出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話12 伏見冲敬訳『肉蒲団』をめぐって

第一出版社の本は一冊だけ持っていて、それは伏見冲敬訳の『肉蒲団』である。A5判並製ながら、童画家の武井武雄による装丁装画の本は昭和二十六年の刊行から考えれば、瀟洒な一冊と言えるだろう。発行人は石川四司で、前回記したように元改造社編集局長にして第一出版社の社長だった佐藤績のペンネームである。訳者の伏見は篆刻家で中国書学に通じ、後に角川書店から総合書体字典の『書道大字典』や『角川書道字典』を刊行している。また当時高橋鉄との共著『色道禁秘抄』あまとりあ社)もあるので、高橋や『あまとりあ』の出版人脈と見なせるだろう。そればかりか、この『肉蒲団』をめぐって、思いがけない人物も姿を見せている。それを書いてみよう。
角川書道字典
『肉蒲団』は中国風流本の「四大奇書」のひとつとされ、作者は明末期から清初期にかけての文人で、エピキュリアンにしてディレッタントであった李漁(笠翁)だと言われている。この『肉蒲団』は主人公の未央生が性的作業修行の旅に出て、自らの陽根に雌犬の「拘腎」を移植してはめこむという手術を受け、巨根となって様々な性的遍歴に励むが、最後にはそれを切り落としてしまい、出家するという物語である。「風流小説」らしく、「好色の戒」的なクロージングになっていて、最後のところに出てくる「色と金といふ二つの文字がからみますと、ややもすると迷路を脱れて彼岸に行くことが出来なくなる」とか、「それといふのも始めに天地を開闢したまふ聖人が余計な女だの金だのをお造りになつたものですから人間がこんな目に会ふのでございます」とかいった言葉には思わず笑ってしまう。そして「世の中は金と女が仇なり 早く仇にめぐりあいたい」という日本の戯れ句も思い出されるのである。

しかしこの『肉蒲団』は江戸時代に翻刻本が何度か出版され、また明治時代にも同様だったようで、「小説の奇なる、肉蒲団より奇なるはなし」と評せられていたが、やはりポルノグラフィ扱いされ、それまで完訳がなかったと思われる。だから伏見訳は大いなる反響を呼び、それが伏見の記した「跋」に見える。

宣なる哉、その一たび「人間探究」誌上に掲載されるや、訳分の拙陋なるにも拘らず忽ち異例の反響を呼び、絶賛の声は却つて訳者を驚殺せんとしたのであつた。爾来回を重ねること十有四、一年有半に亘つて、短才を駆り禿筆に呵し、竟にこの功を竣へしめたのは、常に激励を寄せられた読者諸賢と、終始鞭撻を惜しまなかつた高橋鉄先生との力である。

伏見の訳文は中国書学専門家の風格を感じさせる典雅なものであり、現在から見れば信じられないことだが、連載中の「肉蒲団」が猥褻容疑を受け、『人間探究』第十号が押収され、責任者が検挙されたという。もっともこれは『人間探究』の匿名コラムによる司法批判に対するしっぺ返しともされている。

この時の「肉蒲団」の挿絵は高森夜江が担当していた。高森夜江とは高森龍夫であり、彼は後の『巨人の星』『あしたのジョー』の原作者梶原一騎(高森朝樹)の父だった。斎藤貴男『梶原一騎伝』(文春文庫)などによれば、龍夫は青山学院師範科を出て、山梨県の中学校に英語教師として赴任する。だが昭和四年に生徒の処分をめぐって校長と対立し、教職を辞して上京し、中央公論社を経て、改造社に入社し、出版部をふり出しに、『俳句研究』の編集長も務め、多くの作家たちと深く交流した。昭和二十二年に戦後出版界の風雲児青山虎之助の新生社に入社し、『新生』などの編集長も経ていたが、二十四年には新生社も倒産してしまい、雑誌向けに得意な挿絵を描くことで収入を得ることが多くなっていた。龍夫は乱れることのない酒豪で剣道に優れ、飄々とした人柄によって、作家や編集者たちからも慕われ、彼らの出入りが絶えなかった。その一人に、後半の『人間探究』編集長になった松原正樹もいた。彼は後に経済誌『財界』を発行する財界研究所の社長になっている。

前述したように、『人間探究』の版元の第一出版社は元改造社編集局長が始めたものであり、松原の出入りも含めて推測すれば、龍夫は第一出版社や『人間探究』の仕事にかなり関わり、「肉蒲団」の挿絵もそのひとつだったのではないだろうか。その龍夫も昭和三十三年に胃癌で逝去したが、彼の人望を物語るように、親交のあった作家や教え子たちによる雅号を付した私家版『高森猟夫追悼集』が編まれたという。また梶原一騎『劇画一代』毎日新聞社)の中で、『巨人の星』星飛雄馬の父である一徹のモデルは龍夫だと書いている。父親のたどった中央公論社改造社といった出版社とはまったく異なっていたけれども、梶原一騎も戦後の講談社小学館において、劇画原作者として君臨したことを考えれば、高森親子は「一代」ではなく、「二代」にわたって、戦前戦後の出版業界を駆け抜けたことになる。

『肉蒲団』、『人間探究』、高森親子と思いがけない出版三題噺になったであろうか。

梶原一騎伝 巨人の星 あしたのジョー