出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1318 エロシェンコ、アグネス・アレグザンダー、バハイ教

 これも高杉一郎の『夜あけ前の歌』で教えられたのだが、「バハイ教」と題する一章があって、エロシェンコの来日と同年の大正時代の日本に、アグネス・アレグザンダーがその布教のためにやってきて、住みついていたのである。

(『夜あけ前の歌』)

 「バハイ教」に関しては『近代出版史探索Ⅳ』655で、『世界聖典外纂』における、やはり『同Ⅳ』656の松宮春一郎の「光の教」とされる紹介と解説を挙げておいた。この『世界聖典全集』の言及にしても、すでにアグネスによる布教に由来していたと推測される。だがここでは松宮の言及よりも、出典は定かでないけれど、高杉の説明のほうを参照すべきであろう。

世界聖典全集

 バハイ教は一八四四年にペルシアで、モハメッドの子孫のミルザ・アリ・モハメッドが人間世界は新しい時代に入り、新時代における大教育者があらわれるという神託をもたらしたことで始まり、彼は新時代の門を開いたとして「バブ」(ペルシア語で門)と呼ばれた。そしてペルシアで「バブ」の教えが広まり、為政者にとって大きな脅威になると、「バブ」と信徒たちは迫害され、一八五〇年に処刑され、その死骸はハイフアのカーメル山に埋められた。

 「バブ」の殉教後、高弟のミルザ・ホセイン・アリが牢獄で大教育はおまえだという神託を得て、彼は新時代の大教育者バハ・ウラー(ペルシア語で神の栄光)となり、四十年にわたる追放と幽囚の中で、布教を続けたが、一八九二年に七十五歳の生涯を閉じた。バハ・ウラーは長男のアッパス・エフェンディを指導者として指名し、彼はアドゥル・バハ(バハ・ウラーのしもべ)と呼ばれ、欧米にも布教活動を広げ、一九二一年に七十七歳で永眠したが、バハイ教信者は五大陸、百四十七ヵ国にも及び、シカゴ郊外の「バハイ礼拝堂の家」は世界五大寺院のひとつに数えられるに至っていた。

 このようなバハイ教の説明の後で、高杉は述べている。

 さてこのバハイ教なるものには、お寺も教会もなく、したがって僧侶も牧師も存在しない。礼拝の家はあるが、そこでは説教のようなことは全然おこなわれない。あらゆる宗教的背景をもったひとたち―ユダヤ教徒やキリスト教徒、ヒンズー教徒や仏教徒、それに無神論者さえ集まって、あらゆる宗教の経典を朗読し、祈ったり、冥想したりするのである。

 そして「バハイ教は、近代の合理主義的な精神を大いにとりいれた宗教」で、その精神はトルストイの思想、ザメンホフのエスペラントの内在思想としての人種一家主義(ホマラニスモ)、ゴーリキーの理性的造神運動とも通底しているのではないかと指摘されている。また高杉はバハ・ウラーの挙げたバハイ教の内実を示す「十二の原則的な教理」も挙げている。それは世界平和の確立とエスエランとの採用なども含んで興味深いが、長くなってしまうこともあり、ここではふれない。

 アグネスはホノルル大学学長のウィリアム・アレグザンダーの娘で、父の遺言により、バハイ教布教のためにヨーロッパ回りで日本にやってきたのである。それがどうしてエロシェンコとつながったかというと、彼女がジュネーヴの世界エスペラント協会を訪ねた際に、そこにいたロシア女性のアンナ・シャラーボヴァから、日本にいるエロシェンコに会うように頼まれたことによっている。

 アグネスは九段坂上の横上にあるアパートに居を定め、英語とエスペラントを用いて布教につとめた。バハ・ウラーの予言書『隠語録』(The Hidden Words of Baha’u’llah)の研究会も開いた。エロシェンコは彼女の助力を得て、『隠語録』をエスペラントに訳し、それを持って秋田雨雀を訪れ、日本語への翻訳も頼んでいる。アグネスの部屋に集った人々はエロシェンコの他に福田国太郎、望月百合子、秋田雨雀などで、エスペランティストではなかったが、神近市子も『東京日々新聞』の記者として取材に訪れたことで、アグネスの部屋の常連になっていた。福田は『日本アナキズム運動人名事典』にも立項があるように、アナキストとしてのエスペラント運動に邁進した人物で、エスペラント文芸誌『緑のユートピア』を刊行し、エロシェンコの講演の通訳も担ったとされる。

The Hidden Words of Baha'u'llah: Illustrated by Corinne Randall (Baha'i Books) ( The Hidden Words of Baha’u’llah) 日本アナキズム運動人名事典

 高杉はこれも大正四年付のアグネスとエロシェンコの並立写真を掲載し、エロシェンコもバハイ教信者ではなかったにしても、それに強く心を引かれていたことは確かだと述べている

 『近代出版史探索Ⅲ』563で、『秋田雨雀日記1』に見える神智学者であるフランス人リシャール夫妻のことにふれているが、この二人にバハイ教のアグネスやエロシェンコも加えられるのである。それゆえに、大正時代後半はまさに『近代出版史探索』104の『世界聖典全集』が編纂刊行される時期にふさわしかったことを今さらながらに気づかされる。そうして出版物が時代の合わせ鏡のように残されたことにもなろう。

秋田雨雀日記


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出版状況クロニクル173(2022年9月1日~9月30日)

22年8月の書籍雑誌推定販売金額は801億円で、前年比1.1%減。
書籍は423億円で、同2.3%減。
雑誌は378億円で、同0.2%増。
雑誌の内訳は月刊誌が315億円で、同0.3%増、週刊誌は62億円で、前年同率。
返品率は書籍が37.9%、雑誌は41.8%で、月刊誌は41.5%、週刊誌は43.3%。
雑誌が前年増となったのは21年5月以来で、月刊誌のプラスは『ONE PIECE』(集英社)103巻が300万部を超えて発売されたことなどによっている。
しかし取次の書店POS調査を見ると、書店売上は低迷状態が続いている。
八重洲ブックセンター本店の閉店が発表されたのは象徴的で、これからの取次グループ書店の行方を注視しなければならない。

ONE PIECE 103 (ジャンプコミックス)


1.『日経MJ』(8/31)の2021年度「卸売業調査」が出された。
 そのうちの「書籍・CD部門」を示す。


■書籍・CD・ビデオ卸売業調査
順位社名売上高
(百万円)
増減率
(%)
営業利益
(百万円)
増減率
(%)
経常利益
(百万円)
増減率
(%)
税引後
利益
(百万円)
利益率
(%)
主商品
1日版グループ
ホールディングス
504,9932,84036481,39113.0書籍
2トーハン428,1511,2791,177▲1,64814.6書籍
3図書館
流通センター
51,0822.62,141▲0.62,266▲2.81,31018.8書籍
4楽天ブックス
ネットワーク
47,737書籍
5日教販27,257▲1.55478.73571.722511.0書籍
9春うららかな書房2,64135322028.6書籍
MPD148,635354133.5CD


 TRC(図書館流通センター)の売上高は3位で、トーハン、日販GHDと一ケタ異なる510億円だが、税引後利益額は遜色がない。
 粗利益率も18.8%と群を抜き、売上高経常利益率に至っては4.4%で、日教販1.3%、日販GHD 0.7%、トーハン0.3%に比べ、ダントツということになる。
 増え続ける公共図書館を背景とする図書館専門取次として、低返品率、出版社との直接取引などが相乗し、雑誌を扱っていないにもかかわらず、このような高利益率を確保するに至っている。知られざるTRCの成長のメカニズムは『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』(論創社)で明らかにしたばかりだ。
 それを日販やトーハンに当てはめれば、書店が増え、雑誌が売れ、その返品率が低かったことで成長も可能だったことを示唆している。ところが書店は減少する一方で、閉店も多いために返品率は高止まりのままであり、もはや流通業としての利益が生じる取次ではなくなっていることを告げていよう。
  



2.日本図書館協会の『日本の図書館 統計と名簿2021』が出されたので、1と関連して、その「公共図書館経年変化」を示す。

日本の図書館 2021: 統計と名簿
日本の図書館統計と名簿2021

■公共図書館の推移
    年    図書館数
専任
職員数
(人)
蔵書冊数
(千冊)
年間受入
図書冊数
(千冊)
個人貸出
登録者数
(千人)
個人貸出
総数
(千点)
資料費
当年度
予算
(万円)
1971 8855,69831,3652,5052,00724,190225,338
1980 1,3209,21472,3188,4667,633128,8981,050,825
1990 1,92813,381162,89714,56816,858263,0422,483,690
1997 2,45015,474249,64919,32030,608432,8743,494,209
1998 2,52415,535263,12119,31833,091453,3733,507,383
1999 2,58515,454276,57319,75735,755495,4603,479,268
2000 2,63915,276286,95019,34737,002523,5713,461,925
2001 2,68115,347299,13320,63339,670532,7033,423,836
2002 2,71115,284310,16519,61741,445546,2873,369,791
2003 2,75914,928321,81119,86742,705571,0643,248,000
2004 2,82514,664333,96220,46046,763609,6873,187,244
2005 2,95314,302344,85620,92547,022616,9573,073,408
2006 3,08214,070356,71018,97048,549618,2643,047,030
2007 3,11113,573365,71318,10448,089640,8602,996,510
2008 3,12613,103374,72918,58850,428656,5633,027,561
2009 3,16412,699386,00018,66151,377691,6842,893,203
2010 3,18812,114393,29218,09552,706711,7152,841,626
2011 3,21011,759400,11917,94953,444716,1812,786,075
2012 3,23411,652410,22418,95654,126714,9712,798,192
2013 3,24811,172417,54717,57754,792711,4942,793,171
20143,24610,933423,82817,28255,290695,2772,851,733
2015 3,26110,539430,99316,30855,726690,4802,812,894
20163,28010,443436,96116,46757,509703,5172,792,309
2017 3,29210,257442,82216,36157,323691,4712,792,514
2018 3,29610,046449,18316,04757,401685,1662,811,748
2019 3,3069,858453,41015,54357,960684,2152,790,907
2020 3,3109,627457,24515,05458,041653,4492,796,856
20213,3169,459459,55014,89356,807545,3432,714,236

