出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1384 笹沢左保『見かえり峠の落日』と木枯し紋次郎

 前回の峠に関してはただちに本探索1306の中里介山『大菩薩峠』が思い浮かぶけれど、ここでは戦後の時代劇と時代小説にまつわる話を書いておこう。もはや半世紀前のことになってしまうのだが。

大菩薩峠 都新聞版〈第1巻〉

 ひとつは村上元三原作、市川雷蔵主演、池広一夫監督『ひとり狼』(大映、昭和四十三年)で、この映画は人斬り伊三と呼ばれる渡世人を主人公とし、雪の降る信州の塩尻峠から始まり、雷蔵の格調高い演技とその佇まいは忘れ難い。『「奇譚クラブ」から「裏窓」へ』から「裏窓」へ』(「出版人に聞く」12)において、六千人以上の女性を縛ってきた飯田豊一はその緊縛テクニックをどこで覚えたかと問われると、いつも「母親の胎内から生まれ出た時に、手に縄の束を握っていたからだ」と答えていたという。そこで私がそれは『ひとり狼』で雷蔵が博打の才を問われ、「俺は手に骰子を握って生まれたからだ」のセリフのもじりですねというと、飯田から「よくわかったね」との言が戻ってきたのである。

ひとり狼 [DVD]   『奇譚クラブ』から『裏窓』へ (出版人に聞く)

 昭和三十年代から四十年代にかけて、桂千穂、掛札昌裕『本当に面白い時代劇1945→2015』(メディアックス、平成二十七年)にも明らかなように、映画は時代劇の流行を見ていたし、小説や漫画に加え、雑誌編集にも大きな影響を与えていた。そのために年齢は異なるにしても、私たちはそうした時代劇という共同体の住人であり、このような会話を交わすことができたことはその証明となろう。それとともに映画館の暗闇とスクリーンをも共有し、ひとつの想像の共同体が成立し、その影響は『奇譚クラブ』や『裏窓』といったマイナーな雑誌にまで及んでいたのである。

エンタムービー 本当に面白い時代劇 1945→2015 (メディアックスMOOK)

 もうひとつは笹沢左保の『見かえり峠の落日』で、私の手元にあるのは昭和四十八年の角川文庫版だが、その元版は講談社から出され、それを図書館で借りて読んだように記憶している。同書は「峠」の入ったタイトルを五編収録した短編集で、それらは『小説現代』に連載されたシリーズである。現在から考えると信じられないような気もするが、純文学と異なる意味での中間小説・大衆文芸誌『小説新潮』『オール読物』『小説現代』の三誌は毎月合わせて百万部を超える売れ行きを誇り、そこに発表された作品が直木賞候補作の多くを占めていた。『小説現代』の編集長だった大村彦次郎は『文壇うたかた物語』(筑摩書房、平成七年)で記している。

見かえり峠の落日 (講談社版)(角川文庫版) 文壇うたかた物語 (ちくま文庫)

 笹沢左保さんがこの一連のシリーズのなかで、「見かえり峠の落日」を書いたのは、昭和四十五年の四月号であった。まだここでは木枯し紋次郎は登場していない。だが、スピーディな文体、ニヒルな主人公、ドンデン返しのある推理仕立てに、読者からの反響はすばやかった。全国から電話やら葉書が舞い込んだ。(中略)
 「見かえり峠の落日」のあと、笹沢さんは「中山峠に地獄を見た」「地蔵峠の雨に消える」「鬼首峠に棄てた鈴」などタイトルに峠を付けた数篇の作品を書いて、紋次郎誕生のウォーミング・アップをしていた。
 「赦免花は散った」という作品が発表されたのは、よく四十六年の三月号である。三宅島から島抜けする流人たちのなかに、上州新田分三日月村の生れ、その年三十歳になる長身の無宿渡世人、木枯し紋次郎がはじめて登場する。木枯しという俗称は、細い竹の楊枝をくわえて吹き鳴らす音からきていた。

