出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1079 水谷不倒『明治大正古書価之研究』、駿南社、奥川栄

 前回は『其磧自笑傑作集』などの校訂者である水谷不倒に言及できなかったので、ここでふれておきたい。水谷は『日本近代文学大事典』に立項を見出せるので、まずはそれを要約してみる。

 水谷は近世文学研究者で、安政五年に国学者水谷民彦の子として名古屋に生まれ、東京専門学校に学び、坪内逍遥に師事し、卒業後、小説を発表する一方で、続「帝国文庫」の浄瑠璃や脚本類を校訂する。明治三十二年大阪毎日新聞に入社、三十八年退社以後は近世文学研究者としての著述生活を送り、近世文学の研究の草分け的存在である。編著『近世列伝体小説史』『西鶴本』、「江戸時代古書研究双書」として『明治大正古書価之研究』などがあり、近世文学研究の先達の位置を占める。昭和十八年に死去。

 『博文館五十年史』で「続帝国文庫」を確認すると、『竹田出雲浄瑠璃集』を始めとする七冊の浄瑠璃本、及び『脚本傑作集』上下を手がけ、校訂者としても最多で、まさに近世文学研究の先達の位置にあるとわかるし、それもあって円本の「帝国文庫」にも招聘されたのだろう。残念ながら戦後刊行の、『近代出版史探索Ⅴ』859の高梨茂による『水谷不倒著作集』(全八巻、中央公論社)は繙いたことがないけれど、『明治大正古書価之研究』だけは手元にある。昭和八年に京橋区入船町の駿南社から出された菊判函入、三四五ページの一冊で、発売所は同じく京橋区小田原町の東栄閣と奥付には記されている。駿南社と東栄閣の関係は判明していない。

f:id:OdaMitsuo:20201008105639j:plain:h110(「帝国文庫」)f:id:OdaMitsuo:20201009114959j:plain:h110(『水谷不倒著作集』)

 水谷はその「序詞」を以下のように始めている。「予は昔からのルンペン、金には縁のない階級であるから、道楽に古書を弄ぶやうな、余裕は勿論なかつた。ただ好きが根本をなし、五十年間の古書生涯も、好きの一点張り、幸ひに時世に恵まれ、素漢貧ながら、比較的多くの書冊を手にしたと云ふに過ぎぬ」と。それも「古書を漁るといふも著述の為」で、「用が済めば売つて了ひ、又次に入用の書を買始める。さながら旅亭の如く、折角好来の珍客も、寛ろいで滞留するの暇なし、(中略)出入の頻繁にいつも財布の底を叩いて、(中略)書価については、人一倍注意を払」ってきた。その長年にわたって書き止めておいた「書価の控が若千冊」あり、それをベースとして、「研究の名で勿体を付け、新著として刊行することになつた」と述べている。

 その「好きの一点張り」の五十年間の「古書生涯」と「書価の控」に基づいて教示してくれるのは、水谷ならではの第一編「明治大正五十年間古書価の変遷」である、そこではまず明治維新当時の江戸において、「古書の受難期」を迎えたことが報告される。幕府と武家政治が瓦解し、将軍に平民に没落し、新東京が出現したのであるから、「古書などの価格の失はれたことに何の不思議はない」。古老の言によれば、「大八車に満載した書籍が、何貫何百文という端銭で売飛ばされていた」。水谷は「好きの一点張り」の本領を発揮し、忘れずに「こんな時に際会して、手当たり次第に、珍書を買ひ浚つたらさぞ愉快であらう」と付け加えている。

 だが明治二十年に入ると、古典が復活し、国語研究、古書の復刻として種々の叢書が刊行され、「今迄塵埃のうちに紙魚の棲処となつてゐた古書が引出され」、それが古書価を刺激し、向上に導いた。それらの復刻の先達として、水谷は兎屋と鳳文館に言及している。私も「明治前期の書店と出版社」(『書店の近代』所収)でふれている。

