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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1263 昭和プロレタリア文学シリーズとその出版ディケード

 日本のプロレタリア文学運動の雑誌の系譜をたどってみると、『近代出版史探索Ⅱ』210の大正十年創刊の『種蒔く人』から始まり、十三年の『文芸戦線』、昭和三年の『戦旗』へとリンクし、多くの作品が発表されていった。それと併走するように、多彩なプロレタリア文学書のシリーズも企画刊行されていったのである。

 前々回でも改造社の円本『プロレタリア文学集』を取り上げたが、それらは予想以上に多いこともあり、ここでリストアップしてみる。

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1 『年刊日本プロレタリア詩集』 全五巻 マルクス書房、戦旗社、日本プロレタリア作家同盟出版部
2 『労農詩集第一輯』 全一巻 全日本無産者芸術連盟出版部
3 「労働ロシヤ文学叢書」 全五巻 マルクス書房
4 「日本プロレタリア作家叢書」 全十二巻 戦旗社
5 『日本プロレタリア傑作選集』 全十二巻 日本評論社
6 「文芸戦線叢書」 全九巻 文芸戦線社出版部
7 『現代暴露文学選集』 全十冊 天人社
8 『プロレタリア前衛小説戯曲新選集』 全十巻 塩川書房
9 『戦旗36人集』 全一巻 改造社
10 『文戦1931年集』 全一巻 改造社
11 「ソヴエート作家叢書」 全六巻 鉄塔書院
12 『ナップ7人詩集』 全一巻 白揚社
13 『ナップ十人集』 全一巻 改造社
14 『詩・パンフレット』 全三巻 日本プロレタリア作家同盟出版部
15 『プロット小脚本集』 全一巻 日本プロレタリア演劇同盟出版部
16 「日本プロレタリア作家同盟叢書」 全三巻 日本プロレタリア作家同盟出版部
17 「プロレタリア戯曲叢書」 全六巻 日本プロレタリア演劇同盟出版部
18 『新選プロレタリア文学総輯』 全十巻 ナウカ社
19 『われらの成果 新鋭傑作十七人集』 全一巻 三一書房
20 「リアリズム文学叢書」 全五巻 文学案内社

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 5は本探索1253、4は同1255で既述している。これらは『日本近代文学大事典』第六巻の「叢書・文学全集・合著総覧」から拾ったものである。念のために『日本出版百年史年表』『全集叢書総覧新訂版』を繰ってみたけれど、前者にはほとんど見当たらず、後者にしても、複刻シリーズを別にすると同様だ。私も5に関連しては徳永直『能率委員会』を入手しているが、4の徳永の『太陽のない街』と小林多喜二『蟹工船』はやはり近代文学館の複刻によっているし、古本屋でも原本に出会っていない。
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 ここで挙げたプロレタリア文学シリーズは昭和二年から十年にかけて刊行されたものだが、相次ぐ発禁処分と直接配付という特殊な流通販売によっているので、入手が難しいことを示しているのだろう。それに大衆文学の単行本と同じくよく読まれたことで、美本も少ないことも作用しているにちがいない。

 そうしたプロレタリア文学出版状況と流通販売を考えると、9、10、13の改造社『戦旗36人集』『文戦1931年集』『ナップ十人集』、12の白揚社の『ナップ7人詩集』は通常の取次、書店ルートの流通販売であり、当時のプロレタリア文学アンソロジー一巻本として、売れ行きにしても、好調だったのではないだろうか。まして改造社は『現代日本文学全集』の版元であり、前々回の『『プロレタリア文学集』もそこに含まれていたからだ。それに『戦旗36人集』と『文戦1931年集』は『プロレタリア文学集』、白揚社の『ナップ7人詩集』と同じ六年、『ナップ十人集』は翌年だし、この時期がプロレタリア文学のディケードの最高潮だったのかもしれない。

