出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1323 新潮社「現代仏蘭西文芸叢書」と望月百合訳『タイース』

 前々回もふれたように、望月百合子は百合名義で、大正十三年に新潮社からアナトオル・フランスの『タイース』を翻訳刊行している。『タイース』『近代出版史探索Ⅴ』810で、『舞姫タイス』として取り上げているし、望月訳はこれも同815で挙げておいた「現代仏蘭西文芸叢書」としての一冊である。この「叢書」は紅野敏郎『大正期の文芸叢書』にも見出せるので、それらのラインナップを示す。

(『舞姫タイス』、白水社)大正期の文芸叢書

1  アンドレ・ジッド  山内義雄訳 『狭き門』
2  アナトオル・フランス  小林龍雄訳 『我が友の書』
3  ピエェル・ロテイ  和田伝訳 『ラマンチョオ』
4  アナトオル・フランス  平林初之輔訳 『白き石の上にて』
5  ポオル・モオラン  堀口大學訳 『夜ひらく』
6  アンドレ・ジッド  石川淳訳 『背徳者』
7  ルイ・フィリップ  井上勇訳 『ビュビュ・ドゥ・モンパルナッス』
9  ポオル・モオラン  堀口大学訳 『夜とざす』
10  アナトオル・フランス  望月百合訳 『タイース』
11  ポオル・ジェラルディイ  岡田三郎訳 『銀婚式』
12  アンリ・ドゥ・レニエ  鈴木斐子訳 『生ける過去』


      
 
 この「現代仏蘭西文芸叢書」で『タイース』の巻末広告において、どうしてなのか、6までが掲載されているが、それ以降は見えていない。ここで8が抜けているのは、紅野によれば、編集の手違いだとされている。そのことはさておき、これは「吉江喬松氏監選」と銘打たれているように、『近代出版史探索』189などの吉江の現代フランス文学者兼企画編集者としてのセンスが発揮され、ここでジツド、フランス、フィリップ、モオランなども本格的に紹介され始めたといえよう。紅野は「大正末から昭和にかけてのわが国の近代文学者の聖典の如きものになった」と指摘している。とりわけ5のモオランの『夜ひらく』が新感覚派に与えた影響は、先の拙稿でも既述しておいたとおりだし、6の石川淳訳『背徳者』も特筆すべきだろう。

 訳者たちは主として早稲田の吉江の関係者、東京外語出身者で占められ、三田の堀口はともかく、「望月百合(百合子)などは特別の人」の感があると紅野は述べている。彼にとって、望月の「山梨の山人会の会長もしておられ、山梨県立文学館の創設の構想準備段階から熱心に参加され、オープン後もしばしば来館、百歳に近い現在もお元気そのもの」という姿に接していたので、彼女の若き日の翻訳を示すに際して、感無量の思いが生じたのであろう。私にとっては前回の大日向村のこともあるので、ここで望月と3の和田伝が並んでいることに注目してしまう。

 それならば、和田のロテイはともかく、どのようにして「特別の人」による『タイース』の翻訳は成立したのだろうか。彼女の「一九二四・四・一六/巴里にて」とある「訳者の序」を読んでみると、この日がフランスの八十歳の誕生日で、それを記念して『タイース』の翻訳原稿を日本へと送るに際して、この「訳者の序」もしたためられたとわかる。彼女によれば、二四年八月にパリで有島武郎の情死を知らされた。彼女にとって「有島先生は文学者としても私の敬愛してやまぬ一人でした。私も他の人々のやうに先生の作品が好きで、先生の『人』それ自身を敬ひ愛する者」だったのである。

 有島の死は望月の神経衰弱をエスカレートさせ、その病気を紛らわせようとして、『タイース』の翻訳を思い立つ。それは有島とフランスに同じ人道的愛を見出し、前者もまた後者の愛読者だったことも挙げているが、望月は『タイース』に情死した有島と波多野秋子の関係を重ねているように思われる。『タイース』の物語は先の『舞姫タイス』のところで提示しているが、ここでもう一度そのシノプシスを簡略に紹介してみる。

 原始キリスト教の指導者パフニュスは世俗生活の頃に見た舞姫タイースを思い出し、彼女を生活から清めようとして、アレクサンドリアに向かい、説得して尼僧院に入れる。だがこの時から彼はタイースの魅力に取りつかれ、それを忘れるために苦行に励み、名声は高まるけれど、悩みは募るばかりだった。そこにタイースの臨死の知らせが届き、彼が駆けつけると、彼女は信仰のうちに平安な死を迎えようとしていた。そこでパフニュスは叫ぶ。死んではならぬ、神も天国もつまらない、地上の生命とその恋だけが真実なのだと。その彼のわめき立てる形相を見て、尼僧たちは「吸血鬼!」だと叫び、逃げ出してしまう。

 この物語に関する注釈と読解は繰り返さないが、望月訳『タイース』に込められた心情は、パフニュスが有島武郎、タイースが波多野秋子ということになるだろう。それは有島情死事件が望月を始めとするフェミニズム陣営の女性たちに与えた衝撃の一端を物語っているように思える。望月が「私にとっては恩師でもあり、心の父でもある。石川三四郎先生の御校閲を経て公にすることができるなら」とも記しているのは、そのことを意味しているのではないだろうか。そうして石川を通じ、吉江、もしくは「現代仏蘭西文芸叢書」関係者のところに持ちこまれ、刊行されたのではないだろうか。

 ちなみに紅野によれば、1の山内義雄の夫人の山内緑は『女人芸術』同人の小池みどりであるという。そのことを考えると、12の鈴木斐子はプロフィルがつかめないが、そちらのラインからの翻訳者かもしれない。私はそれ『生きている過去』(窪田般弥訳、桃源社)として読んでいるが、この女性がその初訳者であることをここで初めて知った。

 生きている過去 (1966年) (世界異端の文学〈3〉)

 
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古本夜話1322 満州と和田伝『大日向村』

 望月百合子『大陸に生きる』を読んでいて、舞台は満州でありながらも、日本の昭和十年代を彷彿とさせたのは、『近代出版史探索Ⅲ』530の小川正子『小島の春』『同Ⅴ』812の白水社の『キュリー夫人伝』 が取り上げられていることである。また周作人との対話の収録も、彼女がエロシェンコ人脈に連なっていたことを想起させる。それらに加えて、望月の著書がやはり『同Ⅴ』904の同時代の「開拓文学」の体現に他ならない朝日新聞社の「開拓文学叢書」と連動しているのは明らかだ。

文化人の見た近代アジア (6) 復刻 大陸に生きる (ゆまに書房復刻)   (白水社新装版)

 それは望月が最初の章「東満散策記」において、昭和十四年に大日向村を訪れ、この村の名士ともいえる九十歳になるお婆さんにも会っていることにも明らかだ。この人物は和田伝が取材の際に会ったお婆さんで、和田の大日向村が「すつかり観光地みたいになつてしまつて・・・・・・」という言も引かれているし、続けてそこには大日向村の道を背景にして、ひとりの村の娘と望月との一ページの並立写真もある。その大日向村は翌年の章の「新しき行進譜」でも再訪され、その村が和田の言を肯う「観光地」にされた現実の一端を伝えていよう。和田の農民文学は『近代出版史探索』184、185などでも取り上げている。

 なぜそのような大日向村の「観光地」化が生じたかというと、それは和田伝の『大日向村』がもたらしたプロパガンダを伴う開拓文学の影響と見なせよう。和田の作品は先述の朝日新聞社の「開拓文学叢書」の一冊として、昭和十四年に刊行されている。だがこれは福田清人『日輪兵舎』と異なり、入手できていないので、テキストは『和田伝全集』(第四巻所収、家の光協会、昭和五十三年)によっている。まずはこの小説のストーリーを紹介してみる。

   

 長野県南佐久郡大日向村は千曲川の上支流に位置する峡間の底の八つのむらからなり、夜が明けるのは遅く、日没は早く、大日向とは名ばかりの日陰の村で、昔から俗に半日村とさえ呼ばれていた。農家戸数三百三十六戸に対し、一戸あたりの耕筰面積は田畑合わせて七反九畝でしかなく、東西の山々の炭焼きを兼ねた生活で、しかも寺社有、国有林を除く林野面積のうちの四百町歩は一人の豪家の所有であった。それでも三千六百町歩の村有林があり、古来からその伐採は年々百町歩から百二十町歩で、二十五年で一巡りするという輪伐法により、年々十万俵の炭が焼かれ、耕作は狭くとも村民は山に入り、炭を焼いていれば、生活に困ることはなかった。

 ところが昭和五、六年のすさまじい農村恐慌で一俵一円四十銭の木炭は四十銭、一貫目十二、三円の繭は二円を割ってしまったのである。そのためにこれまでの輪伐法は維持できず、昭和九年までには村有林だけでなく、私有林も過伐され、山は次々に裸にされてしまった。その結果、大日向村の歳入の三分の一にあたる村有林の払い下げ代金も入らず、村税怠納額は一万円を超え、窮地に陥っていた。

 そこで村長は、村の素封家の長男で、早稲田大学政治科を出て、そのまま日清生命に入り、東京で暮らしていた浅川武麿に新たに村長を依頼することになった。それは村長一人の判断ではなく、役場、産業組合、農会、学校の代表者たちも同様で、彼らの上京しての浅川の寓居での坐り込みによって実現するに至る。

 しかし武麿にとって、故郷の家は没落し、希望もない故郷でしかなかった。それならば、どうして尊重を引き受けたのか、それは次のように説明される。

 彼は村行政に就いてべつにはっきりした知識も何も持っていなかった。従って方角はべつに何も立っていなかった。自信があるというのでもなかった。しかし(中略)ふるさとはしだいに山の彼方のものとは考えられなくなったのである。ふしぎと情熱が沸いてくるのをおぼえ、日毎にそれが強力に彼を捉えて放さなくなった。長年の都会生活でかつておぼえたことのない強い情熱であった。忘れていた故郷の山のけわしさと切りむすんでもたじろがぬそれは強靭な情熱となって盛り上がってくるからふしぎであった。「村」という言葉が、かつておぼえたためしのない響きで心に切り込んでくるのであった。そして、その切り込みは深く、痛いほどに刃のあとを残して消えるということがなかった。

 満州事変以後の昭和十年代の出郷者の「村」への回帰がここに語られていることになろう。かつて野島秀勝の『「日本回帰」のドン・キホーテたち』(冬樹社)を読んだことを思い出す。しかし武麿にしてみれば、具体的に大日向村再建のヴジョンを提出しなければならない。それは大日向村の過剰農家の問題とつながり、満州への農業移民計画として展開結実していく。長野県は昭和七年からそれが始まり、十一年までに第五次移民団を送り出していた。彼の計画は「この大日向村を二つに分け、その一半をそのまま大陸に移し、もう一つの新しい大日向村を彼地に打ち建てよう」とする新しいものだった。

 それは武麿の「半ば夢みたいな」「まったく新しい形の一つの空想」だったが、多くの村民の賛同を得て、計画は進められていった。農林省経済更生特別助成村に選ばれ、負債の性器、必要な資金繰りの目途も立ち、先遣隊が満洲へと向かうことになった。村の神社で「暁天はるか輝けば/希望は燃えて緑なす/見よ大陸新平野/拓く吾等に光あり/おお満州「大日向村」という満州大日向村建設の歌が高らかに唄われ、送り出されていったのである。そして昭和十三年には、入植地は吉林省舒蘭(ジャラン)県四家房(スージャフワン)と決定し、その新地面積は既墾地二六〇〇町歩を始めとする広大なものだった。

 和田伝は昭和十三年十月にこの大日向村を訪ね取材し、『大日向村』を上梓する。十五年には豊田四郎による映画化、前進座による加藤大介などの舞台公演も重なり、それが大日向村の「観光地」化を促進していったのであろう。

 そのために『大陸に生きる』にあっても、望月百合子による二度の大日向村訪問もなされたと考えられる。


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古本夜話1321 望月百合子『大陸に生きる』と大和書店

 前回、『女人芸術』創刊号の「評論」は山川菊栄「フェミニズムの検討」、神近市子「婦人と無産政党」に続いて、望月百合子「婦人解放への道」が並んでいることを既述しておいた。その内容にふれると、婦人解放は単なる参政権の獲得や職業上の平等だけでなく、男子の解放も意味し、自由と平等と相互扶助の精神を体現する連帯生活に求められるべきだという主張である。

