出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1326 石本恵吉、大同洋行、エリゼ・ルクリユの蔵書

 エリゼ・ルクリユ『地人論』の訳者の序には当時の石川三四郎の人脈が記され、この翻訳をめぐって吉江喬松、山下悦夫、芹澤幸治郎(ママ)、古川時雄の好意と助力を得たとされる。吉江は『近代出版史探索』189などで既述しておいたように、フランス文学者で、前回のルクリユの立項のある『世界文芸大辞典』の企画編集者、芹澤は拙稿「椎名其二と『パリの日本料理店』」(『古本屋散策』所収)というパリにおけるモデル小説を書いているので、石川ともパリ時代に知り合っていたのだろう。古川は本探索1321でふれておいたが、望月百合子の同志にして夫で、ともに仏英塾や共学社古書部フランス書房を営んでいた。山下悦夫は不明だけれど、春秋社の編集者ではないだろうか。

 この時代に石川の近傍にいた人物として、『ディナミック』に寄稿している、これも『近代出版史探索Ⅵ』1050などの生田春月、及び中西悟堂も挙げられるが、彼らは『地人論』の翻訳出版に直接かかわっていなかったので、ここでは挙げられていないと推察される。しかしその代わりに、ルクリユの死後に関係の深い石本恵吉の存在が語られている。

 私はブルッセル新大学内に於けるルクリユの遺物たる地理学院図書館の図書全部六万巻を日本に持つて来た。石本恵吉氏の志望と出費とによって、この貴重な記念物を日本に移すことになり、五十余屯の大きな荷物は深川の倉庫まで運ばれたのであるが、不幸にして、それはかの大震災に際して烏有に帰して了つた。

 ここで関東大震災において、エリゼ・ルクリユの地理学六万冊が「烏有に帰して了つた」ことを知るのである。かつて私も「地震と図書館」(『図書館逍遥』所収)書き、内田魯庵がいうところの「典籍の廃墟」「永遠に償はれない文化的大損失」(『内田魯庵全集』第八巻所収、ゆまに書房)に言及している。関東大震災は多くの図書館を炎上させ、膨大な貴重文献を消失させてしまったのであり、とりわけ東京帝大図書館はその「典籍の廃墟」を象徴するものだった。

図書館逍遥  

 主なものを挙げれば、『近代出版史探索Ⅲ』514などの言語、宗教、神話学のマックス・ミュラー文庫、法律、政治、経済学のデルンブルヒ文庫、エンゲル文庫、ヨセフ・コーラー文庫、ギリシア歴史、ラテン古文学のオードリー遺書、満州朝鮮地理書の白山墨水文庫などの八万冊に加えて、世界に一冊しかない満文、蒙文、西蔵文『一切蔵経』、幕府の『評定所記録』『寺社奉行記録』、足利時代から江戸時代にかけての切支丹文献などで、魯庵は「世界の大文庫の全滅」とまでいっている。おそらくルクリユの遺物の蔵書も帝大図書館に収まるはずだったので、いずれにしても関東大震災による被害は免れなかったであろう。

 それでは蔵書を買い上げ、日本へと運ばせた石本恵吉とはどのような人物なのか。幸いにして『日本アナキズム運動人名事典』に立項を見出せるので、それを引いてみる。

日本アナキズム運動人名事典

 石本恵吉 いしもと・けいきち 1887(明20)12-1951(昭26)東京市小石川区高田町(現・文京区関口)に生れる。父新六は男爵、陸軍中将。一高を経て東京大学工学部採鉱冶金学科に入学。一高時代の同級に岩波茂雄がいる。14年卒業、三井鉱山に入社。同年広田静枝(のち加藤シヅエ)と結婚し、三池炭鉱へ赴任。18年病気になり帰京。外遊して労働問題、思想問題に見聞を広める。21年頃三井鉱山を退社、洋書輸入の大同洋行を創業する。超一流の書籍のみ取り扱うという営業方針で、石川三四郎を介しブリュッセル新自由大学にあるエルゼ・ルクリュの蔵書6万巻を1万円で輸入する。また狩野亨吉所蔵の『自然真営道』などを7000円前後で購入し東大図書館に納める。商売というより不遇な学者を援助する文化事業のつもりだったらしい。だがこれらの書籍は関東大震災で烏有に帰し、大同洋行もその後まもなく解散したようだ。30年頃新天地を求めて満州に渡る。36年静枝と離婚。長男新は論理学者。