書店の近代

 そうした古典復活の動向を決定づけたのは博文館に始まる出版社・取次・書店という近代出版流通システムの誕生と成長で、水谷も博文館が刊行した明治二十年代の「日本文学全書」から前回の「帝国文庫」までの五種の出版をリストアップしている。それらによって「明治に於ける古典文学復興の最盛期」が出現し、古書の知識も普及し、「古書専門書肆も亦、此機に乗じ、古書発売目録を発行し、古書価を表示して、世人の注意を喚起するに努めた」のである。したがって古書の発売目録も明治の所産に他ならないし、明治三十年代に入ると、古書展覧会が東西両都市で盛んに開催されるようになった。しかし明治時代において、古書価は向上したものの、一気に高騰したわけではなかった。

 それが一変したのは大正時代に入ってで、水谷は実際に浮世草子類の古書価の昂騰していくプロセスを示し、「すべての古書が昂騰又暴騰して、全く旧来の面目を一新した。殊に十年以後長足に進み、真に古書価の黄金時代を出現したが、其最も頂上に達したのは、昭和二年の暮であつたと思はれる」と述べている。この記述は「序詞」にあった「何せ大正の古書価と云へば、近来稀な大暴騰、黄金時代の夢を、独りで見てゐるやうな内容で、一冊のものが何百、何千円に吹き出した」との言を彷彿とさせる。

 第二編「古書価の追憶」と第三変「自明治二十三年至大正十五年古書価要覧」も興味深いが、第一編の補遺資料ともいうべきものなので、ここでは言及しない。必要であれば、直接当たってほしい。

 『明治大正古書価之研究』はタイトル、内容もあって、古書専門書肆の村口書店の村口半次郎、弘文荘の反町茂雄の斡旋で、駿南社からの刊行を見たようだ。駿南社とその奥川栄に関しては『近代出版史探索』39で、駿南社が『犯罪実話』(『探偵』改題)の版元であり、そのかたわらで、奥川が『釣之研究』を出す釣之研究社の経営者であることを既述しておいた。またアナキスト安谷寛一が両社から釣りの本を出していることも。まさに古本屋も含めて、この時代の出版人脈は錯綜しているというしかない。

近代出版史探索 f:id:OdaMitsuo:20201009120921j:plain:h110


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古本夜話1078  円本としての博文館「帝国文庫」

 やはり円本時代の昭和三年に博文館から「帝国文庫」の再版が刊行され、『博文館五十年史』はそれに関して次のように述べている。

 「帝国文庫」は前年正編五十編、続編五十編が大好評の裡に完成したが、爾来既に数十年を過ぎ、偶たま世間には定価一円にて故書を翻刻し、之を円本と称し盛んに行はるゝ故、本館にても「帝国文庫」の再版を企て、内容の過半を新たにして、毎月八百ページ九ポイント十八行詰とし、全三十冊予約三十円、此年十二月第一編「珍本全集」を出した。(中略)後には真書太閤記、南総里見八犬伝等の前年盛んに行はれたものをも加へ、昭和五年十二月までに、予定の三十冊、第三十編『東海道中木曽街道膝栗毛』にて完結した。

 これは第一回の百冊と異なり、三十冊なので『博文館五十年史』からリストアップしておく。「内容の過半を新たにして」とはそれらに「新た」な校訂を施したことで、校訂者も含めて挙げてみる。彼らの名前は明治後半の「帝国文庫」から始まったと考えられる近世文学研究者の台頭が見てとれるし、それは本探索1060の新潮社『日本文学大辞典』の編纂ともリンクしているのだろう。

f:id:OdaMitsuo:20200720113608j:plain:h110(『日本文学大辞典』)