 21年の公共図書館界で異変が起きているといってもいいかもしれない。それは個人貸出総数が5.4億冊で、20年の6.5億冊に比べて、1億冊以上の減少を見ている。
 21年の図書館数は20年よりも6館増えているし、専任職員数、蔵書冊数、年間受入図書冊数、個人貸出登録者数、資料費はほとんど変わっていないのだが、個人貸出総数だけが急激に減少していることになり、それは20年前に戻ってしまう数字である。この減少に対して、21年の書籍販売部数は5.2億冊で、図書館の個人貸出冊数と書籍販売部数が接近してきている。
 これは『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』において、「書店数、図書館数、個人貸出総数と書籍販売部数」の推移で示しておいたが、2010年から個人貸出総数と書籍販売部数が逆転し、その差は開く一方で、17年からは1億冊以上、個人貸出総数が上回る事態となっていたのである。
 その個人貸出総数が21年になって、いきなり逆に1億冊以上減少してしまった。コロナ禍や電子書籍図書館化によって生じたものではないと見ていいし、原因は何なのか。単に無料貸本屋の客と需要が減っただけなのか、あらためてこの事実に注視しなければならない。



3.八重洲ブックセンター本店が2023年3月で閉店。
 同店は1978年にゼネコン大手の鹿島による出店で、国内最大の書店としてオープンしたが、2016年にはトーハンが株式の過半数近くを鹿島から取得し、そのグループ書店化していた。

 これは中村文孝『リブロが本屋であったころ』(「出版人に聞く」4)に詳しいが、1970年代後半は都市型大型店出店の時代であり、75年に西武ブックセンター、それに八重洲ブックセンター、81年に三省堂書店本店、東京堂書店が続いていくことになる。
 しかし西武ブックセンター(リブロ池袋)はすでになく、三省堂本店も閉店したばかりだし、来年は八重洲ブックセンター本店も退場する。本クロニクル171でふれておいたように、4期連続の1億円以上の赤字だったのである。都市型大型店の時代のサイクルが閉じられたと見なせよう。
 それだけではない。本クロニクル157で、トーハンの近藤敏貴社長の、このままいけば、24年にグループ書店法人はすべて赤字になるとの言を引いておいたが、八重洲ブックセンター本店に象徴されているように、24年どころか前倒しになり、22年で限界となったのであろう。出版社にとっては返品ラッシュとなるかもしれない。
 したがって、それはトーハン書店法人のみならず、日販の書店法人にしても同様であり、これから閉店が相次いでいくと推測される。
リブロが本屋であったころ (出版人に聞く 4)
odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com



4.東京オリンピック、パラリンピックのスポンサー選定をめぐる汚職事件で、KADOKAWAの芳原世幸元専務、馬庭教二元室長に続いて、角川歴彦会長も逮捕。

 芳原元専務がリクルート出身で、『エイビーロード』や『ゼクシィ』編集長、馬庭元室長が『ザ テレビジョン』『関西ウォーカー』の編集長だったことを知ると、1988年のリクルート事件のことが想起される。
 また『出版状況クロニクルⅣ』で、角川歴彦会長へのインタビューやその著書『クラウド時代と〈クール革命〉』に言及しているが、その帰結が今回の事件だったとすれば、それも『クラウド時代と〈クール革命〉』がもたらしたものということにもなろう。
 いずれにしても、この事件によって露呈したのは、今までは書く側にあった出版社が書かれる側へと転位してしまった事実であり、それはこれからも続いていくだろう。
 いやそればかりでなく、1970年代後半の角川商法の帰結であるかもしれない。
 この事件に関しては、『選択』(9月号)の連載企業研究の「電通グループ『黒幕・高橋』と五輪汚職の根源」を合わせ読むべきことを付記しておく。

ゼクシィ首都圏 2022年 11月号 【特別付録】ミッフィー鍋つかみ&鍋敷き2点SET  ザテレビジョン 首都圏関東版 2022年9/2号  関西ウォーカー2022秋 ウォーカームック  クラウド時代と<クール革命> (角川oneテーマ21)

www.sentaku.co.jp



5.集英社の決算は売上高1951億9400万円、前年比2.9%減、当期純利益は268億4500万円、同41.3%減の減収減益。
 売上高内訳は雑誌506億5400万円、同38.0%減、書籍120億円、同32.6%減、広告86億円、同9.2%増、事業収入1261億5700万円、同34.7%増。
 雑誌部門の雑誌売上は165億9600万円、同17.0%減、コミックスは340億5800万円、同44.8%減。
 事業収入のうちのデジタル売上は602億4100万円、同31.4%増。版権収入476億2700万円、同29.7%増。物販等182億8900万円、同52.2%増。事業収入の売上構成比は64.6%となる。

 本クロニクル167で講談社、同169でKADOKAWA、同170で小学館の決算を既述しておいたが、集英社の場合、減収減益ながら、事業収入が売上の64.6%を占めるというデジタル、版権、物販に特化した色彩が強くなってきている。
 それは今後も続いていくし、雑誌、コミック出版社として、町の書店とともにあった、かつての集英社の面影はドラスチックに後退していくだろう。それは、小学館、講談社、KADOKAWAも同様であろう。



6.光文社の決算は売上高170億2700万円、前年比1.0%増で、6期ぶりに増収だったが、経常損失は16億3200万円、当期純損失は12億400万円。
 売上高内訳は製品(紙版)売上76億7600万円、同9.2%減、広告収入41億6900万円、同15.4%増、事業収入45億8700万円、同9.2%増。