 それに改造社の『現代日本文学全集』の場合、39として『社会文学集』が昭和五年、50として『新興文学集』が同四年に刊行されていたのである。前者には中沢兆民、安部磯雄、幸徳秋水、堺利彦、大杉栄などの「吾邦社会文学中の重要なるものはほゞこの中に結晶してゐる」はずだとの言が「序」に見える。ただ奥付を見ると、編纂者、発行者は山本三生、山本美、検印の判は「山本」となっているので、『プロレタリア文学集』と同じく、収録作品は買切で、印税が発生しない出版だとわかる。

f:id:OdaMitsuo:20220406155644j:plain:h120 現代日本文学全集 50 新興文学集

 それに対して『新興文学全集』『新興文学全集』は前田河広一郎、岸田国士、横光利一、葉山嘉樹、片岡鉄兵たちの二十七の長短編を収録している。この時代にはプロレタリア文学の前田河、葉山、どちらかといえば、モダニストでもある岸田と横光が巻を同じくしているのは奇妙にも思われる。それに奥付には著者代表として、前田河の名前が記され、検印も同様なので、こちらは印税方式とわかるし、当代の人気もうかがわせ、それが昭和初期の「新興文学」のニュアンスでもあったのだろう。

 それはやはり昭和三年から五年にかけて刊行された平凡社の『新興文学全集』全二十四巻へと結実していく。この全集に関しては拙稿「平凡社と円本時代」(『古本探究』所収)で既述しているし、『近代出版史探索Ⅵ』1182での伊佐襄訳『ジェルミナール』に言及している。これらのことから明らかなように、プロレタリア文学シリーズは先述のリストに挙げたものばかりでなく、『現代日本文学全集』や『新興文学全集』などの円本も含めれば、三十種近くが企画刊行されたのであり、まさにこの時代はプロレタリア文学のディケードと呼んでいいように思われる。

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古本夜話1262 藤沢桓夫『新雪』と南進論

 前回の改造社『プロレタリア文学集』に藤沢桓夫の名前があることは意外に思われたが、「生活の旗」を始めとする七つの短編を読んでみると、彼がこの時代において紛れもないプロレタリア作家だったことを実感した。

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 藤沢のことは『近代出版史探索Ⅱ』283でふれているし、その『大阪自叙伝』(朝日新聞社)も読んでいるけれど、彼が当時『戦旗』同人で、日本プロレタリア作家同盟に属していたことは失念していたのである。

 

 それだけでなく、中学時代に安岡章太郎の『アメリカ感情旅行』(岩波新書)を読んだついでに、第三の新人を中心とする交遊録『良友・悪友』(新潮社)にも目を通し、そこに藤沢の名前を見出していたことにもよっている。つまり藤沢は第三の新人たちの系列に属するとインプットされてしまったからだ。

アメリカ感情旅行 (岩波新書) f:id:OdaMitsuo:20220405221539j:plain:h120

 それは最初の「二代目たち 三浦朱門と石浜恒夫」においてで、石浜の父親は京大文学部教授、同居している伯父は藤沢であり、石浜家そのものが関西文壇の一角とされ、三浦は安岡にいうのだった。「藤沢桓夫の『新雪』って小説、あれは石浜の家がモデルになっているんだぜ。あの中で、ほら映画だと月丘夢二の弟になる旧制高校生が出てくるだろう。あれが、つまり石浜のことなんだよ」と。

 それを受けて、安岡は『新雪』が戦時中に出た「ほとんど唯一の明るい家庭小説として評判にな」り、新聞連載も読み、映画も観ていたと述べていた。もちろん当時は石浜も藤沢も知らなかったけれど、藤沢が「明るい家庭小説」家のような印象をもたらし、それが記憶に残っていたことなる。それから三十年後の平成時代になって、古本屋で『新雪』に出会ったのである。カバーなしの裸本で、背ははがれ、造本も崩れた状態の一冊で、奥付には昭和十七年六月発行、二万五千部と記されていた。この小説は藤沢の代表作と見なされているようで、『日本近代文学大事典』の藤沢の立項にはその解題が挙げられていることもあり、それを引いてみる。

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 [新雪]しんせつ 長編小説。「朝日新聞」昭和一六・一一・二四~一七・四・二八。昭和十七・六、新潮社刊。のち大映で映画化された。神戸の郊外六甲に隠棲する老洋学者湯川文(ママ)亮の一人娘保子、愛弟子の正木信夫、小学教師の蓑和田良太、結婚なんか考えたこともないという女医の片山千代らが織りなす清潔なラブ・ロマンス。戦時色が濃厚だが、わずかに小学教師の解放的な児童観のなかに、自由主義思想の息吹が感じられる。

 この小説を読んだ後で、しばらくして水島道太郎、月丘夢二主演、五所平之助監督のビデオ映画も観ることができた。これは昭和十七年の映画化で、戦時色に包まれてはいるけれど、原作と通底するみずみずしい秀作のイメージがあった。安岡が証言しているように、新聞連載も好評であり、完結と同時に出版と映画化も決まっていたと推測され、初版二万五千部もただちに売り切れ、版が重ねられ、ベストセラーに近かったのではないだろうか。

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 小説のほうに戻ると、この一文を書くために『新雪』を再読したのだが、この小説もまた『近代出版史探索Ⅳ』678などの南進論の延長線上にイメージされた世界を想定して書かれた物語のように思えてくる。老学者の湯川と弟子の正木は東洋言語学者で、主として満州語を専攻のようだが、後者は前者の推薦によって、ある出版社の「大東亜ポケット会話辞典叢書」の『蒙古篇』と『フイリツピン篇』の二冊を書き上げる仕事に従事していた。それは『近代出版史探索Ⅴ』883の大学書林の『馬来語四週間』を彷彿させる。

 その『フイリツピン篇』に関連して、大東亜戦争の展開に伴い、湯川が正木も加えて、南方学術調査国語学者班が結成され、現地での言語政策と南方言語の調査研究・翻訳通弁などの組織的な遂行を目的としていた。それに対して、正木を慕う湯川の娘の保子も助手として同行することになった。そこで保子は父に問いかけるのだった。

 「お父様、赤道にも雪があるでせうか?」
 何かうつとりとした表情で、保子はだしぬけにそんなことを訊ねた。何故だか知らないが、彼女の心の視野には、その時、その熱帯の紺碧の空を遠く遮つて、高く険しく聳えてゐる山の姿がうかんだのだ。しかも、その山の頂には雪が眩しいまでに白く輝いてゐる。

 そして父のほうは「東亜の護りである日の丸の旗が赤道の空の頂に大洋の彼方の侵略者たちを睥睨して翩翻とひるがへつてゐる光景」を思い描き、娘は「その永遠に新しい雪谿   に跪いて雪の一ひらを両手に掬つた時の清冽な歓び」を感じていたのである。これが「新雪」というタイトルのよってきたるべき由来であり、そのようにして三人は南方へと出発していくのだ。「新雪」という南方幻想の現実は問われることなく、この大東亜戦争下の物語は終わる。

 そこには『戦旗』同人や日本プロレタリア作家同盟に属していた藤沢の残影はほとんど見られない。その巻末広告に、やはり藤沢の『大阪五人娘』、同じく藤森成吉『純情』や壺井栄『磨』も挙がっているので、それらもいずれ読んでみたいと思う。


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古本夜話1261 『現代日本文学全集』と『プロレタリア文学集』

 これまで見てきたように、昭和円本時代はプロレタリア文学の時代でもあった。しかもそれには他ならぬ円本も寄り添っていたし、時代のトレンドだったというべきであろう。

 それをまさに表象しているのは『近代出版史探索Ⅵ』1101の円本の嚆矢としての改造社『現代日本文学全集』62の『プロレタリア文学集』で、昭和六年二月に刊行されている。つまりこの巻は『現代日本文学全集』の大正十五年の第二回予約募集に際して、全三十七巻、別冊一巻が全五十巻へと増補されたが、その後さらに全六十二巻、別巻となり、昭和六年にこれも『近代出版史探索Ⅵ』1063の別巻の斎藤昌三『現代日本文学大年表』で完結となる。それゆえに『プロレタリア文学集』は実質的に『現代日本文学全集』の掉尾を飾ったことになろう。この事実はこの時代にプロレタリア文学もまた不可欠の勢力となり、ひとつの確固たる文学の分野を占めるに至ったことを告げている。しかし管見の限り、この巻の編集に関する証言は見ていない。

