出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1346 徳富蘇峰、民友社、『国民之友』

 本探索1343で引いた拙稿「正宗白鳥と『太陽』」において、白鳥の雑誌読書史が『国民之友』から始まっていたことにふれている。しかも岡山の読書少年だった白鳥は、雑誌や書籍を郵便通販で入手していたのであり、明治二十九年に東京専門学校に入るために上京し、神楽坂の盛文堂で、初めて『国民之友』を買い、記憶に残る体験だったと記している。

 『太陽』に先駆け、明治二十年に民友社から創刊された『国民之友』はその時代の思想界をリードし、知識階級に大きな影響を与えたとされる。民友社の徳富蘇峰は『出版人物事典』にも立項されている。

(創刊号)(創刊号)

 [徳富蘇峰 とくとみ・そほう、本名・猪一郎]一八六三~一九五七(文久三~昭和三二)民友社創業者。蘆花の兄。熊本県生れ。熊本洋学校から同志社に入学したが中退。熊本に帰り自由民権運動に参加。一八八六年(明治一九)『将来の日本』を出版、一躍文名を高め上京、八七年京橋区日吉町に民友社を創業、平民主義を標榜する雑誌『国民之友』を創刊、青年層の共感を集めた。民友社からは竹越与三郎『新日本史』、福地源一郎『幕府衰亡論』、山路愛山『読史論集』などの史論や、国木田独歩『武蔵野』、宮崎湖処子『帰省』、徳富蘆花『不如帰』『自然と人生』などの大ベストセラーが誕生した。著書に『近世日本国民史』『蘇峰自伝』などがある。

 本探索1334の政教社と異なり、民友社の書籍は近代文学館で複刻されているし、『自然と人生』は実物を入手し、拙稿の蘆花論「東京が日々攻め寄せる」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)でテキストとして使ってもいる。それにかつては高校の図書室などに『近世日本国民史』のセットがそなえられていたことを記憶しているし、数ヵ月前には浜松の典照堂で揃いを見ているが、売れてしまったようだ。

  郊外の果てへの旅/混住社会論

 ところで『国民之友』のほうだが、これは例によって創刊号が近代文学館の「複刻日本の雑誌」に含まれ、菊判の四二頁の一冊である。それは博文館の『太陽』が出版資本による日清戦争の勝利と国威昂揚の色彩に包まれ、写真や図版もふんだんにあしらった四六倍判、二〇四ページの帝国ぶりと比べ、ひっそりとした手づくりのリトルマガジンの典型のように映る。そのイメージはタイトルの『国民之友』にふさわしく、それでいて「政治社会経済及文学之評論」とあり、実際には判型、内容、ページ数にしても、『明六雑誌』に近かったとも考えられる。

(『明六雑誌』)

 創刊号は「時事評論」「国民之友」「論説」「雑録」「広告」からなり、その「国民之友」は蘇峰による社説と見なせるであろうし、「嗟呼国民之友生れたり」との見出しで、その創刊の目的を次のように述べている。

 日本国何くに在る、日本人民何くに在る、我が愛する日本は、不幸にして三百年来絶海の孤島に隠遁したるを以て、国家、人民の思想に到りては、何人の脳中と雖も殆んど之を尋る所なく、其の名義こそ日本国とも、国民とも云ひたり、其ノ実ハ荒々漠々たる無主人の空屋に類し、(後略)

 これはこの創刊号の半分以上を占める十三ページにわたり、日本と国民の存在理由とアイデンティティを問うていることになる。正宗白鳥にしても、この創刊号を読んでいたであろうし、『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」の解題によれば、創刊号は重版が続き、数万部を超え、第九号は八千八百部、第三七号は二万部に及んでいるという。それはおそらく蘇峰による「国民之友」社説の評判と反響を伝えているだろうし、「政治社会経済及文学之評論」という雑誌の形を標榜しながらも、どちらかといえば新聞的で、八銭という定価も時代のニーズにかなっていたはずだ。

 明治前半に本探索1343の『明治名著集』に象徴される出版があり、雑誌の時代も始まろうとしていたし、白鳥ではないけれど、全国各地に近代読者が多く生まれていたのである。

 しかもそれは近代郵便制度が整備され、『国民之友』も「本読代償ハ郵便小替ヲ以テ」と明記されているように、郵便で取り寄せることもできたし、それは雑誌だけでなく、書籍も同様だった。ちなみに手元に蘇峰の『好書品題』「蘇峰叢書」第四冊、昭和三年)があり、「民友社小史と出版の図書」という案内が付せられ、そこには次のように述べられている。