 この立項が石川三四郎の『自叙伝』(理論社)によっていることは明白であり、それを反復するよりも、静枝夫人は後に加藤勘十と再婚し、加藤シヅエとして『ある女性政治家の半生』(PHP研究所、昭和五十六年復刻、日本図書センター)を著しているので、そちらのほうを確認してみる。

 加藤シヅエ―ある女性政治家の半生 (人間の記録) (日本図書センター)

 静枝の父は東京帝大出の工学士で、英米との貿易に携わり、母は麻布の東洋英和を卒業し、弟は鶴見祐輔であった。彼女は大正三年に女子学習院を終え、石本と結婚する。彼は軍人の家系にもかかわらず、人道主義的な考えの持ち主で、鶴見と同じ新渡戸稲造の門下生の一人でもあり、内村鑑三や山室軍平の感化も受けていたので、彼女はその縁談を承諾したのである。そして石本は三井鉱山の技師として三池炭鉱に赴任し、静枝は夫ともども炭鉱の労働問題と貧乏人の子だくさんの見本のような生活を目の当たりにして三年間を過ごした。だが石本は健康を害し、帰京して療養することになる。

 彼女の証言によれば、石本は健康を回復すると、大正デモクラシーの盛り上がる中にあって革命思想に傾き、二人でアメリカに行くことを提案し、それを実行し、自らはマーガレット・サンガーに出会い、生涯の師として仰ぐことになる。しかしその一方で、石本の事業は様々な連帯保証なども含め、失敗続きで、財産の散財といった状況となり、静枝も精神的に消耗し始める。それに続いて、石本は国策に乗じるようになり、国士気取りの友人たちとの交流も盛んとなり、「満州に理想郷を作りに行く」といい、大陸へと向かってしまう。そこで彼女は離婚を決意するに至るのである。

 これらの彼女の記述から、ダイレクトな証言はないけれど、洋書輸入や超一流の書籍のみを扱う大同洋行の事業が失敗に終わったことを了解するのである。


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古本夜話1325 エリゼ・ルクリユ『地人論』

 前回、石川三四郎が千歳村で「土民生活」を始め、望月百合子とともに共学社として『ディナミック』を創刊したのはルクリユの影響が大きかったのではないかと指摘しておいた。そして当時、石川がルクリユの『地人論』を翻訳していたことも。

 それは昭和五年に『地人論(第一巻人祖論)』(以下『地人論』)として、春秋社から刊行されている。菊判函入、上製三三四ページ、多くの図版を配した一冊で、幸いにして手元にある。巻頭のルクリユのポルトレは『ディナミック』第五号の特集に掲げられたものと同じであり、『地人論』の原書からとられていたとわかる。あらためて同書に目を通すと、この第一巻は「人類の起原」「地的環境論」「労働論」「晩熟の民族」「家族、階級、部落」「歴史の分割とリヅム」の六章で構成され、全六冊のうちの第一編「人祖論」の全訳であると述べられている。

 したがって『地人論』全訳は邦訳十二冊の分量が必要となり、そのために石川にしても出版は不可能だと認識していたはずである。それをふまえて石川もフランスでの改訂縮約版の編集も進んでいることを記し、同版による以後の翻訳への意思を表明している。

 それにしても十九世紀から二十世紀前半にかけて、欧米で刊行された社会科学書の多くが大部の大冊で、日本の翻訳出版史において縮約版しか刊行されてこなかった。その典型に本探索1225の石川訳のコント『実証哲学』が挙げられるし、『近代出版史探索』76のハヴロック・エリス『性の心理』『同Ⅴ』913のフレイザー『金枝篇』にも見ることができる。だが近年『性の心理』『金枝篇』は全訳版が刊行され、版元の未知谷や国書刊行会の営為をたたえるしかないのだが、『地人論』は春秋社のこの一冊だけで終わってしまったのである。

 性の心理 第1巻 羞恥心の進化 (『性の心理』未知谷)金枝篇―呪術と宗教の研究〈1〉呪術と王の起源〈上〉 (『金枝篇』国書刊行会)

 それゆえに章の明細はたどれないけれど、第二巻以後の内容を示しておく。それらは第二巻「古代史」、第三巻「近代史」、第四巻「現代史」で、これに改訂版ではその後四半世紀の世界の変遷と動向も加えられ、石川も「若し出版者が私の全訳を出すことを承諾して下されば、勿論この改訂増補の分も加へる積りである」と付記している。しかし残念ながら、『地人論』はこの一冊だけしか刊行されなかったのである。このような大著は全訳がないこともあるけれど、本探索1314のヘーゲル『歴史哲学』よりもチャート化が難しいように思われる。それでもルクリユは「著者の序」で、『地人論』のプランに関して語っている。

 それは土壌だの、気候だの、総て歴史の出来事が成就された全環境の状況が展示され、『人』と『地』との協調が表明せられ、民衆の行動が大地の進化との調和的因果関係に於て説明されるやうなプランである。
 本書は、即ち今私が読者に提供するところのそれなのだ。

 もちろん石川は自らいうごとく「このルクリユ家に居ること七年間」という関係もあり、その親交を通じて、ルクリユの研究や思想に馴染み、「十九世紀の世界の最大人物の一人」との認識のもとに、没後二十五年、生誕百年祭りを記念して、この翻訳出版を実現させたことになる。それならば、日本での当時のルクリユはどのように位置づけされていたのか。それを『世界文芸大辞典』から引いてみる。付された名前、著書名、原語は省略する。

 ルクリュ(ママ)(1830-1905)フランス地理学者、無政府主義者。サント・フォワ・ラ・グランドに生れトゥールーにて没す。『世界地理』(1875-94)、『地人論』等の著で以つて知られる。ブリュッセルの大学で長らく教鞭を取つた。無政府主義者としての活躍も注目に値し、第一インターナショナル、パリ・コミュンヌ等に関係し、一時捕はれて極刑を宣せられたが、各国の学者の釈放運動による危うく救はれた。そのオネジム・ルクリュ(1837-1916)はオルテに生れ、パリにて没し、彼も亦地理学者として知られてゐる。『大地鳥瞰』(1877)『宇宙の最も美しき王国』(1899)等の著があり、ピトレスクで多彩な筆致は彼の著者の魅力の一つである。

 これを補足すれば、ルクリユの二人の甥のポールとジャックもアナキストとしてよく知られ、何れも石川との親交があったとされる。

 この中央公論社の『同辞典』は拙稿「『世界文芸大辞典』の価値」(『古本屋散策』所収)でふれておいたように、昭和十二年の刊行であり、同五年の『地人論』の出版から七年を閲していたことになるが、この立項にしても、石川による翻訳出版がなかったならば、難しかったかもしれない。それに石川は『古事記神話の新研究』(三徳社、大正十年)は『地人論』から地理学を学んだ賜物と称しているが、彼の他にルクリユのアナキズムはともかく、地理学の影響を受けた者が多かったとは思えない。

 ただこれはいずれ調べてみるつもりだが、フランスの新しい歴史学をめざすアナール派のリュシアン・フェーヴルの『大地と人類の進化』(飯塚浩二訳、岩波文庫)やブローデルの『地中海』(浜名優美訳、藤原書店)との相関関係で、ルクリユの地理学的業績はアナール派へと継承されたとも考えられる。だがブローデルなどと異なり、もはやルクリユのことは誰も語っていないように思える。

大地と人類の進化 上巻―歴史への地理学的序論 (岩波文庫 青 451-1)  〈普及版〉 地中海 I 〔環境の役割〕 (〈普及版〉 地中海(全5分冊))


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古本夜話1324 共学社と『ディナミック』

 本探索1321で、昭和二年に石川三四郎が世田谷の千歳村で土民生活の実践としての共学社を発足させ、それに望月百合子がパートナーとして加わったことを既述しておいた。

 その共学社から昭和四年に二人の編集で、月刊紙といっていい『ディナミック』が創刊されている。たまたま最近、アナキズム文献を主とするりぶる・りべろの古書目録で『ディナミック』全五十九号のうちの五十二冊を見つけ、入手したので、ここで続けて書いておきたい。初めて目にしたからだ。

