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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

3 『ジェルミナール』をめぐって

どのアメリカ文学史でも、スティーヴン・クレイン、フランク・ノリス、シオドア・ドライサー、アプトン・シンクレアたちは、ゾラに代表されるフランス自然主義の影響を受けていると指摘している。ゾラに代表されるフランス自然主義とは、主として「ルーゴン=マッカール叢書」を意味していると考えていいだろうし、実際に彼らの作品の中に叢書との共通性、及びその投影を見出すことができる。ゾラのアメリカにおける受容は日本と同様に、イギリスのヴィゼットリー父子による英訳と出版を通じて普及したと思われる。

ここで私の仮説を述べれば、ゾラの影響はアメリカのプロレタリア文学のみならず、幅広く浸透し、ハードボイルド小説にまで及んでいると考えられる。「叢書」の第十三巻にあたる『ジェルミナール』 こそは十九世紀プロレタリア文学の嚆矢であると同時に、ダシール・ハメット『血の収穫』 というハードボイルドへとつながっていく導火線のような小説だと見なせるからだ。

ジェルミナール 血の収穫

まずは一八八五年に刊行された『ジェルミナール』 のストーリーを要約しておこう。第七巻『居酒屋』 のヒロインのジェルヴェーズを母とし、ルーゴン=マッカール一族の故郷である南仏のプラッサンで生れたエチエンヌ・ランチエは、十二歳からパリのボルト工場で働き、それからリールで鉄道の機械工になる。だがそこで上司を殴り、追放され、仕事を求めて北仏のモンスー炭鉱にたどり着く。そして知り合いになったマユ一家の引きで、地下数百メートルのところで働く坑夫となる。
居酒屋

しかしこのモンスー地方に産業恐慌が押し寄せ、飢えと失業に見舞われ、それは炭鉱も例外ではなかった。坑夫たちは賃金カットと雇用条件の悪化に対してストライキで応じ、会社側には県当局、軍隊、憲兵がついて、家族をも巻きこんだストライキを弾圧するに至り、マユたちは銃撃され、殺されてしまう。ストライキは敗北に終わってしまったが、エチエンヌはマユの女房と新たな蜂起を誓い、パリに向けて出発する。

「ルーゴン=マッカール叢書」の他の作品にもまして、この『ジェルミナール』 が突出したプロレタリア小説として位置づけられるのは、資本と労働の関係や問題を物語のコアにすえているからだ。だが困難と危険を伴う労働の実態はリアルに描かれている一方で、資本は常に謎のように語られている。

エチエンヌはマユの父親に、モンスー炭鉱会社とこの一帯は誰のものなのかと問う。会社は支配人によって仕切られているが、彼も雇われた存在でしかないのだ。

 「何だって? このあたりは誰のものかって? そんなことは誰にもわからん。実業家連中のものさ」
 そして彼は手を上げ、暗闇の中の定かならぬあたり、実業家連中が住んでいるずっと奥の知られていない場所を示した。彼らのためにマユの一族は一世紀以上も石炭を掘り続けてきたのだ。
 彼の声は宗教的な畏怖の響きを帯び、あたかも近づき難い神聖な場所について話し、そこには全員揃って自らの肉を捧げながらも、一度たりとも見たこともない神が満腹してうずくまり、身を潜めているかのようだった。

これは何度も繰り返し語られ、最後のエチエンヌの出立の場面でも、「誰も見たことがなく、遠くの見知らぬところの神殿の奥に隠れ、悲惨な人々の肉で養っているおぞましい偶像」として、打倒すべき対象とされている。

これこそが近代資本のメタファーであり、かつての神々や王に代わって出現した近代社会の「偶像」に他ならない。その資本の一端が株式として言及され、またその代行者が支配人を監視し、会社の上層部には管理局が位置し、その延長線上に県当局、軍隊、憲兵が出現している。資本は全貌も明らかにされておらず、姿は定かではないが、権力と暴力装置を伴っている。

それゆえにエチエンヌたちのストライキは不可視の資本との闘いという様相を呈するに至る。『ジェルミナール』 において、この資本との闘いのために、十九世紀後半のヨーロッパ社会主義思想の様々な潮流が流れこみ、それはロシア・ナロードニキの系譜から、プルードン主義、革命的集産主義、サンディカリズム、ブランキズム、第一インターナショナルマルキシズムにまで及び、多彩に表出し、それぞれが登場人物の行動に投影されることになる。

