出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1046『シュルレアリスム簡約辞典』と瀧口修造『シュルレアリスムのために』

 前回のアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールの『シュルレアリスム簡約辞典』において、一九三八年の時点で、ひとりだけ立項されている日本人がいる。それは瀧口修造で、その立項を引いてみる。
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  TAKIGO(ママ)UCHI(Shuzo)瀧口修造―[1903-1979]、シュルレアリスムの詩人、作家。[1903年富山県生まれ、そのシュルレアリスム活動は、1927年にはじまる。1930年に『シュルレアリスムと絵画』を日本に紹介。シュルレアリスムのための戦闘的な活動で、1941年に憲兵(原文ノママ)に逮捕され、6ヵ月間投獄された。―ジョゼ・ピエール『シュルレアリスム』1968年刊による]

 これを補足すれば、瀧口は慶應大学英文科在学中に同人誌『山繭』に加わり、詩を発表し、同人の永井龍男や堀辰雄などと交友する。また英語講義を通じて西脇順三郎に魅せられ、上田敏雄や佐藤朔などとその自宅を訪れるようになり、主としてフランスのシュルレアリストの影響をうける。おそらく西脇たちとの関係で、『詩と詩論』にシュルレアリスムに関する論考を発表するようになり、それが本連載1028の「現代の芸術と批評叢書」のブルトンの『超現実主義と絵画』へとリンクしていったのであろう。それから前回既述しておいたように、山中散生とのコラボレーションで、「海外超現実主義作品展」や『ALBUM SURRÉALISTE』の企画や刊行にも携わるが、十六年にはシュルレアリスム運動とコミンテルンの関係を疑われ、特高刑事に連行、拘留されるが、起訴猶予となっている。これが立項の「憲兵云々」のところの実状である。

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 また立項に見える『シュルレアリスムと絵画』が『超現実主義と絵画』であることはいうまでもないが、この完訳の出現はそれから七十年近く待たなければならなかった。それは平成十年に人文書院から『シュルレアリスムと絵画』として、瀧口修造、巖谷国士監修、粟津則雄・巖谷国士・大岡信・松浦久輝・宮川淳訳で出された。その「解題」によれば、同書の原本は一九六五年刊行の『シュルレアリスムと絵画―増補改訂新版、一九二八-一九六五』で、ブルトンの晩年の大著にして、二十世紀の最も重要な芸術書のひとつとされる。
シュルレアリスムと絵画

 昭和五年=一九三〇年に厚生閣から刊行された瀧口訳『超現実主義と絵画』は、一九二八年のガリマール書店版『シュルレアリスムと絵画』で、これは山中散生『シュルレアリスム資料と回想』に見ることができる。また人文書院版のⅠの「シュルレアリスムと絵画」がそれにあたる。残念ながら瀧口訳は入手しておらず、未見のままでふれているのだが、巖谷によれば、それは「日本最初の、そして戦前唯一の『アンドレ・ブルトンの書物の邦訳』」、しかも、「大胆な邦訳」で、「第二次大戦前の文学・芸術運動に少なからぬ影響をおよぼした。瀧口修造はその後いくどか改訳を計画したが、結局ははたさずに没した」。しかしやはりガリマール書店から先の「増補改訂新版」が出されたことに呼応するように、昭和四十年代に人文書院で『アンドレ・ブルトン集成』が企画され、その中の一巻として全訳計画が立てられていた。その共訳者の一人である巖谷がそれを引き継ぎ、三十年後に完訳を刊行するに及んだのである。
f:id:OdaMitsuo:20200629103336j:plain:h120 (『アンドレ・ブルトン集成』)

