出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1364 『みづゑ』と特集「水彩画家 大下藤次郎」

 宮嶋資夫の義兄大下藤次郎のことは何編か書かなければならないので、本探索1353に続けてと思ったのだが、少しばかり飛んでしまった。大下に関しては他ならぬ『みづゑ』が創刊900号記念特集「水彩画家 大下藤次郎」(昭和五十五年三月号)を組んでいる。

みづゑ NO.900 1980年3月号 創刊900号記念特集|水彩画家・大下藤次郎|総目次 ( 900号)

 このA4変型判『みづゑ』は一二六ページが大下の特集、一二〇ページが「みづゑ総目次」に当てられ、この一冊だけで『みづゑ』創刊者の生涯と作品、明治三十八年創刊号から昭和五十五年までの900号のすべての内容をたどることができる。そのためにこの号は貴重な保存版といっていいだろうし、当たり前のことだが、先の拙稿で引用した『出版人物事典』の立項からは伝わってこない大下の知られざるポルトレと人脈を提出し、多くの事柄を教示してくれる。

  出版人物事典―明治-平成物故出版人

 この特集で注視すべきは何よりもまず大下の水彩画が一ページカラーで六十点余を掲載し、大下の画家としての並々ならぬ力量を浮かび上がらせ、一冊の作品集とならしめていることである。私の好みで挙げれば、「日光」や「越ヶ谷」などの村と街道、川沿いの村の佇まいは淡くはかなげに描かれ、大下ならではの水彩画の風景のように感じられる。ここであらためて『みづゑ』が水絵=水彩画のための専門雑誌として創刊されたことを想起する。これらの水彩画に加え、寄せられた「年譜」を含む八本の大下論はいずれも秀逸で、すべてを紹介したいけれど、陰里鉄郎「大下藤次郎の生涯」と孫に当たる大下敦「大下藤次郎の出版活動」にしぼるしかない。

 まず前者により、大下の生涯を追ってみる。大下は明治三年に東京府本郷区真砂町の馬宿、馬車問屋、陸軍馬匹用達、さらに旅屋も兼ねる商人の長男として生まれ、東京法学社(法政大学の前身)を出て、数年の間は家業に従事している。明治二十六年に父が死去し、家督を相続すると本格的に水彩画に打ちこみ始める。そのきっかけは『近代出版史探索Ⅱ』338の三宅克己と知り合ったことで、展覧会への出品、及び画家や文学者たちとの交遊も拡がり、原田直次郎に師事し、森鷗外とも懇意になっていく。

 その一方で、水彩画と風景画に関して、本探索1337の志賀重昂『日本風景論』を読み、国木田独歩『武蔵野』や徳富蘆花『自然と人生』へとも続いていったのである。『武蔵野』と『自然と人生』に関しては、拙稿「新しい郊外文学の誕生」「東京が日々攻め寄せる」(いずれも『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)を参照いただければ幸いだ。そうした文学者人脈は三宅を通じて蒲原有明ともつながっていく。

    郊外の果てへの旅/混住社会論

 そして明治三十四年に蒲原の紹介で、鷗外の「題言」を添え、大下の『水彩画之栞』が上梓される。同書は異例の売れ行きで、その年末までに六版を数え、二万部に及んだとされる。それは水彩画ブームを隆盛に導く「栞」でもあり、水彩画絵葉書や流行を誘発し、同三十八年の『みづゑ』創刊へと連鎖していったのである。

 そうした水彩画ブームに寄り添う「大下藤次郎の出版活動」をレポートしているのは、三代目美術出版社の社長である大下敦で、書影を示し、それらをたどっている。私は一冊も入手に至っていないので、それらをリストアップしてみる。

