出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1292 前田河広一郎『セムガ』と田口運蔵

 ここで日本へと戻る。本探索1253の日本評論社『日本プロレタリア傑作選集』に前田河広一郎の『セムガ』があったことを覚えているだろうか。

 この『セムガ』は入手していないけれど、「セムガ」はタイトル作の他に「長江進出軍」「太陽の黒点」を収録した作品集の『文芸戦線作家集(二)』(『日本プロレタリア文学集』11)や三一書房の『日本プロレタリア文学大系』4で読むことができる。それらは日本評論社版と異なり、「セムガ(鮭)」と表記されているので、タイトルだけでは意味不明の「セムガ」が「鮭」のことだとわかる。

 

 もはや前田河と同じく、「セムガ」も 読まれていないと思われるし、こうした機会を得たこともあり、この中編を読み直してみたい。それは露領カムチャツカを舞台とし、日本から船ではこばれてきた百七十人が極北の寂寞とした土地へと上陸し、その丘の小舎にたどりついたところから始まっている。彼らのうちの七人が幹部で、一人が「船頭」、他の六人は「小頭」で、一人が「副船頭」、五人は「人夫廻し」と呼ばれ、漁場を支配する側に立っていた。残りの百六十三人は大急ぎでかき集められた「大都会の失業者や、寒い日蔭の県の貧農」で、「絶対窮乏の背景から抽出(ひきだ)されて、北へ、沖へ、カムチャツカへと、自分の労働力を捨売り」する状況にあった。

 まず彼らは船から食料などの貨物を運ぶ荷役が終ると、「船頭」たちの幹部小屋、倉庫、飯場、番屋、機関小屋、罐詰工場などの小舎掛けに忙殺された。しかもオーロラゆえに夜も定かでないことから、労働時間は午前二時から午後十一時頃まで続くのだった。幹部部屋は丸太と蓆(むしろ)からなる他の小舎と異なり、近代的装置としてのガラス窓、ピストルやモーゼル銃、生活必需品も備わり、「この行政執行機関の本部は浜一般を三角形に見た絶頂点に在つて、飯場(中略)などの造営物へ、おのおの最近距離によつて達する通路を持ち、窓からはガラスと云ふ物の特質から、一目でベーリング海の沖積様が展望された」のである。まさにカムチャツカの漁場においても、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社)でいっているパノプティコン方式が採用されていたことになる。そうした漁場の資本と労働の対立が意識されていく中で、ひとつの事件が起きていく。 
監獄の誕生<新装版> : 監視と処罰

 それは朝鮮人の伊がロシア人漁場から逃れてきたといって、番屋に助けを求めにきたことから始まる。「船頭」たちは彼が「赤化宣伝」のために日本人に化け、やってきたのではないかと疑う中で、番屋の寝床に「撒(まき)ビラ」が発見される。そのビラは「日本人労働者諸君! 諸君労働者ハ、誰ノ為メコノ露領かむちゃつかへ来て労働スルノカ?」と始まるもので、各人の布団や枕の下に挿入され、百八十五枚に及んでいた。これらは伏字だらけで、全文は読めないけれど、明らかにロシアの労働条件の正当例に対して、日本の惨状を訴えるものだった。

 伊は姿を消していたが、その事件以後、「船頭」たちは警戒態勢に入る一方で、ロシアの国家保安部の仕官と税関吏の訪問を受ける。そしてウォツカ流用の「外交」が始まり、日本側のビラへの抗議に対して、その朝鮮人は日本国民だし、ソヴィエト・ロシアは何の責任もない。それよりもこれを本国の会社に送り、「労働者の待遇改善」を図るべきだと応じるのだった。しかしすでに「赤色労働組合(プロフインターン)」が結成されようとしていたのである。