 

 其の出版した図書は、蘇峰学人等身の著作を中心とし、更に政治、文学、教育、経済等の各方面の名著を網羅し、其の種類千余種、刊行部数は無慮千万部にちかく、其の世教に裨益し、人文を開発したるの功績は、天下公論の存する所である。

 確かに筑摩書房の『明治文学全集』には『徳富蘇峰集』『徳富蘆花集』『徳富蘆花集』の他に『民友社文学集』も編まれていて、明六社や政教社をはるかに上回り、また長きにわたる大きな影響をうかがうことができよう。しかし一方で『明六雑誌』『国民之友』『太陽』が高級な思想的総合雑誌と見なされ、成功し評価されたことは、大正から昭和期にかけての総合雑誌の神話というトラウマを形成したと思われる。

明治文學全集 34 徳富蘇峰集 明治文學全集 42 徳富蘆花集 明治文學全集 36 民友社文學集


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古本夜話1345 博文館『日露戦争実記』

 博文館の雑誌といえば、『太陽』創刊の前年の明治二十七年創刊の『日清戦争実記』、同三十七年の『日露戦争実記』にふれないわけにはいかないだろう。

   (第1号)

 前者については拙稿「近代文学と近代出版流通システム」(『日本近代文学』第65号掲載、日本近代文学会、後に『古雑誌探究』所収)で言及しているので、ここでは後者を取り上げてみる。ただ『日清戦争実記』は十冊入手した上でのことだったが、『日露戦争実記』は明治三十七年十二月の第四十五編の一冊を見つけただけなので、その定期増刊として創刊された『日露戦争写真画報』も入手してからふれることにしようと考えていたのである。

古雑誌探究  (『日露戦争写真画報』)

 この『日露戦争写真画報』のほうは『近代出版史探索Ⅲ』534でも既述しておいたように、押川春浪が編集長を務め、後に『冒険世界』へと継承されていったからだ。また『博文館五十年史』の証言によれば、田山花袋と写真技師柴田常吉に加えて、博文館私設写真班を派遣し、『日露戦争実記』よりも大きい四六倍半、多くの写真と地図を添えたもので、戦争報道における写真の重要性が伝わってくる。それゆえに『日露戦争写真画報』を入手すれば、日清戦争時代から進化した写真と印刷技術を見ることができるはずだった。

 ところが長きにわたってめぐりあえていないので、この『日露戦争実記』を語るしかない。それに売上部数のことだが、明治三十七年二月の第一号は一冊十銭で、二十六回版を重ね、十万余部を発行し、博文館創立以来の空前の売れ行きだったという。しかもその印刷部数は号を追うごとに増え、前年に外国へ発注した最新式輪転機械の到着によって、それが可能だったとされ、戦争が出版ジャーナリズムだけなく、印刷やグラフィック技術のイノベーションともリンクしていることを浮かび上がらせている。

 それはこの『日露戦争実記』にも明白で、口絵写真は一ページに及び、本文一二八ページは「同実記」「露西亜」「世界の反響」「日本魂」、詩、歌、俳句などの「戦時文学」「戦時叢話」「従軍通信」「軍国時事」で構成され、トータルな日露戦争のクロニクルを形成していると思われる。しかも口絵写真には「露軍中より来り投じたる露国看護婦」エカリーナの写真に添え、「わが軍は之を営口の仏国領事に渡したり」というキャプションが付され、さらにこれは病院列車のようだが、「敵隊中の赤十字病院」の写真も認められ、日露戦争が国際赤十字の理念に則っていた一端を教えてくれる。

 また「同実記」冒頭の法学博士有賀長雄の「満州の委任統治と司法」を読むと、日露戦争の根底にあるのは日本とロシアの双方にとっても満州問題に他ならないことが伝わってくる。有賀は「日本が満州の全部又は一部分に対し統治の権を委任せらるゝに至りたるときは其の統治事務の一種として此の地域内に於て行ふところの司法権は如何なる性質なるやは専門上に於て最も精密なる講究を要する問題」だと始めている。すでにここでは日本の勝利を前提としての司法権の問題がテーマとなっていて、それは翌年のポーツマス条約へと反映されていくのだが、第二次世界大戦のソ連参戦による満州国崩壊にまで尾を引いていた問題だと見なせよう。