 ただ七十年前に戻ると、巖谷がいうところの瀧口訳の「特異な日本語の冒険のうちに物質的イメージの輝きをたたえた詩的テキスト」が、「戦前の前衛的な芸術家や文学者たち、さらに一般の読者たちをも鼓舞する力をそなえていた」とされるけれど、それらを詳らかにしない。だがそれと併走した瀧口の軌跡は、これも昭和四十年代を迎え、明らかになっている。それは『シュルレアリスムのために』(せりか書房、昭和四十三年)の刊行によってであり、同書は瀧口が昭和五年から十五年までに書いたシュルレアリスム関連の文章を一本にまとめたもので、せりか書房の久保覚による探索の成果といえよう。久保に関しては拙稿「せりか書房と久保覚」(『古本屋散策』所収)を参照されたい。
f:id:OdaMitsuo:20200628112424j:plain:h115 古本屋散策

 これらの三十五の論稿の中でも、「ダダと超現実主義」「アルチュール・ランボー―小林秀雄訳『地獄の季節』」「詩の全体性―上田敏雄著『仮説の運動』」などが春山行夫と『詩と詩論』に絡んで興味深いのだが、ここでは「現代の美学的凝結―アルバム・シュルレアリスト緒言」と「シュルレアリスムの作家像―海外超現実主義作品展カタログのために」にふれてみたい。それらは前回取り上げた昭和十二年の「海外超現実主義作品展」の図録『アルバム・シュルレアリスト』(『みづゑ』臨時増刊号)と『海外超現実主義作品展目録』のために書かれたものだからである。
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 「現代の美学的凝結」はシュルレアリスムの国際的な拡がりと日本への具体的な登場を記念する一文のように始まっている。

 超現実主義はすでに一五年のもっとも印象的な歴史を刻印している。しかも今日、この運動はその発源地であるパリに在住する各国の芸術家のみの関心事ではなく、ほとんど世界各国の進歩的な芸術家によって追求されつつある。昨年、ロンドンにおける国際超現実主義展、ニューヨークにおけるダダ・超現実主義の画期的な綜合展等の成功はこの事実を最も力強く物語る最近の例である。日本においても、最近とくに絵画において執拗に追求されつつあることはいうまでもない。ただわが国の地理的、経済的な諸条件のため、海外の造形作品の紹介はしばしば困難に遭遇せざるをえない。今回『みづゑ』主催による紹介展は、資料のほか素描、水彩小品、版画、写真等に限られたとはいえ、各国の作家を内包するものであって、この綜合的な企図は、最初の有意義な示唆を与えるものと信ずる。

 そして「シュルレアリスムの作家像」においては具体的にピカソ、アルプ、デ・キリコ、エルンスト、ミロ、マッソンなどが紹介され、彼らのシュルレアリストとしての実践やスタイルが語られ、これらの二つの論稿が対となって、「海外超現実主義作品展」のための献花のようにして書かれていたことを伝えている。


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古本夜話1045 山中散生『シュルレアリスム資料と回想』とボン書店

 杉浦盛雄『名古屋地方詩史 』には『青騎士』の詩人として、井口蕉花、春山行夫、佐藤一英、棚夏針手に続いて、山中散生(ちるう)も紹介され、二編の詩も掲載されている。そのうちの『パラノイヤの空間』は戦後の作品だが、第一連を引いてみる。
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   火は点る
   橋の下の褐色のよどみ
   に ただよっている
   腐ったくらげの一箇の頭は 
   秋の哀しみを思はせる

 杉浦はこれらの詩を示した後で、山中の詩は夢幻的な映像を有し、軽妙な甘い哀感の特異な詩風を持つと評している。だがその一方で、鶴岡善久『超現実主義詩論』(思潮社)の言を引き、山中の特色は作品よりも「わが国におけるシュルレアリスムの正しい紹介者としての功績である」とも述べている。また馬場伸彦『周縁のモダニズム 』においても、春山に続き、「シュルレアリスムの受容 山中散生」と題されている。私は山中の詩に通じていないけれども、この特異な名前の人物に関しては同様の印象がある。それは昭和四十六年に美術出版社から山中の『シュルレアリスム資料と回想』という一冊が出されているからだ。
f:id:OdaMitsuo:20200627112935j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20200622113046p:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20200623211828j:plain:h120 ( 『シュルレアリスム資料と回想』)