現代日本文学全集〈第1-63篇〉 (1927年)   f:id:OdaMitsuo:20220329210950j:plain:h119 

 あらためて口絵写真も示された収録作家を確認してみると、林房雄、小林多喜二、武田麟太郎、藤澤桓夫、村山知義、中野重治、貴司山治、徳永直、落合三郎の九人である。この巻には小林の『蟹工船』や徳永直の本探索1253の「能率委員会」も収録され、前者が同巻の目玉のようにも察せられる。末尾の短編「染色体(クロモゾオメン)」の落合は初めて目にするので、その「年譜」を見ると、『近代出版史探索Ⅱ』248などの佐々木孝丸のペンネームであり、もう一度口絵写真を見てみると、確かに戦後の映画で右翼や黒幕を演じた俳優としての佐々木と異なる若かりし頃の面影をうかがうことができる。

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 また意外なことに、巻頭に江口渙と貴司山治の連名で、「『プロレタリア文学集』の序に」が寄せられ、「一九三〇年に日本プロレタリア作家同盟は数人の同志を、支配階級の手にうばわれた」と始まり、「真に正しいプロレタリア文学の建設運動」が言挙げされ、続いて次のような記述に出会うのである。

 この集はしかしわれゝゝのさうした目的のための闘争として編された出版ではない。これは「現代日本文学全集」増刊刊行を機とし改造社のすゝめにより、この全集愛読者諸君に、日本には今自然主義文学についで、文学の主流としてかやうにプロレタリア文学がめざましく発達して来てゐるといふ新しい視野を提供するために、日本プロレタリア作家同盟の九人を選びこれまでのなるたけ「有名な」作品のあれやこれやを編んだ一冊としたものである。

 そして同時に九人のうちの四人が獄中にあるので、この出版は「同時の救護慰安のための」ものであり、読者にとってはこの『プロレタリア文学集』の購入は作家たちを富ませるのではなく、この「困難な文学運動に加勢し、うばわれてゐるわれゝゝの先進同志を援助することなる」のだと宣言されている。確かに本探索1257でふれた小林多喜二が戦旗社に『蟹工船』の印税の大半を寄付したエピソードが示しているように、この『プロレタリア文学集』も奥付の検印紙に発行者の山本美と見なせる山本の印が打たれ、編纂者も山本三生とある。それらの事実はこの一冊の版権が改造社に属し、日本プロレタリア作家同盟からの版権移譲を受けての買切出版だと見なすことができよう。

 もちろん『現代日本文学全集』の最終回配本としていいし、初期の二十万部以上の予約者の確保は難しかったであろうが、それでも日本評論社の『日本プロレタリア傑作選集』や戦旗社の「日本プロレタリア作家叢書」を上回る読者層はいたはずだ。それは拙稿「円本時代と書店」(『書店の近代』所収)で既述しておいたように、改造社の『現代日本文学全集』は円本の先駆けでもあり、その流通と販売は取次と書店の外商をも含んで、広範に展開されていたからだ。その外商規模とエリアはその地域に書店が無い場合、他の商店も巻きこんでのことだったと推測できるのである。

書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 したがって改造社の版権買切条件の出版であっても、印税に見合うだけの版権料は日本プロレタリア作家同盟に支払われたと考えられる。またそのようなコラボレーションによっても、大正十五年の企画時と異なり、『現代日本文学全集』に『プロレタリア文学集』を週ロックすることが時代の要請となっていたのであろう。それは昭和円本前期と後期におけるプロレタリア文学の受容と隆盛の推移を物語り、自ずと文学においても、時代の趨勢をうかがわせている。

 そのことに関して、「『プロレタリア文学集』の序に」の連盟の江口渙が『たたかいの作家同盟記』(新日本出版社、昭和四十一年)で、日本プロレタリア作家同盟の結成にふれ、昭和三年の「三・一五」の大弾圧の一周年記念が迫る二月十日に浅草の信愛会館で創立大会が開かれたことをレポートしている。その議場は特高課の警官によって固められ、「文学団体の会合と思われないほどの異常な緊張」の中で、「プロレタリアートの解放のための階級文学の確立」が綱領として採択され、それに伴って単行本、リーフレット、パンフレットなどによる出版物の編集刊行が活動方針として挙げられていたのである。

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 そのような日本プロレタリア作家同盟の綱領と方針に基づき、『現代日本文学全集』での『プロレタリア文学集』が編まれたことになろう。


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古本夜話1260 『岡本唐貴自傳的回想画集・岡本唐貴自選画集』

 前々回の『戦旗』創刊号に、プロレタリア美術運動に参加していた鈴木賢治が挿画、カット、漫画などを描いていたことを知り、岡本唐貴のことを想起してしまった。実は一年ほど前に、浜松の時代舎で『岡本唐貴自傳的回想画集・岡本唐貴自選画集』を購入していたからである。同書は昭和五十三年に東峰書房によってA4判変型の函入二冊として刊行されていて、以前から入手したいと思っていた作品集だった。

 鈴木の立項を見出した『近代日本社会運動史人物大事典』を繰ってみると、そこには岡本唐貴もあり、鈴木との関係も挙げられていた。しかしそれは一ページを超える立項であるけれど、岡本が『近代出版史探索Ⅱ』292の『忍者武芸帳』の白土三平の父だという言及はなされていなかった。その立項を要約してみる。

近代日本社会運動史人物大事典

 岡本は明治三十六年岡山県生まれ、大正時代に接した米騒動、労働争議に影響を受け、画家を志して浅野孟府とともに上京し、東京美術学校に入る。昭和三年から六年にかけてのプロレタリア美術大展覧会に「争議団の工場襲撃」「出発」「電産ストライキ」を出品する。昭和四年に日本プロレタリア美術同盟(PP)の結成に伴い、中央執行委員に選出されるが、「四・一六」で検挙拘留されてもいる。まだ同五年にはナップの『戦旗』に代わる機関誌として『ナップ』が創刊となり、編集局員として創刊号から表紙、挿絵、カットの他に「プロレタリア漫画の新しい任務」などの論文を寄せている。

 またさらにその後のナップ(全日本無産者芸術団体協議会)解体とコップ(日本プロレタリア文化連盟)の成立、PPを改称したヤップとコップへの弾圧の中での小林多喜二虐殺、それに際して油絵でデスマスクを写しとったこと、コップへの失望とヤップ解体へと続いていく。だが『ナップ』は未見だし、ナップ、コップ、ヤップの関係も錯綜しているので、ラフスケッチにとどめておくしかない。これらの事情は壺井繁治『激流の魚』でも同様であり、その時代の当事者においても、要領を得た説明は難しかったように思われる。

激流の魚―壷井繁治自伝 (1966年)

 そうしたプロレタリア美術運動と併走して、岡本の絵画は描き続けられてきたわけで、『岡本唐貴自選画集』のほうはその軌跡を鮮明に浮かび上がらせている。それに加えて『岡本唐貴自傳的回想画集』所収の「自伝走りがき」は知られざるプロレタリア芸術運動史を直截に物語り、ロシア革命を背景とする大正末期から昭和初期にかけての画家たちの動向を伝えていよう。そこで彼は書いている。

 私は神戸で、少年時代労働者街の近くに住み、又青年時代に神戸の東西にある工場地帯で、大きなストライキに出会い、身近な人達もそれらの動きとの関連があった。私は身をもって社会の底辺におかされたと覚悟したとき生きていく道は、階級闘争のあの生命力をつかむことだと深く感じた。私は三科運動(村山知義たちとのダダ的な作品と演劇の実践—引用者注)の崩壊を必然と受け止め、方向転換を志した。
 階級闘争による人間回復、個人主義から集団主義へ、ペシズムからオプチシズムへ、ダダ的な破壊から、絵画の新しい生命力の回復へ。ここで私は絵画をやめることは出来なかった。画家であることをもって新しい道に生きる。私にとって絵画は復活しなくてはならなかった。

 それらの作品を先述のプロレタリア芸術展覧会に出された「争議団の工場襲撃」「出発」「電産ストライキ」、及び「政治的集会」「防衛」に見ることができるし、それらに続言え「多喜二死面」も『岡本唐貴自選画集』に連なって収録されている。同書の巻頭に置かれた大正半ばの初期作品「夜の静物」「神戸灘風景」からダダ的な「失題」「ペシミストの祝祭」を経て、「絵画の新しい生命力の回復」をめざした先の一連の作品は、その時代に岡本が新たな「復活」を意図した力強さに充ちているといえよう。それらは『近代出版史探索Ⅴ』924の神原泰が「岡本唐貴君の絵画」(『同画集』所収)でいっているように、敗北主義的で陰惨になりがちな「日本のプロレタリア芸術に、明るい健康な面を寄与した」と確信できる。

 また戦中から戦後にかけての疎開した長野と思われる風景、それに「のぼる」と「てつ」の肖像画は白土三平と岡本鉄二の姿に他ならず、「兄弟」に描かれた二人の姿は後年の『カムイ伝』『カムイ外伝』の合作を暗示しているのではないかとも思われるのだ。それに『岡本唐貴自傳的回想画集』のほうには「疎開地にて」と題された昭和二十年の長女颯の誕生を雪の中で祝う一家を描いて、これも『忍者武芸帳』のヒロイン明美を彷彿とさせるのである。このように考えてみると、『忍者武芸帳』にしても、『カムイ伝』『カムイ外伝』にしても、白土一代にしてなったものではなく、岡本二代の家業によって成立したのではないかという思いも生じさせる。また昨年末に伝えられてきた二人の兄弟の相次ぐ死はそのことを強くイメージさせたのである。

カムイ伝全集 第一部 (15) (ビッグコミックススペシャル) カムイ伝全集 カムイ外伝 (1) (ビッグコミックススペシャル) 忍者武芸帳影丸伝 1 復刻版 (レアミクス コミックス)

 版元の東峰書房も詳細は定かではないが、岡本の「自伝走りがき」によれば、発行者の三ツ木幹人は昭和四年第二回からのプロレタリア美術展の原色版マッペ、絵葉書製作者だったようで、それらの出版を目的として東峰書房は発足したと推測される。そうした意味において、この版元はプロレタリア美術運動とともに歩み、戦後の昭和三十八年に最初の『岡本唐貴画集』を刊行し、その二十年後に決定版とでもいうべき『岡本唐貴自傳的回想画集・岡本唐貴自選画集』に至ったことになろう。その三年後の昭和六十一年に岡本は鬼籍に入っている。

(『岡本唐貴画集』)

 なおこれも『近代日本社会運動史人物大事典』によれば、東峰書房の三ツ木は三ツ木金蔵で、共産党赤色ギャング事件の関係者とされ、戦後に幹人と改名したようだ。 


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古本夜話1259 山崎斌編『藤村の手紙』と新英社

 前回の自然社に関する一文を書いた後で、浜松の時代舎に出かけ、山崎斌絡みの一冊を見つけてしまったのである。やはり続けて書いておくしかない。彼は既述したように、自然社から処女作長篇『二年後』を刊行し、それが前田河広一郎の、これも第一創作集『三等船客』巻末の一ページ広告に見えていた。

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 ただ時代舎で入手したのは小説ではなく、山崎斌編『藤村の手紙』で、菊判函入、上製二一五ページ、しかも函は深紅で、その上部中央に草色の題簽が貼られ、横組黒ぬきでタイトルなどが記されている。版元の新英社の住所は麹町区内幸町大阪ビル内、発行者は神田区神保町の山崎庄次郎とある。巻末広告によれば、既刊は吉川英治『草思堂随筆』で、定価も『藤村の手紙』が九十銭に対して、こちらは日本画家の中村岳陵による「釘・清製」、二円二十銭とされている。おそらく相当な美本のように見受けられる。