 それから「船頭」たちによるカムチャツカの漁業の「前哨兵」たる労働者への酒とぼた餅の祝宴の一夜が明けると、戦争のような鮭と鱒漁業、罐詰工場での作業、労働者たちの病いの発生と脱落、それに幹部たちの血みどろの暴力が描かれ、ついに労働者たちは立ち上がり、労働条件の改善などを突きつけ、ストライキへと突入するのだ。だがこの蜂起とクロージングに至る章もまた伏字処理が施され、検閲の時代をあからさまに浮かび上がらせていよう。

 この「セムガ」は『プロレタリア文学資料集・年表』(『日本プロレアリア文学集』別巻)によれば、『改造』の昭和四年十一月号に発表されているので、同年の『戦旗』五、六月号に掲載された小林多喜二『蟹工船』とのコレスポンダンスを推測できるし、そのように読まれたと考えていいだろう。それに実はこの作品とタイトルに関して、本探索1286の田口運蔵が絡んでいたのであり、荻野正博『弔詩なき終焉』において、その事実を知ることになった。荻野は書いている。
 弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵 (1983年)

 運蔵は三月十三日付「読売新聞」に「『セムガ』謝罪」と題する小文を寄せている。前田河広一郎『セムガ(鮭)』(『改造』一九二九年十一月号)は、運蔵が前年秋に上京、前田河宅に寄留していた際、創作されたものであったが、前田河はその作品中に用いるロシア語について運蔵に質問した。運蔵は「ロシア語の知識が非常に不足なので、さっそく友人Kを訪れ、色々と教えられて帰り」、それを前田河に告げた(友人Kとはソ連滞在の長い近藤栄蔵であろう)。ところが、この作が発表されると、「セムガ」なるロシア語はない、鮭なら「セヨムガ」であり、複数なら「セムギ」であるとの批判が貴司山治より、「読売新聞」紙上でなされた。(中略)運蔵は次のように釈明している。私は生来東北弁で、外国語はもちろん、日本語においてさえも難しい発音をよく間違える。前田河に伝えるとき、「ショムガ」と発音すべきを「セムガ」とやったのである。ちょっとした日本語の発音の不純がかくも重大な結果となった。「鮭」の作者と読者諸君にお詫びすると。(後略)

 それではどうして単行本にあたって、訂正されなかったのだろうか。『日本プロレタリア傑作選集』版の刊行は本探索1255で既述しておいたように、昭和五年一月であり、貴司の指摘は『改造』掲載ではなく、この単行本化を通じてのものだったとわかる。そのために訂正の機会を逸し、「セムガ」でそのまま用いられてきたことになろう。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com 

[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1291 ボリス・スヴァーリン、ジョルジュ・バタイユ、セルジュ『一革命家の回想』

 『エマ・ゴールドマン自伝』において、最も長い第52章「ロシア一九二〇-二一年」のところに、ロシアを訪れてきたヨーロッパラテン諸国共産党のグループへの言及がなされ、その中でも、フランス共産党員のボリス・スーヴァーリーヌが「最も思慮深く鋭い質問者だった」とエマに評されていた。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉

 ところが『同自伝』刊行後、読者から葉書が届き、スーヴァーリーヌはスヴァーリン表記が正しいとの指摘があった。この英語表記はSouvarineで、私もどちらにすべきか迷ったのだが、参考資料として読んでいたヴィクトル・セルジュの『母なるロシアを求めて― 一革命家の回想』『母なるロシアを追われて― 一革命家の回想』(上下、山路昭、浜田泰三訳、現代思潮社、昭和四十五年、 Mémoires d’un Révolusitonnaire ,1951)ではスーヴァーリーヌ表記で、それに従ったのである。しかも同書の第四章は「危険はわれわれのなかにある 一九二〇-二一年」はエマの『自伝』の第52章に匹敵するもので、同じロシア革命の変質とクロンシュタット叛乱についての証言となっている。セルジュは亡命ロシア人を両親としてベルギーに生まれ、十代でフランスのアナキズム運動に参加し、ロシア革命の勃発に伴い、一九一九年に交換収容者としてロシアへ帰国し、エマと同じボリシェヴィキによる恐怖政治の実態を目撃することになったのである。