 山中は明治三十八年愛知県に生まれ、名古屋高商在学中に、西脇順三郎の従弟である横部得三郎教授からフランス語とフランス文学の特講を受ける。そして『青騎士』を経て、昭和四年にシュルレアリスム誌『CINÉ』(シネ)を創刊し、ポール・エリュアールの詩を翻訳したことで、彼との文通も始まり、翌年に第九号まで出されたが、山中の上京によって廃刊となっている。彼はNHKに勤めていたようだが、上京して『詩と詩論』に加わったことで、春山を通じてボン書店との関係も生じたと思われる。昭和四年に春山ボン書店から詩集『シルク&ミルク』を刊行していた。

 そして昭和十年から《L’ÉCHANGE SURRÉALISTE》の出版計画が立ち上がっていく。『シュルレアリスム資料と回想』はその書影も示した上で、次のような「図版解説」を付している。

 山中散生編『レシャンジュシュルレアリスト』(一九三六年、東京、ボン書店版、一七×二四センチ)の表紙。下郷羊雄画。本書はポール・エリュアールの斡旋により、海外から直送されてきた資料(詩・エッセー・絵画・写真)を中心に編集されたもので、ブルトンほか五名の詩人、エルンストほか一〇名の画家の協力を得ている。

 その目次も掲載されているので、画家たちの名前は挙げられないけれど、ここに抄録しておく。アンドレ・ブルトン「文化擁護作家大会に於ける講演」(瀧口修造訳)、同「シュルレアリスムの位置」(山中散生訳)、ジゼール・プラシノス「武装」(柳亮訳)、ポール・エリュアール「詩的明証」(葦ノ澤鶴蔵訳)、瀧口修造「七つの詩」、「山中散生シュルレアリスム思想の国際化」などである。

 この出版に続いて、昭和十二年六月から七月にかけて、『みづゑ』主宰で東京、京都、大阪、名古屋で順次「海外超現実主義作品展」が開かれ、その主たる出品作品を収録した瀧口、山中編《ALBUM SURRÉALISTE》(『みづゑ』臨時増刊号)も出された。《L’ÉCHANGE SURRÉALISTE》の出版は、日本でシュルレアリスムが受け入れられていることを知らしめたが、こちらの出版も六〇点の原画を含んでいたこともあり、シュルレアリスムの総合画集としては世界的に見ても、最も内容が充実していたとされる。それゆえにブルトンとエリュアール『シュルレアリスム簡約辞典』(江原順編訳、現代思潮社)の「シュルレアリスム年表1916-1956年」において、これらのふたつの出版が記載されることになったのだろう。

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 またこれらの出版や展覧会と併走するように、ボン書店から昭和十一年にブルトン、エリュアール共著、山中訳『童貞女受胎』が、著者たちの日本語版序文を添えて刊行される。『シュルレアリスム資料と回想』にはその原著《L’Immaculée Conception》 の書影とそのフランス語序文が『処女懐胎』として掲載されているが、ミシヨオの『フランス現代文学の思想的対立』で、『聖女受胎』として紹介されていた。だが抄訳だったにせよ、その前年に翻訳が出ていたことになる。前述の『周縁のモダニズム 』『童貞女受胎』の名著刊行会の複刻版の書影を示してから、その「恋愛」と題された詩編の一部を引用し、同書が言論思想、及び風俗取締りの対象として内務省の検閲を受け、即日発禁処分となったと伝えている。しかもそれが百部という限定出版であったことも。それはボン書店のような詩集専門の小出版社にどのような波紋をもたらしたのであろうか。
f:id:OdaMitsuo:20200627144114j:plain:h115(『童貞女受胎』) f:id:OdaMitsuo:20200620160612j:plain:h120 フランス現代文学の思想的対立