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 しかし藤村や吉川英治はともかく、新英社はここで初めて目にするし、山崎にしても馴染みが薄いので、『日本近代文学大事典』を繰ってみると、次のような立項に出会った。前半の部分を引いてみる。

 山崎斌 やまざきあきら 明治二五・一一・九~昭和四七・六・二四(1892~1972) 小説家、評論家。長野県東筑摩郡麻績村生れ。国民英学舎に学び、二三歳から漂浪生活に入り、「京城日報」編集等を経て大正八年朝鮮から帰京。「青年改造」を出したが帆足事件で解散。一〇年の処女作『二年間』をはじめ、『結婚』(大一一・一一 アルス)や短篇集『郊外』(大一一・一二 二松堂)『静かなる情熱』(大一二・五 アルス)、評論集『病めるキリスト教』(大一三・七 弘文社)などで名を成す。一三年二月、赤松月舟、鷹野つぎらと「芸術解放」を出し、『女主人』(大一三・九 アルス)『犠牲』(大一四・八 芸術解放社)、評論集『藤村の歩める道』(大一五・七 弘文社)などを刊行。しだいに風俗小説的な傾きを見せつつ、やがて「月明」を主宰。(後略)

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 この立項からは見えてこないけれど、山崎は藤村に師事していたらしく、そこに挙げられた『藤村の歩める道』以外にも、『藤村田園読本』が数冊編まれているようだ。『藤村の手紙』にしても、そうした山崎と藤村の関係から持ちこまれた企画と見なしていいし、その「はしがき」で、山崎は「新英社よりの懇嘱によつて、これが編著を行つた」と述べ、「全著作の中に求めて、消息を見るべき九十五冊を編したもの」と断わりが入っている。

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 それらは春夏秋冬の日とその他の雑に分かたれ、『近代出版史探索Ⅵ』1009、1010の『飯倉だより』や『仏蘭西だより』などからも引かれ、藤村の「好んで選ばれる手法が時に消息即ち手紙の体をなす」とも指摘している。つまりそれが藤村の採用する「だより」というタイトルに象徴されていることになり、山崎は次のように「はしがき」を結んでいる。

 或ひは古人にこたへ、或ひは知己に語り、或ひは後来に訓へたる各様の消息は、先生の情熱を内蔵していよゝゝ簡潔に、しかも即つて太しく香気して、編著をして善美の花鬘を編むおもひをさせた。以て一大詩集を纂むるの心であり、また最も真率清新なる書簡文範を輯むるのこゝろであつた。

 まさに『藤村の手紙』は師弟のコラボレーションによって成立した一冊であり、それを象徴するかのように、奥付の検印紙にはめずらしいことに藤村と山崎の二人の印が押されている。印税の取り分は定かでないけれど、師の弟子に対する相互扶助的配慮ということなろう。

 しかし昭和十年代の新英社もさることながら、大正時代後半の文学者たちと出版社をめぐる関係は前回の自然社を始め、錯綜していて判然としない。山崎の立項のところに『青年改造』の創刊と帆足事件による休刊とはどのような経緯と事情が絡んでいるのだろうか。続けて鷹野つぎたちとの『芸術解放』(芸術解放社、大正十三年)も挙がっているが、これは『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」に解題を見出せるけれど、何号出されたのかも不明で、創作も評論も際立ったものはないとされ、よくわからない印象を否めない。

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 それから鷹野つぎだが、拙稿「鷹野弥三郎、新秋出版社、『文芸年鑑』」(『日本近代文学館年誌資料探索』16所収、2021・3)において、彼女が夫の鷹野弥三郎とともに、新秋出版社を営み、初めての『文芸年鑑』や『文壇出世物語』(復刻 幻戯書房)を編纂刊行していたことを指摘しておいた。

www.bungakukan.or.jp文壇出世物語

 これらの文学者たちといくつもの出版社をめぐる謎と関係のことを考えるにつけ、『近代出版史探索Ⅳ』557の筑摩書房版『大正文学全集』が未刊に終わったことが悔やまれてならない。


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