だがここでは主人公のエチエンヌにしぼって言及してみる。彼はこのような様々な社会主義思潮から影響を受け、資本と労働の闘いの中で成長していく。そこでゾラは自らの主人公に対して、極めて客観的で、当時の社会主義思想が孕んでいた宗教的熱狂、知識を得た者のエゴイズム、ヒロイズム、思い上がり、出自を否定しようとする反動、政治的立身出世も含めて、冷静にエチエンヌを造型しているように映る。

ただそれでもエチエンヌの半ば内的独白で終わる『ジェルミナール』 のクロージングにおいて、この時点でのゾラの思想的立場と方向性がエチエンヌに投影されているのではないだろうか。エチエンヌは自己増殖していく資本に抗する革命を夢想する。その来たるべき革命は共済資金を充分に備え、パンを欠くことなく何ヵ月も持ちこたえられる労働者のゼネストによって実現される。仲間を結集させ、合法的な組合を結成し、それを数百万人規模のものとなし、あの隠れた「偶像」を失墜させ、労働者が権力を握り、主人となり、真理と正義を復活させるというものだ。

これが炭鉱ストライキの敗北によって覚醒したエチエンヌの視座であり、ここに示された思想はプルードンを経由した革命的サンディカリズムと考えられる。そしてこの後、パリに向かったエチエンヌをパリ・コミューンに参加させることになる。ただ「叢書」の第十九巻『壊滅』 パリ・コミューンは描かれているが、エチエンヌは登場しておらず、第二十巻『パスカル博士』 において、彼がパリ・コミューンで敗北して捕われ、流刑になったと知らされるのである。

壊滅 パスカル博士

さてこの『ジェルミナール』 の後日譚がハメットの『血の収穫』 ではないだろうか。北仏のアンダーグラウンドはアメリカ西部のポイズンヴィル(毒の町)へと突き抜けたのではないだろうか。『ジェルミナール』 の資本と労働の構図の中に、第三者的存在にして、アメリカ特有の「私立探偵」を導き入れ、これもまた「偶像」的な主人公ならしめ、一挙にアポリアの解決をめざしたのが『血の収穫』 であり、このハードボイルド小説はアメリカの一九二〇年代の『ジェルミナール』 と見なせないだろうか。

この二つの小説の連環に気づいたのは私だけでなく、もう一人いる。それはアンドレ・ジッドである。『ジッドの日記』 日本図書センター)の中で、彼が夏になると「ルーゴン=マッカール叢書」を読み返していることを既述したが、「叢書」のうちで最も愛読しているのが『ジェルミナール』 で、四回ほど読んでいると記している。これは三〇年代の日記からだが、四〇年代になってもそれが続いていたと日記の記述から判断できる。

そして四二年六月に「ほとんど讃嘆に近い驚きを感じながら、ダシール・ハメット『血の収穫』 を読むことが出来た」と書き、翌年三月になって『マルタの鷹』 も読み、またしても『血の収穫』 に言及している。
マルタの鷹

 この作家のものでは、去年の夏、驚嘆すべき『血の収穫』 を―だが翻訳で―すでに読んだ。これは『鷹』や『痩せた男』(邦訳『影なき男』 )や、また、題名は忘れたが明らかに注文で書いた第四の小説よりもずっと優れている。英語では、少なくともアメリカ語では、対話の多くの繊細なところが分からない。だが『血の収穫』においては、その会話が見事に選ばれていて、ヘミングウェイやあるいはフォークナーよりも優れているほどだ。そして物語全体が実に器用に、また情け容赦ない犬需主義で選ばれている……こうした特殊な型のものでは、これまで読んだうちで最も注目に値する作品だと思う。

このジッドの『血の収穫』 への偏愛ぶりは、そこに表出している男たちの闘争と女性嫌悪に対するホモセクシャル特有の眼差しによってもいようが、『ジェルミナール』 の炭鉱と連鎖する鉱山と、それに続く物語に魅せられたのではないだろうか。

◆過去の「ゾラからハードボイルドへ」の記事
ゾラからハードボイルドへ2 『ナナ』とパサージュ
ゾラからハードボイルドへ1 「ルーゴン=マッカール叢書」