出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話874 岩生成一『南洋日本町の研究』と地人書館

『世界名著大事典』(平凡社)などによって、岩生成一の『南洋日本町の研究』が名著であることは仄聞していたけれど、それを入手するまで、昭和十五年に発行所を南亜細亜文化研究所、発売所を地人書館として刊行されたことを知らないでいた。
世界名著大事典

 その奥付によれば、南亜細亜文化研究所の住所は豊島区目白町で、代表者は白鳥清となっている。同研究所の詳細は不明だが、白鳥は東洋史学者白鳥庫吉の養子で、当時は学習院大教授も兼ねていたと思われる。発売所の地人書館の創業者上條勇は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 [上條勇 かみじょう・いさむ]一九〇〇~一九七五(明治三三~昭和五〇)地人書館創業者。松本市生れ。一九一四年(大正三)上京、坂本嘉治馬の冨山房、矢島一三の中興館などで働いたのち、三〇年(昭和五)独立、神田錦町に地人書館を創業。社名は地質学者小川琢治博士の命名という。『地理学講座』全一四巻を処女出版、地理・歴史・農業関係の学術書刊行に力を注ぎ、三四年(昭和九)には月刊雑誌『天気と気候』(昭和二四、『天文と気候』に改題、現在は『月刊天文』)を創刊した。『南洋日本町の研究』『大観大日本文化史書』などの名著を出版した。古地図の収蔵家としても知られた。

 どのような経緯があって、上條の地人書館と白鳥の南亜細亜文化研究所がリンクしたのかは不明であるし、地人書館の昭和戦前の出版物も確認できていないけれど、その歴史関係の学術書の刊行によるつながりと考えるべきであろう。だがいずれにしても『南洋日本町の研究』は上條の地人書館が「出版した」のではなく、発売所を引き受けたと訂正しなければならない。

 それに本連載679で、室伏高信の『南進論』から始まる南進論出版ブームにふれ、同700において、養賢堂のような農業書版元もまた参画していったことに言及しているが、それは地人書館のような出版社も同様だった。その南進論出版ブームと寄り添うかたちで、岩生の『南洋日本町の研究』の発売所を受け持ったことになろう。岩生は昭和四年から台北帝国大学で南洋史学講座を担当していたし、その原型となる「南洋日本町の盛衰」も、史学科研究年報に連載されたものである。「序」もそうした動向を意識しているように思えるし、次のように書き出されている。

近世初頭に始まる日本人の南洋発展は、我が国史上空前画期的な現象にして、啻に国史一般の理解に当つても看過出来難い許りでなく、殊に転換期に立つ当時の社会情勢の推移や、或は欧舶来航後俄に複雑化した我が海外交通史や、将又当時恰も東亜諸国民の角遂場の観を呈した南洋の国際事情の理解に当つても、一応徹底的に吟味検討せねばならぬ問題である。

 この「南洋の国際事情の理解に当つても、一応徹底的に吟味検討せねばならぬ問題」という文言は、当時の南進論ブームに対する警鐘のようでもある。この問題に関しては「断片的な研究」が発表されているだけで、遠き海外の地のことゆえに国内の関係資料は少なく、移民の大半が無名の人々にして記録もなく、それらに江戸幕府の切支丹禁制と鎖国政策が相乗している。また国外における関係資料収集の困難もある。岩生は大正十三、四年からこの研究に取り組み、「両度南洋に渡り、往時我が祖先の活躍せし現地に就いて、親しく其の遺跡を踏査して関係資料を蒐集するを得、更に又英、蘭、西、葡等関係諸国を巡歴して、其の秘庫深く蒐蔵する未刊の新史料を探訪する」ことにより、『南洋日本町の研究』を提出に至ったとされる。つまり日本と海外の新史料を交差させることによって同書は書かれたことになり、日本とヨーロッパの視線がクロスした「南洋日本町」の復元の試みといえよう。

 江戸時代に入ると、幕府は御朱印船貿易を躍進させ、南洋各地に渡航する商船の帆影は増えていくばかりだった。それは元和二年=一六一六年に至ると、大名、幕吏、大商人、さらに在留支那人、西洋人にまで及び、一八三を数えるに至る。それに伴って南洋各地に移住した日本人も一万人近くと推測され、各地に日本人町が出現していくことになった。それらは交趾=安南、柬埔寨=カンボヂヤ、暹羅=シャム(タイ)、呂宋=ルソン(マニラ)などで、岩生はそこでの日本町の発生、位置、規模と戸口数、行政と主要人物、各活動に関して、日本とヨーロッパの資料とデータを博捜し、立体的にそれぞれの町の具体的な姿を浮かび上がらせていく。

