◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事 |
1 東北書房と『黒流』 |
2 アメリカ密入国と雄飛会 |
3 メキシコ上陸とローザとの出会い |
4 先行する物語としての『黒流』 |
5 支那人と吸血鬼団 |
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人 |
7 カリフォルニアにおける日本人の女 |
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち |
9 黒人との合流 |
10 ローザとハリウッド |
11 メイランの出現 |
12『黒流』という物語の終わり |
13 同時代の文学史 |
14 新しい大正文学の潮流 |
15 『黒流』の印刷問題 |
16 伏字の復元 1 |
17 伏字の復元 2 |
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』 |
19 モーパッサン『ベラミ』 |
20 ゾラ『ナナ』 |
21 人種戦としての大衆小説 |
22 東北学院と島貫兵太夫 |
23 日本力行会とは何か |
24 日本力行会員の渡米 |
25 アメリカと佐藤吉郎 |
26 ナショナリズム、及び売捌としての日本力行会 |
27 『黒流』のアメリカ流通 |
28 浜松の印刷所と長谷川保 |
29 聖隷福祉事業団と日本力行会 |
30 日本における日系ブラジル人 |
31 人種と共生の問題 |
32 黄禍論とアメリカ排日運動 |
33 日本人移民の暗部 |
34 『黒流』のコアと映画『カルロス』 |
35 石川達三『蒼氓』 |
36 航海と船の中の日々 |
37 ブラジル上陸 |
38 久生十蘭『紀ノ上一族』 |
39 排日と紀ノ上一族
紀ノ上一族の市街整掃は六日間順調に進んだが、七日目にユニオン広場を通ると、昨日かけて整掃したその広い区域がそっくりもと通りになっていることに驚いた。「米国にゃ、野放図(のほぞ)る悪戯者(どむなら)がおるかい」とやりかえしたが、翌日にはまたもと通りになっていたので、呆気にとられて笑いだしてしまった。だがそこには「悪戯(あくぎ)の裏に隠された暴徒(モップ)たちの陰険な陥穽」が仕掛けられていたのだ。
悪戯を防ぐために伊佐吉と西浜久七という青年が残り、張番をすることになった。七時半頃、二人が広場の崩れ残った記念碑の台座に腰かけ、煙草を吸っていると、突然大きな石が飛んできて、伊佐吉の頭を掠めた。彼は立ち上がり、凛然たる声で「なにするかッ」と大喝したが、投石はさらに激しくなり、伊佐吉は戦場の経験から、闇の中で百人以上に包囲されていると思った。その時写真花嫁のミサが広場に飛びこんできて、石に直撃され、久七と同様に死んでしまう。伊佐吉もいくつもの石に見舞われ、倒れそうになると、立派な見知らぬ日本人が助けに駆けつけてきて、大きな切り石を人影に向かって投げつけた。
紀ノ上一族三十人はユニオン広場の話を耳にし、引き返し、必死に暴徒たちを蹴散らすと、現場には久七とミサ、野菜行商人の支那人の三人が死んでいた。伊佐吉と加勢の日本人は警察へ、紀ノ上一族の三十人はアルカトラズ島の連邦監獄へ収容され、伊佐吉たち三十一人はでっち上げ証言による特別裁判で、暴行殺人の廉を受け、カリフォルニアのモハヴェ流刑地での十年間の禁錮に服すべしとされた。加勢の日本人はやはり投石を受け、記憶喪失になり、忘太郎と呼ばれていたが、最後の弁論に立ち、「この裁判の目的は、有色人種は、この加州では、どんな小さな権利……生命の権利さえ所有する資格がないことを納得させようとするところにある」と知った雄弁をふるった。
彼を含んで三十二人がモハヴェ流刑地に送られた。灼熱の砂漠の真ん中にある五棟の建物が監獄代わりだった。東には広大なアリ地獄のような「死の谷(デス・ヴァレー)」、南と北と西は砂漠が二百マイルも続き、さらに北と西では一万尺の屏風のようなシェラ・ネヴァタ山脈に突き当たる。逃亡は不可能に近かったが、三十二人は逃亡を研究し、執拗にその機会を狙っていた。それは自由を求める本能ではなく、「日本人の血液と自尊心は、こういう不当な屈辱に長く耐えることが出来ない」からだ。すでにここにきて一年八ヶ月経ち、明治四十一年三月になった。
伊佐吉たちは様々なことを学び、もはや不義や不正にたやすく負けないだけの目配りと肝がすわっていた。投石の真相もわかった。
ユニオン広場の投石事件は、虚構の恐日宣伝を合理化するために仕組まれた市長一派の巧妙な芝居だったことも、必要な過度の効果をあげたすえ、こんな方法でウマウマと「始末(エンコンプ)」されたこともはっきりと理解した。
そしてアメリカの排日問題が絶頂に達していることもわかった。日本学童隔離問題に加えて、サンフランシスコの複数の日本料理店が五百人の暴徒に襲われ、徹底的に破壊されたこと、日本を威嚇する目的でのルーズヴェルトによるに大西洋艦隊の太平洋回航、日米関係は開戦一歩前にあることなども知った。
メキシコのマデーロの国粋党が国境でアメリカの守備兵と戦争を始めたために、それを受けてメキシコ人看守も反乱を起こし、アメリカ人看守を襲ったが、機関銃で迎え撃ちされたので、形勢不利になっていた。すると雑用係のメキシコ人が血まみれになって、小屋の窓から銃と弾帯を投げ入れて言った。
「……兄弟(アミーゴ)、われわれの共通の敵をやっつけろ(アター・エストロ・イニミ・イグアーレ)」
そして紀ノ上一族は逃亡に成功する。