前回、杉捷夫編訳『メリメ怪奇小説選』を挙げたが、この中に「ヴィーナスの殺人」が収録されている。これは『プロスペル・メリメ全集』第三巻所収の「イールのヴィーナス」を改題したものである。
(『プロスペル・メリメ全集』)
この杉捷夫訳「イールのヴィーナス」は昭和二十二年に細川書店から単行本として出版されている。これは戦後のことになるけれど、メリメに関連しているので、ここで書いておきたい。それは「細川叢書」の一冊としてである。「細川叢書」に関しては『イールのヴィーナス』の判型造本を説明するよりも、そこにはさまれていた投げ込みチラシに見える「細川叢書について」を引いたほうがいいだろう。そこには次のように記されている。
純粋造本の理想主義。最もすぐれた小篇を、最良の用紙に最善の印刷をほどこし、瀟洒で堅牢な小冊子に収録刊行し、造本の秀抜さをほんとうに理解して下さる愛書子の許へ贈ろうというのが細川叢書です。
作品のよしあしがその長短に無関係な如くこの叢書では頁数の多寡など初めから問題になりません。平均六〇ページ、活字は主として五号を使用、用紙は別漉和紙、フランス装、本の大きさは縦六寸横五寸です。
確かにそのような一冊として、『イールのヴィーナス』は目の前にある。この叢書は細川書店会員だけに頒布する書名入り二〇七部の限定版の他に、無署名普及版を刊行していて、奥付を見ると、これは「二千部刊行/内第1147冊」とされている。ただ「非売品」とあるので、著店ルートが主ではなく、読者への直接販売の比重が高かったことを伝えているのだろう。細川書店は東京神田の松富町にあり、刊行者は細川武夫となっている。この際だから、判明している「細川叢書」をリストアップしてみる。
1 川端康成 | 『伊豆の踊子』 |
2 伊藤整 | 『冬夜詩集』 |
3 志賀直哉 | 『網走まで』 |
4 メリメ、杉捷夫訳 | 『イールのヴィーナス』 |
5 佐藤春夫 | 『美しい町』 |
6 中里恒子 | 『孔雀』 |
7 室生犀星 | 『蝶』 |
8 横光利一 | 『機械』 |
9 ゴーゴリ、中村白葉訳 | 『外套』 |
10 石坂洋次郎 | 『草を刈る娘』 |
11 武者小路実篤 | 『ある彫刻家』 |
12 山口誓子 | 『妻 句集』 |
ちなみに1、2、3は限定版、普及版はともに品切で、前者は未見だけれど、一定の人気があったことをうかがわせている。この叢書とは別に「川端康成集上下」として、『旅の風景』と『心の雅歌』、同じく「志賀直哉自選短篇集上下」として『老人』や『灰色の月』が、やはり署名入限定特製版と上製版の両者で出されている。また菊判函入の横光利一『寝園』も入手しているが、これは横光死後の昭和二十五年刊行で、川端康成がその「あとがき」を記している。これらの事実からすれば、細川は戦前のそうした文学書出版の近傍にいた人物だったと考えられるし、印刷や造本へのこだわりからはそれらの関係者ではないかとも推測される。
昭和二十三年にはそのような文学書とも異なるであろう小型判型のアルフレッド・ド・ミュッセ、新庄嘉章訳『二人の愛人』も出され、その他のシリーズとして、「大人の絵本」や「細川新書」も立ち上がっている。後者の1は天野貞祐『生きゆく道』で、「戦後随想集六版」とある。
(『生きゆく道』)
この天野との関係もあってか、昭和二十四年には『天野貞祐著作集』全五巻を刊行している。これは第四巻の『忘れえぬ人々』の一冊を均一台から拾っているが、口絵写真に「チュリッヒ湖畔における九鬼周造と著者」があったこと、また同巻のサブタイトルに「自伝的回想」が付されていたことにより、購入したのである。四六判上製、函入は版元らしさを伝えるものではなく、その函自体には第一回配本とあるだけで、出版社名も記載されていない。これは取次を通し、書店に販売されたはずだが、明らかに流通販売への配慮が欠けていたと考えるしかない。印刷のほうは引き続き、「細川叢書」などの大化堂が担当しているので、活字の組みは見事であるけれど、何かちぐはぐな印象を拭い難い。
それに加えて、天野は刊行中の昭和二十五年に吉田改造内閣の文部大臣となり、二十七年に辞任するが、「学者文相」と呼ばれた。そして戦後の教育政策の形成に大きな役割を果たす一方で、レッドバージや「静かなる愛国心」、道徳教育の強調などによって、多くの批判を受けたとされている。細川書店はそのような天野と戦後の時代を併走していたことになる。「細川叢書」などのような愛書家を想定して始まった文学書出版社が、どうして「学者文相」の著作集を刊行するに至ったかは、その後の行方とともに興味深いといわざるをえない。天野も「後記」で、「この著作集の出版に対する細川書店の諸君の非常な熱意と努力に対してはただ感謝あるのみ」と記しているからだ。
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