1 『水彩画之栞』 新声社 明治三十四年
2 『水彩画階梯』 内外出版協会 明治三十七年
3 「金色夜叉絵はがき」 盛文堂 明治三十八年
4 『水彩画帖第一輯』 金桜堂 明治三十九年
5 『最新水彩画法』 精美堂/博文館 明治四十二年
6 『十人写生旅行』 興文社 明治四十四年
7 『水彩写生旅行』 嵩山房 明治四十四年
8 『瀬戸内海写生一週』 興文社 明治四十四年
9 『写生画の研究』 目黒書店 明治四十四年

  (『十人写生旅行』)(『瀬戸内海写生一週』)

 この他にも博文館から『水彩習画帖』が五冊出されているようだが、『博文館五十年史』を確認してみると、5と同様に見当らない。おそらく博文館はそれらの発売所を引き受けただけなので、「出版年表」に掲載がないのであろう。だがその代わりのように、中村不折の『水彩絵手本』(明治四十年)三冊が見出される。6と8は大下の単著ではなく、写生旅行をともにした画家たちとの共著で、6には不折も加わっていることからすれば、大下、水彩画、博文館の関係も生じていたと見なすべきで、それゆえに『水彩習画帖』シリーズの発売所にもなっていたことになる。

 ただあらためて驚かされるのは、明治三十年代から四十年代にかけての水彩画の隆盛で、大下はこの時代に水彩画本、講習会、写生旅行などの中心にいて、その只中で『みづゑ』を創刊したとわかる。しかしこれは本探索でもふれておいたように、実用書の分野に属するこれらの水彩画本は古本屋でも出会えず、未見のままなのである。

 それから大下は、明治四十四年の藤次郎の死後、祖母の春子が小島烏水の強力な支援を受け、『みづゑ』の刊行を続け、昭和八年まで二十年以上も実質的な編集責任者のポジションにあったことの偉業をたたえている。もちろんの特集号には大下夫妻の写真も収録されているけれど、春子の弟が宮嶋資夫で、彼が大下の蔵書を通じて文学に目覚め、プロレタリア文学者の道へと歩んでいったことにはふれられていない。だが大下の水彩画と『みづゑ』の時代も本探索1353で既述しておいたように、プロレタリア文学と社会主義運動の時代とつながっていたのである。


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古本夜話1363 垣内廉治『図解自動車の知識及操縦』とシエルトン『癌の自己診断と家庭療法』

 実用書に関して、出版社、著者、翻訳者の問題も絡めて、もう一編書いてみたい。実用書の出版史は『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』(昭和五十六年)にその一角をうかがうことができるけれど、こちらの世界も奥が深く、謎も多いので、とても細部までは見通せない。

 そのような二冊をこれも浜松の時代舎で入手している。ひとつは昭和五年に大鐙閣から刊行された工学博士垣内廉治著『図解自動車の知識及操縦』で、菊判函入、本文、付録合わせて五六〇ページ余、図版も多く、定価三円五十銭である。昭和円本時代に刊行された、運転ならぬ「操縦」実用書としては高価だが、その内容は自動車の機関、構造、電気学にも及んでいる。それゆえにこの時代にあって、同書は工学書、専門書というべきかもしれない。

 垣内はその「序言」で述べている。「時世の神秘と交通機関の発達は相離るるべからざる関係」にあり、「将来文化的、民衆的交通機関として最も発達すべき可能性と条件」を有するのは「自動車を以て第一に挙げざるを得ない」し、「日本は現在四万台に過ぎざるも、年々の増加率は最近駭目すべきものがあり、一年一万台以上の純増加率を示し、数年を出でずして十万台を突破するに至るは明らかである」と。

 現在の乗用車だけで六千万台を超える保有台数から考えれば、信じられないほどだが、ほぼ一世紀前には「四万台に過ぎざる」自動車状況であったのだ。そのような時代に、この『図解自動車の知識及操縦』といった書籍を刊行することは冒険であり、それなりの出版助成金としかるべきまとまった買い上げ先がなければ、成立しなかった企画だと思われる。それに大鐙閣は拙稿「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)を始めとして、本探索でも繰り返し言及しているが、関東大震災で被害を受け、『近代出版史探索Ⅱ』311の創業者の久世勇三も身を引かざるをえなかったはずだ。

古本探究

 それは『図解自動車の知識及操縦』の奥付にも顕著で、かつて発行所住所として大阪と東京のふたつが記載されていたが、神田区今川小路の一ヵ所だけになり、発行者も榎本文雄となっている。この名前もここでしか目にしていないし、久世の代わりに発行者にすえられた人物と見なせよう。ただ留意すべきは隣に印刷所の山縣純次が並び、出版社、発行者と住所を同じくしていることからすれば、大鐙閣は実質的に印刷者の山縣の傘下にあるとわかる。

 その事実から考えると、従来の大鐙閣のイメージと異なる実用書にして工学書である垣内の著書は、山縣を通じて出版に至ったと見なすべきだろう。当時の出版社は実質的に行き詰まってもいきなり破産とはならず、様々な事後処理をめぐって金融と出版人脈が入り乱れ、それが出版物も含めて多くの謎を発生させていくのであり、この場合もそうした一例だと推測される。

 もう一冊は米国医学博士シエルトン『癌の自己診断と家庭療法』で、昭和十年に洗眞堂書房から刊行されている。その住所は赤坂区青山北町で、発行者は國谷豊次郎となっている。こちらは著者、出版者、版元と三拍子揃って不明である。B6判函入、上製二〇八ページの癌の自然療法、通称シエルトン療法に関する専門書といっていいだろうし、単なる医学実用書とも異なる趣も備えている。それでもここで取り上げたのは、訳者がポール・ケート、戸川寛二であることによっている。ポール・ケートは本探索1300で既述しておいたように、IWWのヒル・ヘイウッドの自伝『闘争記』、及びアプトン・シンクレア『オイル!』の高津正道と並ぶ共訳者であるからだ。

 闘争記―I.W.W.首領ヘイウッドの手記 (昭和5年)  石油!

 そこでポール・ケートのプロフィルは不明だと述べておいたが、ここでは第一高等学校教授とあるけれど、この一高教授のポールが同姓同名の別人とも考えられる。ただ共訳者の戸川の方はまったくわからない。それに奥付の「版権所有」=検印のところには Paul Cate という署名がなされているだけで、戸川の印は見当たらない。これはポールがシエルトンを通じて、同書の版権を得たということを意味しているのだろうか。定価一円とあるのだが、医学実用書としても書店の店頭で売れるような一冊ではないし、やはり癌の自然療法のプロパガンダ本、何らかのまとまった買い上げがあって翻訳刊行されたと見なすべきだろう。

 とすれば、この戸川のほうはそうした自然療法に携わる医学関係者と考えられるし、そのためにポールの第一高教授という肩書が利用されているのではないだろうか。本探索でも出版社・取次・書店という近代出版流通システムとは別なオルターナティブの流通販売にも言及してきているが、今回の『図解自動車の知識及操縦』にしても、『癌の自己診断と家庭療法』にしても、とても書店の店売商品のようには見受けられない。そこにも実用書の謎が潜んでいるようにも思われる。


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古本夜話1362 金園社の実用書と矢野目源一訳『補精学』

 かつて「実用書と図書館」(『図書館逍遥』所収)を書き、日常生活に役立つことを目的とする実用書出版社にふれたことがあった。実用書はそうしたコンセプトゆえに、生活と時代の要求に寄り添い、ロングセラーとして版を重ねているものが多いのだが、文芸書や社会科学書と異なり、書評の対象となることは少ない。それは小説や詩に象徴されるように、かつての書物の基本的イメージは無用の用にあることが前提をなっていたからだと思える。

図書館逍遥

 これは近代出版業界の常識で、二十年前に拙稿を記した時代にも当てはまる構図だった。ところが今世紀が進行するについて、そうしたパラダイムは解体され、実用書自体がビジュアル本にしてセレブティビジネスと化し、パブリシティも活発となり、出版物のジャンルの境界も曖昧になってしまったように見受けられる。そうした事実は生活と実用書の意味のドラスチックな変容を物語っていよう。しかしそれでも変わっていないのは、それらの実用書出版社が社史と全出版目録を刊行していないことだ。

 そのために実用書の歴史をたどろうとすれば、それを入手し、巻末の出版広告などから追っていくしかないのだが、二十世紀の実用書にしても、古本屋で見かけなくなっている。私が注視している実用書出版社に金園社があり、拙稿「北上二郎訳『悪の華』」(『古本屋散策』所収)の版元、『近代出版史探索Ⅱ』286で創業者と金鈴社の関係、『同Ⅴ』866の「大木惇夫詩全集』を刊行していることなどに言及してきた。だが今世紀に入って、この金園社も『本の世界に生きて50年』(「出版人に聞く」5)の能勢仁の仲介で、M&Aされたこともあり、もはやその歴史と全出版物を詳らかにすることは難しいだろう。やはり社史も全出版目録も残されていないからだ。

古本屋散策  本の世界に生きて五十年―出版人に聞く〈5〉 (出版人に聞く 5)

 そうした中で、私が参照しているのは石川雅章『奇術と手品の遊び方』(昭和三十四年)で、金園社の「実用百科選書」として出されている。その巻末広告には「趣味と実益の泉・金園社の実用書」「評判と売行の良い金園社版娯楽叢書」としては百冊ほどが並び、詩人の大木惇夫の『詩の作法と鑑賞の仕方』はわかるにしても、矢野目源一『娯楽大百科』や津村信夫『余興演芸・かくし芸』は意外であったというしかない。だが津村は戦前に亡くなっているので別人であろう。矢野目は『近代出版史探索』57で、異能の翻訳者として紹介しているが、ここでは『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。

奇術と手品の遊び方 (1956年) (実用百科選書)    

 矢野目源一 やのめげんいち 明治二九・一一・三〇~昭和四五・一〇・一二)詩人、小説家、随筆家。東京生れ。慶大仏文科卒、はじめ詩人として活躍、柳沢健の「詩王」
堀口大学の「パンテオン」「オルフェオン」に拠る。代表的詩集は竹友藻風の序文のある『光の処女』(大九・五 籾山書店)、日夏耿之介の序文のある『聖馬利亜の騎士』(大一四・五 籾山書店)など。ついで「軽文学」の新分野を開拓、とくに艶笑文学では戦後随一と好評を得た。小説集に『風流色めがね』(昭二九・五 住吉書店)、随筆集に『幻庵清説』(昭二八・七 日本出版協同株式会社)、『席をかえてする話』(昭三〇・一〇 美和書院)があり、アンリ・ド・レニエの翻訳『情史』(昭三六 操書房)もある。

 矢野目はこの立項には記されていないが、拙稿で示しておいたように、シュウオップ『吸血鬼』(新潮社、大正十三年、後に『黄金仮面の王』、コーベブックス)、ベックフォード『ヴァテック』(春陽堂、昭和七年、後に牧神社)の他に、ウイリイ『補精学』(国際文献刊行会)がある、この『補精学』は梅原北明をパートナーとする『近代出版史探索』17の伊藤竹酔が刊行したもので、発禁処分を受けたこともあり、先の拙稿を書いた際には入手していなかったが、その後購入している。

黄金仮面の王 (1975年) (南柯叢書) (コーベブックス)ヴァテック―亜刺比亜譚 (1974年) (『ヴァテック』牧神社)

 しかも立項にある「軽文学」の開拓とか、「艶笑文学では戦後随一」との評はこの『補精学』と梅原出版人脈が交差したところで成立したように思われる。矢野目はその訳者「序」で「もしここに青春を永久にすべきマンナの醍醐味あり、オリンポスの神々が陶酔した永遠の春を楽しむ神酒(ネクタア)あり、桃源仙境の霊丹ありとせば如何。人類の福祉ここに極はまると言ふも敢えて過言に非るべし」「美と恋と不老長生の人生愉悦の福音書はこれ。一読して永世の福祉に急げ」と宣言されている。

 私が矢野目を知ったのは吉行淳之介の『私の文学放浪』(講談社)において、戦後の艶笑文学と補精学を実践しているような人物としてだった。それから種村季弘の『壺中庵奇聞』(青士社)で、フランソワ・ヴィヨンの矢野目訳「卒塔婆小町」を知り、彼が詩人として出発し、フランス文学の翻訳者でもあったことを教えられたのである。

私の文学放浪 (講談社文芸文庫ワイド)  

 どのような経緯と事情で、矢野目が金園社「実用百科選書」の『娯楽大百科』の著者となったのかは不明だが、おそらく編集者との関係からだと推察するしかない。金園社には詩人にして、後に戦争小説や時代小説を書くに至った伊藤桂一も在籍していたことだけは付記しておこう。

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古本夜話1361 佐藤紅霞『貞操帯秘聞』

 佐藤紅霞に関しても、もう一編書いておきたい。それは最近になって彼の『貞操帯秘聞』という一冊を入手しているからだ。同書は昭和九年に丸之内出版社から刊行され、その発行者は麹町区丸の内の多田鐵之助で、版元にしても出版社名にしても、ここでしか目にしていない。だが検印紙に押された「紅霞」の印の紅はまさに生々しいまでに鮮やかであり、歳月の流れを感じさせないし、函入上製、四六判二八五ページの一冊である。

(『貞操帯秘聞』)

 これは「民俗随筆」と銘打たれていうように、「貞操帯の話」から始まる性的民俗譚集と見なしていいだろう。そうした内奥は佐藤が梅原北明グループの一人として登場してきたこともあるけれど、東西の文献資料に通じた在野の研究者、エンサイクロペディストというキャラクターを抜きにしては語れないと思われる。そのために佐藤の「民俗随筆」は柳田国男や折口信夫に連なる民俗学というよりも、山中共古『共古随筆』(平凡社「東洋文庫」)が引かれているように、近世随筆に通じた街頭のアカデミズムと称すべき集古会、あるいはまたしばしば参照されている南方熊楠や宮武外骨の論考や著作からうかがわれるように、独学者たちの系譜上に位置づけられるのではないだろうか。

共古随筆 (東洋文庫)

 それでは佐藤の「民俗随筆」がどのようなものか、「貞操帯」に見てみよう。その前に記しておけば、『近代出版史探索Ⅴ』819のタイトルを同じくするピチグリリ『貞操帯』は発禁処分を受けている。それがほぼ同時代の昭和六年であることを考えると、丸之内出版社と多田鐵之助も梅原北明の出版人脈に属していると思われる。そのことはともかく、佐藤は「一体、貞操帯とはどんなものか、何の為めに発明され、如何なる階級の人々が之れを使用したのであらう?」と始めている。主として英仏の文献が挙げられ、「貞操帯」の歴史がたどられていくだが、それらは邦訳されていないし、煩雑なので、日本のことから入っていこう。ちなみに私はそれを初めて目にしたのは薔薇十字社の『血と薔薇』第2号の表紙写真においてだった。

 (『血と薔薇』第2号)

 佐藤は貞操帯が古来からあったとして、『古事記』に見える「美豆の小紐」、『万葉集』の中の「裏紐(シタヒモ)」「下紐」を挙げている。さらに『古今著問集』や様々な江戸時代の文献、絵画にも及び、明治初年になって、横浜で「嬉遊帯」というものが発売されたと指摘する。その後、類似品は現われなかったが、大正半ばにパリのクリニユー博物館の貞操帯の写真と絵画が新聞や雑誌に紹介され、関東大震災後の同十三年秋にそれを模倣した「貞操保全器」が発売に至る。佐藤はその「取説」も引用し、これは「一部の有産階級の猟奇家の手に渡つただけ」だったが、昭和七年春には早稲田大学出身者の発明になる「男女貞操猿又」として売り出されたと記す。これは「昔時西洋に行はれた処の、貞操帯と大いに異なる点で、又本器の特色とするところ」であり、しかも「女子のみならず、男子にも同じく用ゆることが出来る」のだ。それを佐藤は発明者の言と「取説」を引き、説明した後で、次のように述べている。

 今までの我国の貞操保護器は、『嬉遊帯』とか、『貞操保全器』とか、『男女貞操猿又』とかの名称を付せられて売出されたが、同じ昭和七年の夏には、完全に『貞操帯』と云ふ名のものが売出された、これもやはり一種の改良された月経帯に過ぎないものであつて、何れかと云ふと当時流行の猟奇趣味愛好家の玩弄物として売出されたものに外ならない。といふのは之を帯びて居ても男女の親近は自由であると云ふので、貞操帯本来の意義を全ゝ無視して居る不真面目なるものであるからである。尚其不真面目さを裏書きするものは、其別製に義毛を付着したものが製作されて居るからである。

 そして佐藤は昭和七年十一月発行の通俗医学雑誌『健康日本』に掲載された広告を挿入している。それには「おもぐろばんど」という名称がふられ、佐藤は「一見ぐろてすくで面白い」との意味であろうと推測し、この発売動機のいかがわしさを物語ると述べてもいる。『近代出版史探索』32の新潮社『現代猟奇尖端図鑑』や平凡社『世界猟奇全集』などに象徴される昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス時代はこのような「おもぐろばんど」なる商品も生み出したことになろう。

 (『世界猟奇全集』)

 それは佐藤にも似たところがあって、『貞操帯秘聞』を読んでいくと、彼が『近代出版史探索』19の『世界性欲学辞典』『万国比較神話学辞典』『日本民俗学辞典』の他に、『自然及人文科学的性欲学百科大辞典』『性欲学語彙』『図解日本性的風俗百科大辞典』『世界軟文学辞典』『万国比較神話学辞典』『日本民俗学辞典』なども編集しているようなのだ。それこそ、これも5の『風俗の歴史』を著したフックスを想起してしまう。

 そのような佐藤の性格に関して、自ら「私はある一つの事を研究し出すと、必ずそれに関係する総ゆる資料を蒐集する癖を持つて居る。それが何年かゝつても倦むことがない」と告白しているのは、そうした多彩な仕事のよってきたるべき衝動を伝えていることになろう。 

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古本夜話1360 佐藤紅霞『洋酒』とダヴィッド社

 本探索1354の百瀬晋『趣味のコクテール』だが、『近代出版史探索』19の佐藤紅霞が戦後になって刊行した『洋酒』(ダヴィッド社、昭和三十四年、三版)を読んでみると、酒を飲まない百瀬がそうした一冊を書くことができたとは思えないのである。

 近代出版史探索

 佐藤の『洋酒』には「ストレートからコクテールまで」というサブタイトルが付されているけれど、紛れもないコクテール本で、その起源から多種多様なコクテール(cocktail、アメリカ語発音カクテル)の作り方などに及んで、昭和三十年代にはこうした実用書が成立し、しかも版を重ねていたことは時代を表象させる。また昭和三十一年の『経済白書』(講談社学術文庫)は「もはや戦後ではない」と謳っていたのである。佐藤もその「はしがき」に書いていた。

洋酒—ストレートからコクテールまで (1957年)

 近頃では経済的な洋酒を生(き)のままですすめ、または、それを基調に使った、風味色彩ともに豊かな、多種多様の、はなはだ趣きのある調合飲料コクテールをつくつて、主客共にこれを傾け、大いに楽しく語り合うということが盛んになつて来た。
 この書物の中には、家庭の主婦としてまずこれだけはぜひ心得ておいていただきたいと思う洋酒についての知識のあらましと、代表的コクテールその他の飲み物の処方百二十五種を選んで紹介してある。
 これらの飲み物によつて、皆様の朋友知人との御交際が、一層の親密さを増すことが出来うるならば、この上もない欣快の至りである。

 にわかに信じられない気もするが、同書を読んでいくと、日本のコクテール文化は佐藤を嚆矢として、大正時代に開化したように思われる。それをトレースするために、彼が挙げているコクテール本をリストアップしてみる。版元名がわかっているものだけはそれも付しておく。

1 佐藤紅霞 『風流な飲料コクテールの作り方』   大正十四年
2 百瀬晋 『趣味のコクテール』 金星堂 昭和二年
3 長崎嶺 『コクテールの調合法』   昭和四年
4 安土礼夫 『カツクテール』 一元社 昭和四年
5 谷地田耕作 『カクテル調合法四百余種』   昭和五年
6 佐藤紅霞 『世界コクテール辞典』 万里閣 昭和六年
7   〃  『世界飲物百科全書』 丸ノ内出版 昭和八年
8 小山雅之 『ドリンクス・サンドウイッチ全集』   昭和十年


 これらに加え、佐藤は『コクテール・ハンドブック』『ソフト・ドリンクス』「実践飲物講座」なども上梓し、飲物研究家、国際飲料研究所主宰と名乗っていることからすれば、彼はコクテールや国際飲料研究の第一人者に位置づけられるだろう。先の拙稿で、佐藤の本業が洋酒輸入商だったのではないかという推測を提出しておいたが、これらの著訳書はそのことを裏づけているのかもしれない。それに合わせて考えられるのは、本探索1355の百瀬晋と高木六太郎『飲料商報』との関係であり、それが戦後の国際飲料研究所へとリンクしているのではないだろうか。

 佐藤は『近代出版史探索』5のフックス『風俗の歴史』と同14の『変態風俗史』(「世界奇書異聞類聚」8、国際文献刊行会)の訳者として登場してきた。それゆえに同15の梅原北明の人脈に属し、海外のセクソロジー文献に通じた人物とされてきたが、ここでは異なる貌を見せている。また昭和三十二年に亡くなったと伝えられてきたが、『洋酒』の出版と検印のことを考えれば、同三十四年までは存命だったとわかる。

 それから『洋酒』のダヴィッド社だが、拙稿「ダヴィッド社版、安東次男訳『悲しみよこんにちは』」(『古本屋散策』所収)で既述しておいたように、サガンの初訳も刊行している。また『近代出版史探索』128のロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』も翻訳刊行し、訳者は川添浩史と井上清一で、二人は同125の「パリの日本人たち」のメンバーで、キャパもその近傍にいたのである。

 

 また井上とやはり「パリの日本人たち」の一人である鈴木啓介は証券会社の社長の息子で、ダヴィッド社の創業者の遠山直道もまた日興証券創業者の遠山元一の三男である。兄の一行:のほうは戦後パリに留学し、音楽研究と批評に携わり、やはり「パリの日本人たち」の同159のピアニスト原智恵子とも親しかったはずで、そのような環境の中からダヴィッド社は立ち上げられたと推察される。

 そして戦後の証券業界の黒幕が同21や133のスメラ塾の仲小路彰だったように、ダヴィッド社の出版顧問も彼が担っていたのではないだろうか。ジョルジュ・バタイユの『エロチシズム』(室淳介訳、昭和四十三年)にしても、当初は「パリの日本人たち」の近傍にいた岡本太郎のラインからと考えていたが、同127の『世界戦争文学全集』の企画者でもある仲小路のほうがふさわしいようにも思えてくる。

エロチシズム

 そのようなダヴィッド社がどうして佐藤紅霞とつながったのかは不明だが、日仏混血児、もしくはオランダ人医師を父とするとも伝えられる佐藤に関しては想像をたくましくさせる存在だというしかないのである。

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