出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1258 前田河広一郎『三等船客』、自然社、「新人叢書」

『近代出版史探索Ⅳ』783や『同Ⅵ』1061の前田河広一郎は戦旗社「日本プロレタリア作家叢書」には見えていなかったが、本探索1253で挙げておいたように、日本評論社『日本プロレタリア傑作選集』には『セムガ』が収録されていた。それは未見だけれど、大正十一年の第一創作集『三等船客』の自然社版は入手している。同書は『大正文学アルバム』(「新潮日本文学アルバム」別巻)などで書影だけは見ていたが、初めて手にするものだった。

  大正文学アルバム 新潮日本文学アルバム〈別巻 2〉

 『三等船客』は函入上製の一冊で、本体表紙には「三等船客」を想起させる九人の男女の顔のスケッチが施されているのだが、それらの装幀や絵は誰によるのかの記載はない。これは「三等船客」「路傍の人々」「熊さんの死」「地獄」「マドロスの群」の五作の中短編を収録した「創作」集で、奥付には大正十一年十月十五日初版、同十一月十日五版とある。定価は二円二十銭、発行者は梅津英吉、発行所は神田区表神保町の自然社である。

 実はこの東京堂の裏にある「プロレタリア的な文学書の草分け出版屋」に小川未明の紹介で勤めていたのが、前回の壺井繁治だった。梅津は「房州出身の本屋の小僧上がり」で、壺井の仕事は、『激流の魚』に述べられているように、取次回りや出荷、直接注文の発送などの雑用だった。しかしこの「小っぽけな出版社」の仕事が戦旗社の範となったことは疑いを得ない。しかも壺井が入社した時、『三等船客』は「プロレタリア文学のベストセラーの一つ」で、五千部以上に達していたという。それらはともかく、驚いたのは巻末広告で、そこには自然社「新人叢書」の「使命」が一ページを使って、次のように述べられていたことだ。

激流の魚―壷井繁治自伝 (1966年)  

 ◇ 一切の疲倦と因襲とを打壊して生鮮なる創造的進化を欲するものは新しき力に待つよりも外はない。この近代的要求を使命として吾が新人叢書は生れ出た。
 ◇ 新しき力は人生の現実的凝視と生々しい人間苦の体験とを豫件とした芸術であり思想であらねばならぬ。
 ◇ それは生命そのものから静かに湧き出づる人間愛の精神となり又民衆のために叫ぶ正義的痛憤ともなる。
 ◇ その芸術その思想それが新社会を呼ぶ曙の声でなくて何であらう。

 そして次ページに、既刊として、新井紀一の長篇小説『燃ゆる反抗』、中西伊之助創作集『死刑囚と其裁判長』、藤井真澄戯曲集『妖怪時代』、近刊として伊藤貴麿『創作集』、其他新人の創作、評論、詩集が挙げられている。また続いて山崎斌処女作長篇『二年後』、福永挽歌創作『夜の海』の各一ページ広告もあるのだが、これらが「新人叢書」に入るのかは定かでない。
 (『燃ゆる反抗』)

 そこでとりあえず紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』を開いてみると、「新人叢書」(自然社)」という一章があった。かつて目を通していたはずなのに失念していたのである。ただ紅野も、自然社からこの「シリーズが刊行されていたことは意外に知られていない」と最初に書いている。

大正期の文芸叢書

 紅野によれば、「新人叢書」として刊行されたのは先に挙げた新井と中西の作品の他に、綿貫六助『霊肉を凝視めて』、十一谷義三郎『静物』で、いずれも創作集である。結局のところ、刊行されたのは四冊だけで、前述の藤井の戯曲集、伊藤の『創作集』は出されず、山崎や福永の作品は「新人叢書」ではなかったことになる。