 そしてこれらの南洋日本町の建設の三つの特質として、日本人の相互依存、諸国民との商取引の利便、当該国官憲の外来人取締の必要が挙げられる。その形成は江戸時代初期からで、最大、最存続のルソン日本町は人口数三千人に及んだが、七、八十年の命脈を保ったに過ぎなかった。それは日本の寛永からの鎖国と江戸幕府による後援の欠如、女性移民数と移民永住者の減少、移民在住地の紛争への加担などが主たる要因とされる。それらを吟味した後、岩生は南洋日本町が在住民の活動活発により、その一時の存在は鮮明だったが、大局的には「鎖国を初め内外各方面の相重なる幾多の環境のために」「既に凋落することを余儀なくされたのは、我が国民の海外発展上よりも見ても、誠に惜しみても余りあること」と結んでいる。これらの結論を含めて、大東亜戦争下において、この学術研究書はどのように読まれたのであろうか。

 なお『南洋日本町の研究』は昭和四一年に岩波書店から復刻されている。
南洋日本町の研究


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古本夜話873 岩倉具栄、大槻憲二、アンドレ・モーロア『詩人と豫言者』

 前回、高橋鐵の『南方夢幻郷』の序に当たる一文を寄せているのが、太平洋協会理事の岩倉具栄であることを既述しておいた。幸いにして『現代人名情報事典』にその立項を見出せたので、それを引いてみる。
現代人名情報事典

 岩倉具栄 いわくら ともひで
 政治学者、英文学者 【生】東京1904.2.8~1978.11.2 号南山、浩堂【学】1927東京帝大政治学科【係】父岩倉具張(公爵)【経】公爵、1934貴族院議員、35済生会参事、37十五銀行監査役、42司法省委員、49法政大教授、他に、岩倉鉄道学校総長、梅若能楽学院院長、日本建設協会社長【家】長男岩倉具忠(イタリア文学者)【著】1952訳ラスキン著《黄金河の王道》、57訳ロレンス著《ロレンス短篇集》、60編《岩倉具宮内大臣集》、他に《戦時人口政策》《大東亜建設と植民政策》《南国の日射し》

 この岩倉と高橋はどのようにして結びついたのであろうか。それは高橋に「まえがき」の中に一端が示され、「序文をお寄せ下さった岩倉公爵は太平洋協会にあって南進の舵輪を握っておられるだけでなく、マンスフィールド、ロレンス等を訳著された心理主義文学の研究者であり精神分析学の先輩です」と記されている。

 その他ならぬアンドレ・モロアの訳書、正確にいえば岩倉、金子重隆、大槻憲二共訳のアンドレ・モーロア『詩人と豫言者』が手元にある。これはA5判上製、函入三一四ページで昭和十六年に岡倉書房から出されている。モーロアの「緒言」によれば、フランス人に向けて発表した講演からなり、「現代苦を克服する文豪の列伝」で、ウエルズ、チェスタトン、コンラッド、ロレンス、マンスフィールドなどの九人の英国人作家を論じている。ただ翻訳のほうは原書表記がPoets and Prophets とあるので、それをキャッチコピーとする英訳版によっているのだろう。
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 「訳者の言葉」は大槻憲二の名前で書かれ、モーロアの「精神分析的の深さ」に基づく批評の特質を挙げた後、他に訳書にも言及している。

 共訳者岩倉具栄氏は公爵、法学士であって、據て学芸に特別の関心を持たれ、さきにマンスフィールド短編小説集『理想の家族』及びD・H・ロレンス小説集『太陽』の訳書を公にせられたことあり、従つて本書の訳者として極めて適当、且つ自然である。同じく共訳者金子重隆氏は早大文学部出身の人、現在、上野公園内の黒田美術館員として国際文化関係の仕事に携つてゐられる。その語学力に就いては、私の保証を待つまでもないであらう。