MEMOIRES D'UN REVOLUTIONNAIRE

 そしてセルジュは「戦時共産主義」の内実を描いていく。そこにはモスクワの第三回インターナショナル大会にやってきたフランスのスーヴァーリーヌたちとトロツキーのやり取りも言及されている。またエマも登場し、クロンシュタット叛乱をめぐっての対応で、二人の関係が難しくなったことも述べられている。そのためか、エマのほうではセルジュに関する言及もなく、そこに描かれてもいないので、前々回のエマとバラバノフの対応をめぐる記述の相違とも異なり、エマによってセルジュは無視されたと考えるしかないのである。

 それらはひとまずおくとしても、問題はスーヴァーリーヌ=スヴァーリンのことで、彼は『近代出版史探索Ⅵ』1194のジョルジュ・バタイユの「黒い天使」であるロール=コレット・ペニョの愛人だった。その事実はミシェル・シュリヤ『G・バタイユ伝』(西谷修他訳、河出書房新社)や桜井哲夫「バタイユと『民主共産主義サークル』」(『「戦間期」の思想家たち』所収、平凡社新書)によって明らかにされるだが、そのスヴァーリンが『エマ・ゴールドマン自伝』『一革命家の回想』下のスーヴァーリーヌと同一人物だとはしばらく気づかないでいた。

G・バタイユ伝〈上 1897~1936〉  「戦間期」の思想家たち レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ

 それはスーヴァーリーヌ表記を採用したこともあるけれど、かつてロール遺稿集『バタイユの黒い天使』(佐藤悦子、小林まり共訳、リプロポート)を読んでいて、バタイユによってロールの愛人はフランス共産党創立者のレオン・ブニンだとされていたことが記憶に残っていたからだ、なぜなのか。その後スヴァーリンと修正されたようだが。

バタイユの黒い天使―ロール遺稿集

 しかしあらためて『エマ・ゴールドマン自伝』とスヴァーリンの関係を喚起させてくれたのは、『「社会批評」のジョルジュ・バタイユ』(『水声通信』34、二〇二一年第一号)のアンヌ・ロシェを聞き手とする「五十年後、ボリス・スヴァーリンは回想する」(安原伸一郎訳)であった。ここで紹介されているスヴァーリンのポルトレは、一八九五年ユダヤ系の両親の間にキエフで生まれ、フランスで教育を受け、本名ボリス・リフシッツで、スヴァーリンは筆名で、拙訳もあるゾラの『ジェルミナール』の登場人物からとられたのだ。
www.suiseisha.net ジェルミナール

 スヴァーリンは一九三一年に民主共産主義サークルのメンバーと『社会批評』を創刊する。それらのメンバーはスヴァーリン、バタイユ、ミシェル・レリス、シモーヌ・ヴェイユなどからわかるように、私のタームを使えば、政治、文学、哲学、美術などの「混住」といっていいグループだった。それこそヴェイユは先の『同Ⅵ』1194のバタイユ『青空』の登場人物のモデルとされている。しかもこの雑誌の出資者はコレットで、三四年までに十一号が刊行されたが、その間にコレットはバタイユと出奔し、三八年に彼に看取られて亡くなっている。そのことでバタイユとスヴァーリンとの間には禍根が残され、後者の五十年後の「回想」にもそれは揺曳している。ただそれも含めてこの『水声通信』の特集は『社会批評』という雑誌を再考する貴重な試みだったと見なせよう。

 それにスヴァーリンはインタビューで、『エマ・ゴールドマン自伝』にもふれ、エマたちとの関係はすばらしいもので、「至極真っ当な批判は、ソヴィエト体制の現実について私に多くを教えてくれました」し、その本は「ソヴィエト国家の歴史についてきわめて真摯な論考となっています」と語っている。またインタビューはヴィクトル・セルジュが二八年にソ連から追放され、フランスでスターリニズムを批判する著書を刊行した事件と『社会批評』の関係についても問うているが、それに対して、スヴァーリンは応えている。この事件を引き起こした著作は『母なるロシアを追われて― 一革命家の回想』下から類推すれば、『文学と革命』だったと思われるが、日本では未邦訳であろう。