 だが『日本近代文学大事典』の藤井や福永の立項により付記しておくと、藤井の『妖怪時代』は大正十二年に『近代出版史探索Ⅲ』533の文武堂から「現代脚本叢書」の一冊として刊行されているようだ。また福永の『夜の海』は大正九年に東京評論社から出されていて、こちらは再版だとわかる。ただ紅野の『大正期の文芸叢書』には新潮社の「現代脚本叢書」はとり上げられているけれど、文武堂のそれは見当たらないし、東京評論社への言及もない。ということは紅野の探索から漏れている叢書がまだいくつかあると見なすべきかもしれない。

 それに加えて、『近代出版史探索Ⅵ』1061で推測しておいたように、自然社は関東大震災によって消滅してしまったとも考えられ、『大正期の文芸叢書』においても、自然社と発行者の梅津英吉のプロフィルは判明していない。『三等船客』と「新人叢書」の刊行は、関東大震災前の大正十一年から十二年にかけてなので、自然社の出版活動は二年ほどだったとも考えられ、それが手がかりをたどれない要因ともなっているのだろう。

 それでも「新人叢書」の「使命」でも見たように、「生鮮なる創造的進化」のためには「新しき力」が必要で、「この近代的要求を使命として吾が新人叢書は生れ出た」し、「新しき力」こそが「新社会」を用意する芸術や思想でなければならないという宣言からすれば、前田河に象徴されるプロレタリア文学をコアとして企画されたにちがいない。壺井は梅津が「小僧時代にいろいろ苦労して、彼なりに体験したこの社会の不合理や矛盾」を通じて、プロレタリア文学運動に接近したのではないかと推測している。

 新井の自然社版『燃ゆる反抗』は入手していないけれど、これは『中央公論』の大正十一年七月号に『友を売る』として発表されたものを改題し、自然社の「新人叢書」に収録されたのである。現在は『初期プロレタリア文学集〈4〉』(『日本プロレタリア文学集』4、新日本出版社、昭和五十五年)所収で、読むことができる。

 この中編小説は新井自身の東京砲兵工廠での体験に基づくもので、主人公の浅見は小銃製造所の銃身矯正の仕事についていたが、賃金単価が安いことから、同僚の石井たち五人を中心にして、会社に嘆願書を出そうとしていた。ところがそれが会社創立以来のストライキの扇動とされた。その中で、銃身矯正工たちの分裂や密告も生じ、浅見も戦闘的な石井たちを裏切ることになるのだが、ストライキ未遂事件の首謀者の一人として、憲兵隊の尋問を受けるために連行される。それが冒頭のシーンに描き出され、当時の職工生活と官営工場の労働争議、実際に新井が受けた憲兵隊での屈辱的体験も提出しようとした大正労働文学の代表作とされている。

 その系譜は前田河の『三等船客』に始まり、『友を売る』へと引き継がれていったと見なせるし、自然社は短命であったとしても、それらの誕生と併走した出版社だったことになろう。

 なおアップする前に検索してみると、「神保町系オタオタ日記」(2011.10.01)がすでに「プロレタリア出版社自然社の梅津英吉」を書いていることを知った。
「必読」と付記しておく。
jyunku.hatenablog.com


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1257 壺井繁治『激流の魚』と『戦旗』経営

 本探索1253で戦旗社の出版流通と販売に関して、『近代出版史探索Ⅲ』645で既述していることにふれたが、それは「総合ヂャーナリズム講座」における壺井繁治の証言をベースにしている。『日本近代文学大事典』の『戦旗』の解題においても、それらは言及されているけれど、おそらくその言及は昭和四十一年刊行の『激流の魚 壺井繁治自伝』(光和堂)によっていると考えられる。

激流の魚―壷井繁治自伝 (1966年)  