 光文社にしても、広告収入はデジタル広告増、事業収入は自社ECサイトでの写真集売上、デジタル雑誌書籍売上、版権ビジネスによるもので、紙の雑誌、書籍は苦戦が続いている。
 かろうじて6年ぶりの増収ではあるけれど、来期はどうなるであろうか。
 その中でも「古典新訳文庫」は好調と伝えられているので、安堵するが、季刊誌『HERS』は10月発売の秋号で、不定期刊行になる。
 私たちの世代は1960年代の松本清張を始めとするカッパ・ノベルスとともに成長したので、光文社といえばカッパ・ノベルスのイメージが強かったが、それももはや半世紀前のことになってしまったと痛感してしまう。
 まさにカッパ・ノベルスとは高度成長期をも象徴するものであったし、私もかつて「高度成長期と社会派ミステリ」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収、編書房)を書いている。

HERS(ハーズ)2022年8月号 点と線―長編推理小説 (カッパ・ノベルス (11-4))  文庫、新書の海を泳ぐ―ペーパーバック・クロール



7.『朝日新聞』(8/18)の「朝日歌壇」の高野公彦選として、下記の三首が並んでいた。

  ずっとここに居ていいんだよというような 平日の昼ジュンク堂書店
                          (東京都) 金 美里
  学生時「風土」買いたる古書店が 京の街から消えるとの報
                          (亀岡市) 俣野 右内
  かさばれる古書のリュックを抱えつつ 時忘れけり岩波ホール
                          (我孫子市)松村 幸一


 のカッパノベルス読み始めの頃の商店街の書店と古本屋のことを思い出し、たまたまこれらの短歌も見出しているので、ここに挙げてみた。
 1960年代の商店街の書店は「ずっとここに居ていいんだよ」とはいえないほど小さかったけれど、いつも土日には人があふれるようにいて、出版業界も紛れもなく高度成長期だったことを確認させてくれる。
 それは古本屋も同様で、そのような時代もあったことを想起してしまう。
 しかし当然のことながら、そうした商店街の書店も古本屋もなくなってしまい、もはやそれらも街の記憶から失われていくだろう。後者に関しては「浜松の泰光堂書店の閉店」(『古本屋散策』所収)を書いているので、読んで頂ければ幸いである。
古本屋散策



8.中央社の決算は売上高208億4850万円、前年比7.6%減、営業利益は3億5690万円、同8.5%減、当期純利益は9230万円、同16.1%増。
 売上高内訳は雑誌121億5300万円、同9.4%減、書籍71億5630万円、同3.9%減、特品等13億710万円、同13.6%減。返品率は総合で27.9%。

 の『日経MJ』の卸売業調査に中央社は出ていなかったので、ここで決算状況を引いてみた。
 『出版状況クロニクルⅣ』で中央社はコミックに特化して、その業績を確保し、2010年代には増収増益、低返品率であったことを既述しておいた。
 しかしその中央社にしても、雑誌の凋落と電子コミックの影響を受けているはずで、その只中での決算ということになるし、30%を割る低返品率によって、赤字に陥っていないと判断できよう。
 そういえば、中央社とコラボレーションし、書泉や芳林堂もM&Aしてきたアニメイトの情報が伝わってこないが、タイバンコク店も含め、どうなっているのだろうか。



9.ノセ事務所から2021年の「出版広告調査」レポートが届いた。

 これは朝日、読売、日経3紙の「「全五段」「半五段」「三八つ」「三六つ」に加え、「一頁広告」も含めた出版社別出広調査で、『本の世界に生きて50年』(「出版人に聞く」5)の能勢仁ならではの調査報告である。累計1441社に及ぶために具体的にデータは示さないが、それは了承されたい。
 それによれば、21年は東京オリンピックと衆議院議員選挙もあって、その影響が出たのではなかと危惧していたが、例年と変わらない出広状態だったとされる。
 私の持論ではチラシを打てない書店に代わって、出版社が新聞広告を出すことで集客を試みていることになる。
 しかし近年は信じられないほど出版広告費が安くなっているにもかかわらず、出広が少なくなっているとも伝わってくるし、地方紙まで含んだ場合はやはり減少しているのではないだろうか。
 それは22年に顕著になってきたようにも思われる。そのことは来年の「出版広告調査」で確かめることにしよう。
本の世界に生きて五十年―出版人に聞く〈5〉 (出版人に聞く 5)



10.『選択』(9月号)の「社会・文化情報カプセル」において、「岩波書店の看板雑誌『世界』で騒動/前編集長が『居座る』異常事態」がレポートされている。

 『世界』に関しては本クロニクル168、171でふれ、岩波書店の内紛は同166、また坂本政謙新社長へのインタビューについても、本クロニクル162で紹介している。
 この『選択』レポートによれば、坂本新社長は『世界』編集部内の状況から、4月に編集長交代人事を発表したが、編集長は「引き継ぎ」と称して、夏になっても居座り、「新編集長が『編集部付』のような形で仕事をするという前代未聞の状態』になっているという。
 社内の人事をめぐる権力争いとも伝えられ、10月には交代するとされているが、果たしてどうなるのか。
 4のKADOKAWA汚職事件をターニングポイントとして、出版社が書かれる側に転位していくのではないかと述べておいたが、それは同じく今後も続いていくだろう。
 なお同じく『選択』の「経済情報カプセル」にはアマゾンが生鮮食品などの販売強化をめざして、業務提携しているライフコーポレーションを買収するのではないかとの観測も出されている。
世界 2022年10月号