[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1290 エマ・ゴールドマンとシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店

 『エマ・ゴールドマン自伝』において、前回既述しておいたように、スペイン内戦やガルシア・オリベルとの関係はふれられていない。それはこの『自伝』がクライマックスというべき第52章「ロシア一九二〇~二一年」で実質的に閉じられているからである。彼女が自伝を書き始めたのは一九二九年、その死は一九四〇年なので、まだエマには語り継がねばならない二十年近くの歳月が残されていたのだし、三〇年代のスペイン内戦こそはその最たるものだったように思える。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉

 それだけでなく、まだ明かされていない多くの事件や出来事があったにちがいなく、そのひとつにパリのシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店との関係が挙げられる。私がその事実を知ったのは、その書店を立ち上げたシルヴィア・ビーチの評伝を読んだことによっている。それはN・R・フィッチ『シルヴィア・ビーチと失われた世代』(上下、前野繁他訳、開文社出版、昭和六十一年)においてである。

シルヴィア・ビーチと失われた世代―1920,30年代のパリ文学風景〈下巻〉

 それに加えて、アドリエンヌ・モニエ『オデオン通り』(岩崎力訳、河出書房新社、昭和五十年)やシルヴィア・ビーチ『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』(中山末喜訳、同前、同四十九年)などを参照し、「オデオン通りの『本の友書店』」「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」(いずれも拙著『ヨーロッパ 本と書店の物語』所収、平凡社新書、平成十六年)を書いている。

 シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店 (KAWADEルネサンス)  ヨーロッパ 本と書店の物語 (平凡社新書)

 これらのパリの書店について、簡略に紹介を試みよう。本の友書店は一九一五年にアドリエンヌ・モニエがパリのオデオン通りに開いた書店で、近代文学を中心とし、古本や貸本も兼ねていた。二十世紀を迎えてのフランス近代文学やリトルマガジンの胎動、新しい出版社の誕生と出版業界の変貌の中にあって、その書店は一つの新たな文学サロンを形成していくことになる。それはリトルマガジンの販売や発売所を引き受けたことにも示され、アンドレ・ブルトンの『文学』の発売所でもあったし、シュルレアリスム運動も本の友書店から始まっていて、ヴァレリーの『旧詩帖』、ジョイス『ユリシーズ』仏訳の出版も手がけてもいた。モニエは「文学の修道尼」として、この「まさしく魔法の部屋」のような書店を三十五年にわたって営んでいたのである。

一方で、アメリカ人のシルヴィア・ビーチはフランス近代文学を研究するつもりで、一九一七年パリに到着し、ポール・フォールのリトルマガジンの『詩と散文』がそこで売られていると聞き、本の友書店を訪ねた。そしてオデオン通りの店で、二人は宿命のように出会ったのだ。シルヴィアは語っている。「当時このオデオン通りを発見し、この興味深い文学生活に参加したアメリカ人は私一人だった」と。

 シルヴィアはパリでアメリカの本を売ることを構想し、モニエの助言を受け、一九年にフランスで初めての英語で書かれた本を専門に扱うシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店開店した。この時代において、イギリスやアメリカの現代作家、詩人の作品はスランス語に翻訳されておらず、高価だったので、貸本部門は好評だった。サルトルやボーヴォワールも貸本文庫の会員となり、多くの英米文学を読破していたし、ヘミングウェイ、ドス・パソス、「小説についての我々の概念を一変せしめたフォークナー」も、そのようにして読まれたのである。

 それにヘミングウェイもドス・パソスも「パリのアメリカ人」として、シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店の常連客だった。そのことをヘミングウェイは『移動祝祭日』(福田陸太郎訳、岩波文庫)で書いている。彼らにシャーウッド・アンダーソン、エズラ・パウンド、ガートルード、タイン、アリス・B・トクラスたちも続いた。『近代出版史探索Ⅵ』1015でも言及しているが、先の拙稿から引いておこう。