 壺井のことはかつて拙稿「南天堂と詩人たち」(『書店の近代』所収)で取り上げているけれど、ここで簡略にプロフィルと『戦旗』に至るまでをたどってみる。彼は明治三十年香川県小豆郡生まれ、早大英文科中退、大正十二年に萩原恭次郎、岡本潤、川崎長太郎と詩誌『赤と黒』を創刊し、アナキズム詩人として作品を発表する。十四年には同郷の岩井栄と結婚し、世田谷町太子堂の長屋に住んだが、そこには林芙美子や平林たい子も暮していた。『近代出版史探索』60で既述しておいたように、林は野村吉哉と同棲していたし、それは『激流の魚』にも描かれている。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 壺井は昭和二年にアナキズムと決別し、三好十郎たちと左翼芸術同盟を結成し、『左翼芸術』を創刊し、ナップに参加し、四年には日本プロレタリア作家同盟創立大会で中央委員に選ばれ、以後マルキシズム文学によって『戦旗』の発行、経営、出版事業に専念することになる。それは『激流の魚』のⅡの「最初の入獄」の章に詳しいので、その記述を追ってみる。

 昭和四年に壺井が『戦旗』の発行と経営の仕事を引き受けることになったきっかけは、中野重治と『戦旗』の直接読者網の責任者宮本喜久雄の要請によっている。それは「四・一六」事件などの『戦旗』に対する弾圧や『戦旗』の独立問題も絡んでいたようだ。壺井は書いている。


 「戦旗」は七千部の創刊号から出発し、(中略)一九三〇年一月号は二万二千部に達した。この間臨時増刊号を加えると二十六冊を重ねたが、そのうち発禁となったのは合計十三冊で、隔月一冊の割り合いとなっている。このことだけ見えても「戦旗」に加えられた弾圧が、どんなに激しかったかが解かるであろう。それにもかかわらず右にのべた弾圧に逆比例して、発行部数は上向線を辿る一方であった。「戦旗」がなぜこんなに発展したかといえば、支局配布網(直接配付網)に組織された革命的労働者・農民・知識層その他の強力な支持によるものだが、一面から考えると当時非合法の共産党がまだ独自にこの種の大衆的な啓蒙雑誌を持つだけにいたらず、文化運動の領域で、「戦旗」がそれを代行していたようなところがあり、ある場合そこから極左的な政治主義の偏向も生まれたが、とにかくこの雑誌を自分たちの雑誌として内部から強く支える革命的エネルギーが大衆の間にみなぎり、それがこの雑誌にたいする絶え間ない弾圧をはね返えす原動力となったわけだ。

 戦前の出版法によれば、雑誌の発売の三日前に内務省警備局図書検閲課へ二部納本し、安寧秩序妨害や風俗壊乱、政体変壊や国憲紊乱と見なされた場合、発禁処分となるはずだったが、『戦旗』は検閲課へ納付しないうちに、内務省から全国の警察に向かって発禁処分が出されるようになった。つまり『戦旗』は壺井のいうところの「合法雑誌」であるにもかかわらず、「非合法雑誌」という扱いを受けたのである。そのために製本段階での押収の危険に見舞われ、製本屋を分散し、絶えず新しい製本屋を開拓する必要が生じた。

 また発禁処分で最も被害が多かったのは取次から書店へ至る流通ルートで、書店によっては発禁を承知で数部だけを押収させ、あとは売れてしまったと隠し、信用のおける読者にだけ売るところもあったようだ。しかし『戦旗』が存続できたのは取次・書店ルートよりも、「支局配布網(直接配布網)」のほうが全発行部数の六〇%を占めていたからだった。「直接配布網は完全に非合法化されたアジトに保管の名簿を通じて、直接読者に雑誌が発送される仕組みになっていて」、「この直接読書網の拡大に最大の力を傾け」ていたのである。

 そうした流通販売網と多彩な読者もあってか、松本清張も『半生の記』(河出書房新社)で語っているように、この『戦旗』の読者の一人で、そのために小倉警察署に留置されてもいる。その他にも顔が見えない多くの読者がいたであろうし、それゆえに既存の『新潮』などをはるかに上回る二万二千部に達したと見なしていいだろう。