 この大槻に関しては本連載82で、すでに言及している。彼は矢部八重吉や長谷川誠也と昭和三年に東京精神分析学研究所を創設し、翌年に三人を訳者とする『フロイド精神分析学全集』を春陽堂から刊行する。そして六年には雑誌『精神分析』も創刊され、精神分析研究会が発足する。そのメンバーには江戸川乱歩もいたし、高橋鐵も加わっていたという。
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 長谷川誠也=天渓は本連載866でも挙げておいたように、博文館の出版局長も務め、早大英文科講師も兼ね、大槻の師ともなっていた。長谷川は精神分析の講義も行なっていたと伝えられている。また高橋も長谷川を師としているので、大槻や長谷川を通じて岩倉とつながり、南進論ブームにあやかり『南方夢幻郷』というタイトルを付したことによって、太平洋協会理事の岩倉に序を寄せてもらったと考えられる。

 そのような長谷川、大槻と高橋の関係は出版社にも及んでいたはずだ。霞ヶ関書房版『世界神秘郷』の「夢のあとがき」には大槻の慫慂によること、久保書店版「自ら謎をつぶやく」には長谷川と小野佐世男が作品の掲載を世話してくれたという旨が述べられている。それを具体的にいえば、長谷川が博文館の『新青年』、小野が文藝春秋の『オール読物』へ推薦してくれたのであろうし、戎光祥出版版『世界神秘郷』に収録されたほとんどの作品が、両誌の掲載だったことがそれを裏づけている。ちなみにこれも偶然なのか判断できないが、小野は本連載866などの大木惇夫や阿部知二と一緒にジャワに向ったメンバーの一人でもあった。

世界神秘郷(戎光祥出版)

 また『世界神秘郷』の霞ヶ関書房版は昭和十六年の刊行だが、大槻憲二『民俗文化の精神分析』(堺屋図書)所収の「大槻憲二略譜」を繰ってみると、大槻も同年に宮田戊子と共著で『近代日本文学の分析』を上梓している。おそらく『世界神秘郷』も大槻を通じて、霞ヶ関書房から出版されたと判断できよう。『南方夢幻郷』の東栄社は手がかりがつかめないが、やはり大槻や長谷川の精神分析人脈絡みの出版社だったのではないだろうか。

民俗文化の精神分析



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古本夜話872 高橋鐵『世界神秘郷』、『南方変幻郷』、「蕃女の涙」

 大東亜戦争下において、多くの人々が南方へと向かっていた。それは本連載9の戦後の性科学者として著名な高橋鐵も例外ではなかった。しかもそれは前回の太平洋協会の岩倉具栄の序を添えてであった。

 だがそれを知ったのは近年のことで、高橋の『世界神秘郷』(日下三蔵編『ミステリ珍本全集』5、戎光祥出版、平成二十六年)が刊行されたことによっている。同書には『世界神秘郷』(霞ヶ関書房、昭和十六年、久保書店、同二十八年)と『南方夢幻郷』(東栄社、同十七年)という二冊の短編集、及び単行本未収録七編が収録されている。『世界神秘郷』にしても『南方夢幻郷』にしても、その存在は知っていたけれど、これまで実物にも原本にも出会うことなく、今回の戎光祥出版『世界神秘郷』が刊行されるまで未読のままであった。
世界神秘郷

 それもそのはずで、日下にしても『世界神秘郷』のほうは戦後に久保書店から再刊されていることから、読むだけならば、それほど苦労はなかったが、『南方夢幻郷』はほとんど幻の本だと証言している。彼もまた現物を見ておらず、所有もしていないので、同書のテキストは国会図書館所蔵本を原本としている、それで私も前者はともかく、後者は古本屋や古書目録で出会わなかったことに納得した次第だ。それゆえにここでは『南方夢幻郷』にふれてみたい。なお戦後の高橋と久保書店の関係については、飯田豊一『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』(「出版人に聞く」12)に詳しい。
『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』

 先の岩倉は序にあたる「『南方夢幻郷』に寄す」において、昭和十六年の南洋視察体験を述べ、「自分の南洋への憧憬(あこがれ)」が満たされたことを語り、次のように続けている。

 近年、日本人の南方への関心は高まる一方であるが、真に南の国を知るためには、情熱的な愛を持つと同時に、科学的にも、南洋を研究する必要があると思う。
 かくして始めて、南洋を理解し、真に大東亜建設の大業を成就することができるのである。
 殊に、大東亜戦争勃発以来、皇軍は、陸に、海に、将、空に、大南洋を席捲しつつある時日本人の南への夢は、今や現実化されたのである。
 日本の東亜共栄圏建設は、既に緒に付かんとしている。この時、南方への夢と科学を表現した、高橋鐵君の著書が上梓されることはまことに時宜を得たものと思い、世間一般に寄与する所大なるを信じて疑わないのである。

