出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1088 河竹黙阿弥と「狂言百種」

 本探索1068において、久保田彦作が江戸生まれの狂言作者、戯作者で、河竹黙阿弥門下だったが、黙阿弥と親しかった仮名垣魯文に引き立てられ、『仮名読新聞』にも関係し、明治十一年に『鳥追阿松海上新話』を上梓するに至ったことを既述しておいた。

 黙阿弥は安政期に白浪毒婦物の名作を発表し、明治に入って新富座の座付き作者となり、終生を歌舞伎作者として通し、江戸歌舞伎から近代歌舞伎、近代日本演劇への橋渡しの役を務めた最後の狂言作者だった。その没年は明治二十六年だが、その前年に黙阿弥の「狂言百種」全八号が春陽堂から刊行されている。そのうちの第二、第三号を、本探索1085の三角寛『縛られた女たち』と同様に、浜松の典昭堂で見つけ、入手したばかりなのである。

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 菊判和綴じ、双方とも一五〇ページほどの和本といってもかまわないだろう。私は狂言や歌舞伎には通じていないので、「狂言百種」全八号の明細は挙げないけれど、この二冊は第二号が『茲江戸小腕逢引』三幕、『怪説月笠森』三幕、第三号が『島鵆月白浪』第五幕、『浄瑠璃』一幕を収録していることを記しておく。これらの作品だけでも、近世文学のコアである狂言、歌舞伎、浄瑠璃の織りなす江戸のコスモスが現前しているのだろう。このうちの『島鵆月白浪』は『日本近代文学大事典』の黙阿弥の立項に解題が見つかるので、それを示す。

 [島ちどり]しまちどり 世話もの狂言。本名題『島鵆月白浪』(しまちどりつきのしらなみ)。散切もの。明治一四、新富座初演。白浪作者の一世一代として単独執筆した記念作だけに、五人の主要人物(明石の島蔵、松島千田、望月輝(あきら)、弁天お照、車夫徳蔵)全部が前科者という設定。眼目はすでに前非を悔いて堅気となった島蔵が、千太を説得して改心させる大詰「招魂社」鳥居前の場で、現在まで何度も復演されている。

 ちなみに「白浪」とは盗賊、「白浪物」とは盗賊を主人公とする歌舞伎劇のことである。これらの黙阿弥の「狂言百種」の出版は本探索1079の水谷不倒が証言しているように、明治二十年代を迎えての古典の復活の気配だし、同1078の博文館「帝国文庫」に代表される様々な叢書の刊行のひとつに数えられるだろう。

 そうしたトレンドに照応し、「明治廿五年皐月」の「識」として、饗庭篁村が「昔し近松門左衛門。狂言綺語の道をかりて」と始まる「狂言百種序」を寄せている。これはなぜか第二号にはなく、第三号巻頭に見出され、続けて黙阿弥の栄光にふれ、篁村はいっている。句点はママだが、一部を除き、ルビは省略。

 黙阿弥翁の出世あり。劇場大に光明を放ち。世話狂言新たに面目を開く。神儒仏の教へを仮名に和らげ。愛悪欲の謎を眼前に諭す。面白く楽しく哀しく可笑しく。世態人情一として。筆に洩れたるものはなし。これまことに文人の舌。慧にして窮らざるものか。看客(みるひと)感嘆せざるなし。淵黙にして雷声の響き渡つた名作の。多かる中より百番を選出し。今回春陽堂より出版す。我輩翁の作にもつとも信心厚き者なり。先年講頭の春の屋と語り。翁の作を新聞へ出して。世に其妙味を伝へしも。わずかに一二種なるを遺憾とせしに。此事あるいは本意にかなへり。演劇脚本新技の。悦びのあまりに門外漢(まくそと)の篁村(それがし)。わなゝく声に口上云爾。