移動祝祭日 (同時代ライブラリー)

 これが一九四一年まで続くことになるシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店の始まりであり、以後この店を中心として特異な現代文学史、文化史が形成されていく。そしてカレードスコープのように多彩な人物たちが登場し、文学と書店の関係が最も輝いていた時代を映し出すのである。フランス人文学者、在仏アメリカン人作家、失われた世代の若き人々、イギリスやアイルランドの詩人や作家、亡命ドイツ人、写真家、ロシアの映画監督が出入りし、散じていくトポスとして、シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店はあり続けた。しかも多くの小出版社を派生させ、現代文学の源泉のような役割を果たすことにもなる。

 そしてついに開店一年目の一九二〇年夏にジェイムズ・ジョイスも登場し、エズラ・パウンドとともにシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店を出版社へとならしめ、『ユリシーズ』の上梓へと向かっていく。本の友書店の客たちも含めて、予約購読も募られ、オデオン通りの二つの書店を後戸として、二二年二月に『ユリシーズ』は出版され、ジョイスは新しいヨーロッパ文学のスターとしての名声を確立するに至ったのである。それは日本も例外でなく、この『ユリシーズ』は日本へも輸入され、これも『近代出版史探索Ⅵ』1015の第一書房の伊藤整たちの翻訳へとリンクしていくのである。

(第一書房版)

 その当時、エマ・ゴールドマンもシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店を訪れていたようで、シルヴィアとの関係は詳らかでないが、先のフィッチの著書によれば、彼女から『ユリシーズ』を献本されている。

 それからベンヤミンの『パサージュ論(四)』(岩波文庫)の訳者の一人である塚原史による解説「『パサージュ論』とパリのベンヤミン—同時代人の回想を中心に」の中で、アドリエンヌ・モニエの証言が引かれ、一九三〇年に彼が本の友書店を訪れ、常連となり、彼女がベンヤミンを最も精神的に近い近代文学者と見なしていたことも明かされている。エマもまた、ベンヤミンと会っていたように思われてならない。

パサージュ論 第4巻 (岩波現代文庫)

[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1289 『エマ・ゴールドマン自伝』をめぐって

 前回のインターナショナリスト田口運蔵をめぐる様々な人脈などにリンクして、拙訳『エマ・ゴールドマン自伝』を例にとり、承前的な数編を書いておきたい。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉 エマ・ゴールドマン自伝〈下〉

 これから田口に関連する日本、アメリカ、ロシア、ドイツなどの社会主義人脈に分け入っていくつもりだが、自戒しておかなければならないことが多い。それは二十世紀前半という戦争と革命の時代が近代ジャーナリズムと出版の成長期でもあり、それぞれの分野において、多くの自伝や手記、評伝や研究書が書かれ、史資料、証言集や記録集も編まれ、出版されている。そのために分野によっては汗牛充棟の状態にあるようにも思える。しかし歴史と人間の謎は奥深く、すべての真相が明らかになっているとはいえず、ロシア革命と第一次世界大戦、ナチズムとファシズム、スペイン市民戦争とスターリズムなどは、現在でも新たな評伝や研究書の出現を見て、教えられることが多い。

 それらの問題は日本においては大正時代、世界的には一九二〇年代論としても考えらえるので、朝日ジャーナル編『光芒の1920年代』(朝日新聞社、昭和五十八年)、『1920年代の光と影』(『現代思想』臨時増刊総特集、同五十四年)も視野に入れたいのだが、それを試みると、とめどもなくなってしまうし、ここでは断念するしかない。

 現代思想 1979年6月臨時増刊 総特集=1920年代の光と影

 それにまた戦争と革命の時代は、亡命とスパイと裏切りの世紀でもあり、必然的にダブルスパイの跳梁する色彩も強い。そのためにひとつの事件や出来事をめぐっても証言は当事者によって異なり、それが国際的に錯綜していくことを前提としなければならない。それを痛感したのは二十年ほど前に『エマ・ゴールドマン自伝』(小田透共訳、上下、ぱる出版、平成十七年、Emma Goldman ,Living My Life , 1931)を翻訳した際にだった。