 高橋もその「新日本圏を眼前にして」とある「まえがき」において、「南方の夢幻に煌く風土美と、季節風(モンスーン)の如く吹捲る情熱と伝奇」に基づく中篇小説をここに集めたとしている。ただその五編の中でも、「南方の夢幻」にふさわしいのは「蕃女の涙石(タンギワイ) ニュージーランド篇」である。他にはフロイト的なトラウマ物語といっていいので、ここではそれを取り上げたい。

 この作品は数年前に東京で開かれた「海国日本大博覧会」におけるニュージーランドのマオリ土人たちの唄と踊りの紹介から始まり、その中にいたタウポという「酋長の娘」で、「目鼻立ちがハッキリした、ちょうど熱帯の濃艶な花のように芳しい美人」のことが語られる。そこで「私」は旧友の水島に出会う。彼はマオリ土人の臨時の興行師だった。「この国に来て踊るのが嬉しくてたまらぬように、寧ろ、淫らにみえるほど大きな瞳を輝かせて踊っていた」タウポに、土俗学研究者兼小説家として紹介される。彼女は自分の「生命」を預けた「ハカ」という日本人を探すために日本へやってきたのであり、英語も達者で、「ハカ」も土俗学に通じていたと話し、「私」に敬意を表する「マオリ族の有名な鼻挨拶《ホンギ》」をする。それは彼女の鼻と「私」の鼻を合わせるものだった。

 そのことから「私」は世田ヶ谷のG脳病院にいる癲癇性痴呆の患者の誇田哲夫を思い出した。彼は文化人類学者で、世界一周の旅に出て、三年後に帰国したが、突然ホテルで何の関係もない英国人二人に重傷を負わせてしまった。精神鑑定の結果、癲癇発作の朦朧状態での犯行だと判明し、入院となったのだが、発作が起きる前には必ず壁に寄って鼻をこすり、奇怪な英語を口走るという。そこで「私」は彼が発作から覚醒した直後を見計い、何が見えたのか聞いてみると、「氷の地獄から火の地獄ですよ。・・・二ア人(ふたり)で見た坩堝ですよ」との呟きが戻ってきた。それに彼の頭頂部には生々しい傷跡があり、そのために外傷性癲癇を誘発したにちがいなかった。この袴田こそはタウポの探す日本人の「ハカ」に相違なかった。

 また「私」はタウポから「いかなる怪奇小説家だって妄想し得ないほど面妖な、南海秘宝の行方にまつわる」話を聞いた。ニュージーランドは火と氷の島で、北は火山、南は氷河の島だった。マオリ族の住むこの島は十七世紀に白人によって発見され、十九世紀半ばには英領となっていた。その間にはマオリ族と英国人との民族闘争があり、それでいてタウポにも英国人の血がまじり、「血まで征服されていた」。しかし彼女は「征服者に対して、熾烈な憎しみをもっていた。彼女の肉体の中で、血と血が争っていたのだ」。

 そのために、父が英国商人に彼女を献じようとした時、「マオリの保塁(ペリ)」として、自分をつかまえたマオリ青年の花嫁になるという、カヌーによる「花嫁狩」に身を投じる。それに対し、見物の異国人が「野蛮の風習(サベエーシ・゙サーヴァイヴァル)」だという。その言葉にタンポは「文明の結婚だった同じようなもの」と言い通し、この日本人の若い学者と一緒に、北島の「ロトマハナの大地獄」に赴く。そこは火山の巣で、二人は死への願望を秘めた地獄巡りのように噴泉口をたどるが、爆発が起き、彼は火山岩の破片で、頭蓋を骨折してしまう。タウポは死に瀕している「ハカ」の屍に自分の命を封じこめようとして、胸にかけていた翡翠の「涙石」をその傷口に押し入れ、縫ってしまったのである。「涙石」は白人とマオリの勇士の闘いが彫刻してあり、ニュージーランドの大峡谷の絶壁中から見出され、マオリ族の祖先がそこにたどり着き、妻を思いながら悶死した涙の化石とも伝えられていたものだ。