1 藤村作 『珍本全集』上
2   〃  『珍本全集』下
3  中村孝也 『常山紀談』
4  笹川種郎 『京伝傑作集』
5  山口剛 『種彦傑作集』
6  笹川種郎 『近世説美少年録』
7  山崎麓 『馬琴傑作集』
8  水谷不倒 『其磧自笑傑作集』
9  守随憲治 『近松世話浄瑠璃集』
10  黒木勘蔵 『紀海音・並木宗輔浄瑠璃集』
11  小澤愛圀 『忠臣蔵浄瑠璃集』
12  中村孝也 『真書太閤記』
13   〃 『真書太閤記』中
14   〃  『真書太閤記』下
15  三田村鳶魚 『柳澤・越後・黒田・加賀・伊達・秋田騒動実記』
16  尾佐竹猛 『大岡政談』
17  三田村鳶魚 『仇討小説集』
18   〃    『真田三代紀・越後軍記』
19  山崎麓 『人情本傑作集』
20 藤村作 『西鶴全集』上
21   〃  『西鶴全集』下
22  柳田国男 『紀行文集』
23 長谷川天渓 『名家漫筆集』
24  中山太郎 『梅こよみ・春告鳥』
25  水谷不倒 『脚本傑作集』
26  笹川種郎 『南総里見八犬伝』
27   〃   『南総里見八犬伝』二
28  〃   『南総里見八犬伝』三
29   〃   『南総里見八犬伝四・絵本西遊記』
30  三田村鳶魚 『東海道中木曽街道膝栗毛』


f:id:OdaMitsuo:20201008100405j:plain:h110(『南総里見八犬伝』)

 1、2、20、21の藤村作は先の『日本文学大辞典』の編纂者、3、12、13、14の中村孝也は本探索1075の『日本随筆大成』の監修者である。それには驚かないけれど、柳田国男や中山太郎まで動員されていたのは意外であった。だがそのようにして第一回とは面目を一新したのであろう。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 第一回の「帝国文庫」のほうは明治二十六年から三十六年にかけて刊行され、江戸文学の最初の集成刊行として、当時の文壇などに及ぼした影響は大きいとされる。ここに収録の千種を超える作品の明細は、『博文館五十年史』以上に詳しい『世界名著大事典』第六巻に掲載されている。何冊か拾っていたはずなので探してみたが、出てこない。それゆえに社史の中の書影と記憶で書くしかないけれど、B6の判型は第二回と同じにしても、装丁は異なっていたと思われる。

 第二回の「帝国文庫」は手元に一冊しかなく、それは8の『其磧自笑傑作集』である。ところがその背の金の箔押しのタイトルと花模様をあしらった絵による装丁が、本探索1074の「有朋堂文庫」と同じような印象を生じさせる。それは篆気の濃い隷書も同様で、全体的に似通っているのだ。とりわけ同じように見える背の下部を占める花模様の絵は、第一回の「帝国文庫」には見られなかったものである。

f:id:OdaMitsuo:20201008105639j:plain:h110(「帝国文庫」)f:id:OdaMitsuo:20200915115255j:plain f:id:OdaMitsuo:20200914115859j:plain:h103(「有朋堂文庫」)

 同1074で既述しておいたが、円本時代は江戸文学全集の色彩が強い「有朋堂文庫」と興文社の『日本名著全集』があり、それらに張り合うかたちで博文館が「帝国文庫」の再版を企てたことになる。したがって、それらの元版刊行年は「帝国文庫」が明治、「有朋堂文庫」が大正に出され、『日本名著全集』はそのふたつを範として昭和円本時代に刊行されたと見なしていい。しかし円本としての刊行は、「有朋堂文庫」「帝国文庫」も昭和三年の同年だが、判型はちがうにしても、どうして同じような装丁で出されたのであろうか。

f:id:OdaMitsuo:20200916193111j:plain:h108 f:id:OdaMitsuo:20200916192824j:plain:h108(『日本名著全集』)

