出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1166 植竹書院「現代代表作叢書」、正宗白鳥『まぼろし』、三陽堂

 前々回の籾山書店の「胡蝶本」と併走するように、大正三、四年に植竹書院から「現代代表作叢書」が刊行されていた。そのラインナップを示す。

1 森田草平 『煤煙』
2 鈴木三重吉 『珊瑚樹』
3 谷崎潤一郎 『麒麟』
4 田山花袋 『小春傘』
5 正宗白鳥 『まぼろし』
6 長田幹彦 『舞姫』
7 田村俊子 『あきらめ』
8 泉鏡 『菖蒲貝』
9 小山内薫 『一里塚』
10 上司小剣 『お光壮吉』
11 徳田秋江 『閨怨』
12 中村星湖 『少年行』

f:id:OdaMitsuo:20210629111717j:plain:h118(『あきらめ』)f:id:OdaMitsuo:20210629113556j:plain(『一里塚』)

 浜松の時代舎で、これらのうちの4『小春傘』、5『まぼろし』、8『菖蒲貝』、11『閨怨』を入手してきたので、後の「現代代表作叢書」の行方も含め、ここで書いておこう。

 この「叢書」は函入、菊半截判、角背だが、装幀はそれぞれ異なり、『小春傘』は装幀者が安藤兵一と明記されているが、他の三冊にはそれが見当らない。しかし巻末広告から結城素明、津田青楓などが担当しているとわかるし、津田による『閨怨』は秋江の作品のイメージと重ならないにしても、紅梅をあしらった華やかさで、「胡蝶本」と相通じる大正時代の文系書の装幀美を想起させる。しかも『閨怨』は四冊の中でも完本といえるもので、函もあり、背の上部には「現代代表作叢書第十一篇」との表記もなされている。

f:id:OdaMitsuo:20210629105736j:plain:h118 (『閨怨』)

 それに比べると、『小春傘』や『菖蒲貝』は函もなく、かなり疲れていて、背文字タイトルも不鮮明である。だが考えてみれば、一世紀以上前に出された小説集で、それもよく読まれたと判断できる印象からして、よくぞ私の手元にもたらされたとねぎらうべきかもしれない。おそらくそこには不可視の読者たちの読書史が刻印されているというべきであろう。

f:id:OdaMitsuo:20210629145458j:plain:h115(『菖蒲貝』)

 それは作家にとっても同様で、その多くに付された「序」や「自序」は、自らを省みての近代文学史や小説史の一端を表出させている。その典型が正宗白鳥の「序」で、この十年間に書き続けた短編長編は何百の数に達しているはずで、白鳥は「小説を専門として世に立とうとする執着心はなかつたのであるが」、「自分の作品が不思議に世に迎へられるに甘へて、知らずゝゝゞ小説家と呼ばれ自分もその気になつてしまつた。三十歳前後の十年の間、私は小説といふことを念頭から離し得ないかつた」と述べ、次のように続けている。

 私は書肆の需めに応じて、この文集を出版するに当たつて、過去十年間の重なる作物を読返しながら、自分の青年期の精根を消耗した記念物に対する懐かしさと悲しさを感じた。たどゝゞしい筆の力でよくこれだけに書けたと自分の努力を思ふと共に、ありたけの脳漿を絞つてもこんな貧弱な物しか書けなかつたのかとも思つた。兎に角私はこの文集を以て過去の汚れた記念碑として、再び新しい道に進んで、新しい苦しみを経験するより外に生存の法もないのであらう。

 この白鳥の言に象徴されているように、作家にとっても、「現代代表作叢書」は重要なものだったとわかる。ちなみに『まぼろし』には「二家族」「まぼろし」「挿話」「泥人形」「微光」「毒」の六編が収録され、この作品集が当時の白鳥の傑作集であることも伝わってくる。そして『近代出版史探索Ⅱ』218で既述しておいたが、この「現代代表作叢書」を企画刊行した植竹書院の植竹喜四郎は籾山書店の出身で、大正五年頃に廃業し、その後は歌人岸良雄として活躍し、歌誌を主宰し、後進の指導に当たったとされる。

f:id:OdaMitsuo:20210629104718j:plain:h115(『まぼろし』)