 山中はボン書店から処女詩集『火串戯(ひあそび)』、編著『超現実主義の交流』なども出版している。かつて拙稿「廣田萬壽夫の詩集『異邪児』をめぐって」(『古本探究Ⅱ』所収)において、春山行夫の『詩人の手帖』(河出書房)の証言と内堀弘の『ボン書店の幻 』(白地社、後にちくま文庫)の探索をリンクさせ、鳥羽茂のポルトレをたどったことがあった。『異邪児』という詩集はボン書店の前身の鳥羽印刷所から刊行した一冊だったが、それを通じての鳥羽とボン書店への道筋をつかむことはできなかった。それゆえにボン書店と詩人たちの関係は、出版史の溶暗に埋れたままにあるというしかない。
f:id:OdaMitsuo:20200627163440p:plain:h120(JOUER AU FEU 『火串戯』) 古本探究2 ボン書店の幻


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古本夜話1044 杉浦盛雄『名古屋地方詩史』、馬場伸彦『周縁のモダニズム』、井口蕉花

 春山行夫は名古屋の詩誌『青騎士』を揺籃の地とし、モダニズム詩人としての始まりを告げたといっていいだろう。

 実は古田一晴『名古屋とちくさ正文館』(「出版人に聞く」シリーズ14)のインタビューに際し、参考文献として杉浦盛雄『名古屋地方詩史 』(同刊行会、昭和四十三年)、及び「モダン都市名古屋のコラージュ」というサブタイトルが付された『周縁のモダニズム 』(人間社、平成九年)を名古屋の古本屋で入手している。前者には春山が「序」を寄せ、後者は最初の「都市とモダニスト」の章が「産業都市とレスプリヌーヴォー 春山行夫」から始まり、春山の若き日の写真の掲載と先の「序」の引用もあるので、ここでもそれを引いてみる。

名古屋とちくさ正文館 f:id:OdaMitsuo:20200622111832j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20200622113046p:plain:h120

 名古屋市地方の詩史は、その黎明期がわが国の新しい詩の黎明期とほとんど時期がおなじだった。私自身の歩みからふりかえっても、私は『青騎士』の運動から出発し、大正十三年(〈1924〉二十二才)に上京して四年後に『詩と詩論』の運動をおこした。『青騎士』から『詩と詩論』への道は一筋であった。東京にはすぐれた先輩詩人たちがたくさんいたが、新しい詩ないし新しい詩のエスプリという点では、私は最尖端の一人であった。つまり私をおくりだした『青騎士』は、名古屋地方にはじめて詩の運動をおこした雑誌だったというだけでなく、日本の新しい詩のエスプリと理論を予見した先駆的な雑誌の一つでもあった。

 そして春山はその出現が「カボチャの種から突然にユリが咲いたというような奇蹟」ではなく、当時の名古屋には若々しい詩や芸術のエネルギーが渦巻き、「名古屋の青春が自ら生みだしたオリジナルな時代感覚」に基づき、「若い詩人や画家がいっぺンにたくさん現われた地方都市はほかになかった」とされている、つまりこの春山の「序」は『名古屋地方詩史 』がその事実を明らかにする記録であり、「詩史としてのレーゾン・デトール」に他ならないことを浮かび上がらせている。

 それを体現するかのように、『名古屋地方詩史 』の第一編「明治・大正期」は序説「現代詩の黎明」に続いて、第一章「芸術詩派」の「モダニズム詩派の発生」において、シュルレアリスムの源流と『青騎士』が、その創刊号の書影も示され、論じられていく。『青騎士』は大正十一年九月創刊、十三年六月通巻十五号の「井口蕉花追悼号」で終刊となるが、「この地方における芸術派大正詩の最も重要な詩誌で、中央や地域の詩人の作品をのせ、日本超現実主義詩の種苗圃ともなった多彩な詩活動を展開した」とまずは紹介される。創刊したのは井口蕉花、春山行夫、斎藤光次郎、岡山草三(東)、高木斐瑳雄の五人で、名古屋詩話会と緊密な関係を通じて、同人を増やし、作品の掲載を拡大していった。創刊の提案は斎藤からなされ、このタイトルは岡山によるものだったが、その「編輯後記」は春山が書き、「斯く、青騎士の現われたことに拠つて所謂中京詩壇の一大転機を促さなければならない」と宣言している。