 考えられるのは、これも既述しておいたように、岡本太郎の父で、版下書家の岡本可亭のところに「帝国文庫」の題字を含めた装丁依頼が出された。偶然のことながら、それは「有朋堂文庫も同様で、しかも可亭が病臥中だったこともあり、その代わりに弟子の魯山人が「帝国文庫」も合わせてその版下書きを潤筆した。あるいは可亭の別の弟子だったかもしれないその結果、同じような題字と装丁になってしまった。しかし博文館も有朋堂もその事実をつかんでおらず、ほぼ同時進行での編集と製作に取り組んでいたとすれば、双方がその刊行後にそれを知ったことになるのかもしれない。

 このような疑問に対して、『其磧自笑傑作集』に装丁者や題簽者名の記載があれば、ただちに氷解するようにも思われるのだが、残念ながら「有朋堂文庫」と同様にそれはない。そうした事柄は『近代出版史探索Ⅲ』553などの雪岱文字の問題ともリンクしていると推測される。

近代出版史探索Ⅲ

 なお最後になってしまったが、其磧と自笑は京都の書肆の「八文字屋」の代表的著者で、後者は八文字屋主人でもあり、浄瑠璃や浮世草子などの著者である。『其磧自笑傑作集』にはそれらの九編が収録されている。


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古本夜話1077 大槻文彦『言海』と林平次郎

 前々回の吉川弘文館の『日本随筆大成』の合板、つまり共同出版のかたちにふれたことで、吉川半七と吉川弘文館がやはり大槻文彦の『言海』を共同出版していたことを思い出した。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 これは背と本扉には『言海』、奥付には『改版言海縮刷』とある菊半截判の一冊で、三段組、千百余ページ、「正価金一円十銭」とされる。初版は明治三十七年三月で、それ以後の重版記載は明治後半から大正前半にかけて大増刷された、ロングセラーだったことを示している。入手しているのは大正六年十月の第三百九十版である。
f:id:OdaMitsuo:20201005112352j:plain:h105(『改版言海縮刷』)

 冒頭に大槻による「本書編纂ノ大意」が述べられているので、その最初の部分を引く。

 此書ハ、日本普通語ノ辞書ナリ、凡ソ普通辞書ノ体例ハ、専ラ、其国普通ノ単語、若シクハ、熟語(二三語合シテ、別ニ一義ヲ成スモノ)ヲ挙ゲテ、地名人名等ノ固有名称、或ハ、高尚ナル学術専門ノ語ノ如キヲバ収メズ、又、語字ノ排列モ、其字母、又ハ形体ノ順序、種類ニ従ヒテ次第シテ、部門類別ノ方ニ拠ラザルヲ法トスベシ、其固有名称、又ハ、専門語等ハ、別ニ自ラ其辞書アルベク、又、部門ニ類別スルハ類書ノ体タルベシ、此書編纂ノ方法、一ニ普通辞書ノ体例ニ拠レリ、

 これは明治十七年十二月に文部省准奏任御用掛として大槻が記したもので、その後に「本書、草稿全部、去年十月、文部省ヨリ下賜セラレタリ、因テ私版トシテ刊行ス」とあり、同二十二年一月の日付がしたためられている。しかし小さな活字でぎっしりと組まれた「ことはのうみのおくがき」を読むと、その「私版トシテ刊行ス」ることがいかに困難であったが伝わってくる。

 当初は明治二十三年九月に全四冊刊行予定だったが、「此事業、いかなる運にか、初より終まで、つねに障礙にのみあひて」、完結までに二年半を費やし、二十四年四月になってしまったのである。それらは印刷所の問題、校正者たちの死と転勤、著者の妻子の病死、予約出版遅延の苦情、資金の乏しさなどだった。

 そうして刊行された『言海』は、大槻が「年を遂ひて刪修潤色の功をつみ、再版、三版、四五版にもいたらむ」と念じたように、順調に版を重ねていったのだろう。そして先に見た如く、明治三十七年には「改版言海縮刷」版も出るに及び、こちらもすばらしい売れ行きだったのである。ただ明治二十四年の『言海』は入手していないので、発行所は不明だが、「おくがき」には旧知の小林新兵衛、牧野善兵衛、三木佐助に「予約発売の方法」で、「発売の事を託せし」とあった。三木佐助は拙稿「明治維新前後の書店」(『書店の近代』所収)で取り上げているように、大槻の『日本小史』というベストセラー教科書を出版し、教科書取次と全国的教科書出版にも携わっていた人物である。小林と牧野もおそらく同業者だったと見なしていい。