Living My Life, Vol. 1 Living My Life, Vol. 2

 エマは戦前において、アナキズムのみならず、女性解放運動の先駆者の一人であり、国際的にもスーパーヒロインにして、革命のミューズ的な存在であった。アメリカの強権主義体制への果敢な批判者であるノーム・チョムスキーもエマの影響を受けていることはよく知られていよう。しかしそのエマの自伝は四百字詰原稿用紙三千枚を超える大部のもので、日本のアナキズム陣営やいくつかの出版社でも翻訳は試みられたようだが、実現に至らず、原書の出版からほぼ七十年後に、私たちによって初めて完訳されたことになる。

 彼女の自伝の詳らかな成立経緯と事情は明らかではないけれど、前半と後半では文体が異なり、複数の口述筆記担当者の存在がうかがわれるし、そこには明らかにされていない編集問題も絡んでいるのだろう。アナキズム、社会主義、フェミニズム人脈だけでなく、二十世紀初頭から第二次世界大戦の間の思想、文学、美術、演劇史においても重要な人物たちが交錯している。

『近代出版史探索Ⅵ』1159で、エマを取り巻く人々の一人であるジェイムズ・ヒュネカーにふれた際に、別巻として『エマ・ゴールドマン自伝登場人物事典』を編むつもりだったことを既述しておいた。これが実現すれば、戦前のアナキズムから文学、思想史などに及ぶ広範な人々が一堂に会すツールとなるはずであった。ところがゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」十三作の翻訳と編集に没頭せざるをえなくなり、機会を失ってしまった。

 しかしそれでも『エマ・ゴールドマン自伝登場人物事典』の参考資料として、翻訳過程と同様に、それらの人々の自伝や評伝を読み続けてはいた。するとエマと記述と相反する証言に出会うことになったのである。それをまずエマのほうから示す。エマはコロンタイに続いて、同じくロシアの代表的女性コミュニストのアンジェリカ・バラバノフに会いに行く。

 彼女の大きな物哀しい目の中には知的な深見、哀れみの気持ち、優しさが光っていた。彼女が全生涯を捧げてきた民衆への敬意、故国の陣痛、虐げられた者への苦しみがその青白い顔い深く刻まれていた。具合の悪さがすぐにわかり、小さな部屋の寝椅子にもたれこんでいたが、すぐに私に対して全面的興味と関心を示し始めた。(中略)
 私は寝椅子に近づき、すでに灰色の縞になっている彼女の厚く結んだ黒髪をなでた。彼女は自分をアンジェリカと呼んでほしいと言って、私を胸に引き寄せた。(後略)

 同じシーンをバラバノフの『わが反逆の生涯』(久保英雄訳、風媒社、昭和四十五年)からも引いてみよう。

 彼女(エマ―引用者)が私をたずねてきたとき、私は自分の身近に起ったばかりのできごとのため、まだ病気で寝こんでいた。彼女と話を始めると、彼女は突然黙ってしまい、泣き崩れたのである。この突然の涙の中にこそ彼女はつもりつもった憤慨と幻滅、彼女が目撃したり耳にした不正にたいする痛恨をふり注いだのであった。(後略)

 この後、アンジェリカの手配でエマは一緒にレーニンと会うのだが、エマのほうはアンジェリカが同席したとは書いていない。女性同士のささいな思い違いや見栄の部分もあるかもしれないが、このような重要なシーンにおいても、異なる証言が残されたことになる。

 そうした事実は続いて編集に携わったガルシア・オリベルの『過去のこだま』(仮題、ぱる出版刊行予定、Garcia Oliver , El eco de los pasos , 1978)でも、千ページを超える大著の翻訳者の労とともに思い知らされた。オルベルはスペインのCNT(全国労働連合)やFAI(イベリア・アナキスト同盟)の指導者で、共和国の司法大臣を務め、ヒュー・トマス『スペイン市民戦争』(都築忠七訳、みすず書房)やバーネット・ボロテン『スペイン革命―全歴史』(渡利三郎訳、晶文社)にも主要人物として挙げられ、『日本アナキズム運動人名事典』にも立項がある。

