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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1362 金園社の実用書と矢野目源一訳『補精学』

 かつて「実用書と図書館」(『図書館逍遥』所収)を書き、日常生活に役立つことを目的とする実用書出版社にふれたことがあった。実用書はそうしたコンセプトゆえに、生活と時代の要求に寄り添い、ロングセラーとして版を重ねているものが多いのだが、文芸書や社会科学書と異なり、書評の対象となることは少ない。それは小説や詩に象徴されるように、かつての書物の基本的イメージは無用の用にあることが前提をなっていたからだと思える。

図書館逍遥

 これは近代出版業界の常識で、二十年前に拙稿を記した時代にも当てはまる構図だった。ところが今世紀が進行するについて、そうしたパラダイムは解体され、実用書自体がビジュアル本にしてセレブティビジネスと化し、パブリシティも活発となり、出版物のジャンルの境界も曖昧になってしまったように見受けられる。そうした事実は生活と実用書の意味のドラスチックな変容を物語っていよう。しかしそれでも変わっていないのは、それらの実用書出版社が社史と全出版目録を刊行していないことだ。

 そのために実用書の歴史をたどろうとすれば、それを入手し、巻末の出版広告などから追っていくしかないのだが、二十世紀の実用書にしても、古本屋で見かけなくなっている。私が注視している実用書出版社に金園社があり、拙稿「北上二郎訳『悪の華』」(『古本屋散策』所収)の版元、『近代出版史探索Ⅱ』286で創業者と金鈴社の関係、『同Ⅴ』866の「大木惇夫詩全集』を刊行していることなどに言及してきた。だが今世紀に入って、この金園社も『本の世界に生きて50年』(「出版人に聞く」5)の能勢仁の仲介で、M&Aされたこともあり、もはやその歴史と全出版物を詳らかにすることは難しいだろう。やはり社史も全出版目録も残されていないからだ。

古本屋散策  本の世界に生きて五十年―出版人に聞く〈5〉 (出版人に聞く 5)

 そうした中で、私が参照しているのは石川雅章『奇術と手品の遊び方』(昭和三十四年)で、金園社の「実用百科選書」として出されている。その巻末広告には「趣味と実益の泉・金園社の実用書」「評判と売行の良い金園社版娯楽叢書」としては百冊ほどが並び、詩人の大木惇夫の『詩の作法と鑑賞の仕方』はわかるにしても、矢野目源一『娯楽大百科』や津村信夫『余興演芸・かくし芸』は意外であったというしかない。だが津村は戦前に亡くなっているので別人であろう。矢野目は『近代出版史探索』57で、異能の翻訳者として紹介しているが、ここでは『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。

奇術と手品の遊び方 (1956年) (実用百科選書)    

 矢野目源一 やのめげんいち 明治二九・一一・三〇~昭和四五・一〇・一二)詩人、小説家、随筆家。東京生れ。慶大仏文科卒、はじめ詩人として活躍、柳沢健の「詩王」
堀口大学の「パンテオン」「オルフェオン」に拠る。代表的詩集は竹友藻風の序文のある『光の処女』(大九・五 籾山書店)、日夏耿之介の序文のある『聖馬利亜の騎士』(大一四・五 籾山書店)など。ついで「軽文学」の新分野を開拓、とくに艶笑文学では戦後随一と好評を得た。小説集に『風流色めがね』(昭二九・五 住吉書店)、随筆集に『幻庵清説』(昭二八・七 日本出版協同株式会社)、『席をかえてする話』(昭三〇・一〇 美和書院)があり、アンリ・ド・レニエの翻訳『情史』(昭三六 操書房)もある。

 矢野目はこの立項には記されていないが、拙稿で示しておいたように、シュウオップ『吸血鬼』(新潮社、大正十三年、後に『黄金仮面の王』、コーベブックス)、ベックフォード『ヴァテック』(春陽堂、昭和七年、後に牧神社)の他に、ウイリイ『補精学』(国際文献刊行会)がある、この『補精学』は梅原北明をパートナーとする『近代出版史探索』17の伊藤竹酔が刊行したもので、発禁処分を受けたこともあり、先の拙稿を書いた際には入手していなかったが、その後購入している。

黄金仮面の王 (1975年) (南柯叢書) (コーベブックス)ヴァテック―亜刺比亜譚 (1974年) (『ヴァテック』牧神社)

 しかも立項にある「軽文学」の開拓とか、「艶笑文学では戦後随一」との評はこの『補精学』と梅原出版人脈が交差したところで成立したように思われる。矢野目はその訳者「序」で「もしここに青春を永久にすべきマンナの醍醐味あり、オリンポスの神々が陶酔した永遠の春を楽しむ神酒(ネクタア)あり、桃源仙境の霊丹ありとせば如何。人類の福祉ここに極はまると言ふも敢えて過言に非るべし」「美と恋と不老長生の人生愉悦の福音書はこれ。一読して永世の福祉に急げ」と宣言されている。

 私が矢野目を知ったのは吉行淳之介の『私の文学放浪』(講談社)において、戦後の艶笑文学と補精学を実践しているような人物としてだった。それから種村季弘の『壺中庵奇聞』(青士社)で、フランソワ・ヴィヨンの矢野目訳「卒塔婆小町」を知り、彼が詩人として出発し、フランス文学の翻訳者でもあったことを教えられたのである。

私の文学放浪 (講談社文芸文庫ワイド)  

 どのような経緯と事情で、矢野目が金園社「実用百科選書」の『娯楽大百科』の著者となったのかは不明だが、おそらく編集者との関係からだと推察するしかない。金園社には詩人にして、後に戦争小説や時代小説を書くに至った伊藤桂一も在籍していたことだけは付記しておこう。

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