出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1325 エリゼ・ルクリユ『地人論』

 前回、石川三四郎が千歳村で「土民生活」を始め、望月百合子とともに共学社として『ディナミック』を創刊したのはルクリユの影響が大きかったのではないかと指摘しておいた。そして当時、石川がルクリユの『地人論』を翻訳していたことも。

 それは昭和五年に『地人論(第一巻人祖論)』(以下『地人論』)として、春秋社から刊行されている。菊判函入、上製三三四ページ、多くの図版を配した一冊で、幸いにして手元にある。巻頭のルクリユのポルトレは『ディナミック』第五号の特集に掲げられたものと同じであり、『地人論』の原書からとられていたとわかる。あらためて同書に目を通すと、この第一巻は「人類の起原」「地的環境論」「労働論」「晩熟の民族」「家族、階級、部落」「歴史の分割とリヅム」の六章で構成され、全六冊のうちの第一編「人祖論」の全訳であると述べられている。

 したがって『地人論』全訳は邦訳十二冊の分量が必要となり、そのために石川にしても出版は不可能だと認識していたはずである。それをふまえて石川もフランスでの改訂縮約版の編集も進んでいることを記し、同版による以後の翻訳への意思を表明している。

 それにしても十九世紀から二十世紀前半にかけて、欧米で刊行された社会科学書の多くが大部の大冊で、日本の翻訳出版史において縮約版しか刊行されてこなかった。その典型に本探索1225の石川訳のコント『実証哲学』が挙げられるし、『近代出版史探索』76のハヴロック・エリス『性の心理』『同Ⅴ』913のフレイザー『金枝篇』にも見ることができる。だが近年『性の心理』『金枝篇』は全訳版が刊行され、版元の未知谷や国書刊行会の営為をたたえるしかないのだが、『地人論』は春秋社のこの一冊だけで終わってしまったのである。

 性の心理 第1巻 羞恥心の進化 (『性の心理』未知谷)金枝篇―呪術と宗教の研究〈1〉呪術と王の起源〈上〉 (『金枝篇』国書刊行会)

 それゆえに章の明細はたどれないけれど、第二巻以後の内容を示しておく。それらは第二巻「古代史」、第三巻「近代史」、第四巻「現代史」で、これに改訂版ではその後四半世紀の世界の変遷と動向も加えられ、石川も「若し出版者が私の全訳を出すことを承諾して下されば、勿論この改訂増補の分も加へる積りである」と付記している。しかし残念ながら、『地人論』はこの一冊だけしか刊行されなかったのである。このような大著は全訳がないこともあるけれど、本探索1314のヘーゲル『歴史哲学』よりもチャート化が難しいように思われる。それでもルクリユは「著者の序」で、『地人論』のプランに関して語っている。

 それは土壌だの、気候だの、総て歴史の出来事が成就された全環境の状況が展示され、『人』と『地』との協調が表明せられ、民衆の行動が大地の進化との調和的因果関係に於て説明されるやうなプランである。
 本書は、即ち今私が読者に提供するところのそれなのだ。

 もちろん石川は自らいうごとく「このルクリユ家に居ること七年間」という関係もあり、その親交を通じて、ルクリユの研究や思想に馴染み、「十九世紀の世界の最大人物の一人」との認識のもとに、没後二十五年、生誕百年祭りを記念して、この翻訳出版を実現させたことになる。それならば、日本での当時のルクリユはどのように位置づけされていたのか。それを『世界文芸大辞典』から引いてみる。付された名前、著書名、原語は省略する。

 ルクリュ(ママ)(1830-1905)フランス地理学者、無政府主義者。サント・フォワ・ラ・グランドに生れトゥールーにて没す。『世界地理』(1875-94)、『地人論』等の著で以つて知られる。ブリュッセルの大学で長らく教鞭を取つた。無政府主義者としての活躍も注目に値し、第一インターナショナル、パリ・コミュンヌ等に関係し、一時捕はれて極刑を宣せられたが、各国の学者の釈放運動による危うく救はれた。そのオネジム・ルクリュ(1837-1916)はオルテに生れ、パリにて没し、彼も亦地理学者として知られてゐる。『大地鳥瞰』(1877)『宇宙の最も美しき王国』(1899)等の著があり、ピトレスクで多彩な筆致は彼の著者の魅力の一つである。

 これを補足すれば、ルクリユの二人の甥のポールとジャックもアナキストとしてよく知られ、何れも石川との親交があったとされる。

 この中央公論社の『同辞典』は拙稿「『世界文芸大辞典』の価値」(『古本屋散策』所収)でふれておいたように、昭和十二年の刊行であり、同五年の『地人論』の出版から七年を閲していたことになるが、この立項にしても、石川による翻訳出版がなかったならば、難しかったかもしれない。それに石川は『古事記神話の新研究』(三徳社、大正十年)は『地人論』から地理学を学んだ賜物と称しているが、彼の他にルクリユのアナキズムはともかく、地理学の影響を受けた者が多かったとは思えない。

 ただこれはいずれ調べてみるつもりだが、フランスの新しい歴史学をめざすアナール派のリュシアン・フェーヴルの『大地と人類の進化』(飯塚浩二訳、岩波文庫)やブローデルの『地中海』(浜名優美訳、藤原書店)との相関関係で、ルクリユの地理学的業績はアナール派へと継承されたとも考えられる。だがブローデルなどと異なり、もはやルクリユのことは誰も語っていないように思える。

大地と人類の進化 上巻―歴史への地理学的序論 (岩波文庫 青 451-1)  〈普及版〉 地中海 I 〔環境の役割〕 (〈普及版〉 地中海(全5分冊))


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら