出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1130 石井研堂『増訂明治事物起原』と「予約出版の始」

 また春陽堂が続いてしまったので、ここで単行本ではあるけれど、大正十五年刊行の石井研堂の『増訂明治事物起原』も挙げておきたい。そこには『近代出版史探索』152で既述したように、「予約出版の始」という項目もあるからだ。残念ながら「外交販売の始」はないけれど、その前史が予約出版にあったことは明白だ。その「予約出版の始」を引いてみる。

f:id:OdaMitsuo:20210209115102j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20210209162538j:plain:h120(復刻版) 明治事物起原 (1) (ちくま学芸文庫) (ちくま学芸文庫版)

 明治十四年ころより古書の翻刻予約出版一時大に行はれる。稗史小説を主とするもの、漢籍を主とするもの、政治経済書を主とするもの、其書籍の種類は一様ならざれども、其出版方法等は、何れも大同小異なり。(中略)
 漢籍に次では、徳川期近代の小説類と憲法政事の訳書などにて、未だ外国趣味の文学輸入には及ばざるを見る、予約出版元と出版書の部類を類集して之を左に出す。書籍の出版に就て予約といふ方法に図ることも、此時代に始りしことならん。

 ここでは住所も含めて挙げられているのだが、それらはすべて東京で、しかも大半が京橋区なので、予約出版と版元名だけを示す。なお番号は便宜的に振ったものである。

1 殖産叢書  大日本殖産書院
2 漢籍類翻刻 鳳文館
3   同   東洋出版会社
4   同   東京印刷会
5   同   弘文館
6 為永物   橋爪貫一
7 八犬伝   著作館
8 馬琴もの  東京稗子出版社
9 物語もの  東京金玉出版社
10 膝栗毛  諧文
11 三大奇書  法木徳兵衛
12 文明史、憲法史等 政書出版社
13 政治書類 共同出版会
14 泰西政治書 自由出版会社
15 万国亀鑑 以文会社


 こうした予約出版と版元配置図、及び2から5までの漢籍事情は、拙稿「明治維新前後の書店」「明治前期の書店と出版社」(いずれも『書店の近代』所収)で示しておいた。けれども、まだ出版社・取次・書店という近代出版流通システムは確立されておらず、近世からの出版、取次、書店、古本屋を兼ねた業種のままで、貸本屋や絵双紙店の比重が高かった。近代出版流通システムの根幹である取次が出現するのは明治二十年代に入ってからで、ここで東京堂、北隆館、東海堂、良明堂、上田屋といった雑誌を主体とする五大取次が揃い、近代出版業界がスタートしていくのである。したがって、これらの予約出版と版元はそうした過渡期を体現していたといえよう。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 それに加えて、『増訂明治事物起原』は第八類「教育学術」の「予約出版の始」に続いて、「監修の流行」が置かれ、以下のようにある。「著訳書、何某監修と署すること行わる。これ、知名の士の人爵等を並べて、其出版ものゝ優良るを保せしむるものゝ如し、されども、監修者、唯名義の賃貸を収むるのみにして、曾てその出版物に責任を負ふ者なし」「大抵狗肉の羊頭なり」と。図らずも、ここに「予約出版」と「監修」の始まりが揃い、小川菊松の言葉を借りれば、「この畑育ち」の人々が明治後期の予約出版や外交販売市場と流れこんでいったと推測される。

 そうした系譜もさることながら、この『増訂明治事物起原』そのものにもふれておかなければならない。石井が巻頭の「第二版を出すまで」において、「本書の編纂に就て(初版の巻頭例言)」を併録しているように、明治四十三年に橋南堂から初版が出されている。それは二十年前のことで、第二版は菊判二段組、八四二ページに及び、初版の「四倍半大」となったとされる。初版は未見だけれど、いつか手にとることができるだろうか。

 また付け加えれば、この『増訂明治事物起原』の刊行は、石井が関東大震災に出会い、「惨火の幾多貴重の海内孤本を灰火せし」を目撃し、また「老齢還暦に達し」、「宜しく速に初版の増訂を完了すべし」との使命に駆られてだった。それを後押ししたのは『近代出版史探索Ⅲ』 623などの明治文化研究会諸友の「新旧過渡期の文化史」に対する熱意でもあった。

近代出版史探索III

 そこに本探索1098の春陽堂の和田利彦と木呂子斗鬼次も「書肆の意気込みて出版を促さるゝこと」あり、「今年の春に入りて脱稿」へとこぎつけたのである。そしてあらためて装幀と挿画が、『近代出版史探索Ⅲ』 472,473などの小村雪岱であることを知った。『増訂明治事物起原』は関東大震災の出来、明治文化研究会の発足、新旧過渡期の文化史への関心の高まりの中で、春陽堂のバックアップも受け、第二版刊行となったことが了承されるのである。


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古本夜話1129 白井光太郎、鈴木眞海、『頭註国訳本草綱目』

 『春陽堂書店発行図書総目録』を繰っていて、『頭註国訳本草綱目』が昭和九年に十五冊目の索引を刊行し、完結したことをあらためて知った。十五年ほど前だが、今はなき三島の北山書店で『頭注国訳本草綱目』第一冊から第六冊までの五冊を購入している。なお第五冊は欠けていた。

国訳本草綱目〈第1,3-5,8-15冊〉―頭註 (昭和4至9年) (『頭註国訳本草綱目』) 春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年) (『春陽堂書店発行図書総目録』)

 それもあってその際に『全集叢書総覧新訂版』を引いてみたけれど、掲載されておらず、最終的に何冊出たのかを確認していなかったのである。入手したのはいずれも裸本だが、専門書らしい菊判上製の造本で、表紙には「本草」をあしらった絵が描かれ、それは本探索1095の平福百穂による長塚節『土』の装幀を想起させる。ただ装幀者の名前は見当らないので、誰によるのかを確かめられない。そのことはともかく、まずは『世界名著大事典』における『本草綱目』の解題を示す。

世界名著大事典〈第1巻〉アーカン (1960年) f:id:OdaMitsuo:20210209112134j:plain:h120

 本草綱目(52巻、1596)李時珍著。著者は中国明代の本草学者、生没年明。本書は著者が独力で、30年の歳月を費やし、稿を改めること3度にして集大成したもの。これまで中国では本草書は主として国家が編集したのであるが、李時珍は個人の力で本書を編集した。薬用に供せられる多くのものを、自然分類主として分け、総計1,871種の品を網羅している。全編を水部、火部、土部、金石部、草部、穀部、菜部、果部、木部、服器部、虫部、鱗部、介部、禽部、獣部、人部の各編に分かち、正名を綱として他別名を付釈して目とし、次に集解、弁疑、正誤の条を設けてその産地、形状などを明らかにし、さらに気味、主治、付方を記して実用に供する便にした。本書に対しては種々の非難を加えられているが、著者1人の力でなしとげたことは敬服に価する。ことに1607年に本書が日本に伝えられ、林道春がこれを幕府に献上してから日本においても大いに行なわれるようになり、本書に関する本草学上の著作が、2、3刊行され、日本の本草学に対して大きな影響を及ぼした。

 『世界名著大事典』の場合、邦訳があれば、末尾にそれが明記されているのだが、ここでは「本書に関する本草学上の著作が、2、3刊行され」という、ある含みを感じさせる記述で終わり、次の解題に江戸時代の本草学者小野蘭山の『本草綱目啓蒙』は挙げられているけれど、『頭註国訳本草綱目』は示されていない。また昭和八年にはやはり春陽堂から『頭註国訳本草綱目』の監修者の白井光太郎の『本草学論攷』全四巻なども出されているので、「2、3刊行され」とはこれらを意味しているように思われる。