書店の近代
 そのような『言海』に対して、「改版言海縮刷」版は奥付表記によって、その生産、流通、販売、及びその経済も明らかであるので、それらのメカニズムをたどってみる。まず著者兼発行者として大槻文彦とあり、検印部分に「大槻氏蔵版」が押されているので、彼は初版の際の著者兼発行者の権利をそのまま保持していたはずだ。その事実は大槻の印税が「著者兼発者」として、通常より高い二十%ほどだったのではないかとの推測も可能であろう。

 大槻に並んで発行者として吉川半七と林平次郎、発売者として大阪市の三木佐助、印刷者として、神田区三河町の武木勝治郎の名前がある。そして発行所として、吉川弘文館と六合館が続いている。前者は既述しておいたように、『日本随筆大成』の発行所、六合館は『大成』と前回の『日本図会全集』の発売所だった。印刷者の武木はひとまずおくとして、吉川は前々回にプロフィルを紹介し、三木は前述している。この場合、三木は発売者のはずなので、製作費は負担しておらず、関西方面での一手販売、つまり『言海』の独占取次だったことを意味していよう。

 残るは林だが、彼は『出版人物事典』に見えている。

 [林平次郎 はやし・へいじろう]一八六一~一九三一(文久元~昭和六)六合館主。一二歳で吉川弘文館、に入り、一八八七年(明治二〇)二七歳で独立、文魁堂と称し出版兼書籍仲買店を開業。九四年(明治二七)六合館を買収、本格的に出版をはじめ、大槻文彦『言海』、浜野知三郎『新訳漢和大辞典』などの大著も刊行。中等教科書の関東地区一手販売を行うなど幅広く事業を進めた。六合館は明治初年設立したもので欧米の原書を翻訳発行した。大日本図書、東京辞書出版、大阪宝文館、国定教科書共同出版所、日本書籍などの役員に就任、また全国書籍商組合会長、東京書籍商組合組合長を務めるなど、業界の大御所とも呼ばれ、通称を林平といった。

 ここでようやく、吉川弘文館、六合館、『言海』が一直線につながってことになる。それらを通じて、『言海』がこのような生産、流通、販売システムに支えられ、「改版言海縮刷」版のすばらしい売れ行きが保たれたといっていいだろう。その際に忘れてはならないのが、「正価金一円五十銭」とあることで、これは本探索1071の東京出版同志会の『類聚近世風俗志』でも見たばかりの自由価格販売だ。ただ同書は印税の発生しない「造り本」ゆえに可能な正価設定であった。

 それに対し、『言海』は高印税が前提となっていることからすれば、どのような流通販売システムになっているのか。それは吉川弘文館と六合館が版元と取次を兼ねる独占販売なので、その他の取次や書店のほうは一般正味より安い価格で大量に仕入れる「入銀」、もしくは一定の部数に対して、「添本」が生じる注文買切によっていたと思われる。そのようなシステムを通じて、書店のほうも学校などの大量採用に際し、価格競争や値引きも可能とされたのである。このような辞書の大量生産、それによってもたらされた「一円五十銭」という安い正価は昭和初期の円本時代を用意していたことになろう。

 そのようにしてもたらされた大槻への大量印税は『近代出版史探索Ⅲ』415でふれた彼の芸者遊びを実現させたことになろう。なお後の『大言海』の他に言及したい辞書も多く残っているのだが、それらはあらためて取り上げることにしよう。

近代出版史探索Ⅲ f:id:OdaMitsuo:20201005202100j:plain:h110(『大言海』)


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古本夜話1076 桜井庄吉、日本随筆大成刊行会、『日本図会全集』