 残念なことに『青騎士』は『日本近代文学大事典』に立項されていないけれど、拙稿「南天堂と詩人たち」(『書店の近代』所収)で示しておいたように、大正時代は詩のリトルマガジンも多く出され、大正十二年には岡本潤や萩原恭次郎たちの『赤と黒』、翌年には小野十三郎たちの『ダムダム』も創刊されていたことからすれば、『青騎士』も新しい詩の時代のトレンドに呼応していたのである。
書店の近代

 その特色はシュルレアリスムと連動していたことで、春山を始めとして、井口、棚夏針手、山中散生、佐藤一英が『青騎士』同人として、日本の超現実主義の源流をなす詩を書き続け、それらは全国各地の詩活動に大きな刺激をもたらしたのである。これらの五人の詩にふれるのは無理なので、ここではやはり『日本近代文学大事典』に立項されていないが、春山に大きな影響をもたらしたと思われる井口を取り上げてみたい。

 井口は明治二十九年名古屋市に生まれ、前述したように、大正十三年に二十七歳で亡くなり、没後に春山たちの編集により、『井口蕉花詩集』(名古屋東文堂書店、昭和四年)が刊行されているようだが、もちろん未見である。彼は小学校卒業後、転写紙製造に携わりながら、独学で英仏露語に通じ、短歌、詩作、評論に筆をとり、『文章世界』の投書家で、本間五丈原の筆名を用い、十二秀才といわれるほど有名であったという。春山も同じように正規の学歴を有さず、独学で英仏語を取得していたが、それは彼が年少の頃から知っていた井口を範としていたからではないだろうか。

 それはともかく、「鋭い心象を持った天才的な視覚型の人」の作品を見てみよう。『青騎士』大正十三年三月号掲載の「落葉を焚く」の前半の部分である。

  晩秋の落葉を溜(た)めてある朝ひそひそと焼けり
  静かに火を挙げればわが賢明(はしこさ)と怜悧なる手温みより
  すべて飽くなき初冬の感情(こゝろ)は素朴の匂ひにうち霑(ぬ)れ
  宿世さびしい庭の大気に音なく鎧ふ風に流れて
  いみじい思念の中に花くづおれるかとも見え
  或は尼僧の影の忍びかに行過ぎるかの様(よう)に白く烟り靆(なび)きぬ

 これだけでは井口の詩の在り処を充全に示せないと思うけれど、そのイメージの一端を伝えられればと願う。『名古屋地方詩史 』にはこの「落葉を焚く」の他に、「編物をする少女よ」と「嬌春譜」の二編の詩、及び『青騎士』総目次も収録されていることを付記しておこう。

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古本夜話1043 春山行夫訳、レヂス・ミシヨオ『フランス現代文学の思想的対立』

 少しばかり飛んでしまったけれど、春山行夫に関して続けてみる。彼は第一書房からレヂス・ミシヨオ『フランス現代文学の思想的対立』を翻訳刊行している。同署と春山について、小島輝正は『春山行夫ノート 』(蜘蛛出版社)で、次のように述べている。

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 春山行夫の仕事に接したのは、まずは昭和12年8月に出た訳書『フランス現代文学の思想的対立』(Régis Michaud :Modern Thought and Literature in France ,1934)であった。そのころ私は旧制高校生で、大学の仏文学を志望していたので、フランス文学関係の本を手当たり次第に読みあさっていたのである。この本は、その後四十年以上たったいまでも私の書棚に残っている。敗戦後の窮乏生活で眼ぼしい本をはじから売り払ったあげくのことだから、どこか手放しがたい思いがこの本には残っていたのであろう。
 当時の春山行夫の存在意義は、むろんこれだけに止まらない。私のみならず、私の年代で西欧文学を志したものは、当時の欧米の新しい文学の紹介者として、またそれを兼ねた編集者、出版人としての彼に絶大な恩恵を蒙っているはずである。昭和10年から15年にかけて、当時の第一書房の編集局長であり、かつ雑誌「セルパン」の編集長春山行夫が残した業績はきわめて大きい。