 そうして「ハカ」は日本へと還され、タウポは彼を探すために日本へとやってきたのである。その半月後、袴田の涙石の除去手術が行われたが、それを知らずしてタウポはマオリ族の祖先がいたトルツク島へ移住する決意を話し、日本を去っていった。だが回復した袴田は正常に戻り、タウポの話を聞き、「僕も移住しよう。そして僕の土俗学を完成させましょう」と語る。その三年後に『南洋土俗考』が完成し、「私」の「マオリの蕃女は、彼等の住む氷河のモンミルフォード峡谷から見出される涙石を、生命の如く愛すという」に始まる「序文」で、この物語は閉じられている。

 この「蕃女の涙石」を読みながら想起されたのは、アンコールワットをめぐるフランス人たちの東洋幻想であり、これは日本人によって変奏された南洋幻想のようにも思えてくる。


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古本夜話871 古野清人編『南方問題十講』

  前回の昭和十八年刊行の『バリ島』がA4判二段組、定価五円五十銭で、初版三千部だったことを示しておいた。これも所謂南進論関連の一冊として、軍関係の助成金を得ての出版だと見なせよう。だがこうした特殊な専門書ともいうべき『バリ島』ではなく、一般的な南進論関連書はどれほどの市場規模、具体的にいえば、どのくらいの初版部数を刷ることができたのであろうか。
f:id:OdaMitsuo:20190117114355j:plain:h120(『バリ島』)

 そうした例としての恰好の一冊を入手している。それは昭和十七年七月に刊行された第一書房の『南方問題十講』で、奥付には定価一円三十銭、第一刷一万五千部とある。大東亜戦争下において、取次は日配一元体制となり、買切制に移行しつつあった。そして国内だけでなく、支那、満州、朝鮮、台湾などの流通も含んでいたことも考えれば、一万五千部の配本は可能であっただろうし、出版社にとってもかなりの利益を想定できる企画だったことになる。

 編者の古野清人はその「序」で、そうした状況に見合う文言を述べている。「大東亜戦争の輝やかしい成果に伴うて、大東亜圏の有力な一環をなす南方諸地域に対する経済・政治・文化的観点からする国民的関心は俄然高揚してきた」と。そしてこれは司法保護研究所が「大東亜戦争遂行ニ伴フ司法保護事業ノ時局的展開ノ必然性ニ鑑ミ」、南方問題講習会を開催し、そのうちの十講を編んだものとされる。

 そのタイトルと講師名、役職名を挙げてみる。

1「大東亜共栄圏の経済」 山田文雄 太平洋協会調査部長
2「大東亜共栄圏の文化総論」 古野清人 東亜経済調査局西南アジア班嘱託
3「南方民俗の宗教文化」 宇野円空 東京帝大教授、東洋文化研究所員
4「南洋の華僑」 井出季和太 東亜経済調査局南洋班嘱託
5「衛星について」 深田益男 陸軍軍医学校教官・軍医少佐
6「泰の近情」 東光武三 外務省南洋局第二課長
7「ビルマ概観」 国分正三 ビルマ研究会会長、海軍軍令部嘱託
8「マレー事情に就いて」 野村貞吉 元南洋日日新聞主筆
9「蘭領東印度の内情」 岡野緊蔵 大信産業社社長
10「比島事情」 三吉朋十 南洋経済研究所嘱託

 様々な分野から「南方問題」関係者や研究者たちが召喚されているとわかる。はやりここでも山田文雄に象徴される本連載120や584などの太平洋協会、及び古野や井出季和太が属する同564などの東亜経済調査局の存在が浮かび上がってくる。

 しかしこれらのすべてに言及することはできないので、1の山田の「大東亜共栄圏の経済」を取り上げてみる。その前に断っておくと山田のプロフィルは太平洋境涯調査部長であることしか判明していない。けれども彼の講演が経済と資源問題にすえられていることからすれば、地政学に通じた経済学者とも見なせるだろう。まず彼は大東亜共栄圏に関して経済的視点から考察すると、結局のところ問題なのはその大東亜共栄圏内部における経済的な自給性であるとし、次のようにいっている。

 即ち、日満支を一体として、更に之に南方圏を加へた一つの生活圏を設定し、その内部において各民族が共存共栄の実をあげ、以て世界の平和に寄与する。これが大東亜共栄圏といふものに対する私の極く概略の規定であります。而して之を経済的に見れば、その内部に於ける自給性といふことが問題になると思ふのであります。

 それゆえに大東亜共栄圏の範囲として、経済的な自給ができるのであれば、オーストラリアを外し、またそのために必要ならば、インドを加えなければならないとする。そして山田は世界を四つブロックに分けてみせる。それらはドイツ、イタリアを中心とするヨーロッパにアフリカを加えたヨーロッパ・アフリカブロック、ソ連を中心とするブロック、南北アメリカをひとつとする汎米ブロック、それから日本をチュ云う秦とする大東亜ブロックである。

 この四つのブロック分類に続き、山田はそれらにおける鉄鉱、石炭、石油、特殊金属などの資源の問題に入っていく。それらの中でも、石油は大東亜で全世界の生産量の三%に満たず、大東亜共栄圏の広大な地にはまだ発見されていない石油資源があるはずなので、現在の生産量を三、四割増やすことができるであろう。また石油の他にも大東亜における資源の有無が列挙され、その自給性も問われていく。しかし人的資源は大東亜共栄圏の中心にある、世界に誇るべき優秀な大和民族が担わなければならない。そして他民族、とりわけ南方民族がクローズアップされる。

 南方民族は、将来の南方開発に当つてわれわれと協力して大東亜の開発に当らなければならない人間であるにも拘らず、その文化程度が非常に低く、経済発達も後れ、知識も低い。何よりいけないことは、過去三百年、或は三百数十年に亙つて英米等の植民政策の結果として弾圧に弾圧を加へられ、何百年間といふものを生れながらの被統治民族として英米人の桎梏の下に置かれてをつた。この三百年間の統治によつて彼等が去勢されて了つたといふことであります。

 ここにきて、それなりに大東亜共栄圏における経済的な自給性と資源の問題をコアとし、各民族の共存共栄と世界の平和寄与から始まっていたにもかかわらず、ヒトラーの『わが闘争』のベースにすえられた生存圏の拡大、アーリア民族の優秀性、ユダヤ民族の劣等性といったアイテムを反復するに至ってしまったのである。経済的な自給性と資源問題はナチスの生存圏の拡大とリンクし、アーリア民族を大和民族、南方民族をユダヤ民族に置き換えている言説に他ならないからだ。おそらくこのような言説によって太平洋協会もまた成立していたことになろう。

わが闘争 上


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古本夜話870 カヴァラビアス『バリ島』と産業経済社

 前回の阿部知二の『火の島』に関して、ジャワ島だけで終わってしまったこともあり、今回はバリ島にふれてみたい。
 火の島 (中公文庫)

 阿部はバリのことを思い出してみると、ボオドレールの『悪の華』の「異国の香」の一節「ひとつの懶い島、そこに自然が恵むものはめずらかな樹々、と味わいふかい木の実、からだのしなやかで強い男たち、驚くほどの淡白な眼差の色の女たち」が重なり、心に浮かんでくると始めている。
悪の華

 バリは少数の民俗文化研究者が嘆いているように、観光業者たちの手引きによって世界的な遊覧地となり、「唄や踊の島」として著名になっていたが、その伝統も淳風も滅びんばかりの状況に追いやられていた。これはバリにとって決して名誉なことではないし、今回の戦争によって、「蘇生と東洋復帰の機とならなければならぬのである」。異国情趣を売る外国人芸術家たちも、ゴーガンを連想させるどころではなく、三番煎じのわびしさを感じさせる。

 そこで阿部は南部の村に「ラジャ」という土侯、酋長といったほうが適切かもしれない人物を訪ねる。言葉は通じないけれど、ガメラン楽団を組織して指揮し、レゴン踊子も育成している壮漢で、歓迎の宴を張ってくれた。星空の下での食事、深夜までのガメラン楽、そこでの一泊と翌朝の村の聖地の見学は「胸に通じあうなにものか」を阿部に与え、写真や絵からは得られないバリへの親愛感を強くしたのであった。

 そしてさらに奥地も訪れ、山里の踊を見て、豚の丸焼を味わい、仮面芝居や影絵芝居、歌劇などを見ることで、バリ人の舞踊演劇好きを知り、バリの天地が神と魔霊と人間がともどもに楽しむ一大舞台であることを理解するに至る。それからバリの島の特徴、自然の美に恵まれた米作と祭祀、野菜と果実の豊穣さ、多彩な家畜たち、この小天地の自然と結びついて生きている百十四万人の人口から宗教、労働、生活、結婚、神話伝説までもに筆が及び、そこには確かにジャワ島以上の親愛感が充ちている。

 阿部はこれらの言及を直接の見聞の他に、いくつかの本によっていると注で述べ、それらの書名を挙げ、その中のM.Covarrubias:Island of Bali は「絶対の信頼を置くべきかは疑問」だが、「バリ紹介として甚だ好適な本だという定評もあり、翻訳も進められている」と記している。その翻訳が手元にあり、昭和十八年十一月に産業経済社から『バリ島』として、三千部の刊行で、A4判、上下二段組、二三八ページの一冊である。
f:id:OdaMitsuo:20190117114355j:plain:h120(『バリ島』)Island of Bali

 これはミーゲル・カヴァラビアス原著、新明希予、首藤政雄共訳とされているが、「序」は意外な人物が寄せていて、それは本連載113などでふれた、上海におけるユダヤ人河豚計画の主唱者大塚惟重海軍大佐である。そこで大塚は述べている。

 バリ島が、近年欧米人の好奇の対照となつた所以は、単に美男美女の住む常夏の楽園としてのみではない。東洋で最も古い風習、宗教を維持する島として尽きぬ興趣を抱いてゐるからに外ならない。即ち、日本的に云へば古事記の所謂大海原の国に遺る古代風俗研究対照として、最も好個のものである。余も年来、之に着目してゐたが、幸ひ征戦途次〇〇館長としてバリ島寄港の好機を得、更にジャワ島マラン市にて本原著を購ひ得たので、広く識者の研究に裨益せんことを庶ひ、本書訳本を快諾した所以である。

 この大塚の「序」に従えば、彼がジャワ島で入手した原著を首藤政雄と新明希予が共訳し、堀越ハルを発行者とする産業経済社から刊行したことになる。だが原著者、二人の訳者、出版社のいずれにしても、ここで初めて目にするもので、巻末の同社の堀越登吉『紙の統制事情』『紙の知識』といった出版物からすると、紙に関する専門書版元、堀越ハルはその夫人のように考えられる。その一方で、「思想書」として、大月隆仗『大国隆生』、遠藤友四郎『尊皇国史詠歎』も刊行しているので、こちらのラインから『バリ島』の出版へとリンクしていったのであろう。
f:id:OdaMitsuo:20190118103258j:plain:h120(『尊皇国史詠歎』)

 「原著者序」を読むと、カヴァラビアスは一九三〇年に誰も知らなかったバリ島で暮らし始め、マライ語を習得したが、アメリカに帰らざるを得なかった。その帰途、パリに寄ったところ、植民地博覧会が開かれていて、そこにバリの友人たちを見出し、バリへと帰りたい思いにかられた。三三年にグッケンハイム財団からの奨学金と貯金をはたき、バリへと戻った。すでにその時にはバリ島には旅行者が殺到し、バリ人の生活も変わり始めていた。そこで山村に生活を定め、古来の山村の伝統、習慣、儀式を記録し、近代商業主義のもとに失われようとしている現存のバリの文化を一巻にまとめることにしたとある。

 巻末の口絵写真は三十二ページ、半ばにある挿絵は十九ページに及び、バリ島の風景、住民、部落、生活、芸術、劇、儀式、祝祭、葬儀などが浮かび上がり、この『バリ島』の構成もまたそのように仕上がっている。大東亜戦争下において、このような『バリ島』の出現はどのような波紋をもたらしたであろうか。関心は募るばかりだし、それは訳者たちに関しても同様である。その「跋」において、新明は上海で、バリ島の十六ミリ映写に立ち会ったこと、及びそれを一緒に観た大塚大佐が『バリ島』をもたらしたと述べている。そしてバリ島に「古代日本風俗」を見たことを。同じく首藤も「我等の祖先が嘗て経験したであらうやうな、顕幽一如の姿が現存してゐる」ことを表明している。この二人もどのような人々なのであろうか。

『文化人類学事典』(弘文堂)の「バリ」の項に参考文献として、『バリ島』は訳者を付し、その筆頭に挙げられているが、二人に関する言及は見当らない。
文化人類学事典

 なお平成三年になって、『バリ島』はミゲル・コバルビアス著、関本紀美子訳として、平凡社から新訳刊行されるに至っている。
バリ島


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