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古本夜話1099 泉斜汀『百本杭の首無死体』と徳田秋声「和解」

 前回、春陽堂『明治大正文学全集』の編集校訂者たちを挙げ、その中に泉斜汀もいたことを示しておいたが、彼に関しては言及していないので、ここで一編を書いておこう。
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 それは近年、泉斜汀の探偵小説が『百本杭の首無死体』(幻戯書房)や『泉斜汀探偵小説撰集』(我刊我書房)として出版され、前者は幻戯書房から恵送されてもいるからだ。この作品集を読むことで、思いがけずに知られざる作品を教えられることになったのである。

百本杭の首無死体 f:id:OdaMitsuo:20201206115958j:plain:h110 (『泉斜汀探偵小説撰集』)

 それでも『日本近代文学大事典』にも斜汀の立項は見出せるので、これをまず先に引いておくべきだろう。

 泉斜汀 いずみしゃてい 明治一三・一・三一~昭和八・三・三〇(1880~1933)小説家。金沢生れ。本名豊春。兄教科の指導により紅葉の門下となる。『監督喇叭』(「新声」明三三・九)が処女作。鏡花の感化を受け、下町小説、狭斜小説を持ち味とし、代表作に『木遣くづし』(「新小説」明三五・二)『松葉家の娘』(大三・六 鳳鳴社)『離縁状』(「新小説」明三六・一一)『深川染』前、後編(明四〇・五 春陽堂)がある。のちロシア文学に傾倒し、『廃屋』(明四ニ)などを発表したが、想像力乏しく大成しなかった。

 この筆名は鏡花の弟であるので、その舎弟をもじってつけられたとばかり思っていたが、『百本杭の首無死体』所収の伊狩章「斜汀泉豊春論」によって、次のような事実が判明した。それは鏡花が俳句の上で師事する内藤鳴雪に豊春を伴って訪れ、弟の俳号を乞うと、ただちに「酒亭」という返答が戻ってきたが、それを尾崎紅葉が「斜汀」とあらためたとされる。斜汀は紅葉門下として玄関生も務め、晩年の弟子として愛され、紅葉の死後、『近代出版史探索Ⅴ』835の博文館『紅葉全集』の校訂にも従っている。

近代出版史探索Ⅴ f:id:OdaMitsuo:20180923165104j:plain:h108(『紅葉全集』)

 私が斜汀の存在を知ったのは、拙稿「円本・作家・書店」(『書店の近代』所収)の参考文献として、上林暁の円本合戦時代を描いた「青春自画像」(『日本文学全集』52所収、集英社)を読んだことによっている。上林は昭和二年に改造社に入り、他ならぬ『現代日本文学全集』の校正に携わり、「校正係りの一団の中に、一人の異色ある風采の人物を発見した」のである。それが鏡花の弟の斜汀で、「古い小説家としてその名を知っていた」が、「見るからに、憔悴、敗残の面影があった」。実際に上林はその斜汀の感情的性格、落伍者のひがみ、家庭生活にもふれている。その後、斜汀は春陽堂の『明治大正文学全集』の校正に携わることになったのであろう。

 それからしばらくして、これも拙稿「足立欽一と山田順子」(『古本屋散策』所収)で、徳田秋声『仮装人物』に言及する際に、斜汀をモデルとするもうひとつの短編に出会ったのである。それは秋声の「和解」(『徳田秋声集』所収、『日本現代文学全集』28、講談社)で、斜汀が秋声の営むアパートの一室で急病死した経緯をテーマとしている。ここでは斜汀としてでなく、「T-」、つまり豊春のイニシャルで出て来る。彼は何かの事件に巻きこまれ、家をなくしたようで、「私」=秋声の営むアパートの一室に妻子を連れ、移ってきた。ところがすぐに敗血病にかかってしまう。そのために「私」は「O-先生の息のかゝつた同門同志の啀み合ひ」から交渉が絶えていた兄の「K-」=鏡花に知らせるが、「T-」は亡くなった。鏡花と葬儀や尾崎紅葉=「O-先生の旧居」訪問をともにしたことで、一緒に食事をしたり、彼が訪ねてくるようになった。それがこの「和解」というタイトルにこめられた含みなのであり、もうひとつ付け加えておけば、「青春自画像」と「和解」にも。斜汀の妻と桜=サクラという子供が出てくるが、子供は同じでも、妻は異なっている。

古本屋散策 f:id:OdaMitsuo:20201207115615j:plain:h110

 さて先の立項とこれらのふたつの短編から考えても、斜汀が兄の鏡花の影に隠れ、マイナーな下町小説や狭斜小説を書いたのだろうと思っていたし、立項に挙げられていた彼の作品を読むに至らなかった。それは古本屋でも出会うことがなかったからでもある。

 そうしたところに「泉斜汀幕末探索奇譚輯」である『百本杭の首無死体』が届いたことになる。しかも『近代出版史探索Ⅲ』472などの小村雪岱による挿画が表紙に採用されている。同書は斜汀が大正五年から十年にかけて発表した小説十編を収録し、彼の後期作品集といえるが、ここではやはりタイトルとなった「百本杭の首無死体」を取り上げるべきだろう。

近代出版史探索Ⅲ
 「百本杭の首無死体」は「大阪毎日新聞のT君が面白い老人を紹介すると言って呉れた」と始まっている。続けて「T君」は語る。

 「旧幕の与力をした男で、大正の今日まで生き残って居るのは此老人独り位なものだと老人自身も言って居る。兎に角、老人が其若い血気の時代に取り扱った種々の事件の中には、血の沸くような事も、怖ろしい身の毛も竦つような話も、不思議な錯難(こんがらが)った、探っても探っても分らない怪事件の真相やら、疑獄譚断罪の事実譚は汲めども尽きない泉のように、今も新しく老人の記憶に活きて居るんです。まず東洋のシャアロックホルムスと言った老人です。しかも事柄が皆其手に懸けた事実なんだから小説より面白い、生命があるといった訳なんです。」

 この老人は実在の人物で、これも付録として、井上精二「幕末名探偵彌太吉老人を訪う」という写真入りインタビューも巻末に付されている。この老人は佐久間長敬で、日本歴史学会編『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)に立項があり、元江戸八丁堀与力、大正十二年に八十六歳で没している。井上とともに斜汀も老人を訪ね、その昔話を聞いているので、「百本杭の首無死体」も、そこから紡ぎ出されたものだと推測される。

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 この作品は『探偵雑誌』大正七年二、三月号掲載とされているし、同様に岡本綺堂の「歴史小説の老大家を赤坂のお宅に訪問して」と始まる『半七捕物帖』は大正六年一月の『文芸倶楽部』の連載なので、斜汀にしてもその影響を受けているはずだし、範となったと見て間違いないだろう。

 ただ「シャアロックホルムス」については大正五年に天弦堂書房から『シャアロック・ホルムス』全三巻が加藤朝鳥によって翻訳されていた。また七年には白水社から「近代世界快著叢書」3、4として、『恐怖の谷』と『名馬の行方』(いずれも芳野青泉訳)が出されていたし、他ならぬ斜汀もその6として、『乱刀』を刊行している。その「乱刀」は「百本杭の首無死体」を改稿したものである。ただ残念なことに、これらは未見だが、江戸の老人の思い出話とシャーロック・ホームズと捕物帳がリンクしていった時代を浮かび上がらせているように思われるし、そこに斜汀のような作家も絡んでいたことは実に興味深い。


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