 これは黙阿弥ルネサンスの喜びを伝えてあまりあるオマージュだと思われる。とりわけこの『島ちどり』は一三七ページに及び、明治十四年十一月新富座においての興行で、黙阿弥の後記によれば、「小生一世一代の折賊の狂言の作納(かきおさ)め」とされる。そしてこのような狂言が講談や新講談、大衆文芸にまで引き継がれ、時代小説を誕生させたように思われる。それは「狂言百種」が円本時代を迎えて、同じ春陽堂から『黙阿弥全集』として結実し、そのかたわらで平凡社の『現代大衆文学全集』が刊行され始めたことに象徴されているのではないだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20201019172345j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20200717104540j:plain:h120(『現代大衆文学全集』)

 それと同じく指摘しておかなければならないことがある。「狂言百種」の二冊の奥付にはいずれも「版権興行権所有」との文字が大きく躍り、検印部分には春陽堂の印が押されている。これは春陽堂が黙阿弥から「狂言百種」の全作品の版権ばかりか興行権までも買い取っていて、印税が発生しないことを意味している。篁村の祝している「今回春陽堂より出版す」の背景にあったこの事実は、幕末から明治にかけて、三六〇の作品を世に送り、江戸歌舞伎の最後の狂言作者だった木阿弥にしても、経済的には恵まれていなかったことを伝えていよう。

 黙阿弥はまさに晩年の出版にあたって、春陽堂に版権に加えて興行権も売却するしかなかったのであり、それも驚くほど安かったのではないかとも思われる。おそらく大正末期の『黙阿弥全集』にしても、春陽堂が版権を所有していたことは同様で、それゆえに全集出版も可能だったと推測される。そしてこの「狂言百種」の出版を見納めとして、黙阿弥は明治二十六年に鬼籍に入ったことになろう。


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古本夜話1087 蛯原蛯原八郎「村井弦斎小論」、中央公論社『日本近世大悲劇名作全集』、『小猫』

 本探索1065で蛯原八郎の『明治文学雑記』を取り上げたが、その後続けて明治開花期文学をたどっていくと、この一冊が「雑記」のタイトルにもかかわらず、参考文献として必ずといっていいほど挙げられている。それに同書にはこの時代に蛯原しか書かなかったであろう、昭和九年十二月付の「村井弦斎小論」が収録され、『日本近代文学大事典』の村井の立項には参考文献の筆頭に見えている。

 今世紀に入って『食道楽』が岩波文庫化され、黒岩比佐子による『「食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店)が書かれ、「主要参考文献」の最初に挙げられているけれど、本文では蛯原の「小論」への言及がない。それはこの論稿が『小猫』から始まり、『食道楽』が付け足しのような位置にあることに起因しているのかもしれないが、これが昭和円本時代以後の初めてのまとまった弦斎論だったように思える。

食道楽 「食道楽』の人 村井弦斎

 蛯原は明治文壇において、紅葉、露伴、鷗外、美妙、透谷、一葉、緑雨、眉山、独歩たちは重要な役割を演じた人々だが、彼らの愛読者は限られた一部の知識階級に過ぎず、その数からすれば、論じるに足りないとして、次のように述べている。

 近代ジヤーナリズムの台頭は、明治二十年頃から後のことであるが、此新しい潮流に乗つて起つた作家に、涙香、弦斎、浪六等が居る。此中でも前二者は、特にジヤーナリズム意識が濃厚であつた。硯友社の同人中にも多少此傾向は窺はれたが、彼等に在つては其意識よりも常に作家的良心のほうが強く働きかけてゐた。菊池寛氏は曾て今日の大衆小説に定義を下して、芸術小説は作家が自己の創作衝動を中心にして書いたものであり、大衆小説は作者が読者の興味を中心にして書いたものであるといふやうな意味のことを述べて居られたが、要するに、涙香、弦斎、浪六等は此後者に属する作家であつた。隨つて其愛読者の数は非常に多く、前述諸作家の愛読者を一纏めにしても、迚此数には及びもつかなかつた。塚原澁柿、半井桃水、渡辺霞亭、遅塚麗水等が当時之に次する通俗作家であつた。

 とすれば、昭和円本時代の出現はその発行部数からすれば、芸術小説家の読者を大衆小説家のそれに匹敵するものにする役割を果たしていたことになるのかもしれない。

 そうであっても、大衆小説家のほうは文壇や文学史家からはほとんど無視され、涙香だけはその研究会もできて、研究も続けられ、読者もかなりいるらしいが、「弦斎となると、時代と共に書き、時代と共に葬られた」状態にある。確かに弦斎は明治二十年代に入り、各新聞に時流に乗った小説を連載し、それらの『日の出島』『食道楽』は大衆的人気を呼んだとされる。
f:id:OdaMitsuo:20200905113228j:plain:h120(『日の出島』)

 とりわけ『報知新聞』での『日の出島』の連載は六年に及ぶ大長編小説で、春陽堂から全十二巻が出されているようだが、まだ一冊も見ていない。だが弦斎は昭和二年に鬼籍に入り、改造社の『現代日本文学全集』ではその34『歴史・家庭小説集』(昭和三年)、春陽堂の『明治大正文学全集』ではその15、『村井弦斎 江見水蔭篇』(同五年)としての刊行で、単独巻ではなかった。またその後も個人全集も出されていないし、蛯原が書いているように、明治後半が小説家としての絶頂期で、昭和九年頃には「時代と共に書き、時代と共に葬られた」作家となっていたのである。
f:id:OdaMitsuo:20200905113815j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20200905130353j:plain:h120

 そこで蛯原は明治の新聞小説研究者だったにもかかわらず、弦斎の小説をほとんど読んでいなかったことに気づき、まず先の円本全集の二冊を読むことから始めた。「弦斎の小説など、芸術としては或は一顧に値せぬもの」かもしれないが、「当時の大衆の動向や教養等を知る為には、それを措いては他に何もない」からだ。ここに早くも近代読者の意味が問われ始めたことになる。そして彼は書きつけている。「此小論が、後日の研究家に対して、何等かの意味で暗示するところが多少ともあれば幸い」だと。

 だが先の二冊に収録された作品は蛯原を満足させるものではなく、「此程度の作家に過去の大衆はどうしてあゝも熱狂したのであらう」という感慨をもたらすだけだった。この感慨は弦斎の作品に対してだけのものではなく、『現代日本文学全集』『明治大正文学全集』双方の多くの作家や作品にも生じていたであろうし、近代日本の最初の円本全集にも必然的にまつわりついたものだとわかる。

 考えてみれば、明治大正の六十年間はすべてを含めて、それまで経験したことのない新旧の交代のめまぐるしい反復であり、それは近代の宿命ともいうべきで、文学も例外ではなかったのである。昭和円本時代こそは円本全集群を通じて、それらがトータルに露出した時代だったともいえるかもしれない。

 結局のところ、蛯原は弦斎の代表作『小猫』『日の出島』『食道楽』を読んでいなかったことから、まずは『小猫』を読み、書いている。

 『小猫』(二十四年)は思ひの外面白かつた。一少年が世に名を成すまでの多彩な経歴を、極めて小説的に扱つたものであるが、何しろ新聞小説の定石通りにすらゝゝと筋が運んであつて、隙といふものが殆どなく、茲に於て私は弦斎の本領を見たやうな気がした。もちろん深いものではないが、新聞小説としては、恐らく上乗の作であろう。或は他の諸作が好評を博し得たのは此作の成功の惰性が預かつて力あつたものかも知れないともおもつた。

 『小猫』は明治二十四年に『郵便報知新聞』に連載され、先の『歴史・家庭小説集』の「年譜」の同年には「『小猫』を出す。文名漸く高し」とある。単行本化は三十年で、春陽堂から上下二冊で刊行されているが、これも未見で、私が読んだのは、やはり『近代出版史探索Ⅱ』277、278でふれている中央公論社の円本『日本近世大悲劇名作全集』第四巻の『小猫』である。
近代出版史探索Ⅱ

 「秋とはいへ、風穏に天朗なる小春日の好日和、海は一面に凪ぎ渡り、名にし負ふたる鏡が浦、実に千尋の鏡を敷ける如し」と始まる『小猫』は、本連載1067、1068の明治十年代の『高橋阿伝夜刃譚』『鳥追阿松海上信話』などの新聞小説の文法や形式が変わってしまっていたことを告げている。それは蛯原の先のいう明治二十年頃からの近代ジャーナリズムと弦斎の台頭を肯うに足るし、短かったにしも、弦斎の時代もあったことを伝えてくれる。
高橋阿伝夜刃譚 高橋阿伝夜刃譚