 それは「日本プロレタリア作家叢書」にも当てはまるはずで、徳永直『太陽のない街』と小林多喜二『蟹工船』はいずれも初版一万部だった。後者は「雑誌に発表当時評判を呼び」、小林を「プロレタリア文学陣営の第一線に押し出した作品だけあって、取次店から続々と追加注文がきて何度も増刷中に発売禁止となった」のである。だがそれでも前々回既述しておいたように、半年間で三万五千部に至ったのは、『戦旗』と同じく「直接配付網」によっていたことはいうまでもあるまい。

 

 しかも小林は「いわばプロレタリア文学のベストセラー」となった『蟹工船』の印税に関して「百円位」を得ただけで、「数千円に上る」残りの印税は戦旗社に寄付し、それは戦旗社の出版経営の資金となったのである。だが昭和五年五月二十日に戦旗社の事務所は日比谷警察書に踏み込まれ、メンバーは総検挙され、それは編集や事務のみならず、出入りする人々、広告取次、紙屋、印刷屋など百人近くに及んだ。この戦旗社総検束事件によって、壺井は半年間の刑務所生活を送り、保釈されたのは昭和六年の春で、その間に戦旗社は分裂し、彼が戻る場所ではなくなっていた。そのために日本プロレタリア作家同盟の仕事へと移っていったのである。それはまたふれる機会もあるだろう。


odamitsuo.hatenablog.com

[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1256 『戦旗』創刊号とメーデー

 続けて戦旗社の「日本プロレタリア作家叢書」の徳永直『太陽のない街』、小林多喜二『蟹工船』を取り上げてきたが、両者が連載された『戦旗』創刊号が手元にある。それは本連載1251の新潮社『トルストイ研究』と同じく、近代文学館編集の講談社「復刻 日本の雑誌」の一冊としてである。

  (改訂普及版) (『トルストイ研究』)

 『戦旗』に関しては『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」に三ページに及ぶ解題が収録されているので、詳細はそちらに譲るしかないが、それを簡略に示せば、昭和三年から六年にかけて全四十一冊が刊行されたプロレタリア文学運動機関誌に他ならない。昭和三年五月の『戦旗』創刊号はA5判本文一五五ページ、定価三十五銭、赤字の表紙には黒抜きのタイトルが打たれ、その下には海外のメーデーと思しき写真が掲載され、「密集せよ!汝プロレタリアの諸戦列!」という言葉が躍っている。この表紙はプロフィルも定かでない廣瀬宏によるものだ。

 さらに表紙には「全日本無産者芸術連盟機関誌」と銘打たれ、この「5月」創刊号が「メーデー・プロレタリア芸術祭特輯号」だと謳われている。そして扉には鈴木賢二によるメーデーの労働者が描かれ、広告ページも同様であろう。鈴木は廣瀬と異なり、『近代日本社会運動史人物大事典』に見出され、東京美術学校出身の画家、彫刻家で、プロレタリア美術運動に参加し、『戦旗』などに挿絵、カット、漫画を描き、プロレタリア美術家同盟書記長も務めたとされる。

近代日本社会運動史人物大事典

 その鈴木の挿画のかたわらには次のようなアジテーション的なメーデーへの誘いの文言が連ねられ、その時代の社会のこだまとも目すべきであろうし、そのまま引いてみよう。

 靡け高く俺らの旗!
 凡ての工場の煙は消えろ
 広場へ!広場へ!
 氾濫の俺らの力が波うつ
 ながい搾取と鞭の下で
 誰が屈辱の涙をなめなかつた!
 誰がお前とお前の子のために起たなかつた!
 おゝ苦闘の日の長い長いトンネルと思へ
 ブルジヨワの指す太陽を見ることなく
 俺らの鞭には団結の斧で
 示威で地上を揺がすのだ
 街頭へ!街頭へ!
 おゝ氾濫の力でメーデーに行け!