 前回の日本随筆大成刊行会は昭和三年から四年にかけて、『日本図会全集』全十二巻を出版している。これは江戸時代に出された代表的な名所図会を収録したものであり、『図解現代百科辞典』(三省堂、昭和八年)を引いてみると、「名所図会」は以下のように述べられていた。「地方の名所の図を描き、各ゝ其地に関する由来・伝説・詩歌等を記し集めた冊子。徳川時代のやうに旅行不便であった時代に文学と絵との助を藉りて世人に名勝旧跡を知らしめるために盛んに製作された。東海道名所図会・木曽街道名所図会・江戸名所図会・東海道五十三次等は是」と。
f:id:OdaMitsuo:20201004140343j:plain(『図解現代百科辞典』)

 なおこれは余談だが、日本版 I See All といっていいこの図解辞典に関しては、かつて両者の最初のページを収録した「三省堂と『図解現代百科事典』」(『古本探究』所収)を書いているので、よろしければ参照してほしい。

古本探究

 それはともかく、『日本図会全集』は次のような構成である。「名所図会」の著者、校訂者、絵師なども含めて挙げてみる。

 1『江戸名勝図絵』1(斎藤幸雄、斎藤幸孝・斎藤幸成校訂、長谷川雪旦・長谷川雪堤画)
 2『江戸名勝図絵』2(同)
 3『江戸名勝図絵』3(同)
 4『江戸名勝図絵』4(同)
 5『東海道名所図会』上(秋里舜福、竹原春潮斎ら画)
 6『東海道名所図会』下(同)
  『東都歳時記』  (斎藤幸成、長谷川雪旦・長谷川雪堤画)
 7『都名所図会』  (秋里舜福、竹原信繁画)
 8『拾遺都名所図絵』(同)
 9『都林泉名勝図絵』(秋里舜福、佐久間草偃ら画)
 10『伊勢参宮名所図絵』(蔀徳基)
 11『藝州厳島図会』上(岡田清、頼惟柔・加藤景纘、田中芳樹校訂、山野守嗣画)
 12『藝州厳島図会』下(同)
  『厳島宝物図会』 (同)
f:id:OdaMitsuo:20201004222644j:plain:h110f:id:OdaMitsuo:20201004223028j:plain:h110(『江戸名所図会』)

 これらは表記、巻数も含めて、やはり『世界名著大事典』第六巻によるのだが、書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』を確認すると、こちらは全十四巻、版元は吉川弘文館、定価一円で、『日本随筆大成』と同様に円本として刊行されたとわかる。さらに別巻が出されたのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)世界名著大事典  全集叢書総覧新訂版

 手元にあるのはセット函入の11と12で、その函には本探索1071の東京出版同志会版の『類聚近世風俗志』に描かれていた三人の男女の絵が使われている。それは『日本図会全集』自体が東京出版同志会関係者の手によって出されたのではないかという推測を生じさせる。あらためて奥付を見てみると、編輯兼発行者は本郷区森川町の桜井庄吉、発行所も同住所の日本随筆大成刊行会で、発売所のほうは前回挙げた五店と変わっていない。異なっているのは写真銅版製造者として、府下下目黒の写真工芸研究所、活版製版者として、神田区鎌倉町の川瀬松太郎が新たに挙がっていることだろう。

 確かに11、12の『藝州厳島図会』『厳島宝物図会』だけを見ても、前者ですら「挿画之部」が「本文之部」よりも多く、後者に至ってはまさに「宝物図会目録」なので、ほとんどが挿画で占められている。それゆえに印刷にあたって、写真銅版製造者や活版製版者が招聘されているのだろう。そのことを象徴するように、11と12の表紙にはカラーの厳島神社の大鳥居が描かれ、『日本随筆大成』の地味な装丁と一線を画している。前回、桜井が印刷関係者ではないかと指摘しておいたが、的外れではないようにも思われる。