 そうした事情は関知できる立場にないし、とりあえず第一冊を見てみる。先述したように監修・校註は白井光太郎、顧問は木村博昭、考定は牧野富太郎など五人、訳文は鈴木眞海となっている。まずは内閣文庫所蔵の一九五〇年初版『本草綱目』(所謂「金陵本」)が八葉の口絵写真として掲げられ、それに白井の自筆による「序」、訳者の鈴木の前書きに当たる「例」が続いている。ここではその鈴木の「例」を追ってみる。それを鈴木は次のように始めている。

  本草の典籍には、学術的にも、実用的にも、近代の知識を刺激する多くの事実を蘊んでゐた。或は科学の将来に胎された、太古以来の一大秘宝蔵とさへ嘆称されてゐたのである。しかし、如何せん、その内容に向つて研究を進むるには、先づ第一に難関がある。それはその学問の目的からいへば、殆ど重要意義の乏いものではありながら、而も近代人の訪問を遮つた、極めて頑堅な鉄扇であつたのだ。記述の難解難読が実にそれである。

 本草の学問における「難解難読」は特殊な学問体系を有し、「その国語、文章は、その学問を湮没の危殆にまで駆り導いた、怖るべき厄介な障碍物であつたのだ」。そのために「極めて少数特殊の専門学者以外の近代一般人には、その門戸をさへ窺ふ由なき有様」であり、ここに「本草綱目五十二巻全訳の僭なる企」が胚芽してきたことになる。

 鈴木は澁川玄耳の弟子だったようで、その旧蔵本の『本草綱目』を古本屋から得て、「慨然として孤志を振ひ、遂に訳稿の筆を起し、首尾完きを得んためには、一腔の心血を傾け尽さんこと」を誓ったとされる。それは井上通泰の激発も受け、白井博士の監修、及び懇切周到なる手配のもとに終了するまでこぎつけたとある。そして最後に「春陽堂主人和田利彦氏、特に資を投じて版行の事に従はれ、組版その他の手数に多くの我儘を容された芳情は尤も多とするところ」との謝辞が記されている。

 「駒込桔梗艸盧に住むという鈴木のプロフィルはつかめないけれど、当時の本草学研究の先駆者、植物病理学の創始者の白井の全面的協力と春陽堂の和田のバックアップを受け、足かけ六年に及ぶ『頭註国訳本草綱目』全十五巻を完結させたことになろう。

 しかも奥付には監修兼翻訳者として、白井と鈴木の名前が並記され、その上には二人の印が押されている。それは彼らに著作権があり、印税も生じることが明らかだ。それらを含め、特殊な専門書、「非売品」で定価五円、「頭註」というタイトルなどを考えると、この『頭註国訳本草綱目』は主として予約出版による外交販売ルートを想定しての企画出版だったと見なすべきだろう。


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古本夜話1128 吉澤義則、武藤欽、文献書院「全訳王朝文学叢書」

 前回の「大日本文庫」の各巻校訂者の名前を見ていて、「文学篇」の『物語文学集』を吉澤義則が担当していたることに気づかされた。

 f:id:OdaMitsuo:20210205114714j:plain:h110  f:id:OdaMitsuo:20210205115424p:plain:h110(「大日本文庫」)

 実はいつか取り上げなければならないと思っていた「全訳王朝文学叢書」の訳者の一人が吉澤だったからだ。まさにその第一巻『堤中納言物語・伊勢物語・大和物語・竹取物語』はすべて吉澤の手になるものだ。

 この「全訳王朝文学叢書」は大正十三年に京都の文献書院内王朝文学叢書刊行会から刊行され、『全集叢書総覧新訂版』で確認すると、全十二巻完結とわかる。第一巻の巻末目録から類推すれば、順不同だが、『源氏物語』が六冊、『狭衣物語』二冊、『落窪物語』『蜻蛉日記・土佐日記・和泉式部日記』『とりかへばや日記』各一冊の内訳である。