 ここでメーデー=May Dayとその歴史についても注釈を加えておくべきだろう。これは労働祭、五月祭ともよばれ、五月一日に行なわれる労働者の祭典で、世界中の労働者が仕事を休み、集会と行進によって、その団結と連帯を示す国際的行事をさす。一八八六年五月一日にアメリカの労働団体が八時間労働を要求し、ゼネストとデモを敢行したことによって始まり、八九年の第2インターナショナルのパリ大会で同日が国際労働運動のデモストレーションの日と定められ、九〇年から毎年世界各地で開催されるに至っている。そういえば、塚本邦雄の歌集『装飾楽句』(作品社、昭和三十一年)の冒頭の一首が「五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる」であったことを思い出す。メーデーの歴史はすでに一世紀以上を閲していることになる。

 『日本近現代史辞典』によれば、日本での始まりは一九〇五年=明治三十八年の平民社のメーデー茶話会で、大衆的なメーデーは大正九年五月二日の上野公園においてで、在京十八労働団体による千人余が集ったとされ、昭和十年までに通算十六回実施され、昭和二年第八回には全国で四万二千人が参加したとされる。つまり『戦旗』の創刊は表紙にあるように「5月1928」=昭和三年五月だから、日本におけるメーデーの最盛期に創刊されたことになる。
 

そして本探索で、昭和初期の出版業界が円本、文庫の時代、またエロ・グロ・ナンセンスの時代であったことを繰り返しトレースしてきたけれど、それらだけでなく、プロレタリア雑誌とプロレタリア文学の時代だったことも付け加えなければならない。それを表象するかのように、『戦旗』創刊号の先の扉に続く巻頭には全日本無産者芸術連盟(ナップ)の名において、「日本プロレタリア芸術連盟・前衛芸術家同盟合同に関する声明」が昭和三年三月二十五日付で出され、「今月以後、永く孤立分散して戦はれたわがプロレタリア芸術運動は、その一切の精鋭を結束して、唯一この旗の下に戦はれるであらう」と宣言している。

 巻頭論文の中野重治「文芸戦線は何処に門を開くか?」は三・一五事件後における共産党系のナップの『戦旗』と、社会民主主義系の労働芸術家連盟の『文芸戦線』の対立を問い、当時のプロレタリア文学運動の位相を浮かび上がらせている。しかしそうであっても、『戦旗』は文芸誌であり、その半分以上は小説と詩の「創作」によって占められ、小説のほうは翻訳も含めて七作が寄せられている。その中には「日本プロレタリア作家叢書」の藤森成吉、江馬修、山田清三郎、立野信之なども見え、『戦旗』と「同叢書」が併走するように刊行されていたことを物語っていよう。

 それらだけでなく、表紙裏と裏表紙には南宋書院のそれぞれ一ページ出版広告が掲載されている。そこには大西俊夫『農民闘争の戦術・その躍進』などの他に「世界社会主義文学叢書」として、ミューレン童話集『真理の城』(林房雄訳)、シンクレア『地獄』(前田河広一郎訳)、労農ロシヤ短篇集『コムミューン戦士のパイプ』(蔵原惟人訳)が挙がっている。いずれも未見だが、それはかつて拙稿「ポオ『タル博士とフエザア教授の治療法』、南宋書院、涌島義博」(『古本屋散策』所収)でふれた南宋書院と異なり、この版元が左翼出版社へと転換したことを伝えている。それとともに、『近代出版史探索』62、63の『游牧記』や『孟夏飛霜』の平井功が南宋書院により、翻訳書を上梓していたが、その後左傾し、獄中死したことを彷彿とさせるし、南宋書院の左翼出版物も彼とつながっていたのかもしれない。

(『コムミューン戦士のパイプ』)(『游牧記』)

 梶井基次郎にしても、晩年はマルクスの『資本論』を読みふけっていたことはよく知られている事実だが、大正から昭和初期にかけてのプロレタリア文学運動は想像以上に広範な影響を及ぼしていたはずで、『近代出版史探索Ⅴ』845の石坂洋次郎の妻の愛人とは山田清三郎に他ならなかったことにも留意すべきであろう。また本探索1249の池田みち子が戦前は『戦旗』に見えている日本赤色救援会に属していたことを既述しておいたが、彼女もプロレタリア文学を出自としていることになろう。


odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com

[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1255 戦旗社「日本プロレタリア作家叢書」と小林多喜二『蟹工船』