 そのようにして編まれた12の『厳島宝物図会』で、とりわけ興味深いのは「抜頭面」を始めとする面類で、それらは正倉院の「酔胡王面」(伎楽の面)などを彷彿とさせる。それには「抜頭舞伝来」という注釈が付され、「凡六七百年バカリ以前ヨリコノ舞アリシコト知ラレ」、「文明三年二天王寺楽人太秦廣吉トイフ者ヨリ、彦三部安種トイフ者ヘ抜頭相伝ノ状アリ」と見える。そして安種が「当島ノ者」で、「サレバ当島ニオイテ抜頭舞ノ伝来ハ、イトフルキコトニテ、ヤンゴトナキ神事ナリカシ」とある。これに同じく宝物の「弘法大師仏具」や「同袈裟」を重ね合わせれば、『近代出版史探索Ⅳ』653などの景教と空海伝説が浮かび上がってくる。私も十年ほど前に厳島を訪れているが、これらの宝物にはお目にかかれなかったことを付記しておこう。
近代出版史探索Ⅳ

 それも残念だが、『日本図会全集』で全四巻で及ぶ『江戸名勝図会絵』を見られないことも同様であるけれど、こちらは昭和四十一年の角川文庫版の『江戸名所図会』(鈴木棠三、朝倉治彦校注)全六巻を所持している。それによって先述の『日本図会全集』に付された人名や書名の由来が判明する。名所図会は7の秋里の『都名所図会』が安永年間に上梓されると、一種のブームとなり、出版の一分野をなした。それを範として、神田の名主の斎藤幸雄・幸孝、幸成が三代にわたり、編集、増補、改稿を加え、天保七年に出版された。まさに三十余年を要した家業としての絵入り地誌、しかも長谷川雪旦の豊富な挿絵は江戸郊外も含む武蔵名所図会にふさわしいもので、広範な江戸時代の風景を集成した出版だったといえよう。『日本図会全集』を入手したら、それらの風景を比べてみたい。ひょっとすると国木田独歩の『武蔵野』の発見もそれに端を発していたかもしれないからだ。

f:id:OdaMitsuo:20201004140059j:plain:h105 (角川文庫版)


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古本夜話1075 早川純三郎、『日本随筆大成』、吉川弘文館

『嬉遊笑覧』だが、これは昭和円本時代にも刊行されている。それは『日本随筆大成』の別巻としてで、その別巻は各二冊からなる大田南畝『一話一言』、『嬉遊笑覧』、寺島良安編『和漢三才図会』である。『一話一言』上下は所持しているけれど、残念ながら『嬉遊笑覧』と『和漢三才図会』は入手していない。だがやはり前々回の「有朋堂文庫」と同様に、『日本随筆大成』には山東京伝『骨董集』、滝沢馬琴『燕石雑志』、柳亭種彦『用捨箱』も収録されているので、この『大成』にもふれておきたい。
f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 これは昭和二年から六年にかけて、近世随筆を最も多く集め、三期に分けて刊行したもので、全四十三巻に及び、校正に難はあるが、『日本随筆大成』にふさわしい三百編近くの大部の集成といえよう。実は揃っていないけれど、第一期は十冊、第二期も九冊、先の別巻二冊を購入している。確か不揃いだったことから、古書目録にかなり安い古書価で掲載されていたので、買い求めたのだと思う。それも二十年以上前のことで、山中共古と集古会の資料としてだった。

この『日本随筆大成』の各巻明細は、これも『世界名著大事典』第六巻に詳しいし、近世随筆の世界がそこに紛れなく凝縮され、とりわけ、第二期の第一巻所収の『兎園小説』は大槻如電が序文を寄せ、閲している「百家説林本」によっているようだ。如電の緒言や馬琴を始めとする十二人の語る「奇事異聞」も興味は尽きないけれど、私はその方面の素養に欠けているので、これ以上の言及を差し控える。それよりもここではこの円本特有の近世随筆出版プロジェクトの編集、生産、流通、販売の実態を考察してみたい。