 ただ『日露戦争実記』のすべてに言及できないし、日露戦争にも通じていないのだが、単純に帝国の昂揚を謳っているわけではなく、それなりに誠実な日露戦争クロニクル、現地レポートとして読むことができる。それに関連して、巻末に田山花袋の『第二軍従征日記』の出版広告が掲載されている。そのキャプションコピーは「一読再読紙上即戦場」で、森鷗外の「序」を付し、大型本として明治三十八年一月の出版予定となっている。

 

 この『第二軍従征日記』はやはり筑摩書房の『明治文学全集』の『田山花袋集』に収録され、読むことはできるし、戦場の鷗外との関係は伊藤整の『日本文壇史』第八巻でも描かれているのだが、実物は入手していない。先の広告によれば、それは「大判美本紙数五百頁」で、「読者はまたかの著によりて戦争美の最も完全に発揮せられたるを認むるなるべし。盖し戦争文学中最も光彩に富める著作なること勿論也。其他写真は一々撮影せし箇所を文中に示し、第二軍の行進踏査地図を付し、寺崎広業画伯の実与になれる写真図を添ゆ。錦上の花とは是也」との言が捧げられている。

日本文壇史8 日露戦争の時代 (講談社文芸文庫)

 いってみれば、この一冊は田山花袋、森鷗外共演の『日露戦争実記』にして、博文館の印刷製本、グラフィック技術のすべてを投影した作品のようにも考えられる。しかし田山の『東京の三十年』にも一度も出会っていないのと同様に、この『第二軍従征日記』にもめぐり会えていない。


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古本夜話1344 昭和の『太陽』臨時増刊『明治大正の文化』

 『太陽』臨時増刊『明治名著集』と異なり、判型は菊判の「博文館創業四十周年記念」として、やはり増刊の『明治大正の文化』が出ている。これも浜松の典昭堂で一緒に買い求めてきたものである。昭和二年六月の発売だから、おそらく大正六年にも「同三十周年記念」の臨時増刊『日本と世界』が刊行されているはずだが、こちらは未見だ。

(昭和二年)(大正六年)

 それにゆえに明治三十年と四十年、大正を飛ばして昭和二年の三冊の『太陽』臨時増刊を見ていることになる。それは一冊目が明治文学集、二冊目が明治名著集、このふたつの特集は近代出版社の雄としての博文館、それを表象する高級雑誌『太陽』の看板を背負った文学、思想特集に位置づけられよう。

(明治三十年)(明治四十年)

 ところが昭和を迎えての三冊目は、実際には四冊目であるにしても、「明治大正の文化」特集で、気負ったニュアンスが薄れ、昭和の総合雑誌のイメージに近づいていると思われる。その判型や厚さにしても『中央公論』『改造』『文藝春秋』などの昭和の総合雑誌のフォーマット感が強く、かつての「帝国」と重なる『太陽』の面影は薄くなっている。

 昭和二年といえば、『近代出版史探索Ⅵ』1098の春陽堂『明治大正文学全集』が刊行され始めていたし、特集のオリジナリティは主張できない。それは編輯兼発行人が『同Ⅴ』880の長谷川誠也であったことも影響していよう。彼は明治三十年の最初の『太陽』増刊が刊行された時に、『太陽』編集者となり、高山樗牛や島村抱月に代わる編集者兼評論家の時代もあったようだが、博文館から出版事業研究のためにイギリスへ留学し、大正時代から博文館幹部、早大講師となり、編集や評論からも遠ざかっていたとされる。

  

 これらの事実からすると、奥付に記された長谷川の編輯兼発行人は名義上のもので、「編輯室より」を書いている「一記者」とは別人だと考えられる。しかも『博文館五十年史』の昭和二年のところには「『太陽』の廃刊と編輯局主幹更迭」との見出しで、次のように述べられている。

 『太陽』の創刊は明治二十八年一月にて、三十四年間に亘り、雑誌界の権威と仰がれたが、終に昭和二年十二月に廃刊し、主筆平林初之輔、編輯部員長谷川浩三、料治熊太、高橋菊二郎、林征木の五氏は皆辞任した。同時に長谷川誠也氏も編輯局主幹を退いたので、「文芸倶楽部」主任森下岩太郎氏が編輯局主幹と為つた。