 また蛯原も黒岩も『日本近世大悲劇名作全集』に言及し、前者は「悲劇」というよりも「喜劇」、後者は「家庭小説」とよんでいるのだが、私はこれを『日本家庭小説全集』と言い換えていることを付記しておこう。


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古本夜話1086 改造社『明治開化期文学集』と成島柳北『柳橋新誌』

 本探索1067や1068で、筑摩書房の『明治開化期文学集(一)』、角川書店の『明治開花期文学集』を参照してきたが、これらのタイトルとコンテンツのいずれもが、改造社の『明治開化期文学集』(『現代日本文学全集』1)を範としていることは明白である。

f:id:OdaMitsuo:20200909113403j:plain:h120(筑摩書房版)f:id:OdaMitsuo:20200909114150j:plain:h120(角川書店版)f:id:OdaMitsuo:20200909112902j:plain:h120(改造社版)

 これらに収録された作品の書肆による生産は木版技術の和本、流通販売は絵草紙店、貸本屋なども含んだ近世出版システムに基づくもので、それが江戸からつながる明治開花期の文学の特質であった。具体的にこれらの作品がどのようなものだったかを、改造社の『明治開化期文学集』を例として見てみよう。まずはそれらを収録順ではなく、年代順に出版社も含めて挙げている。

 なお番号は便宜的に振ったものである。著者名は訳者も兼ね、版元名は『明治開化期文学集(二)』(筑摩書房)所収の興津要「明治開花期文学年表」などを参照し、年度は初編、上編、第一冊刊行年とする。

1 加藤弘之 『真政大意』  谷山樓  明治三年
2 中村正直 『西国立志編』  木平謙一郎  明治四年
3 仮名垣魯文 『安愚楽鍋』  誠之堂    明治四年
4 福沢諭吉  『かたわ娘』  慶應義塾   明治五年
5 服部誠一  『東京新繁昌記』 山城屋  明治七年
6 成島柳北  『柳橋新誌』  山城屋    明治七年
7 川島忠之助 『八十日間世界一周』 丸屋善七 明治十一年
8 馬場辰猪  『天賦人権論』  馬場辰猪  明治十五年
9 東海散士  『佳人之奇遇』  博文堂、 明治十八年
10 末広鉄腸  『雪中梅』 博文堂  明治十九年
11 須藤南翠  『緑蓑談』 改進堂  明治二十一年
12 饗庭篁村  『むら竹』  春陽堂  明治二十二年

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 明治三年から二十二年にかけての十二作が「開花期文学」として収録されているわけだが、12の春陽堂はこれらの版元の中で唯一の近代出版社として成長し、やはり円本時代に『明治大正文学全集』を刊行に至る。そしてこちらの「開花期文学」としてはその1の『東海散士・矢野龍渓篇』、2の『末広鉄腸・丹羽純一郎・成島柳北・仮名垣魯文・饗庭篁村・幸堂得知篇』の二巻が該当するだろう。
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 9の博文堂の『雪中梅』に関しては、日本近代文学館の復刻を参照し、かつて拙著『出版社と書店はいかにして消えていくか』の中で、それが9の『佳人之奇遇』と異なる洋本であり、巻末の「各府県下売捌書肆」リストを示し、書店を中心とする近代出版流通システムに移行しつつあることを示唆しておいた。それらのリストの書肆として、本探索1067の辻文の名前もあった。
出版社と書店はいかにして消えていくか

 しかし博文堂にしても春陽堂と同じような方向性をめざしたと思われるが、明治二十年代に入るとその名前は見られなくなり、その代わりのように、一字ちがいであるのだが、近代出版界の雄としての博文館が台頭し、出版社・取次・書店という近代出版流通システムが成長し、そこで新旧、近世と近代の出版社の交代が起きていったのである。

 それは5の|『東京新繁昌記』と6の『柳橋新誌』の山城屋も博文堂と同じく、明治後半には出版界から退場したように思われる。山城屋は江戸書物問屋の系譜を引く山城屋政吉によって営まれていた書肆で、成島柳北の『柳橋新誌』の初編と二編の版元である。柳北とそのパリのパサージュ体験は『近代出版史探索Ⅳ』623で言及しているが、帰国後の明治七年にそれらを出版している。

 幸いなことにこの二冊はやはり日本近代文学館による復刻が手元にあり、いずれも同じ黄表紙本仕立てで、京橋銀座三丁目の山城屋政吉が奎章閣を名乗り、刊行したものである。初編は安政六年のものゆえ、明治四年の成稿第二編が『明治開花期文学集』に収録されたのである。それは本扉と「本題詞」の転載からもわかるけれど、「本題詞」も「序」も漢文で、同じく本文も漢文随筆のよる柳橋の風俗誌で、とても歯が立たない。ただ『明治開化期文学集』は読み下し文の収録なので、その最初の部分を引用し、柳北の漢文を想像してもらうしかない。「序」において、「無用之人」が「無用之書」を著したとも記す、柳北の旧幕臣の心情をも。それはすでに昭和初期においても、そのまま漢文を読むリテラシーは後退していたことを示していよう。
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 余曾て柳橋新誌を著す。今を距る既に十有二年。当時自ら以為らく、善く其の新を記せりと、而して読む者亦或は其の新を喜ぶ為。爾来、世移り物換り、柳橋の遊趣一変して新誌も亦既に腐す矣。徳川氏西遷の後、東京府内朱門粉壁変じて桑茶の園と為る者鮮からず、而して柳橋の妓輩依然として其の業を失はず、管弦を操つて風流場中に馳逐す。諸を幕吏の兎脱鼠伏して生を偸む者に比ぶれば、豈優らず哉。蓋し王政一新して柳橋亦一新す。而して未だ好事の者其の新を起する有らず。聞く傾日我が柳橋新誌を偸み刻する者有り、而して風流子弟多く買ひて之を読むと。余此の維新の日に方つて、彼の既腐の書を読むを慨く。柳橋新誌二編を作る。

 なお柳北も『柳橋新誌』の初編の「序」で断わっているように、江戸後期の文人寺門静軒の『江戸繁昌記』の影響下に書かれたもので、それは5の|『東京新繁昌記』も同様である。これらに続いて明治十年に『江戸繁昌記』も山城屋から『繁盛後記』として前後篇が一括刊行された。私も平凡社東洋文庫版を参照して私訳し、「『江戸繁昌記』のなかの書店」(『書店の近代』)を書いているので、読んで頂ければ幸いである。

江戸繁昌記  書店の近代

 また『柳橋新誌』初編は前田愛による読み下しと注釈により、角川書店の『明治開花期文学集』のほうに収録されていることも付記しておこう。

 それからこれは最後になってしまったけれど、明治前半の近世出版システム下における版元と著者の著作権の問題にもふれておくべきだろう。端的にいって、この時代にはまだ印税制度は導入されておらず、原稿は買切であった。『明治開化期文学集』の刊行は昭和六年だから、先述したように収録作品の出版は五、六十年前になる。それならば著作権の問題はどのように処理されたのか。

 それは奥付の検印紙に山本の印が打たれていることから考えると、ここに収録された十二編は編纂者となっている山本三生、発行者の山本美、もしくは改造社との山本実彦が版元、あるいは著者の遺族に対して著作権料を払い、その出版権を得たことを告げている。本探索1063の『現代日本文学大年表』でも山本の検印を見たばかりだが、『現代日本文学全集』の著作権や印税処理も各巻によって様々に異なっていたと推測される。

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古本夜話1085 三角寛『縛られた女たち』

 少し飛んでしまったが、本探索1067で、仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』、同1068で久保田彦作『鳥追阿松海上新話』といった所謂「毒婦物」に続けてふれたのは、最近になって三角寛の『縛られた女たち』を偶然に入手したこと、また三角のサンカ小説にしても、江戸時代からの「毒婦物」の系譜上に成立したのではないかと思ったからである。

高橋阿伝夜刃譚(『高橋阿伝夜刃譚』) 鳥追阿松海上新話(『鳥追阿松海上新話』国文学研究資料館、リプリント版)

 同書は大日本雄弁会講談社(以下講談社)が昭和十四年八月初版、十五年十月十一版として刊行したもので、発行者は高木義賢となっている。ちなみに高木の妻は野間清治夫人左衛の妹で、彼は講談社の経理担当版だったが、昭和十三年に野間とその息子の恒が続けて亡くなり、左衛が三代目社長に就任したために、発行者にすえられたのであろう。

 それはひとまずおいて、三角の『縛られた女たち』の巻末広告には『山窩血笑記』や『裾野の山窩』も見えているが、同書は「国境の女」「笛吹殺人鬼」「蠍のお美智」「牧師の娘」「尼僧と幽霊」「嬰児を盗んだ女」の六編からなる中短編集であり、『近代出版史探索Ⅴ』979などのサンカ小説集ではない。「序」にあたる三角の「『縛られた女たち』に就いて」によれば、これらは講談社の『講談倶楽部』や『富士』(大正五年創刊、『面白倶楽部』を昭和三年に改題)などに掲載された作品で、塩澤実信『倶楽部雑誌探究』(「出版人に聞く」13)で語られている「倶楽部雑誌」から生み出された作品群となる。三角はサンカ小説を送り出す一方で、このような「昭和毒婦伝」の系列に属する作品も書き続けていたのである。

f:id:OdaMitsuo:20191203140826j:plain:h115(『山窩血笑記』)倶楽部雑誌探究

 また三角はそこで、「過去十年ばかりの間に、私はざっと三千件に近い犯罪を見たり聞いたりしてきた」し、「由来、犯罪の陰には女あり、と云はれてゐる。正しくそのとほりだ。男の犯罪の裏には必ず女があり、女の犯罪の裏には必ず男がある」と述べている。実際に『縛られた女たち』はそれぞれの刑事たちが物語る「犯罪の陰には女あり」という実話物語に他ならないだろう。

 それは冒頭の中編「国境の女」に集約造型されていよう。この中編は三角のサンカ小説が昭和四年の本探索1007などの「説教強盗」に端を発していたように、その最中に起こった事件とされる。そこには欧州大戦=第一次世界大戦と日本軍による青島攻略、及びシベリア出兵も絡んで、タイトルにある「国境の女」の個人史が語られていく。だがそれは物語形式からいえば、刑事によるナラティヴだが、作者と女を重ねると、まさに三角的バイアスを有する「実話読物」となろう。

 その発端は「説教強盗」のための非常警戒で、二人の刑事が練馬方面で張り込み中に起きた。その際に刑事は最近建てられてばかりのロシア式洋館に住む歌川春枝という女がピストルを持っているという話を聞かされる。その家には「ルパシカとか云ふ、社会主義者の着るみたいな、変な着物を着た男だの、支那服を着た女などが、しよつちゆう出たり這入つたりし」ていて、「共産党ぢやありません?」。刑事もいう。「説教強盗も大切だが、共産党は伝染病より危険率が高いからなあ」と。また共産党員が「赤痢病者」のメタファーで語られてもいる。

 そして刑事たちの内偵によって、春枝が共産党員ならぬ「阿片密輸の首魁」だと判明する。その内縁の夫の柴田は通称「シベリヤ勇」と呼ばれている正体の怪しい人物で、早くからウラジオストックに渡り、木材や漁業などのブローカー会社に勤めた後、北支に向かい、北京や天津を浮浪しているうちに密輸を覚え、同じくウラジオストックに密航してきた春枝と内縁関係を結び、内地に戻り、阿片の密輸をしていたのである。

 二人の刑事は検挙するために、そのロシア式洋館に踏みこみ、「桃色地に、白牡丹を大きく浮かしたナイトシヤート(ママ)一枚」の春枝の部屋に入る。

 その部屋は十畳ばかりの洋間で、ベッドは大型のダブルベッド。贅沢な、色彩のあでやかな布団がふんはりとかゝつてゐました。
 その他の部屋の模様は、北側にロシア式の薪を焚く大型ストーブがあつて、火があかゝゝと燃え、その上の棚にはロシアの酒や支那の酒が十四五程並べてあつて、銀装のコツプなど按排よく並んでゐました。

 ところがそのベッドの下は秘密の地下室となっていて、刑事と春枝たちはそこに転落してしまう。謎の地下室にはシベリヤ勇や「チヤンコロ」=支那人の用心棒も潜んでいたのである。それでも刑事たちは阿片中毒の春枝たちの引致と阿片などの押収に成功し、留置場送りにしたのである。

 すると阿片の切れた春枝は狂乱し、「阿片を持つて来い」と騒ぎ、禁断症状の中で「国境戻りの春枝を知らないのかア」、「シベリヤの雪の中を、白い馬に乗つて、コサツクの騎兵を追つかけた春枝を知らないか」と叫び続けたのである。仕方なく、刑事たちは彼女に阿片を吸わせ、陶然となったところに署長が現われて言う。「×××租界のお有名な阿片窟で、博奕はやるし、裸踊りはやるし、そこにゐる女は各国の女たちだ。こゝに一度足を踏み込んだが最後、もう駄目だ。この女もそこにゐたらしい。よく調べて見給へ」と。

 それを聞いて、春枝は最初のウラジオストック行きから上海の「地獄と天国をチャンポンにしたところ」に至る自らの話を語り始める。それはこの「国境の女」の後半の物語として展開されていくのである。まさに「国境の女」を始めとして、ひとりの「毒婦」の「実話読物」のように。

 これらの全六編は刑事が語る話を著者が聞く形式によって構成され、その結果、警察と新聞ジャーナリズムがコラボするかたちで、昭和初期の時代表象が造型され、監視システムも張り巡らされていたことを垣間見せている。

 それはまず「説教強盗」、続いて「共産党」、それから建築様式や服装に見えるロシアや支那といったコード、それに「国境」を越える女が加わり、上海の阿片窟、阿片密輸という犯罪へとリンクしていく。ここにサンカたちを召喚すれば、ただちにサンカ小説が誕生するだろうし、そのようにして三角はサンカ小説家となったのであろう。しかしその根源にあるのは江戸時代からの「毒婦」物語の継承者としてで、その「毒婦」として、サンカの女たちも造型したことに尽きるように思われる。

 なお「国境の女」は「阿片窟の女」(『昭和妖婦伝』所収、新潮社、昭和七年)の再話と見なしていいし、これも同じ木村刑事の語るものである。同書は同じタイトルで、現代書館の『昭和妖婦伝』第九巻に収録されている。
昭和妖婦伝


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古本夜話1084 『秋田風俗問状答』とネフスキー『月と不死』

 もう一編、中山太郎編著『校註諸国風俗問状答』に関連して書いておきたい。それは中山がその序文にあたるものとして、冒頭に「本書を先づ異郷の学友/ニコライ・ネフスキー氏に御目にかけ候」という一文を掲げているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20201015152641j:plain:h115(『校註諸国風俗問状答』)

 そこで中山はネフスキーとの出会いを述べているので、それを要約してみる。大正四年の春、親しい本郷春木町の吉川古書籍店に出かけると、ロシアの留学生の若い二人連れがよく店に来て、日本の歴史と風俗に精しい人と交際したいという話が出る。それを聞いて中山が外国語を話せないからダメだと応じた。ところが二人とも日本語が上手で、どんな入り組んだ話もできるらしかった。それがきっかけとなって、中山が本郷駒込林町の寄宿先を訪ねた。そこにはネフスキーとコンラツトが生活していて、ネフスキーはロシアの東洋語学校で、日本語と支那語を修め、卒論は「李大白の人生観」だと話した。その時ネフスキーとコンラツトは日本の漢学の先生から荘子の講義を聴いていたのである。
 
 後述するネフスキーの岡正雄編『月と不死』(平凡社東洋文庫)の口絵写真に「高橋天民氏に漢学を学ぶネフスキー、コンラド」の収録がある。ちなみにコンラドはネフスキーとペテルブルグ大学の同窓で、後に東洋学者としてモスクワ大学教授となっている。

月と不死

 このようにして中山とネフスキーは親しく交際し、茨城の村落へと古い風俗習慣の探索に出かけたりもした。そうしているうちに、ロシア革命が起き、仕送りも途絶えてしまったが、ネフスキーは小樽高商、大阪外語学校講師の職を得て、アイヌ語、琉球語、台湾語を研究し、琉球や台湾にも渡航した。その後昭和四年に帰国したが、それから十年も音信不通で、その間のソ連事情からすると、健在か否かも判然としない。そこで『校註諸国風俗問状答』をネフスキーに捧げ、送るつもりだが、はたして読んでもらえるかどうか心許ない次第だと。だが中山は「風俗問状答に関する限り、私には忘られぬ憶い出」があるとし、「解題」のところで、そのことに言及しているので、ここに引いてみる。

 大正四年の春三月に、ロシヤから我国に留学したニコライ・ネフスキー氏に、私は不図した事から知り合ひとなり、殆んど十日をき廿日をきに面談し厚誼を結ぶうち、私から当時、貴族院書記官長の柳田国男先生に御紹介申上げ、次で金田一京助氏に、折口信夫氏を始め、故山中共古翁、故佐々木喜善氏などにも紹介し、ネ氏は是等の先哲や益友により、我国の言語や民俗を研究し見聞を広めた。(中略)
 斯くて大正六年の春と記憶して居るが、或日、ネ氏は一冊のノートブックを私に示し、これは柳田先生から借覧した「秋田風俗問状答」を自分で克明に謄写したものであると語られた。これぞ私が始めて問状答なるものゝ存在を知り、且つ此の書の民俗学的価値の多大なることを併せ知つたのである。(後略)

 ここで、『秋田風俗問状答』を通じて、柳田、ネフスキー、中山がつながり、中山をして編著『校註諸国風俗問状答』の出版に至るのであり、確かにそれまでに二十五年を要したことになる。

 そのかたわらにネフスキーの『月と不死』、及び加藤九祚による評伝『天の蛇』(河出書房新社)を置けば、ネフスキーの日本における民俗、民族学研究とその生涯を浮かび上がらせることができよう。また本探索に引きつければ、「月と不死」などの論稿は『近代出版史探索Ⅴ』935の『民族』に発表され、同誌の編集者は同936の岡正雄で、『月と不死』の編者でもある。それに『近代出版史探索Ⅲ』422の『東海道中膝栗毛輪講』にネフスキーが参加していたのは、同411の山中共古の誘いによるのだろう。それらの他にもネフスキーは柳田、折口、中山による『播磨風土記』や『続日本紀』の輪講にも出ていたようだ。

天の蛇 近代出版史探索Ⅲ

 それらをトータルして考えると、ネフスキーは日本民俗学、民族学の誕生しつつある磁場の只中に、まさしく岡正雄のいうところの「異人」として加わっていたことになろう。そうしていち早く『秋田風俗問状答』に注視を向け、中山へとの伝承の役割を果たしたといえるし、それが『校註諸国風俗問状答』に結実するに至ったのである。そうした意味において、『秋田風俗問状答』は「異人」によってあらためて発見された民俗誌といっていいかもしれない。

 『校註諸国風俗問状答』の口絵写真には十枚の『秋田風俗問状答』の挿画が掲載され、その「道祖神祭」「歳の神祭」「歳の神祭の船」「七夕竿燈」、そこに描かれた座頭、万歳などの姿は印象的で、『秋田風俗問状答』と照応させると興味はさらに募るばかりだ。おそらくネフスキーや中山にしても、それらに導かれるようにして、『秋田風俗問状答』の世界へと引きこまれていったのであろう。

 なお平成二十八年になって、『秋田風俗問状答』は金森正也による影印版、翻刻、現代語訳が無明舎から刊行されている。

秋田風俗問状答(無明舎版)


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