 『見かえり峠の落日』所収のもう一篇は「暮坂峠への失踪」で、これらの「峠」の付された作品がスプリングボードとなって、「赦免花は散った」に始まる木枯し紋次郎シリーズへと結実していたったことがよくわかる。これらの作品の主人公の名前を紋次郎と変えるるだけで、そのまま紋次郎連作ともなるし、まさにキャラクターとストーリーは重なっているからだ。

 昭和四十七年から中村敦夫主演、市川崑監督による『木枯し紋次郎』のテレビ化放映が始まり、そのオープニングシーンには必ず山と相まって峠のシーンも映され、それに上條恒彦の「どこかでだれかがきっと待っていてくれる」という歌詞で始まる主題歌が流れていた。その歌は前回の柳田国男が語っていた峠の物語を暗示させるし、笹沢も資料として、青木書店有紀書房の『峠』を参照していたにちがいない。私もファンだったことを思い出すし、「赦免花は散った」の菅原文太主演、中島貞夫監督『木枯し紋次郎』(東映、昭和四十七年)も観ている。そのような孤独な渡世人木枯し紋次郎がヒーローだった時代もあったのだ。

(青木書店) (有紀書房)

 ところがである。『小説新潮』の元編集者の校條剛は笹沢左保と川上宗薫を論じた『ザ・流行作家』(講談社、平成二十五年)で、「『木枯し紋次郎』の誕生」という章を設けている。彼はそこで「紋次郎作品」を分析した後、『見かえり峠の落日』の初版が七千部、最初の紋次郎本の『赦免花は散った』が六千部だったことを示し、木枯し紋次郎は小説、テレビ、映画とブームを引き起こし、社会的事件となっていたにもかかわらず、その後の紋次郎本も一万部を超えることがなかったと述べている。

ザ・流行作家   木枯し紋次郎 (一) 赦免花は散った (光文社文庫)   木枯し紋次郎 [DVD]

 その理由のひとつとして、校條は紋次郎の物語がテレビ人気に支えられた負のヒーローで、池波正太郎の「剣客商売」シリーズに比べて、「家族も友人もなく、喉に流し込んだだけの粗末な食事をし、寝るのもほとんど野宿、目的もなく歩き続けるだけの紋次郎」は「インテリ好みであるが大衆の人気を長く保つことは難しい」ことを挙げている。

 確かにそうなのだ。池波の時代劇は家族、飲食、愛人や友人関係といった日常生活を必ず背景として描き出し、江戸の風物、行事なども取りこまれている。それに対して、紋次郎の物語は殺風景だというしかないのである。現在でも池波が読まれ続けているにもかかわらず、笹沢の木枯し紋次郎が絶版のままなのはそのことによっていよう。だがそのような孤独なヒーローを生み出した笹沢も、近代出版史と文学史の落とし子のような存在であることを忘れるべきではないし、いずれそれも書くことになろう。


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古本夜話1383 青木書店、深田久彌編『峠』、有紀書房『峠』

 前回の「日本新八景」における山岳、渓谷、瀑布、河川、湖沼、平原、海岸の選定が、美しい景観への再認識と景勝地への旅行を促進させたことにふれておいた。そしてそれは出版界にとっても同様で、これも前回の「湖沼」だけでなく、多くの旅行ガイドも兼ねた類書も企画出版されたのではないだろうか。

 それに関連して、かつて浜松の典昭堂で深田久彌編『峠』を購入したことを思い出した。昭和十四年初版で、私の手元にあるのは十六年の普及版の四六判上製の一冊だ。版元は発行者を青木良保とする淀橋区諏訪町の青木書店で、昭和二十二年に青木春男によって創業された戦後の青木書店とは異なる出版社である。だが『日本出版百年史年表』には戦前のほうの青木書店は見当たらない。

  

 この『峠』は深田編とあるように、峠に関するエッセイ、紀行文、文学作品などのアンソロジーで、筆者は延べにして五十人に及んでいることになり、五一七ページに写真一三ページというボリュームである。そこには柳田国男の「峠に関する二三の考察」が見え、これは本探索1329の『秋風帖』(梓書房)が出典で、柳田は自分の空想だが、山岳会の向こうを張って峠会を組織したいと述べ、その「峠の趣味」と題するところで、次のように語っている。

 秋風帖 (1932年) (『秋風帖』)

 峠越えの無い旅行は、正に餡のない饅頭である。昇りは苦しいと云つても、曲り角から先の路の付け方を、想像するだけでも楽しみがある。峠の茶屋は両方の平野の文明が、半は争ひ半は調和している所である。殊に気分の移り方が面白い。実に下りとなれば何のことは無い、成長して行く快い夢である。頂上は風が強く笹がちで鳥屋の跡などがある。少し下れば枯木澤山の原始林、それから植えた林、桑畑と麦畑、辻堂と二三の人家、鶏と子供、木の橋、小さな畑、水車、商人の荷車、寺藪、小学校のある村と耕地と町。

 まだ続いていくのだが、長くなってしまうので引用はここで断念するしかない。ただこれだけでも柳田民俗学における峠の位置づけをうかがうことができるだろう。この柳田の「峠に関する二三の考察」以外にも言及したいものが多いし、『峠』は昭和戦前における峠に関する最大にして上質なアンソロジーを形成していよう。

 深田の「編集後記」によれば、昭和十三年に刊行した『高原』が好評だったことから、『峠』も出版の運びとなったとされる。やはりその深田編『高原』は巻末に一ページ広告が掲載され、『峠』と同じアンソロジーとわかる。その隣にはこれも同じ深田編『富士山』も見え、『高原』『峠』『富士山』が「日本新八景」に見合う出版企画だと了承される。

    (『高原』)  

 だが深田の言からすると、青木良保は『高原』出版後の秋に応召され、戦地に向かったとされるので、実際に『峠』と『富士山』を手がけたのは別の編集者だったと考えられる。その編集者は前回ふれた有紀書房の『湖』、及びこれも拙稿「晩酌のお伴の本」(『古本屋散策』所収)で取り上げた『湖』を含むシリーズを担当していた江上博通ではないだろうか。このシリーズは私以外には誰も言及しないであろうから、それらの「風景の旅」シリーズを挙げてみる。番号は便宜的に振っている。

1  串田孫一編 『峠』
2  井上靖編 『川』
3  田宮虎彦 『岬』
4  串田孫一編 『高原』
5  川端康成編 『湖』
6  宮本恒一編 『秘境』
7  井上靖編 『半島』
8  宮本常一編 『島』


     

 これらは原弘装幀の函入升形本で、同じフォーマットの「歴史の旅」シリーズとして和歌森太郎編『城下町』、亀井勝一郎編『古都』など、また毎日新聞社編『日本の鉄道』、朝日新聞社編『旅』も昭和三十六、七年に出されているので、合わせれば二十冊以上になるだろう。ガイドブックというよりも、写真も多く収録したシックなテーマ別エッセイ集の趣が強い。

旅〈第3〉 (1960年)

 有紀書房は昭和三十年に高橋巳寿衛によって社会科学書などをメインにして始まったとされるけれど、このような写真を含んだテーマ別アンソロジー集も出していた時代もあったのだ。それは『峠』と『高原』のタイトルが重なっているように、内容はすべて同じではないけれど、戦前の青木書店を範としたと考えていいだろうし、それゆえに編集者の江上が青木書店出身ではないかと思ったのである。だが昭和四十年代に入ると有紀書房は実用書出版社の印象が強くなり、これらの出版を知ったのは今世紀に入ってからのことだった。

 また有紀書房の装幀造本が原弘であることにふれたが、先述の青木書店の三冊はすべて谷口喜作装となっている。谷口は『日本近代文学大事典』に立項され、家業の菓子舖うさぎやを継ぎ、河東碧梧桐門下として、装幀なども手がけたとある。ここには言及されていないが、翻訳家の平井呈一はその弟で、岡松和夫は谷口の娘と結婚し、後に平井をモデルとする『断弦』(文藝春秋)を書くことになる。

断弦


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古本夜話1382 田中阿歌麿『趣味と伝説 湖沼巡礼』

 『みづゑ』の「水彩画家大下藤次郎」に収録された水彩画を見ていると、彼が湖を好んで描いていることに気づく。具体的には湖のタイトルを付しているものだけでも「木崎湖」「本栖湖」「猪苗代湖」「久々子湖」「松原湖の秋」「宍道湖の黄昏」などが挙げられる。

 明治三十年代における水彩画の勃興に際し、湖が注目されたのか、それとも大下の好みであったのかは詳らかにしないけれど、写生旅行などで、湖が選ばれる機会も多かったことは確かであろう。もしそれが大下によって主導されたとすれば、志賀重昂の『日本風景論』につながる小島鳥水の山の発見に比肩する注視といえるかもしれない。

日本風景論 新装版 (講談社学術文庫)

 実はすでに二十年以上前になるのだが、気紛れに田中阿歌麿の『趣味と伝説 湖沼巡礼』を拾っている。國本社出版部からの刊行で、昭和二年初版、十一年再版の一冊である。國本社は神田区司町、発行者は古藤田喜助だが、著者の田中だけでなく、どちらも他では見ていない。それでもこの四六判函入上製三二二ページの一冊が十年を経て再版されている事実からすれば、國本社はその間も出版を続けていたと考えるべきであろう。

(『趣味と伝説 湖沼巡礼』)

 野尻湖、白馬大池、諏訪湖の口絵写真に続く再版の「はしがき」で、まず田中は湖沼の研究を初めてから三十九年になると述べている。しかしここでは湖沼学の複雑な記述は後日に譲り、「古事記に於ては主として旅行者の伴侶となるべき記述に止めた」として、次のように続けている。

 之は近年著しく旅行するものゝ多くなり湖畔の如きは昔日の寂寥に引換へ今日は湖上の遊覧、水泳、氷滑其他湖畔の避暑等湖を訪るゝもの日に多くなつて来た。又学生の暑中休暇を利用しての勉強地としての湖畔を選ぶものも著しく増加して来た。即ち之等人士が湖畔に立つた時一通り其湖沼に就ての知識を持つって居るといふことは慥に有意義なことと思ふ、之が本書を著はした主意である。

 つまりここで田中は近年湖畔旅行が流行となってきているので、湖沼ガイドブック、彼の言葉を借りれば、「旅行者の好伴侶」というべき一冊を送り出したことになる。彼には『湖沼の研究』や『趣味の湖沼学』という著書もあるようだが、三十九年にわたる湖沼研究といえば、明治三十年頃に端を発していることになり、大下たちの水彩画による湖沼の発見とほぼ時代を同じくしている。

 それならばどうして昭和に入って湖畔旅行が流行するようになったのだろうか。それは大正時代における鉄道や交通網の進化、日本旅行会などの遊覧団体の旅行斡旋、それに伴う観光や避暑に出かける人々の増加が挙げられよう。そうした旅行インフラの充実に加え、昭和二年の「日本新八景」選定も大きく作用していると思われる。これは旅の文化研究所編『旅と観光の年表』(河出書房新社、平成二十三年)によれば、次のようなものである。

旅と観光の年表

 昭和二年に本探索1330でふれた大阪毎日新聞と東京日日新聞はハガキによる「日本新八景」の人気投票を試み、人口より多い九千万通を超えるという全国的イベントになった。この投票結果をもとに、文人、画家、学者からなる選定委員会は従来と異なり、地形上の特徴から八つの枠を定め、それぞれについて一ヵ所を選び、「日本新八景」は雲仙岳(山岳)、上高地渓谷(渓谷)、華厳滝(瀑布)、木曽川(河川)、十和田湖(湖沼)、狩勝峠(平原)、室戸岬(海岸)、別府温泉(温泉)となったのである。

 選にもれた中から二五勝・百景も挙げられ、選定公開された。これらの選定を通じて、「候補地の間では郷土意識があおられて熱狂的ともいえる盛り上がりをみせ、同時に日本の美しい景観への再認識と、景勝地への旅行が促進される」ことになって。ちなみに「日本新八景」の選定は後の国立公園設定にも影響を与え、自然景観への評価と認識をさらに高めたと伝えられている。

 この事実によって、「湖沼」が観光地として定着したとわかる。そして昭和十五年に高峰三枝子が歌う「山の淋しい/湖に/ひとり来たのも/悲しい心」と始まる「湖畔の宿」(佐藤惣之助詞、服部良一曲)が流行した背景も了承できるのである。それは戦後の高度成長期においても継承され、旅行ガイドだけでなく、一般書のかたちでも、河合茂美『湖畔旅行』(現代教養文庫、昭和三十六年)、川端康成編『湖』(有紀書房、同年)などが刊行されていたことの起源を知ることになる。

高峰三枝子/湖畔の宿   

 なおその後、田中がかなり知名人で、スイス留学中に本探索1325エリゼ・ルクリユに師事し、地理学へと誘われていったことを知った。


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古本夜話1381 国画創作協会同人、大阪時事新報社編『欧州芸術巡礼紀行』

 本探索1365の島崎藤村の「水彩画集」ではないけれど、そのモデルの丸山晩霞のみならず、水彩画の先駆者である大下藤次郎や三宅克己も、明治三十年代に欧米旅行に出かけている。

 それは大正時代を迎えると、第一次世界大戦後の円高の影響も受けてか、画家たちの集団旅行も可能になり、その証左のように国画創作協会同人による『欧州芸術巡礼紀行』が出版されている。同書は大阪時事新報社編として、大正十二年大阪市南区長堀橋南詰東の十字館から刊行され、発売所は『近代出版史探索Ⅴ』930などの宝文館である。これも浜松の時代舎で見出した一冊だが、初めて目にする十字館は大阪時事新報社との関係から版元を引き受けたと推測されるし、発売所の宝文館も同様だと思われる。

 その「序」は大阪時事新報社編輯局雄上杉弥一郎名でしたためられ、「天才画家隊の一行が足かけ三年に亙る其芸術巡礼に於て」、「支那に始まつて海峡植民地、錫蘭島、エジプトを経て普く欧州各国」の「世界の芸術を隅々まで漁つて歩いた」嚆矢の紀行とされている。装幀者の記載はないけれど、機械函入にもかかわらず、本体はフランス装であり、表紙絵に土田麦僊のスケッチが使われていることからすれば、国画創作協会同人が担ったのであろう。

 さてその同人名を挙げてみよう。それらは土田麦僊に加えて、野長瀬晩花、小野竹喬、黒田重太郎の四人である。この中で画集を見ているのは土田だけで、他の画家たちは目にしていない。ただその「紀行文」を書いているのは黒田に他ならず、彼は『日本近代文学大事典』に見出されるので引いてみる。

 黒田重太郎 くろだじゆうたろう 明治二〇・九・二〇~昭和四五・六・二四(1887~1970)画家。滋賀県大津市に生れ、京都に没す。明治三七年、鹿子木孟郎に洋画を学び、翌年、浅井忠の門に入る。大正五~七、一〇~一二年、フランスで研究、一二年、二科会会員になり、翌年、小出楢重らと大阪に信濃橋洋画研究所を開き、関西の洋画家を育てた。四四年、日本芸術院恩賜賞を受賞。文章をよくし、『画房襍筆』(昭和一七 湯川弘文社)はじめ十余種の著書がある。
 

 この立項によって黒田が「巡礼紀行」に重なるかたちで、大正十年から十二年にかけてフランスに滞在していたことがわかるし、それとともに「文章をよくし」たために、「紀行文」をまかされた事情も了解できるのである。なお小出のことは以前に「宇野浩二、小出楢重、森谷均」(『古本屋散策』所収)を書いている。それはともかく、黒田の筆致は画家らしく観察が細かく、上海から巴里、さらにローマからマドリッドまで、興味の尽きることのない風景も含めた「巡礼紀行」であったことを伝えている。それでもやはり印象的なシーンはフランスにおいてで、パリに入る前にアヴィニヨンで一泊する。その翌朝四人でロシエ・デ・ドムの丘に登ると、南仏のアヴィニヨンの絵画的風景が一望のもとに眺められていく。

古本屋散策

 丘の根元を繞つてロオヌの急流が迂回しながら流れる、河の中程に断えた聖ベネゼ橋が横はり、中島の木立を越して橄攬の野が拡がり、ヰルヌウヴの城址や廃塔が赤い甍の村落を裾に控へて屹立ち、雪かともみられる白い崖の断続した遠山影が地平を割つて連つてゐる。南仏蘭西の秋は酣であつた。所々に点綴された黄な白楊の葉が、黝緑のシプレスと照り映えながら淡い日ざしを浴びてゐた。なる程いゝ所だなと先づ土田君が感嘆の声をあげた。小野君や野長瀬君も其れに同じだ。

 「巡礼紀行」の中でも、四人が揃ってその風景に「感嘆」するのはこのアヴィニョンに他ならないので引いてみた。ただ残念なのはこれも揃ってスケッチを残していないことで、その風景にひたることが優先されたとも考えられる。

 この他にもパリで、黒田が「ドミエーの旧家」のスケッチを示しながら、裏町にあるドーミエの少年時代の家を訪ねていくところ、あるいはルドンの展覧会で売れ残った水彩画や素描、ルドンの蒐集家の重要な作品を見た感慨は印象深い。その石版画には「見えざる世界と云ふものは、果たしてあり得ないものだらうか……」という言葉が記されていたのである。

 『近代出版史探索』196などのゾラ『壊滅』が描いた普仏戦争から帰還したルドンは、最初の石版画集『夢の中で』に続いて、多くの作品を発表していく。だが大正十一年=一九二二年時点の展覧会では数十点が売れ残っていたとの黒田の証言からすれば、ルドンの評価はまだそれほどでもなかったと思われる。

壊滅 (ルーゴン・マッカール叢書)  

 そのルドンの石版画ではないけれど、『欧州芸術巡礼紀行』には各地における四人のコロタイプ写真版による一ページの「スケッチ挿画」が百点収録され、表紙絵が土田の「マドリッドの広場」だとわかるし、ルドンのことも想起させてくれる。しかしあらためて奥付の大正十二年十月の発売年月を見ると、関東大震災の翌月の出版であり、大阪でしか印刷も出版もできなかったことを示唆していよう。


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古本夜話1380 徳田秋声『縮図』と小山書店

 徳田秋声の『縮図』は昭和十六年六月から『都新聞』で連載が始まったが、九月までの八十日で中断し、秋声は十八年十一月十八日に七十三歳で亡くなり、未完のままになってしまった。

 (『縮図』)

 だがその一周忌がすみ、帝都の空襲が激しくなる中で、小山書店によって少部数の印刷がなされたけれど、製本前に灰燼と化してしまった。それにもかかわらず、見本として残された一冊によって、敗戦後の昭和二十一年七月に出版の運びとなったのである。その一冊を入手している。

 同年七月の第二刷で、菊判並製だが、杏色の表紙のフランス装で、連載の挿絵を担当した内田巌のスケッチがあしらわれ、用紙や挿絵も含めて敗戦翌年の出版物と思えないほどの仕上がりになっている。さすがに『近代出版史探索Ⅱ』359などの小山書店だとオマージュを捧げたくなるし、この版元に関しては拙稿「小山書店と『八雲』」(『古雑誌探究』所収)を参照されたい。

古雑誌探究

 徳田秋声のことはこれも『近代出版史探索Ⅱ』264で、『仮装人物』と愛人の山田順子が書いた『女弟子』を取り上げ、それらのモデルにも言及しているが、あらためて小山書店の単行本で『縮図』を読むと、秋声の小説技法が隅々まで張りめぐらされた傑作であり、未完に終わったことが悔やまれる思いがする。そうした部分を抜き書きで紹介するつもりでいたけれど、『日本近代文学大事典』には『縮図』の書影も挙げられ、その解題も見え、この小説のコアと傑作たる所以を簡潔に伝えているので、それを引いておくべきだと判断したのである。

 

 [縮図]しゅくず 長編小説。「都新聞」昭和一六・六・二八~九・一五。昭和二一・七、小山書店刊。日中戦争下の世相を背景として、主人公三村均平とその妻死後の愛人である芸妓置屋の女主人銀子との現在の生活にはじまり、やがてこの作者独特の時間的な倒叙法にしたがって、筆がひとたび銀子の過去に向けられるや、それは薄暗い日本の庶民社会の片隅にくりひろげられる一人の女の客観的な生活史として、多彩なそれぞれの断層をとめどもなく掘進めていったのがこの長編である。七一歳の老作家の筆とも思われぬみずみずしさをもって、水もしたたらんばかりの妙齢の芸妓の姿を浮かび上がらせ、その心理のかげりを追い、あるいは陋巷に胸を病む少女の純情を描きあげてゆく。ここではその舞台も東京は江東の細民街から芳町、白山、そして千葉や石巻へと広範囲にわたって、その庶民的な階層の無数の男女が登場し、それぞれがいわゆる「自然主義の荘厳さ」(『一つの好み』)の極致を示す現実諦視の態度でみごとに書きわけられている。未完とはいえ、日本近代小説の一角を代表する傑作である。

 これに付け加えれば、最初の章「日蔭に居りて」において、「晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変らず上も下も一杯であつた」と始まっている。まさに『縮図』の均平と銀子の物語は「戦争も足かけ五年つづ」いている中で、パンとスープの出る「いくらかの贅沢」としての「少し上等の方の定食」を注文し、ナイフとスプーンを使いながら食べていくのである。そして窓の下の大通りの車の喧騒ぶりが描かれ、裏通りの花柳界の軍需景気による繁盛も言及されていく。

 このような『縮図』の始まりとその後の展開が軍情報局の意向にかなっていなかったことは想像に難くない。息子の徳田一穂が昭和十九年十一月の「跋」として、秋声が『都新聞』に『縮図』を連載する前の「作者の言葉」を引いている。それは「都新聞の作品への註文が、商売意識を離れた芸術本位なものなので、私にも多少の感激があり、時代の許す範囲で書きたいと思ふ」というものであった。ところが一穂は「或る事情のため中断される」と述べていたが、二十年の「追記」において、それは「当局の文芸に対する干渉によつての事」で、実際に秋声が一穂に残した手紙を引いている。『都新聞』の担当者と話したが、「少しくらゐ妥協してみたところでダメのやうです。妥協すれば作品は腑ぬけになる。遽に立場を崩すわけにも行かないから、この際潔く筆を絶たうと思」うという断念の言であった。

 結局のところ、八十回の連載に新聞社から原稿のまま戻ってきた八十一回、それに八十二回の書きかけの原稿を加え、先述したように『縮図』は昭和十九年に刊行予定だったが、戦後の昭和二十一年まで持ちこされてしまったのである。秋声は「この戦争の結末は見られさうもない……」と語っていたようだが、それは『縮図』の出版も同様で、戦争と文学のリアルな関係を伝えていよう。

 なお和田芳恵の『おもかげの人々』(講談社、後に光風社書店)所収の「徳田秋声作『縮図』の銀子」はその後の彼女の証言を引き、秋声の娘を生んだことを告白している。秋声の死はその二年後ということなので、「戦争の結末」と『縮図』の出版と異なり、娘の誕生は見ていたことになろう。

 


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