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 さらに小島は続けている。春山の本領は「昭和初期のモダニズム詩の理論家ならびに実作者」、「同世代あるいは直後世代に及ぼした影響力の点では最も強力なイデオローグであった」と。

 小島は大正九年生まれだが、春山の影響は昭和三年生まれの澁澤龍彦たちの世代まで続いていたようだ。澁澤の「アンドレ・ブルトン『黒ユーモア選集』について」(『澁澤龍彦集成』Ⅶ、桃源社)によれば、戦後を迎えても、『フランス現代文学の思想的対立』はフランスの新文学の恰好な手引きで、春山の編集になる『セルパン』ならぬ、戦後創刊の『雄鶏通信』等を通じて、海外文学情報を得ていたとされる。
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 あらためて『フランス現代文学の思想的対立』を読んでみると、この全十四章からなる一冊が驚くほどのフランスの新しい文学者と作品を含んでいることに気づく。例えば、第六章の「冒険家、世界旅行家」において、フランス伝統のコスモポリタニズムの復活者として、ヴアレリィ・ラルボオの名前を挙げ、まだ翻訳されていない『A・O・バルナボオト』や『罰せられない悪徳、読書』に言及している。これは戦後になって翻訳され、いずれも岩崎力訳で、前者は『A・O・バルナブース全集』(河出書房新社)、後者は『罰せられざる悪徳・読書』(みすず書房)として出された。又彼がジョイスの『ユリシーズ』の仏訳者であることも。
f:id:OdaMitsuo:20200622100937j:plain:h110 (『A・O・バルナブース全集』) 罰せられざる悪徳・読書(『罰せられざる悪徳・読書』)

 澁澤との関連でいえば、第九章は「ダダの叛逆とシュルレアリストの実験」を挙げるべきだろう。まずそこではフランスにおける十九世紀半ばからの詩の革命がたどられ、ロマン主義時代の異端者やボヘミアンの一人として、ネルヴァルが語られている。「『夢は第二の人生である』といったネルヴァルは、ただ一度しかあったことのない不思議な女の幻を追ひつつその生涯を終へた。彼はファウストを翻訳し、東洋へ旅立ち、イジスの神秘的な面衣(ブエイル)を取り去ることに失敗し、パリの最も陰惨な区域に属する街の街燈で首を縊つた。彼はその死後に、亡霊が牧歌的な光景の中から出てくる散文や詩の魔術的エッセイを残した」と。ネルヴァルの初めての翻訳刊行は昭和十二年五月の『夢と人生』(佐藤正彰訳、岩波文庫)だから、この紹介とほぼ同時に出されていたことになる。だが主要な著作の翻訳は、こちらも戦後を待たなければならかなかったのである。
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 そしてボードレール、ランボー、マラルメに言及した後で、ミシヨオは二十世紀の新しい反逆者の詩人、詩として、イジドール・デュカス=ロオトレアモン伯『マルドロオルの歌』、また笑劇(フアース)として、アルフレッド・ジャリィ『ユビュ王』『フォストロル博士の身振りと意見』を上げている。これらも戦後の出版となるのはいうまでもあるまい。

 それからダダイズムを経て、シュルレアリスムが出現するのである。それをミシヨオは次のように書いている。

 シュルレアリスムは、一九二四年アンドレ・ブルトンによつて編輯された『シュルレアリスト革命』La Révolution Surréaliste といふ雑誌によつて出現した。(中略)この名称はギヨオム・アポリネエルから借用したものであつた。また最初のシュルレアリストの作品として、同時に自働的記述(オートマテイク・ライテング)の実験としてフイリップ・スウポオとアンドレ・ブルトンによつて『磁場』(一九二一年)が書かれた。ダダと同じく、シュルレアリストの主張(プログラム)も革命的且つ破壊的であつた。それは従来行はれてきたもの、即ち、イメヂ、言語、感情、論理などの一切に背向したものであつた。それはまた伝統的な言語の破壊を主張し、ダダの挑戦を取りあげ、〈言語の革命〉と呼ばれたものを支持した。「未成年時代(インフアンシイ)から俗語(スラング)を通つて精神錯乱へ」、あらゆる方法が現実から脱出し、その向ふ側の物を見出すために役立つた。それをこの主義の支持者達は〈超現実性〉と呼び、純粋の想像、夢、直観、空想などの領域と考へた。

 『フランス現代文学の思想的対立』のわずかな部分しか紹介できなかったけれど、それらだけでも、この一冊が多くの新しいフランス文学情報の宝庫であったことを了解して頂けただろう。しかもミシヨオはフランス生まれだが、アメリカのイリノイ大学のフランス文学教授を務め、小島が示していたように、同書を英語で書き、それは直訳すれば、『フランスの現代思想と文学』である。それゆえに必然的に啓蒙的紹介の色彩も伴うことによって、パノラマ的な同書が仕上げられたと推測できる。それに着目した春山は慧眼というしかないし、大げさなことをいえば、この一冊は連載1017のアーサー・シモンズ『表象派の文学運動 』の昭和十年代版だったようにも思える。それに春山の著作と同様に、この訳書にも二〇ページの原語も伴う著者、事項の「索引」もあり、これが小島や澁澤たちにとって、必携の一冊となっていたとも考えられる。

 またさらに同書の後半には「付録」として、春山によってそれ以後の一九三四年から三六年にかけての「人民戦線以後の文学」が九〇ページにわたって加えられ、春山の翻訳だけで終ったのではない現代フランス文学への持続する注視を示していよう。

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古本夜話1042 桜井書店とJ・A・シモンズ『ダンテ』

 ダンテといえば、本連載1032でふれたばかりだし、『近代出版史探索』71などのJ・A・シモンズの『ダンテ研究入門』(Introduction to the Study of Dante)が著名な研究書として知られている。この対になるとされるのが、やはりシモンズの『文芸復興』(第一書房、昭和九年)で、これは本連載1038の田部重治による翻訳がある。ただ前者は十年ほど前に信州の古本屋で見つけるまで、翻訳刊行されているとは思っていなかったのである。しかも版元は拙稿「桜井均『奈落の作者』」(『古本屋散策』所収)などの桜井書店で、初版刊行は昭和十九年で、私が購入したのは二十一年八月の再販である。
近代出版史探索 古本屋散策

 もちろん初版は未見だし、造本などが戦後の重版とは異なっているかもしれないけれど、後者によってそれらを見てみる。A5判上製、白地の表紙にはシモンヅ『ダンテ』、橘忠衛訳、櫻井書店とあり、索引も含め、四六〇ページに及ぶ浩瀚な一冊といってい。またさらなる特色は原書にしたがって、ダンテの引用はすべてイタリア語原文が掲げられていることで、これは初版も同様だったと思われる。訳者の橘は、この『ダンテ』を恩師で「教育学者としての阿部次郎」に捧げるとあることからすれば、時代的にいっても、阿部の東北帝大就任中の教え子ということになろう。また謝辞として、東北帝大哲学科出身で、後の教育哲学者林竹二の名前が挙げられていることも、それを伝えていよう。
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 だがこの『ダンテ』がどのようにして、この時期に「好意ある出版者とその熱心な編輯部の手」に届いたのかは明らかでない。それに昭和二十一年の「訳者再版序」によれば、「戦災によって失はれた紙型の半ばが諸種の困難な事情にも拘らず出版者の甚大な努力によつて回復され」とある。確かに敗戦下の出版状況の中で出版社の桜井均と編輯者が傾けた「甚大な努力」は何に基づいているのか、それも気になるところだ。