 ディナミック ―石川三四郎個人紙 完全復刻 (『ディナミック』復刻版、黒色戦線社)

 『ディナミック』はA4判四ページの創刊号から始まり、昭和九年の最後の第五十九号は表裏二ページとなっている。例外は第五号で、エリゼ・ルクリエ特集という八ページ仕立てである。いずれも発行編輯兼印刷人は石川で、発行所は千歳村の共学社である。この「リー、フレット」の編輯助手を名乗っているのは望月入りで、タイトルの『ディナミック』はコントのタームDynamique Sociale(社会力学)からとられ、それは石川による巻頭言というべき「解放の力学」に顕著に表出している。

 その石川の言によれば、「今はディナミックの時代」で、小さな機械の建立と運転に際しても力学の知識と練習が必要なように、「況や大きな生きた社会を改造し、それを構成する数多き人類が解放されやうといふには、各自が綜合的社会力学の知識を以て其れを実行」しなければならない。そのための「綜合的社会力学の知識」を啓蒙普及しようとするのが『ディナミック』の創刊のひとつの目的だったと見なせよう。石川とコントの関係は本探索1225で見たばかりだ。

 この力学思想は昭和初期の日本社会のトレンドとしての文化モダニズム、プロレタリア文学などの影響もうかがえる。だが創刊後、ただ5にその特集が組まれていることから推測されるように、エリゼ・ルクリユの「綜合的社会力学」的思想に多くを負っていることは確実だし、石川はもちろんのこと、望月にしても、フランスでルクリユ一家の近傍にいたはずで、二人ともフランスからの帰朝者だったことに留意すべきだろう。

 号と話は飛んでしまうけれど、石川は最終号に「回顧五年」をよせ、この五年間の出来事として、騒がしい社会運動に対し、保守反動のうねりが起きたとして、満州事変、五・一五事件を挙げている。それらにまつわる盲動、策動は社会不安を伴い、深刻さを増すばかりで、「世を挙げて凶夢に悶えてゐるとしか思はれない」「激動の五箇年」だったと述べている。確かにそれは『ディナミック』を通読していくと伝わってくるものだ。石川の証言を聞いてみよう。

 今から十二年前、ヨーロッパから帰つて来て、最初に私の唱へたことは「土に還れ」といふことであつた。はでやかな社会運動の盛んななかに「土民生活」の提唱なぞを敢へてしたことは些さか突飛であつたかも知れない。だが併し農村問題のやかましい今日から見ると、それは可なり先見を誇つてもよい思想であつた。(中略)
 私が此地に来て、二反の土地も小作して半農生活を始めたのは、こゝを中心にして広い農村的共学組織を設ける為であつた。我々は今日の資本主義社会に於ては、産を共にすることは容易ではない。せめて学問知識だけでも共にしようといふ意味で私は共学社の名称を採用した。

 農村への回帰をテーマとする『近代出版史探索』141の島木健作『生活の探求』はまだ書かれていなかったけれど、石川は大正十四年に下中弥三郎たちと農民自治会の創立に加わり、昭和二年に下中の平凡社からは『同Ⅱ』242の権藤成卿『自治民範』が刊行されていた。したがって「土に還れ」、「土民生活」はアナキストだけでなく、ナショナリスト、後にコミュニストも含んだ時代のトレンドを形成していくのである。

 

 それに加えて、石川が共学社としてめざしたのは音楽家、画家、諸々の語学者も来訪し、独立自治のかたちで半農生活を営み、毎週一回一堂に会して、共学、共楽、共同的研究も行なうことだった。そうした生活は全国の同志たちにも伝わっていくことを予想したが、好事魔多しで、それはまったく実現に至らなかったとされる。そのために『ディナミック』の創刊が構想されたのである。その助走段階として、石川の共学社パンフレットとして、『土の権威』『土民芸術論』なども出版されていたことにも注目しよう。

 ただ『ディナミック』は「土民生活」を表現するには至らず、石川の科学的哲学的研究に終始し、そのコアは先述のコントだけでなく、『近代出版史探索』74のエドワード・カーペンター、とりわけエリゼ・ルクリユの『地人論』に基づく宇宙観的歴史論であった。石川は『ディナミック』を刊行するともに、その『地人論』の翻訳にも携わっていたのである。


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古本夜話1323 新潮社「現代仏蘭西文芸叢書」と望月百合訳『タイース』

 前々回もふれたように、望月百合子は百合名義で、大正十三年に新潮社からアナトオル・フランスの『タイース』を翻訳刊行している。『タイース』『近代出版史探索Ⅴ』810で、『舞姫タイス』として取り上げているし、望月訳はこれも同815で挙げておいた「現代仏蘭西文芸叢書」としての一冊である。この「叢書」は紅野敏郎『大正期の文芸叢書』にも見出せるので、それらのラインナップを示す。

(『舞姫タイス』、白水社)大正期の文芸叢書

1  アンドレ・ジッド  山内義雄訳 『狭き門』
2  アナトオル・フランス  小林龍雄訳 『我が友の書』
3  ピエェル・ロテイ  和田伝訳 『ラマンチョオ』
4  アナトオル・フランス  平林初之輔訳 『白き石の上にて』
5  ポオル・モオラン  堀口大學訳 『夜ひらく』
6  アンドレ・ジッド  石川淳訳 『背徳者』
7  ルイ・フィリップ  井上勇訳 『ビュビュ・ドゥ・モンパルナッス』
9  ポオル・モオラン  堀口大学訳 『夜とざす』
10  アナトオル・フランス  望月百合訳 『タイース』
11  ポオル・ジェラルディイ  岡田三郎訳 『銀婚式』
12  アンリ・ドゥ・レニエ  鈴木斐子訳 『生ける過去』


      
 
 この「現代仏蘭西文芸叢書」で『タイース』の巻末広告において、どうしてなのか、6までが掲載されているが、それ以降は見えていない。ここで8が抜けているのは、紅野によれば、編集の手違いだとされている。そのことはさておき、これは「吉江喬松氏監選」と銘打たれているように、『近代出版史探索』189などの吉江の現代フランス文学者兼企画編集者としてのセンスが発揮され、ここでジツド、フランス、フィリップ、モオランなども本格的に紹介され始めたといえよう。紅野は「大正末から昭和にかけてのわが国の近代文学者の聖典の如きものになった」と指摘している。とりわけ5のモオランの『夜ひらく』が新感覚派に与えた影響は、先の拙稿でも既述しておいたとおりだし、6の石川淳訳『背徳者』も特筆すべきだろう。

 訳者たちは主として早稲田の吉江の関係者、東京外語出身者で占められ、三田の堀口はともかく、「望月百合(百合子)などは特別の人」の感があると紅野は述べている。彼にとって、望月の「山梨の山人会の会長もしておられ、山梨県立文学館の創設の構想準備段階から熱心に参加され、オープン後もしばしば来館、百歳に近い現在もお元気そのもの」という姿に接していたので、彼女の若き日の翻訳を示すに際して、感無量の思いが生じたのであろう。私にとっては前回の大日向村のこともあるので、ここで望月と3の和田伝が並んでいることに注目してしまう。

 それならば、和田のロテイはともかく、どのようにして「特別の人」による『タイース』の翻訳は成立したのだろうか。彼女の「一九二四・四・一六/巴里にて」とある「訳者の序」を読んでみると、この日がフランスの八十歳の誕生日で、それを記念して『タイース』の翻訳原稿を日本へと送るに際して、この「訳者の序」もしたためられたとわかる。彼女によれば、二四年八月にパリで有島武郎の情死を知らされた。彼女にとって「有島先生は文学者としても私の敬愛してやまぬ一人でした。私も他の人々のやうに先生の作品が好きで、先生の『人』それ自身を敬ひ愛する者」だったのである。

 有島の死は望月の神経衰弱をエスカレートさせ、その病気を紛らわせようとして、『タイース』の翻訳を思い立つ。それは有島とフランスに同じ人道的愛を見出し、前者もまた後者の愛読者だったことも挙げているが、望月は『タイース』に情死した有島と波多野秋子の関係を重ねているように思われる。『タイース』の物語は先の『舞姫タイス』のところで提示しているが、ここでもう一度そのシノプシスを簡略に紹介してみる。

 原始キリスト教の指導者パフニュスは世俗生活の頃に見た舞姫タイースを思い出し、彼女を生活から清めようとして、アレクサンドリアに向かい、説得して尼僧院に入れる。だがこの時から彼はタイースの魅力に取りつかれ、それを忘れるために苦行に励み、名声は高まるけれど、悩みは募るばかりだった。そこにタイースの臨死の知らせが届き、彼が駆けつけると、彼女は信仰のうちに平安な死を迎えようとしていた。そこでパフニュスは叫ぶ。死んではならぬ、神も天国もつまらない、地上の生命とその恋だけが真実なのだと。その彼のわめき立てる形相を見て、尼僧たちは「吸血鬼!」だと叫び、逃げ出してしまう。

 この物語に関する注釈と読解は繰り返さないが、望月訳『タイース』に込められた心情は、パフニュスが有島武郎、タイースが波多野秋子ということになるだろう。それは有島情死事件が望月を始めとするフェミニズム陣営の女性たちに与えた衝撃の一端を物語っているように思える。望月が「私にとっては恩師でもあり、心の父でもある。石川三四郎先生の御校閲を経て公にすることができるなら」とも記しているのは、そのことを意味しているのではないだろうか。そうして石川を通じ、吉江、もしくは「現代仏蘭西文芸叢書」関係者のところに持ちこまれ、刊行されたのではないだろうか。

 ちなみに紅野によれば、1の山内義雄の夫人の山内緑は『女人芸術』同人の小池みどりであるという。そのことを考えると、12の鈴木斐子はプロフィルがつかめないが、そちらのラインからの翻訳者かもしれない。私はそれ『生きている過去』(窪田般弥訳、桃源社)として読んでいるが、この女性がその初訳者であることをここで初めて知った。

 生きている過去 (1966年) (世界異端の文学〈3〉)

 
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古本夜話1322 満州と和田伝『大日向村』

 望月百合子『大陸に生きる』を読んでいて、舞台は満州でありながらも、日本の昭和十年代を彷彿とさせたのは、『近代出版史探索Ⅲ』530の小川正子『小島の春』『同Ⅴ』812の白水社の『キュリー夫人伝』 が取り上げられていることである。また周作人との対話の収録も、彼女がエロシェンコ人脈に連なっていたことを想起させる。それらに加えて、望月の著書がやはり『同Ⅴ』904の同時代の「開拓文学」の体現に他ならない朝日新聞社の「開拓文学叢書」と連動しているのは明らかだ。

文化人の見た近代アジア (6) 復刻 大陸に生きる (ゆまに書房復刻)   (白水社新装版)

 それは望月が最初の章「東満散策記」において、昭和十四年に大日向村を訪れ、この村の名士ともいえる九十歳になるお婆さんにも会っていることにも明らかだ。この人物は和田伝が取材の際に会ったお婆さんで、和田の大日向村が「すつかり観光地みたいになつてしまつて・・・・・・」という言も引かれているし、続けてそこには大日向村の道を背景にして、ひとりの村の娘と望月との一ページの並立写真もある。その大日向村は翌年の章の「新しき行進譜」でも再訪され、その村が和田の言を肯う「観光地」にされた現実の一端を伝えていよう。和田の農民文学は『近代出版史探索』184、185などでも取り上げている。

 なぜそのような大日向村の「観光地」化が生じたかというと、それは和田伝の『大日向村』がもたらしたプロパガンダを伴う開拓文学の影響と見なせよう。和田の作品は先述の朝日新聞社の「開拓文学叢書」の一冊として、昭和十四年に刊行されている。だがこれは福田清人『日輪兵舎』と異なり、入手できていないので、テキストは『和田伝全集』(第四巻所収、家の光協会、昭和五十三年)によっている。まずはこの小説のストーリーを紹介してみる。

   

 長野県南佐久郡大日向村は千曲川の上支流に位置する峡間の底の八つのむらからなり、夜が明けるのは遅く、日没は早く、大日向とは名ばかりの日陰の村で、昔から俗に半日村とさえ呼ばれていた。農家戸数三百三十六戸に対し、一戸あたりの耕筰面積は田畑合わせて七反九畝でしかなく、東西の山々の炭焼きを兼ねた生活で、しかも寺社有、国有林を除く林野面積のうちの四百町歩は一人の豪家の所有であった。それでも三千六百町歩の村有林があり、古来からその伐採は年々百町歩から百二十町歩で、二十五年で一巡りするという輪伐法により、年々十万俵の炭が焼かれ、耕作は狭くとも村民は山に入り、炭を焼いていれば、生活に困ることはなかった。

 ところが昭和五、六年のすさまじい農村恐慌で一俵一円四十銭の木炭は四十銭、一貫目十二、三円の繭は二円を割ってしまったのである。そのためにこれまでの輪伐法は維持できず、昭和九年までには村有林だけでなく、私有林も過伐され、山は次々に裸にされてしまった。その結果、大日向村の歳入の三分の一にあたる村有林の払い下げ代金も入らず、村税怠納額は一万円を超え、窮地に陥っていた。

 そこで村長は、村の素封家の長男で、早稲田大学政治科を出て、そのまま日清生命に入り、東京で暮らしていた浅川武麿に新たに村長を依頼することになった。それは村長一人の判断ではなく、役場、産業組合、農会、学校の代表者たちも同様で、彼らの上京しての浅川の寓居での坐り込みによって実現するに至る。

 しかし武麿にとって、故郷の家は没落し、希望もない故郷でしかなかった。それならば、どうして尊重を引き受けたのか、それは次のように説明される。

 彼は村行政に就いてべつにはっきりした知識も何も持っていなかった。従って方角はべつに何も立っていなかった。自信があるというのでもなかった。しかし(中略)ふるさとはしだいに山の彼方のものとは考えられなくなったのである。ふしぎと情熱が沸いてくるのをおぼえ、日毎にそれが強力に彼を捉えて放さなくなった。長年の都会生活でかつておぼえたことのない強い情熱であった。忘れていた故郷の山のけわしさと切りむすんでもたじろがぬそれは強靭な情熱となって盛り上がってくるからふしぎであった。「村」という言葉が、かつておぼえたためしのない響きで心に切り込んでくるのであった。そして、その切り込みは深く、痛いほどに刃のあとを残して消えるということがなかった。

 満州事変以後の昭和十年代の出郷者の「村」への回帰がここに語られていることになろう。かつて野島秀勝の『「日本回帰」のドン・キホーテたち』(冬樹社)を読んだことを思い出す。しかし武麿にしてみれば、具体的に大日向村再建のヴジョンを提出しなければならない。それは大日向村の過剰農家の問題とつながり、満州への農業移民計画として展開結実していく。長野県は昭和七年からそれが始まり、十一年までに第五次移民団を送り出していた。彼の計画は「この大日向村を二つに分け、その一半をそのまま大陸に移し、もう一つの新しい大日向村を彼地に打ち建てよう」とする新しいものだった。

 それは武麿の「半ば夢みたいな」「まったく新しい形の一つの空想」だったが、多くの村民の賛同を得て、計画は進められていった。農林省経済更生特別助成村に選ばれ、負債の性器、必要な資金繰りの目途も立ち、先遣隊が満洲へと向かうことになった。村の神社で「暁天はるか輝けば/希望は燃えて緑なす/見よ大陸新平野/拓く吾等に光あり/おお満州「大日向村」という満州大日向村建設の歌が高らかに唄われ、送り出されていったのである。そして昭和十三年には、入植地は吉林省舒蘭(ジャラン)県四家房(スージャフワン)と決定し、その新地面積は既墾地二六〇〇町歩を始めとする広大なものだった。

 和田伝は昭和十三年十月にこの大日向村を訪ね取材し、『大日向村』を上梓する。十五年には豊田四郎による映画化、前進座による加藤大介などの舞台公演も重なり、それが大日向村の「観光地」化を促進していったのであろう。

 そのために『大陸に生きる』にあっても、望月百合子による二度の大日向村訪問もなされたと考えられる。


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