11.リトルマガジン『飢餓陣営』(55、2022夏号)が特集「核戦争の手前で―2022ロシア-ウクライナ」を組み、笠井潔に「世界内戦としてのロシア-ウクライナ戦争」と題するロングインタビューをしている。

 笠井は「今回のウクライナ戦争でポスト世界国家化の時代は新しい局面に入ったのではないか」との視座から語っているのだが、示唆に富み、傾聴すべきインタビューだと思われる。
 これを読みながら、ここにも名前が出てくる船戸与一の難民に関してのインタビュー「国境線上の第四世界」(『現代思想』1993・8掲載)を想起してしまった。船戸はその延長線上にルポタージュ『国家と犯罪』(小学館、1997年)を書くに至る。
 笠井にしても船戸にしても、現役の実作者ならではの世界歴史観によるもので、啓発されることが多いし、笠井のインタビューは『飢餓陣営』の読者にしか知られていないであろうし、他のものと合わせ、単行本化が望まれる。

現代思想 1993年8月号 特集=浮遊する国家 外国人問題の視点から<対談●外国人問題とは何か>上野千鶴子/鄭暎恵 国家と犯罪(小学館文庫)  
77566194.at.webry.info



12.『日本古書通信』(9月号)の「昨日も今日も古本さんぽ」143のイントロで、岡崎武志が『サンデー毎日』の書評事情について語っている。それを要約してみる。
 彼の『サンデー毎日』の書評ページとの付き合いは長く、1993、4年頃からレギュラーページを受け持ち、リニューアル、担当者の交代はあっても、連載ページが途切れることがなかった。見開き2ページを独占していた時期もあり、他の特集や企画記事にも関わり、家のローンの完済もそのおかげであった。
 ところが部数低迷により、『週刊ポスト』『週刊現代』と同じく、『サンデー毎日』も5月から月4発行が月3となり、原稿料も4分の3になっていた。それに加えて、10月からの誌面刷新で、書評ページは6ページから2ページになり、彼のページもなくなると告げられ、原稿料も一挙にゼロになってしまったのである。

 週刊誌の書評の歴史は実際に『サンデー毎日』の書評にも携わっていた井家上隆幸『三一新書の時代』(「出版人に聞く」16)においても、たどられている。
 それは1969年の『週刊ポスト』創刊に伴う新たな書評への重視で、その影響は各週刊誌へも反映され、『サンデー毎日』も井家上たちによる特色のある書評時代があり、それを岡崎は引き継いできたことになる。
 だがそうした時代も終わったのだというしかない。
三一新書の時代 (出版人に聞く)



13.中村文孝との対談『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』は刊行されて1ヵ月以上が経った。
 読者から便りがあり、図書館関係者は揃って沈黙を守るしかないだろうと書かれていた。つまり図書館関係者にとって、タブー本とされたことになろう。
 それは出版業界紙(誌)、新聞も同様だ。あたかも緘口令が敷かれたかのようだ。
 ここで提起されている公共図書館状況は、現在の書店と出版業界の問題へとそのまま重なるものであり、どうして出版社や書店からの発信もなされないのだろうか。
 いち早く鹿島茂だけが『週刊文春』(9/8)で1ページ書評してくれたが、その後はまったく続かず、SNSでの言及すらもほとんどなされていない。
 それだけでなく、2で既述しておいた図書館の異変は何によるのか、それも追求されなければならない。
 中村の「日本の古本屋」メールマガジンでの発信「『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』を読むにあたって」も参照されたい。
 なお月末になって、共同通信の配信記事「BOOK交差点」でも紹介された。
  
ronso.co.jp
www.kosho.or.jp
14.『だれが「本「」を殺すのか』の佐野眞一が亡くなった。

 佐野とは座談会を共にしたこと、及び彼にも言及しているので、病床にあったことを知らずに『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』を献本しておいた。読んでくれただろうか。
 また学生時代に脚本家志望だった佐野にちなんでいえば、同タイトルはゴダールの映画からとられているが、彼も9月の死が伝えられたばかりだ。

だれが「本」を殺すのか〈上〉 (新潮文庫)



15.論創社HP「本を読む」〈80〉は「山田双葉『シュガー・バー』と山田詠美」です。


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古本夜話1317 エロシェンコ、正木ひろし『近きより』、福岡誠一

 エロシェンコの人脈の中にはエスペラントや社会主義運動関係者以外にも親しい人たちがいて、高杉一郎は『夜あけ前の歌』において、「あたらしい友だち」という章を設け、大正九年に東京大学に入学した正木ひろしや福岡誠一の名前を挙げている。

(『夜あけ前の歌』、叢文閣)

 正木は芝のユニテーリア教会での長谷川如是閑や大山郁夫などの講演会で、エロシェンコと知り合った。高杉は二人の並立写真を示したうえで、次のように書いている。

 その日から、エロシェンコは正木をよく訪ねてくるようになった。新宿から大久保は百人町まではそんなに遠くないためか、昼夜を問わず訪ねてきて、正木を散歩に誘いだした。そして、夜は昼間よりも足早に、さっさとあるいた。ことにエロシェンコがよろこぶのは、風の日の戸山ヶ原の散歩だった。風のつよい日には、あたりの樹木がざわついて、盲人のエロシェンコには、宇宙感のようなものが具象的に、そして動的に把握できるらしかった。

 この記述が何に基づくのかは参考文献に正木の著書が挙げられていないので、詳らかではないけれど、掲載写真とともにエロシェンコと正木の夜の闇の中における道行のようなシーンを彷彿とさせる。それにたまたま正木ひろしの、昭和二十九年の「三里塚事件」を扱った『ある殺人事件』(カッパブックス、昭和三十五年)を入手したばかりで、その裏カバーの自己紹介にあるように、戦後、正木は刑事弁護士としてよく知られていた。『近代出版史探索Ⅲ』599のチャタレイ裁判、八海事件、菅生事件などにも関与し、『裁判官』『検察官』(同前)も著している。

  

 しかし私の正木への関心は弁護士というよりも、昭和十二年から二十四年にかけて、個人誌といえる『近きより』を発行し、戦時下において軍国主義と官僚主義に抗し、ファシズムや東条首相を批判し続けてきた表現者、出版者としての正木である。しかもその協力者はともにエロシェンコとの親交を結んだ福岡誠一だったと推測される。福岡もまた北京のエロシェンコを訪ね、やはり高杉の著書に並立写真を残している。

(弘文堂版)

 エロシェンコの『夜あけ前の歌』『最後の溜息』の編集は秋田雨雀によるが、校正などの雑務は福岡が担当していたし、『人類の為めに』のほうのエスペラントの日本語訳はやはり福岡が担っていた。福岡がエロシェンコと急速に親しくなったのは、彼自身が半盲に近い強度の近視で、自分も失明するのではないかという不安につきまとわれていたからで、それをエロシェンコにうちあけたことによっている。戦後になって福岡は『リーダーズ・ダイジェスト』編集長をつとめているようだが、それはエロシェンコや正木との関係と無縁ではないように思われる。

(『夜あけ前の歌])(『最後の溜息』)(『人類の為に』)

 この『近きより』の弘文堂版はずっと未見だったけれど、昭和五十四年に旺文社文庫から全五巻として刊行されるに至り、同年の毎日出版文化特別賞を受賞している。それは待たれていた文庫化とも考えられるし、私にしてもそれによって実質的に『近きより』を手にすることができたのである。ただ残念ながら、第一巻を購入しただけで、いずれ全巻に目を通すつもりでいたのだが、旺文社文庫そのものが絶版断裁処分となり、全巻を揃えていない。せめて「主要登場人物略歴」が収録された第五巻だけでもと思い、留意してきたけれど、古本屋でも見出していない。そのためにここでは第一巻を参照するにとどめることを了承されたい。

(旺文社文庫版)(第五巻)

 『近きより』創刊号の書影が裏表紙に示されるとともに、最初に「発刊の言葉」が挙げられている。それは「私はいろいろな意味から雑誌を出して見たくなった。/私の本質の中にある公共心と社交性とが私の心臓を雑誌発行の方へと駆りたてていたのはかなり長い前からであった」と始まっている。それは「公共の利益が私欲や無神経のために踏み躙られている」ことに「堪え難い憤りを感じ」たからだとされる。彼のいう「社交性」に関してはひとまずおくにしても、現在の言葉に置き換えれば、昭和十年代の戦時下においてのコモン論とでもいえようか。

 「私は私の知人三千余名に対し、私の信念に従って呼びかけ、生命の交流を生ぜしめることが、現在の私に許された生命実現の有力な道であると確信する」。そして現在の日本を風靡している「いろいろなスローガン」が挙げられ、「公論に関係のない内閣が出現したり」する状況が問われていく。それが「近々抄」の始まりであり、第一巻はその時代ならではの偏見と誤謬はあるにしても、そのようなトーンで続いていく。

 巻末の「解題」によれば、編集兼発行者は正木旲(ひろし)、発行所は正木法律事務所内「近きより」発行所、発売所は栗田書店、毎号二〇余ページから五〇ページ弱、寄稿者は二十人ほどである。正木の個人誌としての立ち上がりは三千部で、取次の栗田書店を通じて流通し、書店でも販売されていたことになる。しかし『近きより』が戦後まで持続したことを考えれば、相次ぐ発禁削除処分にもかかわらず、それなりに読者も固定化したと見なすべきで、個人誌としての奮闘は特筆すべきであろう。

 それがかつてのエロシェンコとの邂逅にも起因しているのかはわからないが、時代と人の出会いが無縁でなかったことは間違いないだろう。


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古本夜話1316 『文求堂唐本目録』と中国語教科書出版

 魯迅とエロシェンコの関係もあって、藤井省三の『東京外語支那語部』(朝日選書、平成四年)も読み、文求堂が東京外語グループによる『現代中華国語文読本』『支那現代短篇小説集』『魯迅創作選集』を刊行し、教科書革新運動と魯迅の紹介を担ったことを教えられた。

東京外語支那語部―交流と侵略のはざまで (朝日選書) (『魯迅創作選集』)

 実は手元に大正六年に田中慶太郎を編輯兼発行者とする『文求堂唐本目録坿海王村游記』という新書版よりもひと回り大きい和本仕立ての一冊がある。これにはまず巻頭に陳考威撰、田中慶抄「海王村游記」の白文三〇ページが置かれ、その後に一五七ページに及ぶ「文求堂唐本目録」が続いている。これは「経部」「史部」「子部」「県部」「叢書」に分類された四六三種を掲載している膨大な「唐本書目」で、そうした方面に素養がないこともあって、未開の森を目前にして佇んでいる旅行者のような気にもさせられる。

(『文求堂唐本目録』)

 田中と文求堂については反町茂雄の『一古書肆の思い出』(平凡社)、『蒐書家・業界・業界人』(八木書店)などでふれられていたし、拙稿「上海の内山書店」(『書店の近代』所収)と同じく、輸入と輸出、日本の新刊と唐本の古書のちがいはあっても、中国と深く親炙した書店だと見なしていた。それに『出版人物事典』にも、次のように立項されていたからだ。

一古書肆の思い出 (1) (修行時代) 書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書) 出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [田中慶太郎 たなか・けいたろう]一八八〇~一九五一(明治一三~昭和二六)文求堂取締役。京都生れ。東京外語学校(現・東京外国語大)支那語科卒。安政年間、京都で創業の御所御用達の書店文求堂をつぎ、美術書出版を行う。一九〇一年(明治三四)東京本郷に移り、中国書専門店として、中国書の輸入を通じて新しい発展の途を歩んだ。太平洋戦争中、出版報国団副団長をつとめ、戦後企業整備で大阪屋号書店と合併、龍文堂書店を創立したが、戦後、文求堂として再開。戦後、日中文化交流の再開を目前にして没した。日本古書組合理事長をつとめた。

 だがあらためて藤井の著書を読み、日本における魯迅の受容史が東京外語支那語グループと文求堂による教科書革新運動と連関していたことを知った。日本の中国語教育界は魯迅を始めとする中国近代文学に注視し、それらを教材とする多くの教科書が編纂されていった。私たち後世代が教科書で魯迅の「故郷」に出会ったように、昭和初期の魯迅の読者たちも、中国語教科書によっていたことになり、それはまた中国における魯迅の文学的ポジション、同じく教科書に採用されていたことも反映されていたのであろう。

 それに先に挙げた、いずれも昭和四年の『現代中華国語文読本』『支那現代短篇小説集』、同七年の『魯迅創作選集』には魯迅の「故郷」だけでなく、「凧」「兎と猫」「宮芝居」「孔乙己」「薬」「阿Q正伝」も含まれ、それらは一九二三年=大正十一年の彼の第一創作集『吶喊』に収録されていたのである。この三冊は中国語教科書ゆえか、古本屋でも見かけたことがない。編纂者の神谷衛年、宮城健太郎、田中慶太郎はいずれも東京外語の卒業生であり、東京外語グループの動向と文求堂の関係はダイレクトに魯迅とリンクしていたと考えられる。しかし藤井によれば、田中を編集兼発行者とする『魯迅創作選集』は四刷で重版を繰返し、魯迅は印税も受け取っている。

1939年 魯迅創作選集 日本刊 中国語 筆名 周作人 漢文 革命家 詩人 小説 散文 支那 阿Q正傳 孔乙己 薬 故郷 狂人日記 版画 印譜 挿絵 絵本  呐喊(鲁迅短篇小说集)

 『文求堂唐本目録坿海王村游記』の刊行が大正六年であることは既述したが、田中はその後の関東大震災を受けて、輸入書籍の重点を漢籍古書から上海発行の新刊書へと転換させることで、営業的にも成功したという。それは本探索1308で示した中国出版業界の成長や上海印書館の隆盛とパラレルだったし、竹内好や武田泰淳などの中国文学者たちの出現とも重なっていたのだろう。それに昭和に入っての満州事変、支那事変は中国関係の書籍や語学書の出版を促進したにちがいない。

 昭和を迎えてからの『文求堂唐本目録』は未見なので、大正六年版と比較できず残念だが、おそらく日本の中国に対する大正から昭和への関係と状況の変化は、そうした『目録』にも反映されていったはずだ。それに大東亜戦争下における生活社などの中国物の翻訳出版は、文求堂も絡んでいたのではないかと思われてならない。

 またこれも藤井に教えられたことだが、ロバート・ファン・フーリックが文求堂の常連だったという。フーリックは昭和十年以降、駐日オランダ公使館に勤め、語学の達人とされ、ディ判事を主人公とする探偵小説『中国鉄釘殺人事件』(松平いを子訳)、『中国黄金殺人事件』(大室幹雄訳、いずれも三省堂)などに加えて、『古代中国の性生活』(松平いを子訳訳、せりか書房)を刊行している。いずれも中国を舞台としていることから考えれば、フーリックが文求堂で買い求めた唐本類がそれらの資料や執筆のきっかけになったと想像できるし、そのように考えることは楽しい。中学時代に武田泰淳の新聞連載小説『十三妹』を読んでいたことを思い出す。

