出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1109 松本清張『Dの複合』と重松明久『浦島子伝』

  『群書類従』に関して、もう一編書いておきたい。それはその第九輯に収録された「浦嶋子伝」をめぐってである。そういえば、『近代出版史探索Ⅴ』979でふれた大江匡房の「傀儡子記」なども同輯に見出せるし、確認に至っていないけれど、多くの古典籍に出典はまず『群書類従』に範を仰いでいるのかもしれない。

近代出版史探索Ⅴ

 これも三十年以上前のことになってしまうが、現代思潮社からそれまでの西洋版ではない「日本の各時代のベストセラー・シリーズ」と銘打った「古典文庫」が刊行され始め、その中の一冊に重松明久の『浦島子伝』があった。同書を購入したのは、松本清張の『Dの複合』(カッパ・ノベルス)を読んでいたからだ。このミステリーは日本各地の浦島伝説や羽衣伝説などを物語の経糸としていて、清張はこの作品に自らの古代史や民俗学見識を意図して散種しているように思われた。

浦島子伝 f:id:OdaMitsuo:20210108110642j:plain:h110 (カッパ・ノベルス)

 それもあって、たまたま出たばかりで、帯文に「甦える古代神仙思想」とのコピーが付された『浦島子伝』を読むことになったのである。そこには『Dの複合』にも挙げられている『丹波国風土記』を始めとし、七つの「浦島伝説」が原文、訓読文、注を揃え、収録されていた。それらを出典とともに示す。

1「浦嶋子」 『丹波国風土記』
2「水江浦嶋子」 『万葉集』
3「浦島子伝」 『古事談』
4「浦島子伝」 『群書類従』
5「続浦島子伝記」 『群書類従』
6「浦嶋太郎」 南葵文庫旧蔵写本・絵、霞亭文庫蔵板本
7「浦嶌太郎」 国立国家図書館蔵

 これで当時『群書類従』は未見だったけれど、「浦島伝説」のひとつが『群書類従』に基づくことを知った。6の南葵文庫は拙稿「永井荷風と南葵文庫」(『図書館逍遥』所収)、同じく霞亭文庫については「霞亭文庫と玄文社」(『古本探究3』所収)を参照されたい。

図書館逍遥 古本探究3

 重松は1から5の「浦島伝説」の原文を示し、6と7は小説を意味する草子的な日本語となっているので、注だけが施されている。その後に七つの「浦島伝説」の倍に及ぶ二百ページ近くの「浦島子伝 解説」「浦島伝説の性格と変容」「浦島伝説の宗教的背景」が続いている。これらはテキスト・クリティックと同じく、啓蒙的というよりも、専門的な文献、歴史的研究で、私の知見を超えているけれど、簡略に抽出してみる。

 浦島伝説は1から3に見られるように、八世紀から『丹後国風土記』の「浦嶋子」、『万葉集』の「水江浦嶋子」、『古事談』の「浦島子伝」、つまり「浦島子」を主人公として書き継がれてきた。その本質的性格は神婚説話で、長生と美女との歓楽という二つの人間的固有の欲望を空想的に想像した仙境淹留話である。だが『風土記』系の神仙境が山、もしくは天上であり、『万葉集』系は神仙境が海宮とされ、双方が神仙思想の原義に即応して構想されているのだが、舞台設定は対照的である。それらと比べると、『古事談』系は道教の色彩が強く、4と5の『群書類従』の「浦島子伝」や「続浦島子伝記」も金丹・石髄という道教系の仙薬を打ち出している。

 そうした浦島伝説が竜宮物語として一般化するのは平安時代になってからの6の「浦嶋太郎」においてで、主人公の名前は浦島子から浦島太郎へと変わっていく。そして物語も神仙8譚を継承しながらも、亀を助けることによる報恩譚へと変容し、海上で美女と出会い、竜宮に赴き、二人は結婚する。楽しい三年の月日が過ぎ、浦島太郎は父母を案じ、帰郷を申し出ると、乙姫は亀が姿を変えたものだと告白し、玉手箱を与えた。帰朝した浦島太郎は自分が行方不明になったのは七百年以前のことで、父母の墓所も示され、茫然自失し、玉手箱を開ける。するとたちまち年老い、鶴となって蓬莱山へと向かい、そこで亀と遊び、後に浦島太郎は浦島明神として衆生を済度し、亀も同じく神となり、夫婦の明神となったとされる。