 前回の徳永直『太陽のない街』が戦旗社の「日本プロレタリア作家叢書」の一冊であることは既述しておいたが、それらの明細は示さなかったので、ここで挙げてみる。
f:id:OdaMitsuo:20220226110749j:plain:h125 

1  藤森成吉 『光と闇』
2  小林多喜二 『蟹工船』/改訂版『蟹工船』
3  山田清三郎 『五月祭前後』
4  徳永直 『太陽のない街』
5  立野信之 『軍隊病』
6  江馬修 『阿片戦争』
7  橋本英吉 『市街戦』
8  窪川いね子 『キャラメル工場から』
9  中野重治 『鉄の話』
9  小林多喜二 『一九二八年三月十五日』
10  小林多喜二 『工場細胞』
11  片岡鉄兵 『綾里村快挙録』


f:id:OdaMitsuo:20220225103434j:plain:h125 f:id:OdaMitsuo:20220226104628j:plain:h125 f:id:OdaMitsuo:20220226105047j:plain:h124 f:id:OdaMitsuo:20220226103722j:plain:h124

 2と9に関しては少しばかり説明が必要であろう。小林の初版『蟹工船』は『一九二八年三月十五日』を併録していたが、発売禁止処分を受け、後者を全面削除して改訂版が出され、さらに『一九二八年三月十五日』だけが単独でイレギュラーに刊行されたことで、同じく9の中野の『鉄の話』とナンバーが重複してしまったと推測される。これらの全十三冊の出版は昭和四年九月から六年九月にかけての二年間である。

f:id:OdaMitsuo:20220225222056j:plain:h127 (初版) f:id:OdaMitsuo:20220225222600j:plain:h125 (改訂版) f:id:OdaMitsuo:20220225103934j:plain:h127 (改訂普及版)

 この初版本に基づき、『近代出版史探索Ⅵ』1169の勝本清一郎が保存していた小林の『一九二八年三月十五日』原稿による「本文復原」を経て、昭和二十六年に岩波文庫として、『蟹工船・一九二八・三・一五(ママ)』が刊行されている。そこに「解説」を寄せている蔵原惟人によれば、『蟹工船』は半年間に三つの単行本が出て、それらの発行部数は三万五千部に及んでいるようなので、「日本プロレタリア作家叢書」の他にも刊行されたのである。

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)

 『太陽のない街』の巻末広告から、日本プロレタリア作家同盟は編輯『年間日本プロレタリア詩集一九二九年版』、紡績労働調査会編『製糸工場で働く姉妹へ! 兄弟へ!』が出されているのは承知しているけれど、それらと「同叢書」の他にも出版は派生していたと考えられる。雑誌のほうも『戦旗』だけでなく、日本唯一の労働少年雑誌『少年戦旗』も創刊されていたからだ。

f:id:OdaMitsuo:20220226120406j:plain:h125(『年間日本プロレタリア詩集一九二九年版』)f:id:OdaMitsuo:20220327161727j:plain:h122 f:id:OdaMitsuo:20220226151848j:plain:h122

 日本プロレタリア作家同盟は昭和四年に全日本無産者芸術連盟文学部が独立して結成されたもので、共産主義的芸術運動の中心組織として、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)に加盟し、ナップとともに戦旗社発行の『戦旗』を共同機関誌としていた。また「日本プロレタリア作家叢書」に見られる作家たちの活発な創作活動によって、既存の出版社や文学者たちをしのぐ勢いがあったとされる。それは前述の『蟹工船』の売れ行きが物語っていることになろう。

 実は『太陽のない街』と同様に、『蟹工船』のほうも近代文学館から複刻され、その巻末には前者に見られない一九二九年一月付の日本プロレタリア作家同盟による「同志諸君!」と始まるプロパガンダ的一文が掲載されている。

 我々が出版に関する希望を抱いたのはすでに早い頃であつた。我々は、日本に於けるプロレタリア文学の成果をば、一定の系統に従つて編輯出版し、ひろくこれをわが労働者農民の間に配布することを欲した。だが当時我々の力はまだ未熟であつた。この希望は希望として止まり、なほ実行に移されるまでには立ち至らなかつた。
 一方各種出版業者によつて無数の出版事業が展開されて来た。だがその大部分は旧文学の整理であり、新興プロレタリア文学等の名を冠するものもその編纂に何等の定見なく、両者とも終に出版資本家の営利事業に過ぎないことを暴露した。
 しかるにわが労働者階級の成長――三・一五および四・一六のもたらした未曽有の苦痛のなかに起ち上つて来たわが労働者農民の階級的成長は、我々に向つて、日本プロレタリア文学の階級的出版を促すこと日ましに急切となつた。我々は決意した。我々はわが陣営のすべての文学作品を取り、これを厳密に規準に照して選定編輯し、これを継続的に出版刊行することゝした。定本日本プロレタリア作家叢書がすなわちそれである。

 まだ続くのだが、これだけ引けば、戦旗社と日本プロレタリア作家同盟編輯「日本プロレタリア作家叢書」のコンセプトは伝わるだろう。この一文を稿したのが誰なのかは判明していないけれど、昭和を迎えての「日本に於けるプロレタリア文学」の位相が開示されている。それは同時代の改造社の『現代日本文学全集』の円本による「文化の大衆化」、岩波文庫が宣言した「知識と美とを特権階級の独占より奪い返すこと」に対してのオルタナティブの試みであったと考えられる。

現代日本文学全集〈第1-63篇〉 (1927年)

 しかし「日本プロレタリア作家叢書」が二年しか続かなかったことを考えれば、「三・一五」や「四・一六」ではないけれど、「野蛮な検閲と暴慢な資本とに対する戦ひ」は困難で、「本叢書の刊行に対して加えられるであらうすべての圧迫」に抗し切れなかったことを自ずと示していよう。

 なお念のために補足しておけば、「三・一五」は昭和三年、「四・一六」は同四年に起きた日本共産党員を中心とする全国的大検挙、弾圧事件をさしている。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1254 徳永直『太陽のない街』

 徳永直『太陽のない街』の戦旗社版は架蔵している。もちろんそれは昭和四年の初版ではなく、近代文学館からの複刻である。戦旗社の「日本プロレタリア作家叢書」にふさわしい装幀は、柳瀬正夢によるハンマーを振ろうとする労働者の姿を描いたもので、目黒生のモノクロの版画的挿画と相俟って、昭和初期のプロレタリア文学のイメージを表象させているのだろう。

f:id:OdaMitsuo:20220224103112j:plain:h125(複刻版)f:id:OdaMitsuo:20220225103434j:plain:h125 f:id:OdaMitsuo:20220225222600j:plain:h125(「日本プロレタリア作家叢書」)

 それに照応するかのごとく、最初の「街」の章の「ビラ」と題するそのイントロダクションも「電車が停つた。自動車が停つた。――自動車、トラックも、サイドカアも、まつしぐらに飛んで来て、次から、次へと繋がつて停つた」と始まり、争議団の「ビラ」そのものも、一枚がそのままのかたちで転載提出され、争議の臨場感を昂めている。そこに示された一九二六年=大正十五年の大同印刷争議=共同印刷争議にしても、もはや一世紀前のことなので、『日本近現代史辞典』(東洋経済新報社)の立項を引き、そのアウトラインを示しておくべきだと思われる。

f:id:OdaMitsuo:20220225112430j:plain:h120

 共同印刷争議 きょうどういんさつそうぎ(1926.1.19~3.18、大正15)日本労働組合評議会(評議会)が指導した代表的争議。東京小石川の共同印刷会社の労働者2142名(うち女345名)の大半は、評議会系の関東出版労働組合に属し、精鋭を誇っていた。1926年(大正15年)1月8日会社は事業の縮小のため、一部の操業短縮を発表し、組合側はこれに反対したがいれられないので、19日まず旧博文館工場が罷業、20日会社は休業を宣したので、全職工の罷業となり、ここに58日間にわたる同盟罷業となった。争議団は、アジト・細胞などの新闘争戦術を用いたが、1月末より会社の切り崩し奏功し、2月4日就業者380名に達し、これを阻止せんとする組合との衝突頻発、争議団は検束のべ1500名、拘留のべ500名という犠牲者を出した。結局、会社は13万円を交付し、争議団全員1180名解雇の条件で解決した。

 この参考資料として、徳永の『太陽のない街』が挙げられているように、それが共同印刷争議そのものを描いた作品に他ならず、大正時代末の未曽有の大争議のノンフィクション的著作ともいえよう。前回の「能率委員会」がその前哨戦的短編ではないかと既述しておいたが、『太陽のない街』は共同印刷のある小石川の土地の上下関係、その中心に位置する会社と経営陣と、「谷底の街」に住む職工たちの構図がまず提出され、それを背景として争議が描かれていく。

 太陽のない街の住民、印刷会社の労働環境と職制、争議団に属する男女の生活や行動を通じて、争議の指導者ポジションにある萩村と宮地、女工の高枝と加代姉妹の恋愛も絡み合い、争議は進行していく。東京中の新聞による大報道が続く中で、日本労働組合評議会の幹部たちと全国から応援にかけつける労働者たちも登場してくる。それらに対して、大同印刷の大川社長側に陣どる「紳士達」もいて、彼らは他の印刷、製紙、機械会社に加えて、大和講談社の國尾の存在があった。彼は「バスケツトボールのやうな顔をした」「世界的出版王国の君主」で、「全国の出版物総数二十パーセントを占むる」のであった。それでも「世界的流行のストライキ」には悩まされ、撲滅すべきだと考えていたが、「施す術がなかつた」。これは明らかに講談社の野間清治をモデルにしていよう。

 それが具体的に何であったかは『日本出版百年史年表』の大正十四年十一月からの印刷会社の日清印刷を始めとする労働争議の頻発で、秀英会、凸版印刷、博文館印刷所、精美堂などの五社は東京雑誌協会に、争議による雑誌発行期日の遅延への援助を要請している。争議は十二月となっても続き、実業之日本社の増田儀一、改造社の山本實彦などが調停に入り、その一方で博文館印刷所を精美堂が合併し、共同印刷が設立され、後者の大橋光吉が社長に就任している。この大橋が大同印刷の大川のモデルに他ならない。

f:id:OdaMitsuo:20220225214742j:plain

 しかもそれに終わらず、大正十五年一月には講談社にダイレクトに影響が及び、『キング』は別にして、他の雑誌は印刷が遅延してしまったようで、次の記述が見られる。

 《講談倶楽部》《面白倶楽部》《婦人倶楽部》ほか5誌が共同印刷会社の争議で頓挫し、報知新聞社・中外印刷・常盤印刷など100ヵ所以上の印刷所に分散して依頼、辛うじて発行を維持。

 さらに二月を見てみると、凸版印刷が東京紙器を合併、大日本印刷業組合連合会が刑務所と官営工場における印刷事業の撤廃請願を提出、秀英舎によるドイツアルバート社自動給紙機付パラチア印刷機など一式の輸入といった記述が続いている。これらも確実に共同印刷の未曽有の大争議に起因していることはいうまでもないだろう。

 争議団のほうも大きな犠牲を払ったのであるが、共同印刷を始めとする印刷業界、及び出版業界にしても、ダメージは小さいものではなかったと見なすべきであろう。また『太陽のない街』を読みながら考えたことだが、同じくストライキをテーマとするゾラの『ジェルミナール』は本探索1217で既述したように、昭和二年に堺利彦訳で無産社から刊行されている。おそらく徳永にしても、争議の参加者たちも読んでいたと推測されるし、争議の描写や様相の通底性を想起させるのである。


odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら