アマン、高山洋吉訳『支那農民戦争』がわかる。後者はドイツの支那研究家によるもので、『現代支那史』第五巻とされる。また育生社と神田区錦町の住所を同じくすることからすれば、二宮尊徳翁全集刊行会も兼ねていたようで、『要説二宮尊徳新撰集』全六巻の広告も掲載されている。

 このような出版物の組み合わせは東亜連盟の会員たちの多様性の一端を示していることになろうし、それもあって東亜連盟協会を発行所とする『東亜連盟』は、育生社から発売されたと思われる。


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古本夜話700 東亜協会編著『北支那総覧』

 前回岩野夫妻の大東出版社にふれたこともあり、この版元の仏教書以外の書籍も取り上げておきたい。

 まずは東亜協会編著『北支那総覧』で、昭和十三年の刊行である。菊判上製五〇五ページ、入手したのは裸本だが、定価が参円八拾銭とされていることからすれば、函入だったと考えられる。奥付の著者のところは東亜協会出版部/代表平野英一郎と表記されているので、大東出版社が発売所を引き受けた書籍と見なすこともできる。

 『北支那総覧』には本扉に続いて、河北省、山東省、河南省、陣西省などカラー版「北支詳細地図」が折りこまれ、その後に「序」が置かれ、次の文言から始まっている。

 北支那は現下我海陸将士の新戦場であり、世界注視の標的である、茲に新政権は樹立され、東洋平和再建設の曙光が輝きつゝある。
 北支那は、今次事変に依り愈々我国と絶対不可分の関係に進展し、我国に取つては、単なる隣国の問題ではなく、実に国内問題同様の緊急性を帯びるに至つたのである。

これに少しばかり補足しておけば、昭和十二年七月に起きた盧溝橋事件に対し、近衛内閣は内地師団出兵を声明し、これを北支事変と呼び、後に支那事変と改称している。このような状況下において、北支那は「新戦場」にして、「隣国の問題ではなく、実に国内問題同様の緊急性を帯びる」ことになり、『北支那総覧』が刊行されるに至ったのである。東亜協会は事変発生と同時に華北協会として創立され、これもまた改称されている。同時期において、近衛声明である「東亜新秩序の建設」、及び石原莞爾や宮崎正義たちによる思想運動団体としての東亜連盟の結成が進められていたことを考えれば、その改称もそれに連動していたと見なすべきだろう。

ただ東亜協会の設立経緯、立項や言及は見出せないけれど、「本会員研究の一端を北支那総覧として公表」したとされているので、その内容と執筆者名を挙げてみる。

第一章
 第一節 総覧 陸軍大将松室孝良
 第二節 政治  〃   田中正文
 第三節 地理 商科大学 佐藤弘
 第四節 文化 日本芸術学校教授 一氏義良
第二章 資源  魯大公司顧問/早稲田大学講師 市吉崇治
第三章 産業  東京日日新聞社経済部副部長 藤岡啓
第四章 交通  東亜協会理事 平野英一郎
 第五章 財政  東洋経済新報社国際部長 根津知好
 第六章 金融         〃
 第七章 貿易  慶応大学講師 吉田寛
 第八章     法学博士 大山卯次郎

 これらの東亜協会の会員とされる十人のうちで、佐藤弘は本連載683でふれたばかりであるが、ここでの佐藤は日本でいうところの北支那に関して、山東、河北、山西の三省に、内蒙古の察哈爾、綏遠の二省を加えた五省だと述べ、地理学者の顔を見せている。その他の人物に関しては、肩書以外のプロフィルを付け加えれば、一氏は美術評論家、大山は元サンフランシスコ総領事である。また肩書から推測すれば、東亜協会は北支那のこれらの状況に通じた軍人、アカデミズム研究者、ジャーナリストを中心とするものであろう。

 そこでその理事にして代表とされる平野英一郎の「交通」を読んでみると、支那における鉄道の実態から始まっている。平野によれば、支那は広大な国土、多大な人口、豊富な資源を有しながらも、交通問題から見ると、以前として旧時の南船北馬の域を脱していない。鉄道は八千余粁の国有鉄道に、省有私有の各鉄道を加えても、全長わずか一万粁に過ぎず、中央集権的、近代的国家として建設することを困難にしているし、資源の開発と産業の発達の障害となっている。それゆえに鉄道建設工事は支那にとって経済建設だけでなく、政治的にも軍事的にも文化的にも急務であったし、それは事変後も変わっておらず、まず力を注ぐべきは交通の整備、発達の問題である。

 このような視座のもとに、外国資本によって建設され、借款契約を結んでいる主要鉄道の実態、北支八鉄道と同浦鉄道の営業成績と負債も含んだ概況がレポートされている。それに続いて、これもまた自動車路と公路を中心とする道路、航海海、河川や運河などの水運と海運、それに湾港問題も言及される。現在のタームに置き換えれば、北支那におけるロジスティクス問題が提出され、分析されていることになる。

 これらを読んで見ると、プラグマティックな視点と既述から、平野はアカデミズムに属する研究者やジャーナリストではなく、満鉄において実際に鉄道事業に携わったテクノクラートではないかと思えてくる。このような北支那の鉄道の実態に関する包括的視線は、軍人とも異なる実務家のもののように感じられるからだ。それを考慮すれば、東亜協会もまた満鉄を背景にして設立されたと見なすこともできよう。そしてそうした『北支那総覧』のようなレポートが出版社へと持ちこまれ、所謂「時局出版書」として刊行されていく。それらを本連載で南進論文献に見てきたが、大東亜共栄圏拡大によって、支那にも広く及んでいったのである。

 『北支那総覧』の奥付裏の広告ページには「驚異的売行の時局出版書!」として、本連載678の室伏高信『謎の国・支那の全貌』、同579の後藤朝太郎『支那の男と女』『不老長生の秘訣』、海老名靖『情炎の支那』などが並んでいる。これらは支那事変を背景とするベストセラーの一角を占めていたことになろう。
支那の男と女


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古本夜話699 仏教経典叢書刊行会と立川雷平

 もう一冊、大正時代の仏教書が残されているので、これもここで書いておこう。それは『現代意訳維摩経解深密教』である。同書は 著訳者を岩野真雄とし、仏教経典叢書刊行会から出版されている。

 本連載513で『維摩経』については既述しておいたが、同じく『解深密教』も大乗仏教経典のひとつである。しかしサンスクリット本は散逸していることもあり、この「意訳」は漢訳に基づいている。著訳者の岩野は拙稿「青蛙房と『シリーズ大正っ子』」(『古本探究2』所収)でふれておいたように、『大正・三輪浄閑寺』を著した岩野喜久代の夫である。しかも彼女は東京府女子師範を卒業し、東中野の桃園小学校に貴人赴任し、給料を得るようになり、小遣いのほとんどを書籍購入に向けるのだが、その中に「現代意訳仏教経典叢書」も含まれ、岩野との結婚へと結びついていったのである。
古本探究2

 それは彼女が、これも本連載510の渡辺海旭の増上寺での講演を聴聞するようになったことがきっかけで、海旭門下の四天王と称せられた青年僧侶の一人が「現代意訳仏教経典叢書」の著訳者岩野真雄であった。彼は海旭の仏教文書伝道の志を継承し、大正十五年に大東出版社を興し、夫人とともに『国訳一切経』を始めとする仏教書の出版に携わっていくことになる。またこれも同429でも取り上げているが、後に青蛙房を創立する岡本経一の編集による「大東名著選」も刊行し、その関係で『大正・三輪浄閑寺』が出版されるのである。

 八木書店の『全集叢書総覧新訂版』を確認すると、岩野夫妻を結びつけた「現代意訳仏教経典叢書」は全十二巻予定だったが、第一巻が未刊のままで、大正十年に十一冊が刊行され、翌年にその新版が甲子社から出されたことになっている。それらのことはともかく、この「叢書」で留意すべきは、同刊行会の住所が麹町区山元町の新光社内で、発行者が立川雷平と記されていることである。ここで、同刊行会、新光社、立川が三位一体のかたちでリンクし、仲摩照久と新光社の明らかにされていないバックヤードをうかがわせている。

 立川の名前はかつて一度だけ目にしていて、それを拙稿「原田三夫の『思い出の七十年』」(同前)に挙げておいたが、もう一度引用してみる。

 そのころ麹町の半蔵門近くに、新光社という出版社があった。満洲で新聞をやっていた立川雷平という豪放な男が資本を出し、仲摩照久という作家崩れが事務をやっていた。仲摩はその前に京橋区の桜橋のあたりで「美人画報」や「飛行少年」をやっていた。新光社では「世界の少年」を出し、大泉黒石の「老子」、友松円諦の釈迦の戯曲、推尾弁匡の宗教書など、仏教、思想関係のものも出版していたが、科学物に目を付け私に書かせようとした。

 その原田の「科学物」が、前々回の『砂漠の光』の巻末広告にあった『星の科学』『海の科学』『山の科学』だとわかる。また同様に掲載の大泉の『老子』は本連載171で既述しているし、「友松円諦の釈迦の戯曲」が『地に悩める社会』、「推尾弁匡の宗教書」が『仏教概論』『人間の宗教』をさしていると了解される。

 これらの宗教書と仏教経典叢書刊行会と立川の関係を考えてみると、新光社の宗教書出版と高楠順次郎の『大正新修大蔵経』企画は、仲摩と高楠の関係から生まれたとみなしてきたが、立川が介在することによって発生し、企画も進行していったように思える。このような一大プロジェクトはまさに「立川雷平という豪放な男が資本を出し」てくれないと、成立しないことも確かだからだ。とすれば、新光社が関東大震災によって大きな被害をこうむり、『大正新修大蔵経』の企画が破産してしまったのではなく、豪放な資本家の立川のほうが関東大震災によって没落してしまったのかもしれない。

 実際にこれも「高楠順次郎の出版事業」(「古本屋散策」47、『日本古書通信』二〇〇六年二月号所収)、及び本連載503でもふれていることだが、高楠は独力でそのプロジェクトに挑み、生涯にわたって大きな負債を背負うことになったのである。

 また仲摩に関して本連載695でも、彼が出版プロデューサー的な立場にあったのではないかとも既述してきたけれど、原田が述べているように、本領は『美人画報』や『飛行少年』などの雑誌編集にあったのかもしれない。その優れた雑誌編集の力量が大きく発揮されたのが、円本の『万有科学大系』などだったの見なすことができる。新光社を吸収合併することになる誠文堂の小川菊松は、そうした仲摩の出版者としての資質をよく見抜いていたようで、『出版興亡五十年』においても、仲摩に関して、前述の二誌に加えて、『科学画報』や『趣味の無線電話』、さらに『少年グラフ』や『世界知識』の創刊の成功をたたえ、書籍ではなく、雑誌出版の才を買っていたことを想起させる。そのように考えてみると、仏教書出版に関連していたと思われる立川のことに、さらなる興味をそそられる。その人物に関しても、もう少し探索を続けてみよう。
出版興亡五十年


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