全集叢書総覧 (1983年)

 文献書院は『近代出版史探索Ⅲ』542で言及しておいたように、創業者の武藤欽が京都日々新聞初代社長を退いて興した版元で、国文学、英文学書を出版していたとされる。先の拙稿では京都帝大教授の片山孤村『現代の独逸文化及文芸』を紹介しただけだったが、ようやくここで文献書院の国文学書にもふれることができる。

近代出版史探索III

 第一巻の奥付は著作者とて吉澤、発行兼印刷人として、王朝文学叢書刊行会代表者の武藤欽の名前が記され、この「叢書」がやはり公的助成金などを得ての出版であることがうかがわれる。それに武藤が印刷人を兼ねていることからわかるように、文献書院印刷所も経営し、この奥付には見えていないが、本探索1121の五車楼と同じく、東京に支店も出していたのである。それに喜ばしいことに、この第一巻は昭和二年の再版で、それなりに売れたとわかる。そのことで巻末広告にある『国文学名著集』『歌謡俳書選集』といったシリーズも企画刊行されていったのだろう。それらは京都にも円本時代があったことを彷彿とさせる。

 それを支えたのは吉澤を始めとする京都帝大国文科の教授たちだったと思われるし、片山の独文学ではないけれど、武藤の前身が京都日々新聞初代社長というポジションもあって、京都帝大と文献書院は密接にコラボレーションしていたと考えられる。とりあえず、吉澤は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 吉沢義則 よしざわよしのり  明治九・八・二三~昭和二九・一一・五(1876~1954)国文学者、歌人。名古屋市中区老松町に木村正則の次男として生れ、のち吉沢家に入籍。明治三十五年、東京帝大国文科卒。大正七年文学博士となり、八年京都帝大教授。明治三十五年、和歌革新を目途して結成された若菜会の一員となったが、その後は国文学者として活躍。昭和五年、京大関係者を集めて雑誌「帚木」を創刊。歌集に『山なみ集』(後略)。

 この吉澤の意向がどれほど反映されているかは不明だが、「全訳王朝文学叢書」はタイトルと見合った菊判函入の雅な佇まい、造本見返し、また口絵にしても、京都風の趣がある。装幀は菊地契月、中村大三郎となっていて、訳者の吉澤を筆頭とする十人と並んでいるので、これらの人々が動員され、「全訳王朝文学叢書」が送り出されていったことになろう。

 さてそこで気になるのはどうような訳文であるかだが、口絵は折り込みカラーの『伊勢物語』の「筒井筒」のシーンなので、それを見てみよう。

 昔、田舎廻りなぞして、儚い生計を立てゝゐる賎しい者に、男の子があつた。
 そして、その隣の家にすむ美しい女の子と、幼い同士、日毎ゝゝ門前の古井の傍で、遊んでゐたが、追々年を取つて、お互いに物心の付いて来るにつけて、表向には、他人行儀に、耻かしそうにしてゐたものゝ、内心に男は、是非あの子を妻にと思ひ込み、女もこの人にと心を寄せて、親達が勧める良縁にも、耳を傾けようとはしなかつた。さて隣の男から、
 つゝ井筒ゐづゝにかけしまろがたけ生ひにけらしなあひ見ざるまに
女の返歌
 くらべこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき
とこんなに、言ひ合うてゐるうち、到頭、願ひは叶へられた。

 歌の部分の訳は省略し、前半だけ挙げておいたけれど、この「筒井筒」と同様のシーンが、ゾラの十九世紀後半の第二帝政期の物語に他ならない『ルーゴン家の誕生』(伊藤桂子訳、論創社)に出てくる。そこで『伊勢物語』とゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」における神話や伝説の共通性を考えたことがあったけれど、そうした問題に手を出すと、それこそ神話や伝説という井戸にはまってしまうことになりかねないので、断念したことを思い出してしまう。

ルーゴン家の誕生 (ルーゴン・マッカール叢書)