 (『女人芸術』創刊号)

 さらに望月の論に踏みこまないけれど、『女人芸術』創刊時の昭和初年において、彼女は中條ならぬもう一人の百合子として、山川や神近に匹敵するフェミニズム陣営の論者だったことになる。だが『神近市子自伝』に山川(青山)菊栄は出てきても、望月は登場していない。本探索1316のエロシェンコとアグネス・アレグザンダーの席に望月とともに参加しているはずなのに。それは二人の思想の相違に加え、望月がアナキストとして『女人芸術』から離反し、昭和五年に高群逸枝、住井すゑ子、八木秋子たちと『婦人戦線』を創刊したことも関係しているのだろう。

 望月は『日本アナキズム運動人名事典』に半ページを超える長い立項があるので、それを要約してみる。明治三十三年山梨県生まれで、東京市ヶ谷の成女高等女学校卒業後、大正八年に読売新聞社に入社し、洋服と断髪でモダンガールの走りとなる。この頃、石川三四郎と出会い、十年に新聞社を辞め、石川と同じ船で農商務省派遣によるフランス留学へと旅立ち、フランスのアナキストたちと知り合い、アナトール・フランスの『タイース』を翻訳し、十三年に新潮社から出版し、十四年に帰国する。昭和二年に石川による千歳村での土民生活の実践としての共学社にパートナーとして関わり、翌年には『女人芸術』に参加する。昭和五年に同志の古川時雄と結婚し、十三年に夫が満州に職を得たことで、彼女も新京にわたり、『満洲新聞』の記者となり、満州在住の女性のための大陸文化学園、丁香女塾を開くのである。

日本アナキズム運動人名事典

 この満州時代の新聞記者としての開拓村取材や大陸文化学園、丁香女塾、それらにまつわる随筆を集成したのが、昭和十六年に大和書店から刊行された『大陸に生きる』復刻ゆまに書房、平成十四年)ということになる。この版元に関しては『近代出版史探索Ⅴ』949で、大陸書房のシーブルック『アラビア遊牧民』の元版が、昭和十八年に大和書店から出された『アラビア奥地行』であることを記しておいた。この片柳忠男を発行者とする神田多町の大和書店の出版物は、古書目録で見かけるたびに申しこんでいたけれど、人気があるのかいつも外れてしまい、E・H・パーカー、閔丙台訳『韃靼一千年史』(昭和十九年)しか入手していない。

文化人の見た近代アジア (6) 復刻 大陸に生きる (ゆまに書房)  

 だが幸いなことに、この一冊には巻末に二十四冊の出版広告が掲載され、しかも先の『アラビア奥地行』の隣に『大陸に生きる』が「小林秀雄、林房雄、阿部知二先生推奨。大陸に挺身した日本女性の大陸文化に建設苦闘記」として並んでいたのである。それらを見ると、大和書店は満鉄の東亜経済調査局と関係が深い版元だと考えていたのだが、「日本少国民文学新鋭叢書」として、新美南吉『牛をつないだ椿の木』、中西悟堂編「絵による自然科学叢書」などの児童書も出版していたとわかる。また『大陸に生きる』の巻末広告には「新日本文学」として、内閣情報局、大政翼賛会後援の『愛国浪曲原作集』も見られる。本当に望月の軌跡と同様に、大東亜戦争下の出版は錯綜している。

 それでも『大陸に生きる』の出版経緯はその「後記」によって明らかになる。そこには「矢橋兄」、「昔流に言へば刎頚の友とも云ふべき兄のおゝすめ」でという謝辞がしたためられているからだ。「矢橋兄」とは『日本アナキズム運動人名事典』に立項のある矢橋丈吉のことだと見なしていいだろう。彼は村山知義の『マヴォ』やアナキズムを標榜する『文芸解放』同人で、昭和二年に春陽堂に入社し、『近代出版史探索Ⅵ』1098の『明治大正文学全集』の校正に従事するが、四年に関東出版労働組合の支持を受け、春陽堂争議に関わり、解雇される。そして自由労働者として東京市失業救済土木事業に携わり、七年に『マヴォ』以来の友人戸田達雄の営む広告会社オリオン社に勤める。

 この戸田をやはり『同事典』で引いてみる。するとオリオン社は同じく『マヴォ』同人の片柳忠男と設立し、『近代出版史探索Ⅱ』221の萩原恭次郎『死刑宣告』 にリノリウムカットを寄せているとある。先述したように、片柳こそは大和書店の発行者だった。それにこの片柳も『同事典』に立項されているので、それを引いてみよう。

死刑宣告 (愛蔵版詩集シリーズ)

 片柳忠男 かたやなぎ・ただお 1908(明41)~1985(昭60)24年7月『マヴォ』の創刊に参加する。同年戸田達雄と広告代理店オリオン社を設立。29年までオリオン社があったエビス倶楽部の部屋には『マヴォ』の同人や種種雑多な人物画出没し、アナ系の貧乏サロンの趣きがあったという。

 それらは矢橋の他に辻まこと、竹久不二彦、島崎蓊助たちだった。とすれば、片柳はその一方で大和書店も設立し、そこに矢橋も編集者として加わり、望月百合子の『大陸に生きる』が出版されたことになる。

 そういえば、昭和四十年代半ばにオリオン出版社から高木護編『辻潤著作集』全七巻が刊行され、そこにオリオン社への謝辞もあった。おそらくその発行人の宮本学も、このオリオン社に連なる人脈の一人のように思われる。いずれ片柳のことも『画集片柳忠男』(三彩社)を入手していから書くつもりでいる。


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古本夜話1320 『女人芸術』創刊号

  前回、神近市子が長谷川時雨と『近代出版史探索Ⅵ』1054の生田花世に誘われ、『女人芸術』に加わったことにふれた。

 (『女人芸術』創刊号)

 私は「夫婦で出版を」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)を始めとして、『近代出版史探索Ⅲ』434、435などで、三上於菟吉と長谷川時雨が関わった出版社に言及しているし、『同Ⅲ』437においては時雨と『女人芸術』と女人芸術社にもふれている。だがその際にはまだ『女人芸術』の実物を見ていなかったけれど、後に近代文学館編、講談社刊行の「複刻日本の雑誌」を入手し、『女人芸術』創刊号に目を通すことができたのである。

文庫、新書の海を泳ぐ―ペーパーバック・クロール

 この「複刻」には菊判の『女人芸術』よりもひと回り大きい『青踏』も見出され、『蕃紅花(さふらん)』はないけれど、あらためて神近が『青踏』『蕃紅花』『女人芸術』の同伴者だったことを実感させてくれる。彼女がこのような明治、大正、昭和の三代にわたる女性による文芸雑誌に一貫して寄り添ってきた「新しい女」の一人だとわかる。だがそうした事実を追っていくときりがないので、ここでは『女人芸術』だけにとどめたいし、その証言を引いてみる。

 『女人芸術』は昭和三年七月に創刊された。編集会議は長谷川女史のお宅で開かれ、資金面は夫君の三上於菟吉がカバーしてくれた。当時の婦人文筆家で、この雑誌に執筆しない人はないだろう。表紙の絵も女流作家に依頼し、創刊号の巻頭写真にはソ連にp旅行中の中条(宮本)百合子の近影が選ばれた。私は山川菊栄女史といっしょに、主として評論を書いた。
 林芙美子が『放浪記』を連載して一躍流行作家の列に入り、上田(円地)文子が戯曲『晩春騒夜』を発表して小山内薫に認められたのもこの『女人芸術』である。この雑誌では、上記の人々のほかに生田花世、岡田禎子、板垣直子、大田洋子、中本たか子、矢田津世子、真杉静枝らが活躍した。

 この証言に『女人芸術』創刊号を照合してみる。創刊が昭和三年の円本時代だったのは、その前年に平凡社の『現代大衆文学全集』32として、『三上於菟吉集』が刊行され、ベストセラーとなっていたからで、その印税が三上から提供されたのである。さらに『同全集』には続刊二冊の収録も決まっていたはずで、それらの印税も『女人芸術』の資金源となったと思われる。

三上於菟吉集 (現代大衆文学全集 第32巻)

 そうした事実は本探索でも繰り返し指摘してきているが、その創刊が円本時代であるばかりでなく、プロレタリア文学の時代に他ならなかったことを知らしめるのは、神近も挙げている「ソ連旅行中」の中条百合子たちの「巻頭写真」であろう。そこには「モスクワにおける中条百合子氏の近影」として、彼女の他に、秋田雨雀、湯浅芳子、鳴海完造、ニキチナが並び、長谷川時雨のイメージとは異なるが、『女人芸術』の出発に当たっての時代のトレンドをうかがうことができよう。

 雨雀とロシア女性のニキチナのことはこれからもふれるので、ひとまずおく。また百合子と湯浅芳子の関係はすでに『近代出版史探索Ⅳ』657で取り上げているし、鳴海完造はこれも拙稿「叢文閣、足助素一、プーシキン『オネーギン』」(『古本屋散策』所収)で、彼が十年に及ぶソヴエト滞在者にして、『オネーギン』(岩波文庫、昭和二年)の翻訳者だったことを既述しておいた。それらのことから考えると、当時の「女人」にとって、このような百合子たちの写真はアイコンでもあったことを伝えていよう。

古本屋散策

 それに続く「評論」には神近が語っているように、山川菊栄「フェミニズムの検討」、神近「夫人と無産政党」、望月百合子「婦人解放の道」が三本立てのように位置し、中条百合子達の写真とのコレスポンダンスを示している。それにここでの山川の「フェミニズム」のタームの仕様はきわめて早いものではないだろうか。それに合わせるように、『文藝春秋』にならってか、「文壇人気番付」の他に「新興文壇番付」も掲載され、それは「フェミニズム」から見られた「男性番付」を想起させ、何となくおかしい気にもさせられる。ちなみに三上は前者の東方大関を占め、時雨の顔を立てているとも見受けられる。

 翻訳はこれも拙稿「片山廣子『翡翠』」(『古本屋散策』所収)などの松村みね子がリアム・オッフラハアティ「野にゐる豚」、本探索1205の八木佐和子がドーデ「アルルの女」の翻訳を寄せているのは意外でもあった。複刻のほうの表紙は目次に示されているように、植原久和代の「夏の香」で、ブドウやミカンなどを描いた静物画で、「婦人より見たる作家番付俳優番付」との帯が巻かれている。ところが『日本近代文学大事典』第五巻の「新聞・雑誌」における『女人芸術』創刊号の書影は異なっている。それは『近代出版史探索Ⅲ』437で指摘しておいたように、第一期『女人芸術』のほうの創刊号で、大正十二年に元泉社から出され、関東大震災の被害を受け、二号で終わってしまったのである。したがって、昭和三年創刊のほうは第二期ということになる。

(第一期『女人芸術』創刊号)

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古本夜話1319 エロシェンコと『神近市子自伝』

 前回、神近市子がバハイ教のアグネス・アレグザンダーの部屋の常連であったことにふれた。高杉一郎は『夜あけ前の歌』において、主として『秋田雨雀日記1』に基づくと思われるが、「エロシェンコはとりわけ神近市子がすきであった」と記し、続けて次のように述べている。

(『夜あけ前の歌』)秋田雨雀日記

 神近市子は、エロシェンコにとっては日本人として最初の女ともだちであったが、どこか郷里にいる妹のニーナを想いださせるところがあり、またロンドンでエロシェンコが好きだった女友だちに声がよく似ていた。一般に、日本の女は、ひとに問いかけられても、「然り」か「否」かさえもはっきり答えないで、ひどくじれったいが、神近市子だけは例外で、なんでもハキハキとものを言ったし、エロシェンコが得意とする皮肉や悪口にたじろがないばかりか、それよりももっと鋭い皮肉や悪口で応酬してきた。それが、エロシェンコにとっては、なんともいえないよろこびをあたえた。

 それだけでなく、エロシェンコは神近にインド旅行を提案したり、彼女の大杉栄、伊藤野枝との三角関係にまつわる助言もしているし、神近が大杉を刺した日蔭茶屋事件による二年ぶりの出獄を迎えたのはエロシェンコと秋田だった。またこれは高杉も証言しているように、エロシェンコの日本での版権は神近に譲られていたのである。

 ところが戦後の「わが愛わが戦い」とある『神近市子自伝』(講談社、昭和四十七年)において、このようなエロシェンコとの交流は「あとがきにかえて」にとどめられているだけで、本文では迂回されているニュアンスが感じられる。エロシェンコと秋田雨雀が彼女の出獄の際に迎えにきてくれたことは書かれているけれど、二人との出会いは明治末とあるので、時代を間違えてもいる。

 ただ神近は戦後の五期にわたる衆議院議員を務め、それなりに功成り名遂げる晩年の自伝であることに加え、昭和四十五年には彼女と日蔭茶屋事件をテーマとする、吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』に対して、名誉棄損、プライバシー侵害で訴えたこともあり、ナーバスな状況においての自伝刊行だったことも考慮すべきだろ。それゆえに大杉栄との事件はともかく、それ以外の若い日のエロシェンコやバハイ教のアグネス・アレグザンダーとの交流に深くふれることは避けたかったのかもしれない。

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 しかしそれ以外のエロシェンコや大杉などと密接に関係する社会主義者たちにはかなり詳細に言及していて、神近ならではの証言となっているのである。例えば、本探索1306の和田軌一郎と労働社、その小新聞『労働者』に関するものだ。大正九年に彼女は評論家の鈴木厚と結婚して青山学院の裏門近くの家で新しい生活を始めるのだが、そこを訪ねてきたのが吉田一や和田で、いつの間にかその新居が労働社と『労働者』編集の場となってしまった。彼らは大杉からの離反者で、神近の出獄後のポジションがうかがわれるような社会主義陣営の流動といえるだろう。そこにはやはり大杉に批判的な宮嶋資夫の存在も作用していたようだ。

 その余波は大正十年のメーデーに於ける吉田の検束や和田の活躍、エロシェンコの追放などに加えて、続けざまに吉田、和田、高尾平兵衛の金の無心として生じていた。後に判明したのはそれがモスクワの極東勤労者大会に向かうための資金でもあったのだ。また同じく、モスクワからの連絡係久板卯之助の伊豆における凍死も語られている。それにどうも神近夫妻の家はモスクワ帰りの吉田たちの秘密の集会所、彼女の言葉を借りれば、「静かな修羅場」と化し、当時の有力な印刷工組合などの幹部が召集されるアジトのようになってしまったのである。つまりいってみれば、吉田や和田などの帰還者のための後方支援の場を形成していた。

 そうした事実は『神近市子自伝』にしか語られていないし、印刷工組合をたどった水沼辰夫『明治・大正期自立的労働運動の足跡』(JCA出版、昭和五十四年)にしても、吉田や和田のモスクワ行きとその帰還に関してはふれられているけれど、その活動の主たる場が神近の家だったことへの言及は見当らない。ある意味で、その家は奇妙なアナキズムとボルシェヴィズムの緩衝地帯だったといえるのかもしれない。

(『明治・大正期自立的労働運動の足跡』)

 だがそれだけで話は終わらないし、高尾と吉田は大正十二年六月に赤化防止団の米村嘉一郎を襲い、逆に拳銃で撃たれ、前者は即死し、後者は足を負傷し、神近のところに逃げこんできたのである。高尾の葬式の日には有島武郎心中事件も報道され、九月には関東大震災が起きて、大杉たちが虐殺される。その後の十一月には突然和田が姿を現わした。彼もまたモスクワから、しかも本探索1306で既述しておいたように、エロシェンコとの小旅行の後に帰ってきたのだった。その後の吉田や和田の消息は確かめていないけれど、神近は『近代出版史探索Ⅲ』438の長谷川時雨と、『同Ⅵ』1054の生田花世の誘いにより、『同Ⅲ』437の『女人芸術』に加わり、文学と編集と翻訳の道を歩んでいることになるのである。


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