 こうした浦島伝説をふまえ、松本清張は『Dの複合』において、重松も引いている謡曲「浦島」や坪内逍遥の「新曲浦島」などにも言及し、さらに羽衣伝説を重ね合わせ、それにまつわる逍遥の「堕天女」をも挙げている。だが残念ながら『Dの複合』は昭和四十年からの『宝石』連載で、重松の『浦島子伝』の刊行は同五十六年であり、参照されていない。その代わりに、『近代出版史探索Ⅴ』984の高木敏雄『日本神話伝説の研究』、同997の藤沢衛彦『日本伝説研究』の書名が引かれ、清張が単なる思いつきでなく、用意周到に浦島伝説を自家薬籠中のものとし、『Dの複合』に臨んだとわかる。とりわけそれは著者不明の『日本民間説話の研究』に象徴され、主人公はそれを国会図書館にまで足を延ばして読むのである。

Dの複合(新潮文庫)f:id:OdaMitsuo:20191217170856j:plain:h113  f:id:OdaMitsuo:20200208121308j:plain:h115

 「『日本民間説話の研究』は今から三十年前の本で、おそろしく古いが、(中略)一二一頁を開いた。そこは「浦島・羽衣伝説の淹流説について」という項だった」として、次にほぼ二段組三ページに及ぶ引用が続いている。これは高木と藤沢の著作をベースして、清張が提出しているオリジナルな「浦島・羽衣伝説の淹留説について」に他ならないように思えるし、重松の『浦島子伝』にしても、『Dの複合』を前提して成立しているのではないだろうか。

 ここではそれを目的としていないので、推理小説としての『Dの複合』にはふれられなかったが、興味を持たれた読者はぜひ読んでほしい。

 これらに関連して、ずっと岐阜県立美術館蔵の山本芳翠「浦島図」を見たいと思っているのだが、まだそれを果たせていない。
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古本夜話1108『群書類従』の近代出版史

 『古事類苑』を取り上げたからには、その範ともなった『群書類従』にも言及すべきだろうし、実は前者と異なり、後者は架蔵してもいるからだ。この江戸時代の盲人塙保己一によって編まれた日本で初めての百科事典は文芸叢書の成立と出版事業に関しては、紀田順一郎「文献データベースの夜明け―塙保己一と『群書類従』」(『日本博覧人物史』所収)などに譲り、ここではまずその近代出版史にふれてみたい。

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 私の手許にあるのは続群書類従完成会が昭和三十四年に刊行した『群書類従』の補巻も含めた全三十巻、訂正三版で、その初版は昭和三年、再版は十四年だと考えられる。だが『群書類従』は『全集叢書総覧新訂版』に見られるように、正続合わせて、明治時代には経済雑誌社、国書刊行会、大正時代からは続群書類従完成会、昭和に入って前回の内外書籍、太洋社、酣燈社、古典保存会、第一書房、名著普及会などが入り乱れて復刻を繰り返しているので、混乱極まりないといっていい。しかし大正から昭和戦後にかけて、一貫して『群書類従』刊行に取り組んできたのは続群書類従完成会なので、そこに至る過程をたどってみる。

全集叢書総覧新訂版

 拙稿「田口卯吉と経済雑誌社」(『古本屋散策』所収)において、田口の経済雑誌社の出版事業を取り上げ、田口が明治二十年代後半から三十年代にかけて、来るべき総合的辞典のための日本史の史籍整理として正続『群書類従』出版の試みに挑んだことにふれておいた。それは予約出版によるもので、私見によれば、近代出版において田口が初めて採用した流通販売システムであったし、『泰西政事類典』(明治十五年)や『大日本人名辞書』(同十九年)も、そのようにして出版されたのである。近代出版の雄である博文館はまだ創業しておらず、出版社・取次・書店という近代出版流通システムも同じく立ち上がっていなかったのだ。

古本屋散策

 それは『大日本人名辞書』の場合、成功したけれど、明治二十六年の第一版『群書類従』全十九冊は六五〇人の予約者を集めたが、新しい活字の彫刻などの経費がかさみ、赤字となった。同三十一年の第二版は一七五〇人の予約を得て、再版でもあり、利益を得たようだ。だが明治三十五年から大正元年にかけての『続群書類従』第一版は田口が途中で亡くなったこともあり、三十四冊の予告が十九冊で中絶してしまった。

 それを引き継いだといえるのが国書刊行会第一期で、明治三十九年に『続々群書類従』十六冊、『新群書類従』は十冊刊行したが、復刻事業の「量的制限」もあって、双方合わせて六冊の削除となった。そして同四十三年から第二期の早川純三郎編集長時代に移行する。その際に国書刊行会の編集担当者だった太田藤四郎が、経済雑誌社で中絶してしまった『続群書類従』の続刊を提案するが、早川に受け入れられず、大正十一年に国書刊行会もそのまま解散となってしまった。そこで同年に太田は国書刊行会の編集者たちと続群書類従完成会を設立し、『群書類従』新版七十二冊を出版していく。

f:id:OdaMitsuo:20210107171748j:plain:h80(『続々群書類従』)f:id:OdaMitsuo:20210107175008j:plain(続群書類従完成会編)

 『全集叢書総覧新訂版』ではなく『世界名著大事典』第六巻のほうの『群書類従』刊行史を確認してみると、続群書類従完成会は円本時代から九年にかけて「正編」三十冊を出版しているので、これが第一版、同じく同十年版が第二版、私が架蔵する戦後の三十四年版が訂正三版だと判明する。すなわち二十九輯と「正続分類総目録・文献年表」を加えての全三十巻ということになる。ただ手元にあるのはB6判だが、A5判も出されているようだ

世界名著大事典

 ここでは「正続分類総目録・文献年表」の一冊を見てみる。奥付に同書は昭和五年版の訂正増補で、昭和三十四年刊行とある。編纂者は太田藤四郎、発行者は太田節と記され、平成に入っての『群書類従』発行者社は太田善麿だったことからすれば、太田一族が一世紀近くにわたって家業としての『群書類従』出版に従事してきたとわかる。また検印のところには「続群書類従完成会印」が押され、同会の版権所有をも伝えている。おそらく戦前のみならず、戦後まで錯綜していた版権問題が解決したことを告げてもいよう。

 またこの「正続分類総目録・文献年表」には他の巻には見られない「緒言」が昭和四年九月の日付で記され、これは円本時代の第一版に寄せられたものだとわかるし、まさに太田藤四郎が編纂者として書いているはずだ。そこには簡略な『群書類従』の紹介と其完成会出版事情も述べられているので、その前半の部分をここに引いてみる。

 昔し検校、一千二百七十余種の古書を集め、之を二十五の部類に分ちて、一部の書に編みなし、群書類従と名づけ、桜の木に彫り、楮の紙に摺り、六百六十冊に仕立て、別に目録一冊を添へて、世に広め後に伝へおきたまひぬ。加え更に其続篇として、二千一百余種をも集め、写本のまゝにて遺しおきたまへり。其目録二冊は、早く梓行して人に知られたり。今や聖代文運の盛なるに逢ひ、我が完成会にて、その正続二篇の書を併せて、新に活字にて摺り上げ、之を壹百冊に綴じなして、遠く海の外にも送りぬ。検校も遺志の成りぬるを悦びたまふらむかし。その昔し此の書を集めたまひし時に、旨する筋道を記しおきたまひけむもの、今の世には聞えず、其の昔しの深き思ひはかりを、今愚なる心に汲みとる由の無きぞ口惜しき。

 しかし塙保己一の「昔しの浮き思ひ」を継承しようとする出版の「筋道」とその行方は困難と不安が予想されたようで、「緒言」は「かの遺志に背かじと且つは思ひ、且つは便り善かれと今に人の為を思ふに、思ひまどふすじみち多かるを、はたいかにかせむ」と結ばれている。

 それでもその後の昭和時代を通じて、同会によって数次に及んで『群書類従』の出版は続けられていた。だが平成十八年になって、続群書類従完成会は倒産し、その出版事業は翌年に八木書店に継承される「筋道」をたどったのである。

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古本夜話1107『古事類苑』の流通と販売

 近代の先駆的公共出版にして古典籍刊行の試みともいうべき『古事類苑』のタイトルをずっと挙げてきたけれど、実は端本すらも所持していない。それもあって『古事類苑』を取り上げることはためらっていた。しかし私の利用している公共図書館には「赤松則良文庫」が設けられ、その文庫には明治末期の吉川弘文館、明治書院を発売所とする、四六倍判、洋本全五十一巻が含まれ、手にとって見ている。

 それに加えて、熊田淳美の『三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史』(勉誠出版、平成二十一年)の中に、『古事類苑』の昭和二年の『東京朝日新聞』広告を見出したのである。それは発行所が京都の表現社内古事類苑刊行会、発売所が吉川弘文館、取次が六合館と国際美術社で、この流通販売は本探索1075の『日本随筆大成』第一期、同1077の『言海』とすべてではないが共通している。その広告には予約会員費として一時払い五百二十円、月払い十七円が謳われているが、この昭和初期の『古事類苑』も円本時代の産物と見なしていいだろう。

三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史

 そうしたふたつの事柄もあり、『古事類苑』は入手していないのだが、ここで書いておきたい。その前に熊田の著書や杉村武「文部省出版事業」(『近代日本大出版事業史』所収、出版ニュース社)を参照し、『古事類苑』の簡略なコンセプトと出版経緯、流通販売事情を示しておこう。『古事類苑』の出版企画は明治十二年に文部省大書記官にして明六社の西村茂樹によって提出された。それは日本最大の百科事典を想定したもので、歴史、制度文物の変遷、自然及び社会万般の事物に関して、天・歳時・地・神祇・帝王・官位・政治・法律・文学・礼式など三十部門に分類し、『六国史』を始めとする基本的文献から、各項の起源、内容、変遷に関する資料を原文のまま収録するという建議書だった。これらの分類は必然的に前回の『和漢三才図会』などを折衷している。

 そして西村の企画に一貫して寄り添ったのは国学者の佐藤誠実で、明治二十九年から四十年の全巻終了までの編纂の中心となった。そのプロセスを簡略に示せば、明治二十九年の第一冊の『帝王部』刊行から大正三年『索引』による完結まで、実に企画以来三十五年を要したことになる。それもあって、『古事類苑』全巻の編纂史は第一期の明治十二年から二十三年の文部省編輯局時代、後の二期はいずれも文部省委嘱となっているが、第二期は二十三年から二十八年での皇典講究所(国学院)時代、第三期は二十八年から大正三年での神宮司庁時代に分けられる。またそれらの財政問題は熊田の「『古事類苑』をめぐる政策と経済」(前掲書所収)に詳しい。

 そうした長きにわたる編纂過程で、多くの人々が参画したけれど、先の編修長佐藤誠実は完結を見届けたものの、「本書ノ創業以来、与リテ、大ニ功アリシ前文部大書記官西村茂樹、編修総裁川田剛、編修委員長小中村清矩ノ諸氏、皆既ニ不帰ノ客トナリテ」(「古事類苑編纂来歴」)しまったのである。

 それらはともかく、ここで言及したいのは先述した『古事類苑』の流通と販売に関してである。明治二十九年からの『古事類苑』出版は前年に神宮司庁が編纂を引き受けたことで、必然的に同編纂所が版元の役割も兼ねたと考えられる。そして編纂終了後の四十年に編纂事務所を閉鎖し、同所に古事類苑出版事務所を開いて発行所、三十五年から四十一年までは発売所を吉川弘文館と明治書院が担った。それは「赤松良松文庫」で確認しているけれど、四十二年から大正二年の完結までは東京築地活版製造所が印刷だけでなく、発売所も兼ねたようだ。

 しかしその全容が把握できないのは昭和二年の円本時代の『古事類苑』で、これが「神宮司庁版」とあり、それが初版の復刻を意味しているのは明白だが、前述したように発行所は京都の古事類苑刊行会、それも表現社内に置かれている。『全集叢書総覧新訂版』に昭和二年版『古事類苑』の発行所が表現社とあるのはそのことをさしている。熊田によれば、表現社の代表者は後藤亮一で、彼は京都帝大哲学科出身の僧侶であり、雑誌『表現』を主宰し、後の昭和五年からは立憲民政党所属の代議士を二期務めているという。

全集叢書総覧新訂版

 後藤がどのような経緯で神宮司庁から販売を委託されたのか不明だが、拙著「高楠順次郎の出版事業」(『古本屋散策』所収)で述べておいたように、大正から昭和にかけては仏教書ルネサンス的出版状況にあり、高楠は僧侶ではなかったけれど、西本願寺普通教校の出身で、後藤もそうした出版ムーブメントの影響を受けたのではないだろうか。まさに昭和円本時代の只中で、再版とはいえ、日本で最大の百科事典の出版者となることは後藤の本望であったのかもしれない。おそらく金主もセットで用意されていたはずだ。だが大量生産、大量消費の円本時代における予約会員費十七円は成功するはずもなかったというべきだろう。

古本屋散策

 それを証明するのは昭和六年から刊行され始めた普及版の第三版『古事類苑』で、初版、再版の四六倍判に対し、菊判、巻数は五十巻から六十巻、予約会員は一時払いが三百円、一冊は六円であった。しかも発行所は古事類苑刊行会だが、発売所は東京小石川の内外書籍株式会社で、その代表者の川俣馨一が後藤と並んで発行者とされている。川俣と内外書籍には『近代出版史探索Ⅱ』262で、その後日談も含めてふれているように、外交販売を手がけていたのである。外交販売とは拙稿「中塚栄次郎と国民図書株式会社」(『古本探究Ⅱ』所収)で言及しているように、有力な名簿を手に入れ、内容見本を直送したり、あるいは学校や会社などへのバックマージンつきの組織販売をさす。それに仲間取次を利用する。これは読者からの注文に応じるために、取次に注文口座を設ければ、買切扱いで書店を通じて読者に届くことになる。

近代出版史探索Ⅱ 古本探究2

 だが内外書籍の普及版『古事類苑』の外交販売の試みも、昭和における百科事典としての魅力の欠如や専門性、それに高定価も相乗し、またしても失敗に終わったと推測される。そして内外書籍は行き詰まり、八木書店が『古事類苑』などの在庫を安く引き取り、古本屋へと卸し、質の高い特価本リバリューを伴うリサイクル市場が形成されていくのである。

 なお最後になってしまったが、赤松の娘は森鷗外の最初の妻で、息子の範一は『近代出版史探索Ⅲ』423などの集古会の会員であった。

近代出版史探索Ⅲ

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古本夜話1106 吉川弘文館と『和漢三才図会』

 本探索1075の『日本随筆大成』別巻の『和漢三才図会』は入手していないと記しておいたが、その後やはり浜松の時代舎で明治時代に刊行された一巻本を見出し、買い求めてきたので書いておこう。

f:id:OdaMitsuo:20201003111855j:plain:h108(『日本随筆大成』)

 現在であれば、『和漢三才図会』は平凡社の東洋文庫版で読むことができるけれど、現物を目にしたことにより、明治末期になってようやくポータブルな一巻本が出版されたとわかる。それでもまずは『世界名著大事典』の立項を挙げておく。

和漢三才図会 世界名著大事典  

 和漢三才図会(105巻81冊、1713)寺島良安編著。編著者は大阪の医師。《倭漢三才図会》《倭漢三才図会略》と、とびら、序文に見える。中国明の王圻の《三才図会》(106巻)にならって作製された図入り百科事典。1712年(正徳2)の自序に、天文、地理、人事をともに明らかにしてこそ医を語るべきという和気仲安の言に刺激され、和漢の読書を博捜し、伝説、口碑をたずねること30余年、各項目の要領を記述し、形あるものは画にしたが、必ずしもすべてを描くことはできなかったので《三才図会略》と名づけたという。林信篤の序(正徳3年3月下旬)、和気伯雄の序(同年4月下旬)、清原宣通の後序(同年10月中旬)などがある。内容は天部、天文、人倫、官位、支体、異国人物、楽器、兵器、衣服、農具、獣類、介甲、有鱗魚、山類、水類、火類、金類、中国諸地方、日本諸国、香木類、喬木類、五果類、山草類、穀類、造醸など96項に分けて、各項目ごとに挿画を入れ、その文字、和名、中国音、異名を記し、諸書から引いた解説を付す。最初のわが国における図入り百科事典として有名。なお、経路部に「すい臓」が見えてないのは、中国医書によっているからであり、それが《解体新書》に「大機里爾(コロート・キリール)」として紹介されるまで、存在は知られていなかったからである。1906年に縮刷活版本が出版(吉川弘文館)され、《日本随筆大成》(吉川弘文館)に別巻として刊行(2冊)されている。

 まさに入手したのは1906年=明治三十九年の活版縮刷本で、函入革装、菊半截判千五百ページ、厚さは六センチに及び、正価は二円である。函はともかく本体の保存状態はきわめてよく、手にしてみても、一世紀以上前の「図入り百科事典」には見えないほどだ。そのために古書価の一万円は高くないと思われた。

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 それにしてもあらためて驚くのは、本探索1077の『言海』のところでふれておいたように、活版印刷の技術革新と進化である。これも同1086で見てきているが、明治十年代まではまだ近世からの木版印刷の和本の時代が続いていたことを考えると、そうした近代出版の技術革新と進化という事実とパラレルに近代出版業界が誕生し、成長していったと再認識するのである。それは公共出版とも称すべき『古事類苑』などの古典籍の印刷製本を通じて開発され、進化していった活版技術、それから同じく辞書を対象とする大冊の大量出版と重版によるコストダウンが廉価販売をも可能にさせていった。そうした大正時代におけるそれぞれの刊行会の予約出版全集類へと結びつき、さらに大量生産の昭和円本時代を出現させることになったのである。

 『和漢三才図会』を繰っていると、そのような近世から近代にかけての出版様式、技術、形態などの推移が想起されるし、南方熊楠が少年時代にこの一冊を五年がかりで筆写したという、よく知られたエピソードをも思い浮かべてしまう。紀田順一郎の『日本博覧人物史』(ジャストシステム)にその写本が見られる。ただ書庫に備えていたのは明治十七年の菊判三冊本のようだが、書庫の写真からは突き止められない。また柳田国男にしても座右の書であったことは疑い得ない。二人とも最初の出会いはどの版であったか、わからないけれど、吉川弘文館の縮刷版の刊行以後は民俗学、博物関係者にとって、必備の一冊だったにちがいない。

日本博覧人物史
 縮刷版『和漢三才図会』の巻末にこの元版の表記があるので、以下に示してみる。

  大坂高津宮北 杏林堂
  蔵版全部 百五巻
       大坂心斎橋筋淡路町
  彫刻  嶝口太兵衛尉定次

 残念ながら、『日本出版百年史年表』所収の明治七年における「大阪府管下書林」の中に、杏林堂も嶝口の名前も見当らない。寺島良安の「絵入り百科事典」の試みも壮大な企画だったにちがいないけれど、それを刊行した杏林堂にとっても、比類なき出版プロジェクトであったはずだ。

 奥付の検印のところを見てみると、そこには合資会社吉川弘文館の代表者である吉川半七の印が押されている。著者は故寺嶋良安とあることからすれば、吉川が寺嶋の遺族、もしくは杏林堂関係者から『和漢三才図会』の版権譲渡を受け、出版に至ったとも推測されるが、それらの詳細は定かではない。 
 

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古本夜話1105 郁文舎と内藤耻叟、三輪文次郎『一覧博識漢学速成』

 前々回、『古事類苑』に端を発して、古典籍などに関する出版人脈が形成されていったのではないかと述べたが、流通や販売のみならず、それは印刷業界の人々も含んでだったと推測される。そのことを立証する一冊を入手したので、やはりここで書いておきたい。

 本探索1075の『日本随筆大成』第二期の発行者兼印刷者が桜井庄吉で、同1076の『日本図会全集』の編輯兼発行者も同様であることを既述しておいた。この他ならぬ桜井が昭和円本時代以前は印刷者だったことを示す一冊を、浜松の典昭堂で見つけたのである。それは『一覧博識漢学速成』、発行所は郁文舎、発行者は名古屋中区の三輪文次郎、印刷者は京橋区柳町の桜井庄吉、郁文舎と桜井の住所は同じなので、ここでも櫻井は出版者と印刷者を兼ねていたことになる。ただ同書は明治二十六年初版発行、同四十三年第十八版ゆえに、初版から郁文舎が版元だとは考えられない。しかし奥付の「版権所収」は三輪の押印があることからすれば、桜井の立場は版元ではなく、引刷と発売所を引き受けたと考えるべきであろう。

(『日本随筆大成』)

 これはまさに漢文の学参と称すべきもので、四六判上製の背表紙にタイトルが見えるだけだが、本扉には内藤耻叟、三輪文次郎合著、上篇「経史諸子要旨」、下篇「古事要語詳解」とある。本扉を繰ると、内藤の漢文による二ページの「漢学速成序」が寄せられている。それを読むと、「尾張静観堂主人」が「古事要語詳解」を編み、刊行するので、自分の「嘗著経史諸子要旨」との合著にしたいとのこと、そこでタイトルは『漢学速成』とした旨が語られている。それは明治二十六年五月付なので、初版の際に書かれたとわかるし、「尾張静観堂主人」とは三輪文次郎自身だと確認できる。

 その「序」にあるように、上篇の一三三ページが内藤、下篇八三四ページが三輪によるもので、いってみれば、地方の漢文研究者が内藤との合著によるお墨付きを得るようなかたちで上梓した学参と見なせよう。しかし二十年近く版を重ねてきた事実を考えると、明治後半も漢文の時代は続いてきたことを示唆している。内藤のプロフィルは『明治維新人名辞典』は長いので、神谷敏夫『最新日本著作者辞典』から引いてみる。

 内藤耻叟 ないとうちそう
 明治時代に出た史学者である。初の名を正直といひ、碧海と号した。水戸藩士で、弘道館に入り、藤田東湖・会沢正志斎に学び、後幕府に召され勤王の志士武田耕運斎を那珂湊に討つた。弘道館教授となつたが、藩老と議論合はず罪を得て東北に潜伏したこともある。明治十一年東京小石川区長となり、後文科大学教授となつた。其の間、皇典講究所・斯文学界等の講師をも勤めた。殊に江戸幕府の事情に詳しかつたので重望があつた。正六位に陞り、明治三十五年六月(二五六二・一九〇二)七十七歳で没した。著書に安政紀事・徳川十五代史・徳川制度・徳川氏施設大意・徳川代貨幣制度・江戸文学志等がある。

 本探索1092の戸川残花と「幕末維新史料叢書」のところで、この「叢書」に内藤の『安政紀事』』が含まれていることを記したばかりだ。このような内容と内藤のプロフィルからすれば、彼は残花ばかりか、その他の「叢書」の著者たちとも、明治を迎え、同じく旧幕臣として交流があったはずだ。それだけでなく、ここに挙げられた内藤の徳川時代に関する著作リストや教授、講師歴から考えると、『古事類苑』から始まる古典籍出版の近傍にいたはずで、実際に『古事類苑』では監修者の立場にあった。

 そのようにして、三輪=「尾張静観堂主人」とも知り合い、さらには印刷者の桜井とも面識を得ていたように思われる。それは桜井の郁文舎という版元名からもうかがわれるからだ。「郁文」とは『論語』の「郁郁乎文哉」から取られたもので、「文物が盛んなこと」を意味している。郁文舎は尾張ではなく、その住所を東京市京橋区に置いているわけだから、三輪というよりも内藤の命名と考えたほうが妥当であろう。

 明治二十六年の初版は郁文舎ではないと思われるが、版を重ねていく過程で、紙型の売買がなされ、印刷者だった桜井がそれを入手し、郁文舎として『一覧博識漢学速成』の版元となったと考えられる。あるいはその時期は内藤の死後の明治三十五年以降で、版権が三輪個人のものに帰したことと呼応しているのかもしれない。しかしいずれにしても、同書の出版を機として、櫻井は印刷者でありながら、出版者も兼ねるようになり、昭和円本時代にはいって、本格的に『日本随筆大成』第二期や『日本図会全集』を手がけることになったと推測される。だがその結果がどうなったのかは判明していないので、これからも円本以後の桜井の名前と行方を注視していきたいと思う。


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