 それもあって、正宗白鳥の『まぼろし』に至っては、さらにある出版史がクロスし、譲受出版と特価本出版社が「現代代表作叢書」を引き継いで刊行していったことを物語っている。実は『まぼろし』の場合、函つき本だが、植竹書院版ではなく、異装本とされる発行者を簗瀬富次郎とする三陽堂出版部版で大正七年五版とある。

 やはり『近代出版史探索Ⅱ』227で、三陽堂と簗瀬にふれ、それに東光社と三星社を加えた三社が簗瀬を中心として、植竹書院の紙型と出版物を引き継いだ特価本グループではないかと述べておいた。『まぼろし』の一冊はその証左となろう。ただ特筆すべきは、奥付には三陽堂著作者検印証が貼られ、そこには「正宗」の判が押されていることで、それは特価本業界に版権が譲渡されたにもかかわらず、白鳥には印税が支払われていたことを示している。その他の三陽堂版「現代代表作叢書」を見ていないので断言はできないけれど、「同叢書」は植竹書院以後もそれなりに知名度が高く、売れるシリーズであったことから、白鳥だけでなく、全員にそのような措置がとられたのかもしれない。


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古本夜話1165 籾山書店、自費出版、堀口大学『月光とピエロ』

 近代出版史や文学史において、籾山書店が高浜虚子の俳書堂を引き継ぎ、「胡蝶本」を刊行したことは知られていても、自費出版を手がけていた事実はそれほど周知でないと思われるので、続けて書いておこう。しかもしそれは堀口大学の詩集などで、彼は大正七年に訳詩集『昨日の花』、八年に第一詩集『月光とピエロ』、第一歌集『パンの笛』、九年訳詩集『失はれた宝玉』、十年に詩集『水の面に書きて』の五冊に及んでいる。

f:id:OdaMitsuo:20210702110331j:plain:h115(『月光とピエロ』)f:id:OdaMitsuo:20210702171732j:plain:h120f:id:OdaMitsuo:20210702172047j:plain:h120(『失はれた宝玉』)f:id:OdaMitsuo:20210703141216j:plain:h120(『水の面に書きて』)

 このうちの『月光とピエロ』を古本屋で見つけ、入手している。もちろん初版本ではなく、平成十八年に日本図書センターが「愛蔵版詩集シリーズ」の一冊として復刻したしたものだが、そのままではなく、函入上製の造本、カバーデザインが初版と異なっているようだ。それは長谷川郁夫が『堀口大学』(河出書房新社)で、初版に関して、次のように描いていたことからもわかる。

f:id:OdaMitsuo:20210702173147j:plain:h120月光とヒ゜エロ (愛蔵版詩集シリーズ) (復刻版) 堀口大學----詩は一生の長い道

 「月光とピエロ」「パンの笛」は、いずれも四六判、地アンカット、フランス装の軽快な造本。天と小口に金が施されているのは、当時の詩集装幀の流行だったようだ。カヴァー代りに、書名を印刷したパラフィン紙が掛けられていて、長谷川潔による木版画のカット(木版彫刻は菊池武嗣)が透けて見える。「月光とピエロ」の図案は、ギリシアの壺絵を思わせるような、鏡の形をした丸い植物模様のなかに弦楽器(ギターだろうか)を抱えた女性像(中略)が柔らかなフランス表紙に相応しい優美な印象を与えている。

 この「図案」は日本図書センター版でも生かされ「優美な印象」を味わうことができる。処女出版の『昨日の花』は、堀口自ら長谷川潔の挿画と彫師の手配、印刷や製本の選定も行ない、限定二百部を製作し、発売を籾山書店に託したのである。ところが堀口の『月下の一群』(講談社文芸文庫)の柳沢通博による「年譜」にも示されているように、『昨日の花』刊行後の大正七年八月に、父の九万一が特命全権大使としてブラジルに赴任することになり、堀口もそれに従い、同十二年に帰国するまでの五年間をリオデジャネイロで過ごすことになる。

 月下の一群 (講談社文芸文庫)

 それゆえに大正八年刊行の『月光とピエロ』『パンの笛』の原稿は日夏耿之介に託され、『失はれた宝玉』『水の面に書きて』と同様に、堀口がブラジル滞在中に日本で出版されていたのである。『昨日の花』と同じく、『月光とピエロ』に関して、長谷川潔の装幀と版画、永井荷風の序文は堀口自らが依頼していたようだが、今回は販売だけでなく、製作も籾山書店に委ねられたはずで、まさに自費出版だと見なしていいし、それは続く二冊も同様であろう。

 どうして籾山書店が堀口の自費出版元に選ばれたのかも推測してみる。堀口と佐藤春夫は一高の試験に失敗し、与謝野鉄幹の永井荷風への推輓によって、明治四十三年に慶大文学部予科に入学している。前々回に既述しておいたように、同年に慶大教授に就任した荷風を編集兼発行人として『三田文学』が創刊され、籾山書店がその発売を担っていた。それに籾山書店は「胡蝶本」の文芸書出版社として著名だったろうし、先の「年譜」によれば、堀口は少年時代に内藤鳴雪の俳句に惹かれ、俳書堂/籾山書店の鳴雪『俳句入門』の愛読者で、作句も試みていたのである。これらの事柄をリンクさせれば、堀口が籾山書店を願ってもない自費出版版元だと考えていたことは想像に難くない。

 しかしそれはまだ先の話で、明治四十四年に堀口は慶大を中退し、父の任地のメキシコ、スペインなどで過ごし、大正六年に帰国している。したがって『月光とピエロ』の成立も、翌年八月までの日本での日夏を始めとする詩人環境の中から編まれたと見なすこともできよう。荷風の「序」に見える「南の方ぶらじるの都に去らんとして近き日の吟咏を故国の友に残し留めんとす」は、そうした堀口と詩人たちの交流を伝えている。また『月光とピエロ』が献辞として「父におくる」が掲げられているのは、そうした環境の中の筆頭に漢詩人の父が存在していることを象徴していよう。

 またそれぞれの詩章にも献辞が寄せられ、「EX-VOTO」は佐藤春夫、「詩界」は長谷川潔、「旅愁」は与謝野寛先生、「一私窩児の死」は日夏耿之介、「秋」は「今のわが母」、「騾馬の涙」は永井荷風先生、「受胎」は柳澤健、「スペクトル」は与謝野品子夫人、「肺病院夜曲」は川路柳紅、「名の無き墓」は「今は名さへ忘れ果てたる/もろもろのやさしき心」に捧げられている。

 こうした大正時代における詩と詩人をめぐる出版環境、及び堀口の籾山書店との五冊に及ぶ自費出版のコラボレーションを通過儀礼のようにして、大正十三年に第一書房からの『月下の一群』が上梓に至ることを確認するのである。第一書房の『月下の一群』は浜松の時代舎で見つけているのだが、古書価が高いこともあって、まだ買い求めていない。

 f:id:OdaMitsuo:20210703115605j:plain:h120(『月下の一群』)

 なお自費出版史に関しては大島一雄『歴史のなかの「自費出版」と「ゾッキ本」』(芳賀書店)を参照してほしい。

 f:id:OdaMitsuo:20210703135904j:plain:h120

 また拙稿「第一書房と『セルパン』」(『古雑誌探究』所収)において、堀口が昭和を迎え、彼がコピーライターでもあったことを、実際にそのコピーも引用し、ふれていることも付記しておこう。
古雑誌探究


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古本夜話1164 高浜虚子、俳書堂、『ホトトギス』

 俳書堂編『俳句の研究』と題する菊判上製、五六八ページ、一円五十銭の一冊が手元にあるけれど、とても疲れた裸本で、背文字はほとんど読める状態にはない。

 f:id:OdaMitsuo:20210628162047j:plain:h120

 冒頭の俳書堂主人が記す「凡例」によれば、本書は明治三十一年十月の東京版『ホトトギス』第二巻第一号から、同三十八年七月までの俳句に関する諸篇を結集した一書で、「是れ俳書堂が今日を以て一ト先づ俳句に関する諸篇の結集を行ふに最も適したる時期なりと信じ本書を編纂したる所以なり」とある。ただしすでに単行本化されているものは除くと。それらは主として高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐などによる「俳句総論」「一句の研究」「一家の研究「「俳論」「俳評」の五篇という構成となっている。

 奥付表記は明治四十年七月発行、四十一年三月再版、編輯兼発行者は籾山仁三郎、著作権所有の部分には籾山の名前の下に押された同じ印が打たれているので、著作権は高浜たちにはなく、発行所として俳書堂/籾山書店を名乗っている籾山に移されているとわかる。

 それに続いて、巻末広告には中村楽天『明治の俳風』、正岡子規『俳諧大要』『俳句問答』、『竹の里歌(子規歌集)』を始めとする「子規遺稿」シリーズ、同じく子規、碧梧桐、虚子共選『春夏秋冬全四冊』、虚子『俳諧馬の糞』、碧梧桐『俳話蚊帳釣草』『蕪村俳句全書』全九冊、俳書堂主人『連句入門』『連句便覧』を含む「俳書堂文庫」、俳書堂篇『袖珍俳句季寄せ』『季寄せを兼ねる俳諧手帳』などの俳書が掲載れている。それらはまさに俳書堂の出版物にふさわしく、まだ「胡蝶本」の籾山書店の気配は感じられない。

f:id:OdaMitsuo:20210628204009j:plain:h120 (『竹の里歌』)f:id:OdaMitsuo:20210628172401j:plain:h120(『連句入門』)

 これらは入手していないし、奥付も見ていないので断定はできないが、『俳句の研究』の例からすれば、著作権は同じく籾山に譲渡されていると見なすべきだろう。俳書堂は明治三十四年に創設され、三十八年に籾山に譲られたとされている。だが虚子は『俳句の五十年』や『虚子自伝』(いずれも『定本高浜虚子全集』第十三巻所収、毎日新聞社)において、俳書堂を手離した事情を明確に語っていないので、それらの経緯を推測してみる。

定本高浜虚子全集〈第13巻〉自伝・回想集 (1973年)

 『ホトトギス』は虚子が三十一年に東京版第一号を刊行した際には初版千五百部がたちまち売り切れ、五百部重版したとか、三十八年からの漱石『吾輩は猫である』の連載は好評で、発行部数は八千部に達したとされ、『ホトトギス』は順風満帆に営まれてきたようなイメージがある。だが実際にはそうではなかったし、虚子もそのことを『虚子自伝』で、「ホトトギス発行」と題して、正直に告白している。

 明治三十一年から三十五年までは、私としては相当に苦しい時代であつたともいへるのであります。実際やつてゐる中に、子規の病気はだんゞゝ重くなり、私もよく病気をする。その間人に助けて貰つたり、経費が足りなくなつたり、そこでもう一つ雑誌以外の俳書出版をしようとしましたが、それも素人の悲しさで売捌の方法が判らず、残本が沢山できる、長男がまた生れる、家系がいよゝゝ苦しくなる、借金をする。虚子は商売に熱心になつて俳句がまづくなつてといふ非難が起つてくる。しまひには子規までが、「病床六尺」「仰臥漫録」であてこする、といつたやうな病態でありました。然しまあどうかかうか発行をつゞけてまゐりました。

 このことは『俳句の五十年』でも、『ホトトギス』の経営は困難となり、「その急場を救ふ為に、俳書の出版を思ひ立つてやつてみましたが、素人の悲しさで、それは思ふやうに参りませんでした。どうも良い結果を得ませんでした。それで遂にその出版の仕事だけを他の者に譲りました」と述べられている。

 それが虚子時代の俳書堂で、前掲の『春夏秋冬』や『蕪村俳句全書』などが刊行されたことはわかるが、この二つのシリーズだけでなく、先に挙げたタイトルの大半が出されていたのではないだろうか。しかし「素人の悲しさで売捌の方法が判らず、残本が沢山できる」次第となり、『ホトトギス』経営の困難と相乗して、俳書堂も同様に追いつめられ、「その出版の仕事だけを他の者に譲り」、それによって、『ホトトギス』を「どうかかうか発行をつゞけ」ることができたように思われる。

 俳書堂の出版を譲渡されたのは籾山に他ならないのだが、彼は慶応義塾の理財科出身であり、著作権の問題、及び『俳句の研究』の住所に見える日本橋区小舟町の海産物問屋籾山家の養子だったことからすれば、俳書堂の既刊在庫と著作権もともども譲受したと考えて間違いないだろう。もちろんその譲受金額はたとえ一時期にしても虚子の家計を助けるものであると同時に、『ホトトギス』の続刊を支えたとも考えられる。

 『吾輩は猫である』の『ホトトギス』連載は明治三十八年一月からで、その九月に俳書堂は籾山に譲渡されていることからすれば、漱石の処女作が翌年八月に完結し、続けて『坊ちゃん』が連載となったのも、そのことと無縁ではないように思われる。

 f:id:OdaMitsuo:20210628203552j:plain:h120(『ホトトギス』)

 なお虚子のモデル小説に関しては、『近代出版史探索Ⅲ』414で取り上げていることを付記しておく。


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古本夜話1163 籾山書店、「胡蝶本」、東枝書店

 前回、三教書院の「いてふ本」を取り上げたからには、籾山書店の「胡蝶本」にもふれておくべきだろう。前者は袖珍文庫の国文学叢書、後者は文芸書の代表的叢書で、そのアイテムはまったく異なっているけれど、いずれも明治末期から大正にかけての刊行であり、同時代の出版物といえるからである。

(『刺青』、「胡蝶本」)

 籾山書店と籾山仁三郎と「胡蝶本」、永井荷風との関係についてはすでに『近代出版史探索Ⅱ』219で言及しているが、具体的に「胡蝶本」に関しては書いていないので、ここではそれを試みてみたい。ただそうはいっても、紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』に記されているように、橋口五葉の蝶を一面に散らした華麗な装飾にちなんで称された「胡蝶本」は、コレクターも多く、人口に膾炙している。同書の「編成も『胡蝶本』をトップに据えてもよかった」とされるほどの著名な美本叢書なので、私などの門外漢にとっては縁遠いシリーズに他ならない。

大正期の文芸叢書

 それに加えて、古本屋で出会っていないこともあって、一冊も入手していないのだが、近代文学館複刻の森林太郎『青年』と谷崎潤一郎『刺青』は所持していて、四六判、角背、函入、華麗な装幀を確認できる。しかし紅野のいうところによれば、華麗だが、角背で造本は堅固でないので、保存状態のよい本は少ないようだ。また「胡蝶本」は通称ゆえに、『日本近代文学大事典』第六巻にも掲載は見られない。このような機会だから、紅野の著書により、明治四十四年から大正二年にかけて刊行された「胡蝶本」全二十四冊を抽出してみよう。

 f:id:OdaMitsuo:20210621111647j:plain:h120(『青年』、複刻版)

1 泉鏡花 『三味線堀』
2 永井荷風 『すみた(ママ)川』
3 正宗白鳥 『微光』
4 永井荷風 『牡丹の客』
5 〃 『紅茶の後』
6 谷崎潤一郎 『刺青』
7 久保田万太郎 『浅草』
8 森鴎外 『みれん』
9 長田幹彦 『澪』
10 森麟太郎 『我一幕物』
11永井荷風 『新橋夜話』
12 水上滝太郎 『処女作』
13 長田幹彦 『尼僧』
14 岡田八千代 『絵の具箱』
15 小山内薫 『大川端』
16 久保田万太郎 『雪』
17 谷崎潤一郎 『悪魔』
18 水上滝太郎 『その春の頃』
19 森林太郎 『青年』
20 松本泰 『天鵞絨』
21 平出修 『畜生道』
22 小山内薫 『鷽(うそ)』
23 森林太郎 『新一幕物』
24 吉井勇 『恋愛小品』

f:id:OdaMitsuo:20210621151634j:plain:h115 (『新一幕物』)

 このような作家たちのセレクトは籾山が慶応義塾大学理財科出身で、明治四十三年創刊の『三田文学』編集兼発行人が永井壮吉=荷風、発行は三田文学会だが、発売所は籾山書店が担っていたことによっている。『三田文学』は反自然主義を標榜していたことから、森鷗外を始めとして、小山内薫、谷崎潤一郎、泉鏡花、吉井勇たちも協力し、それに久保田万太郎、水上滝太郎、松本泰などの慶応出身者も作品を発表するようになっていた。しかも創刊から三、四年は五千部を超える異例の売れ行きだったと伝えられている。そうした『三田文学』をめぐる出版、編集、作品掲載といった状況の中で、「胡蝶本」は必然的に企画され、『三田文学』と同じく、その装幀造本と相俟って、まさに大正期の代表的文芸叢書として売れ行きは順調だったのではないだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210621154640j:plain:h120

 そのことをうかがわせている記載が6の『刺青』と19の『青年』に見えているので、それらにふれてみる。明治四十四年刊行の『刺青』は発行所を京橋区築地の籾山書店としているが、そこには並んで京都市上京区の住所も記され、籾山書店に京都支店が存在していたことを示している。それは大正二年の『青年』も同様の記載であり、こちらは京橋区銀座に対して大阪市東区で、大正に入って京都支店が大阪支店へと移行したことを伝えている。ちなみに振替貯金口座番号は同じで、営業的にも明治四十四年から大正二年までの京阪神支店が稼働していた事実を物語るものである。

 この事実を『三田文学』の五千部の売れ行きと雑誌状況を絡めて考えてみる。明治二十年代に成立した出版社・取次・書店という近代出版流通システムは、三十年代の鉄道網の整備とともに雑誌の時代が相乗し、成長し続け、明治末期には近代書店が全国各地に出現し、その数は三千店に及んだ。そうした出版流通インフラ状況の中で、明治三十九年に島崎藤村の自費出版としての『破戒』は出版されたのであり、拙稿「『破戒』のなかの信州の書店」(『書店の近代』所収)において、この作品がそれらの事実を書きこんでいることを指摘しておいた。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 このような近代出版流通システムの成長を背景として、「胡蝶本」を始めとする九十種近い紅野の『大正期の文芸叢書』の出版が花開いたといえるのではないだろうか。その象徴的例として、やはり拙稿で「京都・西川誠光堂」(同前)を挙げておいた。そこで明治三十年代には京都にも一大取次としての東枝書店が成長し、西川誠光堂もまた東枝書店を取次として、大正時代には『白樺』や『青踏』などのリトルマガジンや社会主義文献、春陽堂や新潮社の文芸書、岩波書店特約店としての販売によって、多くの読者の集うところとなったことを既述しておいた。

 またこれも拙稿「梶井基次郎と京都丸善」(同前)に記したように、『檸檬』の物語も大正時代に成立したのである。 そうした取次と書店という流通販売インフラを背景として、『刺青』や『青年』などの「胡蝶本」、『破戒』や『檸檬』も出版されていた。その東枝書店の創業者が『出版人物事典』に立項されているので、ここに示す。

 [東枝吉兵衛 とうし・きちべえ]一八四八~一九三四(嘉永元~昭和九)東枝書店創業者、京都書籍商組合組合長。盛岡市生れ。二〇歳で京都に出て雑誌『官報全書』の取次販売をはじめ、一八八〇年(明治二二)東枝書店の屋号を掲げ、一般書籍、雑誌、教科書や『大阪毎日新聞』の売捌きを行う。一九一九年(大正八)株式組織に改め、社長に就任、出版・取次販売に専念した。〇二年(明治三五)には京都書籍商組合(のち、京都書籍雑誌商組合)の二代目組長に就任、二六年(大正一五)まで前後二〇数年、組合の経営に尽くし、ことに定価販売の実施に尽力した。二四年(大正一三)東宮(昭和天皇)御成婚を記念して「昭和図書館」建設に組合の建設委員長となり、二八年(昭和三)竣工開館、館長に就任した。京都市会議員をはじめ、多くの要職についた。

 この京阪神における出版流通システムの成長と隆盛に合わせるようにして、『三田文学』の創刊があり、「胡蝶本」の出版も企画され、そのために京都支店や大阪支店も設置されたのではないだろうか。そこには籾山の慶応義塾の理財科の人脈、もしくはその前身の俳書堂関係者もいたように思われる。それもあるので、もう一編、俳書堂のことを書いてみるつもりだ。


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古本夜話1162 昭和十年代の「いてふ本」

 本探索1135の金星堂=土方屋の福岡益雄に先駆けるようにして、明治末に大阪から出て、やはり東京で国文学叢書などの出版社を興した人物がいる。

 それは鈴木種次郎で、出版社は『近代出版史探索Ⅱ』304の三教書院、国文学叢書は「いてふ本」という小型本とされているけれど、未見のままである。三教書院にしても、戦時下の『近代出版史探索Ⅳ』739の恒星社などとの企業統合も影響しているのか、戦後の歩みはたどれない。しかし『出版人物事典』には立項されているので、それを示す。

出版人物事典―明治-平成物故出版人

 [鈴木種次郎 すずき・たねじろう]一八七九~一九四四(明治一二~昭和一九)三教書院創業者。大阪市生れ。兄常松の経営する大阪修文館で修業、一九〇五年(明治三八)東京で三教書院を創業、大衆ものの出版をはじめる。『いてふ本』と呼ばれる『袖珍文庫』を出版、『古事記』『平家物語』『偐紫田舎源氏』といった古典ものを出版、大部数を販売した。この型をとって講談本を出したのが、『立川文庫』である。東京修文館も経営、辞書や教科書も出版した。

 この立項から考えると、三教書院と「いてふ本」は大正時代にはそれなりの知名度があり、出版業界でもその確たる一角を占めていたことがうかがわれる。それは鈴木種次郎の兄の常松が「関西以西の出版業界に大きく貢献した」と続けて立項されているように、大阪の修文館の創業者で中等実業教科書や参考書を出版し、大阪書籍株式会社の設立にも参画している。それゆえに三教書院は実質的に最初から東京の修文館のボジションにあったと考えるべきだろう。金星社と同じく、東京と異なる取次と書店、つまり関西と教科書、学参書に基づく独自の流通販売のルートを確保していたことにもなろう。なお修文館は『近代出版史探索Ⅴ』862で織田作之助の『西鶴新論』の版元としてふれている。

 残念ながら「いてふ本」に関しては『ニッポン文庫大全』(ダイヤモンド社)にも掲載されておらず、書影も見ていないのだが、浜松の時代舎で昭和十年代の「いてふ本」を三冊ほど入手している。それらは『曽我物語』上下、『日本書紀』下で、「袖珍文庫」ではなく、B6判の和装本としてである。やはり鈴木種次郎が発行者だが、後に鈴木初雄に変わっている。奥付裏に昭和十年五月付で三教書院主による「「いてふ本刊行の辞」が置かれ、「現今の読書界が嘗ての諸外来思想偏重より翻つて、漸く自国の過去に於ける産物に対して新たに注目し始めた事は当然の推移とは云へ喜ぶべき現象である」と始まっている。

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 そして「高価」、もしくは「予約出版」への批判がなされ、次のように続いている。「弊院はこの時代の要求に応ずると共に右の欠陥を除く意味より、此度多大の犠牲を覚悟し、嘗て弊院より発行し、当時の読書界に於て絶讃を博した袖珍文庫を今回更に厳密なる補校を加へ、内容・装幀・価格の点に於て、絶対に他の追従を許さゞる『いてふ本』の刊行を企てた」と。

 この「いてふ本刊行の辞」によって、本探索1121の『大日本思想全集』、同1122の『日本精神文化大系』などが企画された出版事情を了承する。またそうした出版状況において、かつて「絶讃を博した袖珍文庫」の「いてふ本」が再発見され、装いも新たに刊行されることになったのである。定価は六十銭で、確かに「高価」ではないし、『曽我物語』は上だけでも二七〇ページのうちの一〇〇ページが挿絵で占められ、絵物語のような趣をもたらしてくれる。かつて拙稿「柳田国男と『真名本曽我物語』」(『古本屋散策』所収)を書いているけれど、この挿絵本の底本は「正保三年版の仮名本」とされている。「袖珍文庫」の際にも、これらの挿絵は入っていたのだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210619152126j:plain:h110(『偐紫田舎源氏』、「袖珍文庫」)

 また『日本書紀』下は昭和十年の『曽我物語』よりも後の同十二年刊行なので、「いてふ本既刊目録」が付され、すでに六十点以上が出されたとわかるし、『近代出版史探索Ⅲ』422の『東海道中膝栗毛』の挿絵はどのようなものかが気にかかってしまう。それからこれは奥付の上部に「いてふ本校訂者」がリストアップされている。これらの校訂者は「袖珍文庫」と今回の「いてふ本」を合わせたメンバーのようだが、ここでしか見られない組み合わせだと思われるので、全員の名前を挙げておく。それらは沼波瓊瓊音、山田美沙、杉谷代水、泉斜汀、山内素行、石村貞吉、山田三子、山村魏、所金蔵、金築新茂、郷白巖、中島悦次、村上静人、川添文子である。

 これらのうちで杉谷代水は『近代出版史探索Ⅱ』243、泉斜汀は本探索1099、中島悦次は『近代出版史探索Ⅴ』988で言及しているし、村上静人は本探索1154でふれたばかりだ。沼波や山田に関してもいずれ取り上げるつもりだ。「袖珍文庫」版の「いてふ本」の企画と編集事情は伝わっていないけれど、沼波や山田が関係していたことはまったく知られていなかったのではないだろうか。これに泉斜汀を加えれば、そうした編集人脈は昭和円本時代までリンクしていたことになろう。


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