  古代中国の性生活―先史から明代まで  

 『文求堂唐本目録』の中にも、それらに関連したものが混じっているはずだが、唐本に関する素養が欠けているので、その探索はできず、本当に残念である。


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古本夜話1315 魯迅とエロシェンコ

 本探索1308、1309、1310と続けて魯迅にふれたので、ここでエロシェンコとの関係にも言及しておくべきだろう。魯迅の『吶喊』は北京の文芸クラブ新潮社の「文芸叢書」第三巻として刊行されたのだが、その第二巻は魯迅訳によるエロシェンコの『桃色の雲』であった。

 本探索1306で既述しておいたように、一九二一年=大正十年にエロシェンコはメーデーに参加して検束されたことなどで日本政府から国外追放命令を受け、ウラジオストック、ハルピンを経て、上海に向かった。上海には世界エスペラント協会中国代議員の胡愈之がいて、彼は中国の近代出版社の雄である上海の商務印書館の編集長にして、エスペランティストだった。エロシェンコは彼の世話で世界語(エスペラント)専門学校の教師となったのである。しかしそこは安住の地ではなく、エロシェンコを幸福にはしなかった。日本からの追放や上海のことは『日本追放記』(高杉一郎編、『ワシリイ・エロシェンコ作品集』2、みすず書房)で語られている。

 

 一九二二年になってエロシェンコは魯迅と弟の周作人の尽力で、北京大学と北京世界語(エスペラント)専門学校の教授として招かれた。それを高杉一郎『夜あけ前の歌』は「北京大学教授」、藤井省三『エロシェンコの都市物語』は「北京大学 “ 教授 ”」として一章を設け、描いているので、それらを参照しながらトレースしてみる。

エロシェンコの都市物語―1920年代 東京・上海・北京

 前者にはエロシェンコと周作人一家と福岡誠一たち、先述の『日本追放記』の裏表紙には魯迅との写真を見ることができるし、当時魯迅は四十一歳、周作人三十七歳、エロシェンコ三十三歳であった。また後者には魯迅、周作人の北京八道湾の敷地五百坪に建てられた伝統的な四合院形式の建物などの見取図が掲載されている。「故郷」の家の投影があるのかは不明だが、そこにエロシェンコも仮住まいにしていたことはとても興味深い。おそらくここが竹内好のいうところの中国の「近代文学の歴史」を痕跡づけるトポスだったのではないだろうか。

 それらはともかく、エロシェンコを迎えた辛亥革命以後の北京大学のパースペクティブを見てみよう。中華民国の学制のベースを築いた蔡元培は一九一七年に北京大学長に就任し、立身出世ではなく、学術研究が学生の本分だと説き、有能な人材を招いた。例えば、魯迅が「故郷」を発表した総合雑誌『新青年』主幹で、後の中国共産党創立者のひとりである陳独秀を文科科長、同じく李大釗を大学図書館主任に迎えた。文学革命の発端となった胡適、『新青年』編集者の銭玄同、日本の「白樺派」の影響を受けたヒューマニズムの主張者周作人も北京大学教授となった。このようにして北京大学には新風が吹きこみ、北京大学と『新青年』は新中国のルネッサンス運動―文学革命の中心となったのである。

 当時、毛沢東は李の世話で、北京大学図書館の下積みの仕事に従事していたが、それは彼の生涯にあって決定的転回点だったと思われる。拙稿「大きな図書館から小さな図書館へ」(『専門図書館』第二四〇号所収、2010年3月)でも既述しておいたが、毛はこの図書館で恩師の娘と知り合い、結婚に至っているし、最大の影響を受けた陳独秀にしても同様で、共産党創立者の二人にも出会い、自らのもそのメンバーとなっていくのである。
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 ところで魯迅のほうだが、一九二〇年以後には北京大学と北京高等師範学校の講師を兼ねていたので、北京大学には学長の蔡元培、銭玄同、それに魯迅と弟の周作人の四人のエスペラント支持者がいたことになる。彼らの立案によって、北京大学に世界語(エスペラント)科が設けられたのであろう。そうした北京大学の自由で新しい学術研究状況として、上海にいたエロシェンコが召喚されたと見なせよう。

 魯迅はエロシェンコの名前も耳にしていなかったが、新聞で日本から追放されたことを知り、第一創作集『夜あけ前の歌』(叢文閣、一九二〇年)を読み、その中の「「せまい檻」を始めとする三編を『新青年』などに翻訳掲載している。そしてエロシェンコが同居するようになると、第二創作集『最後の溜息』の中の童話劇「桃色の雲」の翻訳を進めた。それが最初にふれた新潮社の「文芸叢書」第二編として刊行されるのである。エロシェンコの北京大学での授業や講演は藤井の「北京大学 “ 教授 ”」に詳しいので、必要とあれば、そちらを参照してほしい。

(『夜あけ前の歌』)(『最後の溜息』)

 しかしエロシェンコにとって、北京は少しも慰められる場所ではなく、日本を恋しく思い続けていた。日本の代わりのように、一九二二年八月にフィンランドのヘルシンキで開かれる第十四回世界エスペラント大会へ出席し、本探索1307でふれたように、その帰途、モスクワの和田軌一郎を訪ね、自らの故郷へと帰っていくのである。


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