 EL ECO DE LOS PASOS: EL ANARCOSINDICALISMO En la calle En el Comité de Milicias En el gobierno En el exilio (Spanish Edition) スペイン革命 全歴史 日本アナキズム運動人名事典

 ところが一九三〇年代のスペイン内戦はファシズムとの戦いだっただけでなく、激烈な内部抗争、イギリスやドイツなどの列強の思惑、ソ連の介在などに象徴される、まさにインターナショナルな「仁義なき戦い」の様相をも呈していた。例は挙げないが、オリベルの著者はとりわけその内幕に迫っていて、それまでのスペイン内戦を異化させてもいる。そのためにやはり多くの資料を参照しながら編集を進めたのだが、様々な神話に包まれたスペイン内戦の謎の深さを実感させられたのである。

 ちなみに『エマ・ゴールドマン自伝』にはそこまで書かれていないが、エマはその後バルセロナでオリベルと出会い、CNTの代表として国際情宣を担当し、イギリスを始めとして講演行脚を続けた。だが一九三八年にフランス軍がバルセロナやマドリッドを陥落し、多くのスペインアナキストたちが殺戮され、オリベルも亡命を余儀なくされた。彼の『過去のこだま』はそれを描いているのである。だが残念なことに出版社の事情で、いまだに刊行されていない。


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1288 荻野正博『弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵』

 少し飛んでしまったが、本探索1272でふれたトロツキイ『自己暴露』の実質的な翻訳者と思しき田口運蔵に関して、『近代出版史探索Ⅱ』389のウェルズ『生命の科学』の訳者の一人としても挙げているが、荻野正博『弔詩なき終焉』(御茶の水書房、昭和五十八年)が出されていることをしり、入手した。それは本探索1265で書いているように、地方の小出版社からひっそりと刊行された平輪光三『下村千秋 生涯と作品』もかつて偶然に購入し、様々に教示されたことがあったからだ。

 弔詩なき終焉―インターナショナリスト田口運蔵 (1983年)  

 それに近年地方大学の人文系の教授たちから出版の相談を受ける機会が続けて生じ、おそらく平成に入ってのことだろうが、それまでは存在していた人文系研究者、専門学会、出版社や編集者といった三位一体の関係が成立しなくなり、失われてしまったことを実感したからでもある。昭和の時代までは平輪や荻野のように、大学アカデミズムに属していなくても、各地方の篤学な仕事を出版に至るまでフォローする版元や編集者が必ず近傍に求められ、そのようにして人文系出版物のベースは築かれていたと思われる。しかもそれらが公的な県史や市史などの出版物の間隙を埋める文化、社会史的機能を果たしていたといえよう。

 荻野の『弔詩なき終焉』もそうした期待に応える労作で、この「インターナショナリスト田口運蔵」というサブタイトルを付した一冊には多くのことを触発、教示されたので、続けて数編を書いてみたい。

 荻野は田口と新潟県新発田市の郷里をともにし、田口の生家と荻野の亡父の実家が地続きの隣家であったこと、それに田口の従弟からも運蔵伝を慫慂されたという事情も加わり、「忘れられた革命家・田口運蔵の生涯を可能な限り復元することを目的とした伝記」として仕上がっている。その著者ならではの試みは成功しているといっていい。その資料博捜を示す労作ぶりは一三ページに及ぶ「田口運蔵年譜・著作目録」にもうかがえる。実際のところ、『日本プロレタリア文学集』別巻の『プロレタリア文学資料集・年表』には田口の名前も作品も見当らないのである。

 まず私の関心からいえば、田口は『文芸戦線』(昭和三年史四月号)に「エンマ・ゴルドマン」を寄稿している。これは初めて知るし、未見で、田口は『エマ・ゴールドマン自伝』に出てこないけれど、エマたちは日本政府に対する大逆事件抗議運動を展開したこともあり、ニューヨーク、もしくはモスクワで田口と出会っていたことは十分に考えられる。いずれ田口の一文を読む機会を見つけよう。

エマ・ゴールドマン自伝〈上〉

 さてそれはともかく、トロツキイの『自己暴露』の翻訳についてはまったく言及されておらず、また田口の昭和に入ってからの軌跡を追ってみても、荻原もその晩年を第六章「生活苦と病気とのたたかい」でトレースしているように、トロツキイの大著を翻訳する体力も時間もなかったことは明白である。『自己暴露』、続編『革命裸像』が昭和五年に相次いで刊行されている事実を考えても、田口の名前が挙がっているのは翻訳カンパ的配慮に起因していると見なすしかない。とすれば青野季吉がともに挙げていた長野兼一郎が実質的に翻訳を担ったことになるのだろうか。ただ二冊の分量からしても長野一人だけに負わせるわけにはいかないし、ここにまたひとつ、左翼文献の翻訳の謎が加わったことになろう。

 それからあらためて教えられたのは田口に著書が三冊あったことで、その一冊が『赤旗の靡くところ』で、昭和五年に文芸戦線社出版部から刊行されている。これは『改造』に発表された小説「密航者となるまで」を始めとする作品集だが、荻野が当時の評を引いているところによれば、田口の作品は小説というよりも、すべて放浪記、ただの記録として読まれたようで、田口の本領は海外体験に裏打ちされた評論のほうにあったとされる。この「密航者となるまで」は本探索1278の葉山嘉樹の勧めによって書かれ、同1258の前田河広一郎がそれらをまとめた『赤旗の靡くところ』として文芸戦線社に持ちこんだものだ。定価九十銭、初版千部はほぼ売り切れ、田口の医者への支払いに回されたという。

新・プロレタリア文学精選集 7 赤旗の靡くところ (ゆまに復刻)

 それは意外でもないけれど、あらためて驚かされたのは、田口がやはり昭和五年に大衆公論社から『赤い広場を横ぎる』『世界を震撼さすスターリン―その人物と彼が事業』を出していたことである。これは失念していたけれど、『近代出版史探索Ⅵ』1183で、同1182のゾラ『ジェルミナール』の訳者伊佐襄のユスポフ『ラスプーチン暗殺秘録』を刊行した大衆公論社にふれたが、その際に既刊書として田口の『赤い広場を横ぎる』も挙げておいたのである。

(『赤い広場を横ぎる』)

 伊佐にしても田口にしても訳者と著者の立場は異なるにしても、『赤い広場を横ぎる』はもちろんだが、ラスプーチンといい、スターリンといい、同様のロシア物であるので、やはり持ちこんだ人物が同じであったか、大衆公論社がそうした傾向の版元だったとも考えられる。しかしこれまたプロレタリア運動関係の出版者も企画や人脈が錯綜していて、その視界は定かでない。

 またこれも『弔詩なき終焉』で気づかされたのだが、みすず書房の『現代史資料』14に田口の一九二一年のコミンテルン第三回大会における演説が収録されていたのである。これは大会議事録として残されていた資料で、編纂者の山辺健太郎は「でたらめもまた甚しい」「山師」の発言だと断罪しているが、多少の誇張はあるにしても、「でたらめ」ではなく、それなりの「信憑性」があることを、荻野は論証している。

 (『現代史資料』14)

 この『現代史資料』14は『社会主義運動(一)』で、一九一七年から四三年にかけての日本共産党のテーゼ・綱領・決議・指令など九七点を収録した一巻である。実は私も「山辺健太郎と『現代史資料』」(『古本屋散策237、日本古書通信2021年12月号所収』を書いているのだが、山辺に気を取られ、田口のコミンテルン演説を見落としてしまっていた。記録や資料をめぐる当事者と編纂者の問題に関しても、慎重に細心の中止が必要であることを痛感した次第だ。


odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら