出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1107『古事類苑』の流通と販売

 近代の先駆的公共出版にして古典籍刊行の試みともいうべき『古事類苑』のタイトルをずっと挙げてきたけれど、実は端本すらも所持していない。それもあって『古事類苑』を取り上げることはためらっていた。しかし私の利用している公共図書館には「赤松則良文庫」が設けられ、その文庫には明治末期の吉川弘文館、明治書院を発売所とする、四六倍判、洋本全五十一巻が含まれ、手にとって見ている。

 それに加えて、熊田淳美の『三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史』(勉誠出版、平成二十一年)の中に、『古事類苑』の昭和二年の『東京朝日新聞』広告を見出したのである。それは発行所が京都の表現社内古事類苑刊行会、発売所が吉川弘文館、取次が六合館と国際美術社で、この流通販売は本探索1075の『日本随筆大成』第一期、同1077の『言海』とすべてではないが共通している。その広告には予約会員費として一時払い五百二十円、月払い十七円が謳われているが、この昭和初期の『古事類苑』も円本時代の産物と見なしていいだろう。

三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史

 そうしたふたつの事柄もあり、『古事類苑』は入手していないのだが、ここで書いておきたい。その前に熊田の著書や杉村武「文部省出版事業」(『近代日本大出版事業史』所収、出版ニュース社)を参照し、『古事類苑』の簡略なコンセプトと出版経緯、流通販売事情を示しておこう。『古事類苑』の出版企画は明治十二年に文部省大書記官にして明六社の西村茂樹によって提出された。それは日本最大の百科事典を想定したもので、歴史、制度文物の変遷、自然及び社会万般の事物に関して、天・歳時・地・神祇・帝王・官位・政治・法律・文学・礼式など三十部門に分類し、『六国史』を始めとする基本的文献から、各項の起源、内容、変遷に関する資料を原文のまま収録するという建議書だった。これらの分類は必然的に前回の『和漢三才図会』などを折衷している。

 そして西村の企画に一貫して寄り添ったのは国学者の佐藤誠実で、明治二十九年から四十年の全巻終了までの編纂の中心となった。そのプロセスを簡略に示せば、明治二十九年の第一冊の『帝王部』刊行から大正三年『索引』による完結まで、実に企画以来三十五年を要したことになる。それもあって、『古事類苑』全巻の編纂史は第一期の明治十二年から二十三年の文部省編輯局時代、後の二期はいずれも文部省委嘱となっているが、第二期は二十三年から二十八年での皇典講究所(国学院)時代、第三期は二十八年から大正三年での神宮司庁時代に分けられる。またそれらの財政問題は熊田の「『古事類苑』をめぐる政策と経済」(前掲書所収)に詳しい。

 そうした長きにわたる編纂過程で、多くの人々が参画したけれど、先の編修長佐藤誠実は完結を見届けたものの、「本書ノ創業以来、与リテ、大ニ功アリシ前文部大書記官西村茂樹、編修総裁川田剛、編修委員長小中村清矩ノ諸氏、皆既ニ不帰ノ客トナリテ」(「古事類苑編纂来歴」)しまったのである。

 それらはともかく、ここで言及したいのは先述した『古事類苑』の流通と販売に関してである。明治二十九年からの『古事類苑』出版は前年に神宮司庁が編纂を引き受けたことで、必然的に同編纂所が版元の役割も兼ねたと考えられる。そして編纂終了後の四十年に編纂事務所を閉鎖し、同所に古事類苑出版事務所を開いて発行所、三十五年から四十一年までは発売所を吉川弘文館と明治書院が担った。それは「赤松良松文庫」で確認しているけれど、四十二年から大正二年の完結までは東京築地活版製造所が印刷だけでなく、発売所も兼ねたようだ。

 しかしその全容が把握できないのは昭和二年の円本時代の『古事類苑』で、これが「神宮司庁版」とあり、それが初版の復刻を意味しているのは明白だが、前述したように発行所は京都の古事類苑刊行会、それも表現社内に置かれている。『全集叢書総覧新訂版』に昭和二年版『古事類苑』の発行所が表現社とあるのはそのことをさしている。熊田によれば、表現社の代表者は後藤亮一で、彼は京都帝大哲学科出身の僧侶であり、雑誌『表現』を主宰し、後の昭和五年からは立憲民政党所属の代議士を二期務めているという。

全集叢書総覧新訂版

 後藤がどのような経緯で神宮司庁から販売を委託されたのか不明だが、拙著「高楠順次郎の出版事業」(『古本屋散策』所収)で述べておいたように、大正から昭和にかけては仏教書ルネサンス的出版状況にあり、高楠は僧侶ではなかったけれど、西本願寺普通教校の出身で、後藤もそうした出版ムーブメントの影響を受けたのではないだろうか。まさに昭和円本時代の只中で、再版とはいえ、日本で最大の百科事典の出版者となることは後藤の本望であったのかもしれない。おそらく金主もセットで用意されていたはずだ。だが大量生産、大量消費の円本時代における予約会員費十七円は成功するはずもなかったというべきだろう。

古本屋散策

 それを証明するのは昭和六年から刊行され始めた普及版の第三版『古事類苑』で、初版、再版の四六倍判に対し、菊判、巻数は五十巻から六十巻、予約会員は一時払いが三百円、一冊は六円であった。しかも発行所は古事類苑刊行会だが、発売所は東京小石川の内外書籍株式会社で、その代表者の川俣馨一が後藤と並んで発行者とされている。川俣と内外書籍には『近代出版史探索Ⅱ』262で、その後日談も含めてふれているように、外交販売を手がけていたのである。外交販売とは拙稿「中塚栄次郎と国民図書株式会社」(『古本探究Ⅱ』所収)で言及しているように、有力な名簿を手に入れ、内容見本を直送したり、あるいは学校や会社などへのバックマージンつきの組織販売をさす。それに仲間取次を利用する。これは読者からの注文に応じるために、取次に注文口座を設ければ、買切扱いで書店を通じて読者に届くことになる。

近代出版史探索Ⅱ 古本探究2

 だが内外書籍の普及版『古事類苑』の外交販売の試みも、昭和における百科事典としての魅力の欠如や専門性、それに高定価も相乗し、またしても失敗に終わったと推測される。そして内外書籍は行き詰まり、八木書店が『古事類苑』などの在庫を安く引き取り、古本屋へと卸し、質の高い特価本リバリューを伴うリサイクル市場が形成されていくのである。

 なお最後になってしまったが、赤松の娘は森鷗外の最初の妻で、息子の範一は『近代出版史探索Ⅲ』423などの集古会の会員であった。

近代出版史探索Ⅲ

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古本夜話1106 吉川弘文館と『和漢三才図会』

 本探索1075の『日本随筆大成』別巻の『和漢三才図会』は入手していないと記しておいたが、その後やはり浜松の時代舎で明治時代に刊行された一巻本を見出し、買い求めてきたので書いておこう。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 現在であれば、『和漢三才図会』は平凡社の東洋文庫版で読むことができるけれど、現物を目にしたことにより、明治末期になってようやくポータブルな一巻本が出版されたとわかる。それでもまずは『世界名著大事典』の立項を挙げておく。

和漢三才図会 世界名著大事典  

 和漢三才図会(105巻81冊、1713)寺島良安編著。編著者は大阪の医師。《倭漢三才図会》《倭漢三才図会略》と、とびら、序文に見える。中国明の王圻の《三才図会》(106巻)にならって作製された図入り百科事典。1712年(正徳2)の自序に、天文、地理、人事をともに明らかにしてこそ医を語るべきという和気仲安の言に刺激され、和漢の読書を博捜し、伝説、口碑をたずねること30余年、各項目の要領を記述し、形あるものは画にしたが、必ずしもすべてを描くことはできなかったので《三才図会略》と名づけたという。林信篤の序(正徳3年3月下旬)、和気伯雄の序(同年4月下旬)、清原宣通の後序(同年10月中旬)などがある。内容は天部、天文、人倫、官位、支体、異国人物、楽器、兵器、衣服、農具、獣類、介甲、有鱗魚、山類、水類、火類、金類、中国諸地方、日本諸国、香木類、喬木類、五果類、山草類、穀類、造醸など96項に分けて、各項目ごとに挿画を入れ、その文字、和名、中国音、異名を記し、諸書から引いた解説を付す。最初のわが国における図入り百科事典として有名。なお、経路部に「すい臓」が見えてないのは、中国医書によっているからであり、それが《解体新書》に「大機里爾(コロート・キリール)」として紹介されるまで、存在は知られていなかったからである。1906年に縮刷活版本が出版(吉川弘文館)され、《日本随筆大成》(吉川弘文館)に別巻として刊行(2冊)されている。

 まさに入手したのは1906年=明治三十九年の活版縮刷本で、函入革装、菊半截判千五百ページ、厚さは六センチに及び、正価は二円である。函はともかく本体の保存状態はきわめてよく、手にしてみても、一世紀以上前の「図入り百科事典」には見えないほどだ。そのために古書価の一万円は高くないと思われた。

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 それにしてもあらためて驚くのは、本探索1077の『言海』のところでふれておいたように、活版印刷の技術革新と進化である。これも同1086で見てきているが、明治十年代まではまだ近世からの木版印刷の和本の時代が続いていたことを考えると、そうした近代出版の技術革新と進化という事実とパラレルに近代出版業界が誕生し、成長していったと再認識するのである。それは公共出版とも称すべき『古事類苑』などの古典籍の印刷製本を通じて開発され、進化していった活版技術、それから同じく辞書を対象とする大冊の大量出版と重版によるコストダウンが廉価販売をも可能にさせていった。そうした大正時代におけるそれぞれの刊行会の予約出版全集類へと結びつき、さらに大量生産の昭和円本時代を出現させることになったのである。

 『和漢三才図会』を繰っていると、そのような近世から近代にかけての出版様式、技術、形態などの推移が想起されるし、南方熊楠が少年時代にこの一冊を五年がかりで筆写したという、よく知られたエピソードをも思い浮かべてしまう。紀田順一郎の『日本博覧人物史』(ジャストシステム)にその写本が見られる。ただ書庫に備えていたのは明治十七年の菊判三冊本のようだが、書庫の写真からは突き止められない。また柳田国男にしても座右の書であったことは疑い得ない。二人とも最初の出会いはどの版であったか、わからないけれど、吉川弘文館の縮刷版の刊行以後は民俗学、博物関係者にとって、必備の一冊だったにちがいない。

日本博覧人物史
 縮刷版『和漢三才図会』の巻末にこの元版の表記があるので、以下に示してみる。

  大坂高津宮北 杏林堂
  蔵版全部 百五巻
       大坂心斎橋筋淡路町
  彫刻  嶝口太兵衛尉定次

 残念ながら、『日本出版百年史年表』所収の明治七年における「大阪府管下書林」の中に、杏林堂も嶝口の名前も見当らない。寺島良安の「絵入り百科事典」の試みも壮大な企画だったにちがいないけれど、それを刊行した杏林堂にとっても、比類なき出版プロジェクトであったはずだ。

 奥付の検印のところを見てみると、そこには合資会社吉川弘文館の代表者である吉川半七の印が押されている。著者は故寺嶋良安とあることからすれば、吉川が寺嶋の遺族、もしくは杏林堂関係者から『和漢三才図会』の版権譲渡を受け、出版に至ったとも推測されるが、それらの詳細は定かではない。 
 

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古本夜話1105 郁文舎と内藤耻叟、三輪文次郎『一覧博識漢学速成』

 前々回、『古事類苑』に端を発して、古典籍などに関する出版人脈が形成されていったのではないかと述べたが、流通や販売のみならず、それは印刷業界の人々も含んでだったと推測される。そのことを立証する一冊を入手したので、やはりここで書いておきたい。

 本探索1075の『日本随筆大成』第二期の発行者兼印刷者が桜井庄吉で、同1076の『日本図会全集』の編輯兼発行者も同様であることを既述しておいた。この他ならぬ桜井が昭和円本時代以前は印刷者だったことを示す一冊を、浜松の典昭堂で見つけたのである。それは『一覧博識漢学速成』、発行所は郁文舎、発行者は名古屋中区の三輪文次郎、印刷者は京橋区柳町の桜井庄吉、郁文舎と桜井の住所は同じなので、ここでも櫻井は出版者と印刷者を兼ねていたことになる。ただ同書は明治二十六年初版発行、同四十三年第十八版ゆえに、初版から郁文舎が版元だとは考えられない。しかし奥付の「版権所収」は三輪の押印があることからすれば、桜井の立場は版元ではなく、引刷と発売所を引き受けたと考えるべきであろう。

(『日本随筆大成』)

 これはまさに漢文の学参と称すべきもので、四六判上製の背表紙にタイトルが見えるだけだが、本扉には内藤耻叟、三輪文次郎合著、上篇「経史諸子要旨」、下篇「古事要語詳解」とある。本扉を繰ると、内藤の漢文による二ページの「漢学速成序」が寄せられている。それを読むと、「尾張静観堂主人」が「古事要語詳解」を編み、刊行するので、自分の「嘗著経史諸子要旨」との合著にしたいとのこと、そこでタイトルは『漢学速成』とした旨が語られている。それは明治二十六年五月付なので、初版の際に書かれたとわかるし、「尾張静観堂主人」とは三輪文次郎自身だと確認できる。

 その「序」にあるように、上篇の一三三ページが内藤、下篇八三四ページが三輪によるもので、いってみれば、地方の漢文研究者が内藤との合著によるお墨付きを得るようなかたちで上梓した学参と見なせよう。しかし二十年近く版を重ねてきた事実を考えると、明治後半も漢文の時代は続いてきたことを示唆している。内藤のプロフィルは『明治維新人名辞典』は長いので、神谷敏夫『最新日本著作者辞典』から引いてみる。

 内藤耻叟 ないとうちそう
 明治時代に出た史学者である。初の名を正直といひ、碧海と号した。水戸藩士で、弘道館に入り、藤田東湖・会沢正志斎に学び、後幕府に召され勤王の志士武田耕運斎を那珂湊に討つた。弘道館教授となつたが、藩老と議論合はず罪を得て東北に潜伏したこともある。明治十一年東京小石川区長となり、後文科大学教授となつた。其の間、皇典講究所・斯文学界等の講師をも勤めた。殊に江戸幕府の事情に詳しかつたので重望があつた。正六位に陞り、明治三十五年六月(二五六二・一九〇二)七十七歳で没した。著書に安政紀事・徳川十五代史・徳川制度・徳川氏施設大意・徳川代貨幣制度・江戸文学志等がある。

 本探索1092の戸川残花と「幕末維新史料叢書」のところで、この「叢書」に内藤の『安政紀事』』が含まれていることを記したばかりだ。このような内容と内藤のプロフィルからすれば、彼は残花ばかりか、その他の「叢書」の著者たちとも、明治を迎え、同じく旧幕臣として交流があったはずだ。それだけでなく、ここに挙げられた内藤の徳川時代に関する著作リストや教授、講師歴から考えると、『古事類苑』から始まる古典籍出版の近傍にいたはずで、実際に『古事類苑』では監修者の立場にあった。

 そのようにして、三輪=「尾張静観堂主人」とも知り合い、さらには印刷者の桜井とも面識を得ていたように思われる。それは桜井の郁文舎という版元名からもうかがわれるからだ。「郁文」とは『論語』の「郁郁乎文哉」から取られたもので、「文物が盛んなこと」を意味している。郁文舎は尾張ではなく、その住所を東京市京橋区に置いているわけだから、三輪というよりも内藤の命名と考えたほうが妥当であろう。

 明治二十六年の初版は郁文舎ではないと思われるが、版を重ねていく過程で、紙型の売買がなされ、印刷者だった桜井がそれを入手し、郁文舎として『一覧博識漢学速成』の版元となったと考えられる。あるいはその時期は内藤の死後の明治三十五年以降で、版権が三輪個人のものに帰したことと呼応しているのかもしれない。しかしいずれにしても、同書の出版を機として、櫻井は印刷者でありながら、出版者も兼ねるようになり、昭和円本時代にはいって、本格的に『日本随筆大成』第二期や『日本図会全集』を手がけることになったと推測される。だがその結果がどうなったのかは判明していないので、これからも円本以後の桜井の名前と行方を注視していきたいと思う。


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古本夜話1104 金谷真『川面凡児先生伝』

 ここで間奏的一編を挿入しておこう。
 前回、『神道辞典』から今泉定介(助)の立項を引いたところ、大正十年頃に川面凡児の大寒禊の行事に挺身参加した後、「皇道」の宣布に東奔西走するとの記述が見出された。さらに『同辞典』で川面凡児を繰ってみると、神道に則ったと思われる一ページ半に及ぶ立項もあったので、それを要約してみる。

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 川面は文久二年に大分県の名門に生れ、敬神の家風に育ち、山にこもって不惜身命の修行を経て、神仙の啓導を得る。その一方で漢学に習熟し、二十四歳で上京して新聞記者などを務め、法律、経済、及び禅学や浄土宗といった仏学にも励み、明治三十九年に「全神教趣大日本世界教」を宣布し始める。それは実地体験を通しての「人生宇宙の根本大本体」の究明に基づき、『古事記』を始めとする古典も本質的に了解される。その一環として、「祖神垂示」の禊の行事が用意され、同四十二年から「祾威(ミイツ)会」として海岸に滝水に遂行され、大正五年頃から神職者、及び国学者の今泉定介たちの協賛となり、その神事運動形式は全国的流行ともなるに至ったが、昭和四年に六十八歳で病没とある。

 実は三十年程前に、古書目録によって金谷真『川面凡児先生伝』(祾威会星座連盟、昭和四年初版、同四十四年第九版)を入手している。この著者の金谷は同書において、川面の葬儀の庶務係長として見えているので、川面の秘書的立場であったと推測される。四六判、五八二ページで、彼の没年に出版され、その誕生から死までを詳細にたどり、多くの著作リストや和歌なども収録していることもあって、先の立項はこの伝記を参照しているはずだ。

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 ここに描かれている川面のポルトレは平田篤胤に連なる古神道的宗教家、教育者、ジャーナリスト、出版者としての多彩な軌跡だが、それは大正時代特有のモードを孕んでいるように思われる。そうしたモードは同時代に急成長していた大本教をめぐるトレンドとも共通し、かつての拙稿「浅野和三郎と大本教の出版」(『古本探究Ⅲ』所収)などを想起してしまう。またそれだけでなく、この伝記には、やはり拙稿「心霊研究と出版社」(同前)の千里眼千鶴子、『近代出版史探索Ⅱ』247のスエデンボルグへの言及もあり、さらに『近代出版史探索Ⅳ』652の神智学のオルコット大佐、同689の釈宗演やダルマパーラも登場し、川面と出会い、彼らも同時代人であることを知らしめている。

古本探究3 近代出版史探索Ⅱ 近代出版史探索Ⅳ

 しかしそうした大正時代の宗教的人脈もさることながら、この伝記を貫いているのはその収録写真にも表象されているように、川面の行者としての在り方、及びその実践としての禊、時代を象徴するパフォーマンスとしての禊であろう。そこに『古事類苑』などの古典籍編輯者の今泉が引き寄せられ、それに神職者たちや軍人たちが参集していき、「ついに、その神事の運動形式は全国的な流行ともなるにいたった」と考えられる。

 その川面の十年祭が昭和十四年二月に東京九段下の軍人会館において、朝野の名士二千余名を集めて開催された。そこで今泉は「川面先生を偲ぶ」と題し、「川面先生の偉大なる卓見は、祖神の垂示を体してみそぎの行を実践躬行し、その体得によつて得られるものであると喝破し、これ実に日本における斯道の先覚者や学究の徒の企て及ばざりし造詣にして、世界において最もたふとき偉大なる卓見が蘊蓄されてある」との多大の称賛を尽くしたという。これ川面の「行者」としての禊の「実践躬行」に対する今泉のオマージュということになろう。さらにこの禊にもとづく神社行事は大東亜戦争下において、大政翼賛会を通じて全国の神社へと継承されたとも伝えられている。

 その「行者」で連想されたのは「会葬の諸名士」リストにあった飯野吉三郎で、政治家や国会議員、神社宮司、海軍、陸軍高官に紛れて、「穏田の行者」の姿を見出せる。松本清張の『昭和史発掘』(文藝春秋)において、飯野は『週刊文春』では「政治の妖雲・穏田の行者」として連載されていた。だが藤井康栄『松本清張の残像』(文春新書)によれば、清張の意向で単行本収録は見送られたという。この一作はその後何かに収録され、読んだように記憶しているが、それが思い出せない。そこで、事件・犯罪研究会編『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版)を引いてみると、「飯野吉三郎“黒幕”失墜事件」として立項されていた。それをたどってみる。

昭和史発掘 松本清張の残像 明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典

 飯野は官政財界の黒幕として知られ、宮廷内にも強い影響力を擁していたことから、「和製ラスプーチン」と呼ばれていた。彼は日本精神団という天照大神を祭る国粋宗教団体を組織し、青山の穏田に広大な屋敷を構えていたこともあって、「穏田の行者」と称されていたのである。大正十三年に枢密院議長の清浦奎吾が首相となったが、それを背後で支え、画策したのが飯野に他ならなかった。しかし清浦内閣の評判は悪く、わずか六ヵ月で退陣となった。それに伴い、黒幕の飯野も攻撃にさらされ、同十四年の恐喝暴行事件と下田歌子などとのスキャンダル暴露も重なり、黒幕失墜をもたらすことになったのである。だが昭和四年の川面の死に際し、「会葬の諸名士」として飯野の名前も挙げられていたことからすれば、まだ「黒幕」として延命していたのかもしれない。

 『古事記』『日本書紀』を始めとする古典籍を通じての古神道の発見、それに連なるであろう川面凡児の位相、官政財界の黒幕としての「穏田の行者」飯野の存在を考えてみると、松本清張が晩年になって、『神々の乱心』(文春文庫)へと向かったのは必然的だったと思わざるをえない。大正時代の川面や飯野が体現していた古神道、軍部、宮廷との三位一体の関係は、昭和十年代に入って支那事変も起き、アジア特有のシャーマニズムも巻きこむかたちで、さらに白熱化していったのではないだろうか。私も「松本清張『神々の乱心』と宮中儀式略」(『古本屋散策』所収)でもふれているが、『神々の乱心』が清張の死によって未完に終わったのは本当に残念だというしかない。

神々の乱心 古本屋散策

 なおやはり藤井編『昭和史発掘 特別篇』(文藝春秋)に「穏田行者」は収録されていたことを付記しておく。

昭和史発掘 特別篇


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古本夜話1103 今泉定介と「増訂故実叢書」

前回、国書刊行会は吉川弘文館顧問の今泉定介が市島謙吉と計らって設立し、その第二期以後は早川純三郎が編集長として引き継いだこと、また国書刊行会の第一期事業の成功が大正時代の予約出版の範となり、様々な刊行会や出版社が立ち上げられ、それが昭和円本時代を用意するものだったことを既述しておいた。その格好の例を浜松の時代舎で見つけてきたので紹介しよう。
 それは「増訂故実叢書」の塙検校保己一編『武家名目抄第三』、函入、菊判上製二段組、四三八ページの一冊である。これは明治三十二年に吉川弘文館から刊行された有職故実に関する「故実叢書」十九帙の増訂版で、全四十一巻に及び、私が入手した巻は第十回配本に当たるようだ。奥付は昭和三年十月発行とあるので、円本時代の産物と見なせよう。

 その旧本編輯者は今泉定介、増訂本編輯者は増補故実叢書編輯部代表者早川純三郎とあり、発行所は吉川弘文館と日用書房、発売所は六合館、柳原書店、川瀬書店、国際美術社で、この発行所と発売所の組み合わせは日用書房が発行所に加わっているけれど、本探索1075の『日本随筆大成』と同じである。また増訂監修者も関根正直、和田英松、田辺勝哉のうちの関根と田辺は重なってくる。そして今泉の肩書は神宮斎藤会会長とあるので、かつての吉川弘文館顧問、国書刊行会編輯者から、神道、もしくは神社関連団体の会長にシフトしていることを示唆していよう。そこで編集兼監修者を安津素彦、梅田義彦とする『神道辞典』(堀書店、復刻神社新報社)を引いてみると、その名前が見出されたのである。今泉が後の新潮社の佐藤義亮の『新声』同人だったことは承知していたが、詳細なプロフィルはつかんでいなかったので、とても興味深い。
f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』f:id:OdaMitsuo:20201213212531j:plain:h115

 いまいずみさだすけ 今泉定助(ママ)(一八六三~一九四四・文久三~昭和一九)文久三年二月九日、仙台藩士今泉伝吉第三子として白石に生まる。幼時、同郷(宮城県白石市)の神明社の社家の養子となる。明治十二年(十七才―数え年)上京して、神道事務局学寮国語漢文科に入学、丸山作楽の門下生となり、東京大学文科古典講習科も卒業し、東京学士院編纂員として『古事類苑』の編集に当る。明治二十三年皇典講究所に入り、国学院の設立に尽し、その国史学講師ともなり、また、城北中学(現在の戸山高校)の校長をも兼ねる。明治三十五年より吉川弘文館より多数の古典解説書を著述ないし刊行した。明治四十一年より神宮奉斎会の経営に当たる。大正十年にはその会長に推挙さる。そのころ川面凡児の指導する大寒禊の行事に挺身参加した。それ以降「皇道」の宣布に東奔西走する。その教説は、伝統の国学に霊魂が蘇ったごとく、無数の聴衆また読者をひきつけた。昭和十二年より日本大学皇道学院を創立し、その院長として若き子弟を養成。また皇道発揚会(のち皇道社)を指導して、内外の愛国の志士たちを擁護した。ことに斯道の核心たる祭政一致の実現のため、為政者・軍人たちを説得してやまず(昭和十五年神祗院の新設をみる。)昭和十九年、新首相(小磯国昭)に救国の策を講ずる中途、九月十一日永眠、享年八十二歳。大祓講義・皇道論叢等の著書類十篇あり(昭和四十一年、日本大学今泉研究所設立さる)。

 もはや今泉は出版人としても忘れられていると思われるので、その特異な軌跡を示すために、省略を施さず、長い引用になってしまった。ここにも『近代出版史探索Ⅳ』708の鹿子木員信、同709の河野省三などに連なる皇道論者がいたことになる。確かに今泉が参画した『古事類苑』から始まって、これも『世界名著大事典』第六巻所収の「全集・双書目録」の「国書刊行会叢書」第一期や「増訂故実叢書」の明細をたどってみると、今泉が「斯道の核心たる祭政一致の実現」へと向かったことを了承できるように思われる。

近代出版史探索Ⅳ

 また文部省出版事業として、明治二十九年に神宮司庁編『古事類苑』第一冊が出され、大正三年に洋、和本合わせて四百冊の完結を見るのだが、この出版プロジェクトは国書刊行会や吉川弘文館などの出版企画とも密接にリンクし、それは古典籍の出版人脈をも形成していったと思われる。そのようにして、今泉と吉川弘文館と国書刊行会がつながり、それに早川も加わり、『日本随筆大成』や「国書刊行会叢書」第二期以降の編輯者ともなっていった。

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 そして昭和円本時代を迎え、早川は今泉も召喚し、「増訂故実叢書」も版を新たにして、刊行するに至ったのであろう。その他にも、『古事類苑』に端を発し、国書刊行会の企画編集に携わったメンバーが円本時代の全集や叢書に関わり、多くの古典籍を送り出していったにちがいない。だがそれらの全容はつかめていない。

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