 なお文献書院は昭和十年代に入って廃業したようだ。


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古本夜話1127 春陽堂「大日本文庫」

 ずっと続けて予約出版と外交販売による古典籍類の全集や大系などをたどってきたけれど、そうした企画は様々な出版社に持ち込まれ、おそらくスポンサーや公的助成金付きで、刊行されていったと思われる。まだ残されているそれらをいくつか取り上げてみたい。

 本探索1096で、昭和円本時代の「春陽堂予約出版事業」に言及しているが、「大日本文庫」は昭和十年代のシリーズで、その全容がつかめないこともあり、ふれてこなかった。それは書誌学の分野でも同様で、このところ重宝している『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」にも見当らない。また『全集叢書総覧新訂版』においても、A5判、「乙」は全46巻が29巻、「丙」は全57巻が26巻で中絶とあり、「乙」と「丙」を合わせた「甲」は100巻予定だったという記載で、よくわからない。

全集叢書総覧 (1983年)   

 私も一冊しか拾っておらず、それは「神道篇」の『復古神道』上巻、「荷造用函」入で、その底の部分に「(甲種)第五回配本(二冊のうちA)」、「(乙種)第五回配本」とある。この事実から類推すれば、私の入手した『復古神道』は四六判の二冊本なので「甲」、「乙」のほうはA5判の一冊本のように思われる。

 f:id:OdaMitsuo:20210205114714j:plain:h115  f:id:OdaMitsuo:20210205115424p:plain:h115 

 ところが『春陽堂書店発行図書総目録』を当たってみると、「大日本文庫」は五十三冊あり、そのうちの十三冊は「昭和年代(戦前)発行年月不明出版物」とされている。結局のところ、もはや「大日本文庫」の全巻を確認することは限りなく難しいということになろう。しかも各セクションは判明しただけでも「勤王篇」「芸道篇」「国史篇」「儒教篇」「神道篇」「地誌篇」「武士道篇」「仏教篇」「文学篇」となっていて、それぞれが最終的に何冊出たのかも定かでない。

春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年)

 ちなみに手元にある「神道篇」は『垂下神道』上下、『復古神道』上中、『吉川神道』の五冊だが、この他の巻も出されているかもしれない。だがいずれにしても、手がかりは『復古神道』上巻にしかないので、この一冊を見てみる。監修は『近代出版史探索Ⅲ』の井上哲次郎、本探索1116などの上田万年、校訂は田中義能である。田中は『神道辞典』の立項によれば、神道学者、国民道徳学者で、明治五年に山口県玖珂郡生まれ、東京帝大文科哲学科で井上哲次郎の薫陶を受け、大正五年東京帝大文学部に神道講座が開設されると、助教授として初めて神道概論を講じ、十五年は上田万年を会長とする神道学会を設立し、機関誌『神道学雑誌』を創刊している。こうした経歴、及び井上や上田との関係からしても、『復古神道』上巻の校訂に従うのは必然だったといえよう。もちろん中巻も同様である。

近代出版史探索III

 田中はこの上巻収録の荷田春満「荷田大人創学校啓」、加茂真淵「国意考」「祝詞考」、本居宣長「うひ山ふみ」「真昆霊」「玉鉾百首」「くずばな」「馭戒慨言」の解題に続いて、「復古神道について」を寄せているので、その最初の定義の部分を引いてみる。

 神道は、我が国固有の大道で、上古から我が国に行はれ、我が国の根底となり、我が国民生活の原理となつて居るのであるが、後世、儒教、仏教の伝来後、此れ等と相混じ、惟神(かんながら)の大道としては、甚だ不純なるものとなつた。荷田春満こゝに出で、かゝる儒仏的神道を以つて、唐宋諸儒の糟粕にあらずんば、胎金両郭の余瀝と云ひ、儒仏伝来前の神道を復興せんとしたのである。之れを復古神道と云ふ。

 この田中の定義にとどめ、これ以上復古神道に立ち入らないが、この一巻が江戸時代の国学者の荷田春満から加茂真淵、本居宣長へと引き継がれていく復古神道の中枢ラインを提出していることになろう。またこの一文は京都国立博物館監修『神道美術』(角川書店)をかたわらに置きながら書かれたことを付記しておく。

f:id:OdaMitsuo:20210206150439j:plain:h120

 さてそれならば、この「神道篇」も含んだ「大日本文庫」とは何かということになる。奥付を見てみると、編輯兼発行者は大日本文庫刊行会の和田利彦で、彼は本探索1098の春陽堂二代目である。したがって刊行所は春陽堂となっているけれども、検印のところには「大日本文庫」の印が押されているので、著作権と印税は春陽堂ではなく、大日本文庫刊行会にあるとわかる。また「非売品」との記載は「大日本文庫」が予約出版にして、外交販売ルートによる企画だったのではないかと判断できよう。つまり和田と春陽堂は名義を貸したのであろう。

 おそらく「大日本文庫」の企画は、本探索1116、117の国民図書の『校註日本文学大系』『校註国歌大系』の関係者によるものと考えられる。『復古神道』に見られる上部に頭注、下部に本文という編集形式は同様であり、やはりそれらの監修者だった上田たちをかつぎ出し、スポンサーや公的出版助成金、及び春陽堂の名義貸しを得て、刊行に至ったのではないだろうか。しかしそのコンセプトと内容は求心的ではなく、どちらかといえば散漫で、外交販売ルートにふさわしくなかったように思える。それに昭和十年代に入り、外交販売の雄だった中塚栄次郎の退場に象徴されるように、支那事変が進んでいく中で、外交販売の時代も終わりつつあったのかもしれない。

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古本夜話1126 創元社『シェークスピヤ全集』一巻本

 これは戦後のことになってしまうが、坪内逍遥訳『シェークスピヤ全集』の再刊にもふれておきたい。

 それを意識したのは辻佐保子の『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中央公論新社)を読んだからでもあった。私は辻邦生のよき読者とはいえないけれど、『夏の砦』(河出書房新社)や『安土往還記』(筑摩書房)に続いて、昭和四十年代後半には『背教者ユリアヌス』(中央公論社)や『嵯峨野明月記』(新潮社)が出され、辻が小川国夫、塚本邦雄と並んで、三クニオの時代と呼ばれていたことを思い出す。

「たえず書く人」辻邦生と暮らして  背教者ユリアヌス (1972年)  嵯峨野明月記

 それらのことはさておき、この辻夫人による『辻邦生全集』(新潮社)の「月報」連載の単行本を読んでいると、次のような記述に出会った。辻は一人でパリに滞在し、福永武彦の勧めで、『婦人之友』に、キリシタン信仰をテーマとする『天草の雅歌』(新潮社)を連載していた。

辻邦生全集〈1〉 (『辻邦生全集』)

 出版社から送られてくる日本史関係の膨大な資料のほかに、精神を安定させる〈重し〉として、愛用していた分厚いシェイークスピア全集(坪内逍遥訳)がどうしても必要だと言われ、急いで航空便で送った。シェイクスピアとは、仲のよいなんでも相談にのってくれる友人のような気持でいたらしい。

 この「分厚いシェイクスピア全集」とは昭和二十七年に創元社から刊行された『シェークスピヤ全集』で、手元にある。この一巻本は函入、B5判上製、厚さ6センチ、一三四六ページに及ぶ大冊に他ならない。定価は四千円だから、当時の書籍としてもとりわけ高定価だったはずだ。

f:id:OdaMitsuo:20210202113701j:plain:h115(『シェークスピヤ全集』、創元社)

 その「序」は「今や新らしき文化日本の建設に際して、坪内逍遥博士が畢生の訳業たるシェークスピヤ全集を、一巻本として、文芸愛好家のみならず、ひろく一般家庭のために送り得るやうになつたことは、わたくしどもの非常に欣快とするところである」と始まっている。「今や新らしき文化日本の建設に際して」との言は、戦後日本の出版の位相を物語るものであるし、そのために坪内逍遥訳のシェークスピヤが文化の再建と演劇と新しい芸術運動への貢献を目的として提出されたのだ。それは「あらゆる日本語の語彙を豊富に駆使した、融通自在の訳文そのもののうちに、明治・大正・昭和三代にわたる日本近代文学の集大成」ともなっている。かくして「序」は「ここに、初めて我が国に生産された、画期的な一巻本シェイークスピヤ全集を高く捧げて、明るい生活の創造と、未来の演劇のために乾杯」と結ばれている。おそらく辻邦生もその乾杯に連なった一人だったことになろう。

 そして「凡例」も述べている。これは坪内訳『シェークスピヤ全集』としては第三回の改版で、「初刊は、早稲田大学出版部によって明治四十二年より昭和三年にわたり発行された四十冊本。第二刊は、中央公論社によって昭和八年より同十年にわたり発行された新修版であつた」。これは前回既述したとおりだが、創元社版はその「全作品を一巻本」としたのである。私見によれば、この一巻本全集フォーマットは本探索1101の改造社『日本文学大全集』に範を仰いでいると思われる。それにはどのような経緯と事情が絡んでいるのだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210203164227j:plain(早大出版部)ハムレット (新修シェークスピヤ全集第27巻) (中央公論社)f:id:OdaMitsuo:20201208130822j:plain:h100(『日本文学大全集』)

 「序」は編纂委員の日高只一、本間久雄、坪内士行、河竹繁俊の四人の連名で出され、「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館にて」と記されている。また奥付の著作権保有者は演劇博物館内の財団法人国劇向上会代表者の河竹繁俊で、坪内の著作権が国劇向上会へと移管されたことがわかる。その背景には演劇博物館の設立も大いに連鎖している。昭和三年に逍遥の古希と早大出版部の『シェークスピヤ全集』翻訳完成を記念して、有志の発起により、各界二千余名の寄付により、演劇博物館が建設され、公益機関として無料公開される。河竹は『近代出版史探索Ⅲ』424で言及しているように、演劇博物館の館長を務めていた。その博物館の後援団体が国劇向上会で、昭和六年には河竹たち四人を始めとする演劇雑誌『芸術殿』が創刊され、十年の逍遥の死後の追悼号まで出されたが、その翌年に廃刊となっている。

近代出版史探索III

 このように演劇博物館と国劇向上会の歩みは、出版と不可分であったことから、戦後になっても引き継がれ、それらは東京堂の『芸能辞典』(昭和二十八年)、本探索でも、しばしば参照している平凡社の『演劇百科大事典』(同三五年~三七年)へと結実していく。『シェークスピヤ全集』もまたそのひとつだったといえよう。それがどうして創元社だったのかだが、「序」に見えているように、日夏耿之介の尽力によっている。日夏はこの時代に、創元社から『鷗外と露伴』『ポオ詩集』 『ワイルド全詩』『日夏耿之介全詩集』を上梓し、深い関係にあったし、中央公論社との版権問題にも関わっていたのかもしれない。それで『シェークスピヤ全集』も実現の運びになったと推測される。

f:id:OdaMitsuo:20210203142436j:plain:h115 ポオ詩集 (1950年) (創元選書〈第189〉)

 しかし問題なのは版元の創元社のほうで、『シェークスピヤ全集』刊行後の昭和二十九年に倒産してしまう。多大な製作費を要するこの全集が足を引っ張ったとも考えられる。それに大部の一巻本全集、四千円という高定価は、まだ「戦後」に他ならなかった昭和二十七年には時期尚早だったのではないだろうか。

 それもあって『シェークスピヤ全集』の後日譚はまだ続いていくのだが、こちらは稿をあらためることにしよう。


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