 桜井の娘である山口邦子の『戦中戦後の出版と桜井書店』(慧文社)収録の「桜井書店出版目録」を見てみると、昭和十八年からグンドルフ『英雄と詩人』(橘忠衛訳)、『往復書簡ゲーテとシルレル』(菊池栄一訳)、ジムメル『ゲーテ』(木村謹治訳)、シュペングラー『西洋の没落』(村松正俊訳)などの翻訳書が多く出されている。その翻訳者や編集者の延長線上に『ダンテ』の出版もあったと推測できる。また山口の同書には桜井と林がとても親しく、やはり『ダンテ』と同年に林訳のテイラー『ソクラテス』を出版したこともふれられている。ただ桜井のプロパーは文芸書だったことから考えると、これらの翻訳書企画は戦時中の企業整備によるスメル書房や日比谷出版社や大同出版社に起因しているのであろう。
戦中戦後の出版と桜井書店 f:id:OdaMitsuo:20200621102028j:plain:h112(『往復書簡ゲーテとシルレル』)f:id:OdaMitsuo:20200621102841j:plain:h117(『ゲーテ』)

 また『戦中戦後の出版と桜井書店』には聞書「桜井均の思い出ばなし」も収録され、唯一の著書『奈落の作者』(文治堂書店)と異なる桜井書店史が語られ、興味深いけれど、『ダンテ』に関することを引けば、戦後を迎え、『ダンテ』や『ソクラテス』などが思いもかけずに売れたと回想している。それが戦後の出版の始まりの一端でもあった。

 さて前置きが長くなってしまったが、『ダンテ』の内容にも言及しなければならない。シモンズはダンテを論じるにあたって、まずイタリアの初期の歴史を概観することから始めている。それを抜きにして、ダンテの著作は語れないからだ。

 ダンテの著作が始まつたのは、このやうな完全な国内の分裂と外国の干渉に対する服従との時期であつた。如何にも最悪のものはまだ来てはゐなかつたが、併し軋轢と分裂の全要素は活動の原点にあつた。これがダンテやペトラルカのやうな、輝かしい過去の伝統に育てられ、自分たちの国を至高の帝国の王座であると考へ、後にロオマの偉大なる時代を顧み、前に政治的再建の諸可能性を臨む人々が、始末に負へない大衆を制し、暴悪なる簒奪者を抑へ、党争のために支離滅裂になつて疲れ果てたイタリアを再び単一の壮麗な国家にしてくれる救済者の、政治的メシアの出現をあのやうに情熱的に叫び求めた理由である。ダンテがその旅の始めに当つて自分がその真中にゐたことに気が附いたところの「荒森(Selva Selvaggia)」―その巖烈さが死にも劣らぬほどに恐ろしい繁蕪、荒牧、強頑なる森―は、全くただこの詩人の魂の難澁を表はす比喩であるばかりでなくて、また彼の国の社会的政治的な混乱を表はす比喩でもあつたのである。

 このようなイタリアの社会状況を背景にして、ダンテは一二六五年にフィレンツェに生まれ、後の『新生』につながるベアトリーチェと恋愛し、ボローニャ大学に学んだ。しかし政治闘争に巻きこまれ、ローマに使節として赴いたが、そこでフィレンツェから永久追放の宣告を受け、流亡生活が始まっていく。そしてシモンズのいうところの「最高の三大叙事詩人の一人、混沌たる中世の解釈者、未開の暗黒と混乱せる諸方言の騒音とのなかからの出現者、新しき秘義を伝へる聖職者」としてのダンテは「彼の時代の政治的、宗教的、道徳的、哲学的経験を壓縮して一つの芸術作品を作ること」に集中していくのである。それが他ならぬ『神曲』であり、シモンズはその主題と計画、そこにおける人間的関心、作者の崇高性と騎士道的ロマンスにも側鉛を降ろしていく。まさしく日本の戦後の始まりにふさわしい一冊として読まれたと想像したくなる。


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