 森下岩太郎は『近代出版史探索』94の森下雨村に他ならず、彼は大正九年の『新青年』創刊の編集に携わり、海外探偵小説の紹介、同95の『世界大衆文学全集』などの企画編集、同96の江戸川乱歩のデビューにも関わり、昭和に入って、博文館は『太陽』というよりも『新青年』のほうが看板になっていたと見なせよう。

(創刊号) (『世界大衆文学全集』67)

 さて平林初之輔と森下雨村の名前を見たわけだから、「明治大正の文化」に探偵小説も挙げられているのではないかと期待したが、それはない。明治大正に関する文化項目は万遍なくリストアップされ、五十七にも及んでいるので、すべてを紹介できないけれど、本探索でお馴染みの人たちが二十人以上含まれていることだけは記しておこう。しかも長谷川誠也が晩年の関心事であったのか、「国語表記法の問題」を寄稿しているのは、それほど必然的な明治大正に関するテーマと思われず、アリバイ的に加えられた印象が強い。

 掉尾を飾っているのは先述の編集者の林征木による「明治より大正への国勢の膨張」で、これは「国勢指標統計図表」の十九図を含む、明治大正六十年間に於ける日本帝国の発展をたどったもので、この特集の色彩と異なる社会科学的分析であるけれど、『太陽』に最もふさわしい力作のように映る。それが『太陽』の編集者によるもので、末尾に置かれていることも象徴的でもある。おそらくこの「明治大正の文化」特集の実質的編集者はこの林だったのではないだろうか。

 それに意外なことに林は『日本近代文学大事典』にも立項され、早大仏文科卒、『早稲田文学』同人、平林のもとで『太陽』の編集に携わるとある。なおこれは未見だが、『平林初之輔遺稿集』(平凡社、昭和二年)の編集は林の手になると推測される。このような博文館と『太陽』をめぐる新しい編集者と人脈の関係から見て、すでに『太陽』の時代は終わり、新たな雑誌と出版の時代へと移行しつつあったことが伝わってくるのである。

(『平林初之輔遺稿集』)


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古本夜話1343 『太陽』記念増刊『明治名著集』

 『大日本』から『日本及日本人』『我観』とたどってきたが、本探索1334で満川亀太郎が『三国干渉以後』で語っていたように、これらは「当時唯一の高級政治雑誌『太陽』」を範とする四六倍判を踏襲していたのである。

  

 その『太陽』創刊号も近代文学館の「複刻日本の雑誌」に含まれているけれど、同1335の『日本及日本人』と同じく、これも浜松の典照堂で明治四十年の博文館創業二十週(ママ)年記念『太陽』増刊『明治名著集』を入手しているので、こちらを取り上げることにしよう。かつて拙稿「正宗白鳥と「太陽」(『古雑誌探究』所収)で、やはり創業十週年臨時増刊の『太陽』の明治文学特集に言及しているが、それから十年後に刊行されたものである。

(創刊号)(『明治名著集』) (創業十週年臨時増刊号) 古雑誌探究

 前回の菊判と異なり、本誌と同じ四六倍判、二段組、口絵写真、各社広告、本文と「博文館図書目録」合わせて七〇〇ページの大冊となっている。表紙絵はエジプトのピラミッド壁画を擬し、編集長は鳥谷部銑太郎=春汀で、没するまで『太陽』の主筆を務めるとあり、この『明治名著集』刊行後の明治四十一年に亡くなっている。その事実を考慮すれば、この『明治名著集』の企画コンセプトも鳥谷部に多くを負っているのだろうし、そのリードに当たる一文も彼によると思われるので、ここに引いておこう。

 開国維新以後明治二十年までは、之れを称して明治文明の建設自体と謂ふべし。此の時代に現はれたる思想上の代表的名著を集大成したるものは、即ち本著なり。明治年間の名著は、寧ろ明治二十年以後の出版業界に於て之れを求め得べしと雖も、明治文明の基礎を作りたる名著は、却つて本書に於て之れを発見し得べ機を信ず。欧州思想の始めて日本に輸入したるに際し、日本の先覚者が如何なる態度を以て之れに触接し、之れを攝取し、之れを咀嚼し、且つ如何なる方式に依りて之れを発表したるかを回顧するは、明治文明の由来を尋繹するに於て少補なしと言ふべからず。是れ本館創立二十週(ママ)年の記念出版として本書を刊行したる所以の微意なり。