世界名著大事典

 まずは全巻を通じて、巻頭に宮内省御用掛関根正直、東京帝国大学資料編纂官中村孝也、宮内省図書寮編集官田辺勝也の三人が監修者として挙げられている。それから第一期第一巻の林羅山『梅村載筆』などの奥付を見ると、編纂者は日本随筆大成編輯部とその代表者の早川純三郎、その横には発行兼印刷者として、吉川半七の名前がある。そして発行所は東京市京橋区鈴木町の吉川弘文館、発売所として東京市日本橋区の六合館、名古屋市の川瀬書店、大阪市の柳原書店、東京市京橋区の日用書店、東京市牛込区早稲田鶴巻町の国際美術社が並んでいる。

 しかし先述の第二期第一巻となると、編纂者と発売所はそのままが、発行兼印刷者は本郷区森川町の桜井庄吉、発行所は桜井と住所を同じくする日本随筆大成刊行会と入れ代わっている。これは昭和三年四月三十日の刊行であるけれど、別巻の『一話一言』上下巻はそれに先行する同年四月十日で、第一期の奥付表記と変わっていない。この事実は『一話一言』が第一期の別巻と見なせよう。つまり『日本随筆大成』の第一期は発行兼印刷者と発行所が吉川半七、及び吉川弘文館であった。ところが第二期からはそれらが桜井庄吉と日本随筆大成刊行会に変わったことになる。おそらく吉川と吉川弘文館が資金繰りの関係から行き詰まり、櫻井に肩代わりを頼んだことで、第三期は見ていないけれど、第二期以後の刊行を委託したのであろう。これも円本ながら、本探索1071で示した「合板」と考えられる。

 日本随筆大成編輯部の早川純三郎は『近代出版史探索Ⅲ』405の国書刊行会の編集者だったはずだが、新たな印刷兼発行所の桜井庄吉のプロフィルは不明である。川半七のほうは『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。
近代出版史探索Ⅲ 出版人物事典

 [吉川半七 よしかわ・はんしち]一八三七~一九〇二(天保一〇~明治三五)吉川弘文館創業者。一八五四年(安政四)、江戸書林若林清兵衛から独立、七〇年(明治三)家業近江屋(貸本)を拡充して、京橋南伝馬町に吉川書房を開く。新古書籍の販売を行うかたわら、翻訳書なども加え、和漢の書籍を備えた。「来読貸観ところ」を設けて、一時間半銭の規程で、一般の人々に見せたという。七七年(明治一〇)ころから出版を兼業、金養堂・文玉圃などの称号を用いたが、一九〇〇年(明治三三)からはもっぱら弘文館と称した。『故実叢書』『大日本史』『本居宣長全集』『加茂真淵全集』など国文・国史関係の大部の出版に専念した。一九〇四年(明治三七)合資会社に改組、吉川弘文館と改称。

 これらの出版の系譜を背景として、『日本随筆大成』の企画が同刊行会の早川によって持ちこまれ、吉川弘文館が制作と発行所を引き受けることになったのだろう。監修の三人はいずれも『古事類苑』関係者であり、それで監修を引き受けたと考えられる。それは本探索1069の『守貞漫稿』の編集者室松岩雄が『古事類苑』の編集に携わったことを想起させる。 また発行所の名古屋の川瀬書店と大坂の柳原書店は有力な地方取次であるから、東京の六合館などの三店も取次を兼ねていた書店だと思われる。この事実は吉川弘文館が製作や流通販売も含め、全面的にバックアップしたが、第二期はその立場を第三者に委託するしかなかったことを伝えていよう。

 それでも戦後になって、吉川弘文館が『日本随筆大成』(全八十一巻、昭和四十八年)を刊行している事実からすれば、その経緯と事情は不明だが、すべての著作権を引き継いだことを物語っていよう。
f:id:OdaMitsuo:20200912115743j:plain:h115(『嬉遊笑覧』)

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