 かくして「凡例」でも確認されているように、博文館創業、すなわち明治二十年以前の思想界の名著がここに収録されることになる。それらの著者とタイトルだけは挙げておくべきだろう。なお番号は便宜的に降ったもので、年号不明もあることを了承されたい。

1 福澤諭吉 『学問のすゝめ』 慶応義塾出版局 明治五~九年
2 西 周 『百一新論』 私家版、明治七年
3 田口卯吉 『日本経済論』 経済雑誌社、明治十一年
4 加藤弘之 『人権新説』 私家版、明治十五年
5 中江篤輔 『民約訳解』 仏学塾、明治十五年
6 鳥尾小弥太 『王法論』 大道社、明治十六年
7 井上哲二郎 『倫理新説』 同盟社、明治十六年
8 馬場辰猪 『天賦人権論』 自家版、明治十六年
9 藤田重吉 『文明東漸史』 聞天楼、明治十七年
10 伊藤圭介 『救荒植物集説』 『文部省報告官報』
11 坪内逍遥 『小説神髄』 松月堂、明治十八年
12 外山正一 『社会改良と耶蘇教との関係』 『同人社文学雑誌』
13 西村茂樹 『日本道徳論』 求諸已斎、明治十九年
14 徳富猪一郎 『新日本の青年』 民友社、明治十八年
15 中村正直 『漢学不可廃論』 『明六雑誌』
16   〃   『思想を管理する要を講ず』  〃 

 
 1の福澤『学問のすゝめ』や11の坪内『小説神髄』はともかく、他の人々の著作に関しては、『明治啓蒙思想集』を始めとする筑摩書房の『明治文学全集』にいくつかの収録があることは承知しているが、不勉強というか、またこれまで必要に迫られなかったので、残念ながら読むに至っていない。

明治文學全集 3 明治啓蒙思想集

 だがこれらの著書と著作を近代出版史の視点から見てみると、1の福澤、2の西、4の加藤、13の西村、15,16の中村が明六社社員で、『明六雑誌』の寄稿者だったことは見逃せない事実であろう。『明六雑誌』は明治七年から八年にかけて、売捌所=取次を報知堂とし、まさに明治初期の総合的啓蒙思想の雑誌として全四三号が刊行され、明治七年には二五号まで出され、毎号三千部以上が売れ、しかも多額の収益を得たとも伝えられている。

(『明六雑誌』)

 とすれば、日本近代の民間の啓蒙思想誌の原型は『明六雑誌』に求められ、それを範として博文館の『太陽』が創刊され、さらに判型を同じくする『大日本』『日本及日本人』『我観』などへと継承されていったようにも思える。しかも『明六雑誌』の取次が明治五年創刊の『郵便報知新聞』の売捌所の報知堂だったことは象徴的で、まだ出版社・取次・書店という近代出版流通システムは誕生しておらず、それは明治二十年の博文館の創業、それに続く東京堂の設立を待たなければならなかったのである。

 そのためにこれらの「明治名著」にしても、出版や掲載は大半が私家版、それに準ずるリトルプレス、リトルマガジンによっていたこともあり、ほとんどが絶版状態に置かれ、この『明治名著集』の出版によって、一堂に会したのではないだろうか。先の拙稿で正宗白鳥の言として引いておいたが、明治二十年代半ばには近代文学を誕生させた坪内逍遥の『当世書生気質』や二葉亭四迷の『浮雲』にしても、人気が衰え、絶版になっていて、明治三十年の『太陽』増刊の小説特集号に収録されたことで、初めて読むことができたとされる。

 小説でさえも、そうだったのだから、思想名著などに関してはいうまでもないだろう。おそらくこの『明治名著集』にも、白鳥のような読者がいたにちがいなく、それゆえに『太陽』のコンセプトと系譜も引き継がれていったのだろう。


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古本夜話1342 『中野秀人全詩集』と「真田幸村論」

 花田清輝、中野正剛、『我観』『真善美』といえば、それらにまつわる前後史があるので、そうした事実にも言及しておかなければならない。

  

 まずは前史からふれてみる。中野正剛の弟秀人は早大中退後、大正九年に『文章世界』の懸賞当選論文「第四階級の文学」によってプロレタリア理論の先駆的ポジションを得て、朝日新聞記者となる。演劇、文芸評論を手がけ、実際に演劇にも関わるが、十五年にはイギリスやフランスにわたり、絵も描き、昭和六年に帰朝し、自らの滞欧洋画展覧会を開く。十五年には花田清輝と文化再出発の会を組織し、総合文芸誌『文化組織』を創刊し、エッセイ、小説、戯曲などを書き、「魚鱗叢書」を企画刊行している。

 それらは『日本近代文学大事典』第六巻の「解題」によれば、『文化組織』によって文学者たちの「全体的記念塔にまで発展させるべく」編まれた叢書で、「職能的ジャングルの破壊」「すべては実質であり、戦ひ取られたもの」との意思のもとでの刊行とされ、昭和十六年から十七年にかけて、すべてが中野の装幀で、次の五冊が出された。

1  花田清輝 『自明の理』
2  岡本潤 『夜の機関車(詩集)』
3  中野秀人 『中野秀人散文自選集』
4  赤木健介 『意欲(歌集)』
5  田木繁 『釣狂記』

  

 これらは文化再出発の会発行で、さらに同会から『中野秀人画集・画論』も出ているようだが、いずれも未見である。ただ本探索1310の赤木健介がここでは歌人として登場していることに少しばかり驚かされる。それでも1の花田の第一評論集『自明の理』は戦後に『錯乱の論理』として改題され、『花田清輝著作集』(第一巻所収、未来社)に収録されているので、私の場合『復興期の精神』と同じく、そちらで読んでいる。

   

 さてこのような戦前の中野、花田、文化再出発の会と『文化組織』の関係から、戦後においても、真善美社、『真善美』、それに『綜合文化』が必然的にリンクしていくことになるし、中野は真善美社から初の長編小説『精霊の家』(昭和二十三年)も刊行しているとされる。ただ『文化組織』と「魚鱗叢書」、『綜合文化』と『精霊の家』なども含めて中野の生前の著書や掲載誌をまったく見ていないし、入手していないので、本探索でもほとんどイレギュラーだが、『文化組織』や『綜合文化』も『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」の解題によっている。

 

 そうはいっても、拙稿「真善美社と月曜書房」(『古本探究』所収)で既述しておいたように、「我観社・真善美社刊行目録」と「『綜合文化』全目録」(『花田清輝全集』(別巻2所収、講談社)には目を通している。またそれ以前にも、拙稿「学藝書林『全集・現代文学の発見』と八木岡英治」(『古本屋散策』所収)で書いているように、その第一巻『最初の衝撃』で、中野の「第四階級の文学」を読んでいた。それは貴族、ブルジョワ、中間階級に続くプロレタリアを第四階級として捉え、これらの文学はそれに担われるであろうとする提起であった。後に船戸与一が難民の存在を第四世界の人々と定義するのだが、そのタームとコンセプトの起源は中野の提起にあったのではないかと思ったりもした。

 それもあって、たまたま偶然入った静岡の古本屋の棚で見つけた村上知義装幀の『中野秀人全詩集』(思潮社、昭和四十三年)を購入しておいたのである。しかしこの 『全詩集』 に目を通しての印象だが、全体的に散漫で、これだけは引用しておきたいという詩が見当たらなかった。その印象は高村光太郎による肖像「中野秀人の首」の口絵写真、中野和泉「中野秀人略年譜」、付録の編集委員岡本潤、長谷川四郎、花田清輝、関根弘たちによる座談会、「中野秀人のプロフィル」も同様で、彼らは口を揃えてプライベートな交際はなく、中野のことは「解らない」と発言している。やはり兄という番人、政治家中野正剛の自死なども大きく作用しているのだろうが、兄の存在を抜きにして弟は語れず、戦後の真善美社と『綜合文化』での活動や日本共産党への入党、その揺曳と考えるべきかもしれない。

 それでも彼らが兄との関係も含め、評価しているのは中野の「真田幸村論」で、戦後の映画や演劇における真田への評価は中野によるものが大きいとも考えられる。福田善之の戯曲『真田風雲録』(昭和三十七年)、それに続く加藤泰の映画『真田風雲録』も安保闘争と中野の影響下に成立したといえるのかもしれない。
  
真田風雲録―福田善之作品集 (1963年)  真田風雲録 [DVD]

 だがこの「真田幸村論」は先の「魚鱗叢書」の『中野秀人散文自選集』に収録されているのだが、その後どこかに転載されたのであろうか。まだ読む機会を得ていない。
 なおその後、この作品は『中野秀人作品集』(「福岡市文学館選書」2所収、海鳥社)に収録されていることを知った。

中野秀人作品集 (福岡市文学館選書)  

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