少し前の山田たけひこの『マイ・スウィーテスト・タブー』に見たように、現代コミックは性とエロティシズムのテーマに果敢に挑み、これまでの文学や映画とはまた異なる様々な達成を遂げてきたと断言していいだろう。本連載でもそれらを取り上げてきたが、かつては文学の主題であった、ありとあらゆる分野の性とエロティシズムがコミック表現化され、それはマゾヒズムすらも例外ではない。
そのひとつが喜国雅彦の『月光の囁き』であり、主人公はマゾヒストの中学生なのだ。それは驚くべきことというよりも、当然の設定と考えたほうがいいだろう。前回の平本アキラの『俺と悪魔のブルーズ』において、青い月光に照らされた十字路に言及したが、「月光」もまた「青」に属すると判断し、「ブルーコミックス」を形成する色彩群と見なすことにする。
中学三年で、剣道部の部長である日高拓也は、同じ部にいる北原紗月と相思相愛的関係にあった。しかし拓也は紗月のブルマーに「秘密の匂い、天使の聖なる芳香」をかぎ、その足などに魅せられるフェチシストであり、彼女の「番犬」になりたいと願い、そうした「すべての罪を告白し、天使の許しを乞う自分の姿を―」夢想するマゾヒストだったのだ。まさにジル・ドゥルーズが『マゾッホとサド』(蓮実重彦訳、晶文社)でいっているように、「本義的なフィティシスムなしにマゾヒズムは存在しない」。「変態」にして「インポ」の拓也に気づいた紗月は、彼とどのような関係を結ぶことができるのか。
剣道部に入ったのも彼女のそばにいたかったからだし、死を賭して彼女を助けるのもそのためなのだ。拓也は言う。「俺は……犬や……番犬は主人を守るんや。(中略)こうやって二人だけの時に、守ってもらいたいけん」。紗月は叫ぶ。「なんで、なんで拓也が犬なん!? なんで私が主人なん!? 人間やん、人間と人間やん!!」と。ここで作者は拓也を見下ろす紗月の顔を描き、その表情に言葉を添える。それは一ページを黒地に処理した白抜きの「とても悲しそうだった」という言葉であり、『月光の囁き』の物語の行方を暗示している。そして思わず、ヘーゲルの『精神現象学』(樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー)における「主と僕」の形成を想起してしまう。
拓也の告白を受け、「ただの女の子」の紗月も変貌するしかない。そうしなければ、二人の関係は保たれないからだし、ここからマゾヒズムの弁証法が展開されていく。紗月は剣道部の先輩で高校生の植松とデートを重ね、それを拓也に見せつけ、さらに「闇のゲーム」と称して、押し入れや蔵の中に拓也を閉じこめ、植松との性行為を聞かせる。拓也は自分の知らない紗月を感得し、紗月は拓也の泣き顔を見て、幸せな気分に襲われる。それでも彼女は拓也に言う。「お前は人の下におる振りして、人の上に立っとるんじゃ」と。
紗月の姉が『月光の囁き』を解題するかのように月を見て、説明する部分がある。
「月は綺麗やけど、自分で光っとるわけと違うやろ? そう、月はただ太陽を映(うつ)っしょるだけ、太陽がなかったら月は光れんの。
不思議なことに、月は見た目の大きさも太陽と同じやろ? 人が昔から月見て心を動かされるんは、月の囁きが聞こえとるけんなんよ。」
この言葉に対応するように、紗月に奉仕する拓也の姿と、「僕を照らして。僕はここにいる―僕は太陽(きみ)がおらんかったら生きていけん」という彼の告白の一ページが挿入されている。ここで拓也の名字の「日高」と紗月の相関関係とその逆転が重ねられることになる。それはクロージングに示された紗月の変貌にも表出しているように思われる。
喜国の『月光の囁き』は、拓也の部屋の書棚にある谷崎潤一郎の『痴人の愛』『春琴抄』『鍵』『細雪』、及び紗月がその『細雪』を借りて読んでいるシーンがあるように、明らかに谷崎文学の影響下に描かれたといっていい。またさらに各巻のエピグラフとして、谷崎の『刺青・秘密』以外に、三島由紀夫の『仮面の告白』、川端康成の「片腕」、泉鏡花の「外科室」、坂口安吾の「桜の森の満開の下」の一節を掲げ、近代文学のマゾヒズムとフェチシズムの系譜を引き継ぎ、『月光の囁き』も成立したことを示唆している。
ここでそれらの作品にふれるべきだろうが、あえて作品名が表われていない谷崎の一編を紹介してみたい。その作品は『月光の囁き』のテーマとまったく重なるもので、「威勢の足を渇仰する拝物教徒―Foot−Fetichist」を主人公とする「富美子の足」である。この物語を要約してみる。
二十一歳になる美術学校の学生の宇之吉が遠縁の質屋の隠居のところに親しく出入りするようになったのは、隠居が家に入れていた妾の富美子に会いたかったからだ。隠居は彼女の足に魅せられ、宇之吉もまた「一体子供の時代から若い女の整った足の形を見ることにいような快感を覚える性質の人間」だった。隠居は彼に彼女の足が見える姿を描いてくれるように頼む。富美子を描きながら、宇之吉は考える。
僕は一人の男子として生きて居るよりも、こんな美しい踵となって、お富美さんの足の裏に附く事が出来れば、其の方がどんなに幸福だか知れないとさえ思いました。それでなければ、お富美さんの踵に踏まれる畳になりたいとも思いました。僕の生命(いのち)とお富美さんの踵と、此の世の中で孰方(どっち)が貴いかと云えば、僕は言下に後者の方が貴いと答えます。お富美さんの踵の為めなら、僕は喜んで死んで見せます。
つまり隠居も宇之吉も「Foot−Fetichist」に取り憑かれていて、隠居は「犬の真似をして彼女の足にじゃれ着き」、宇之吉にも同じことを要求し、臨終の日にも富美子の足を顔に載せるように頼み、「無限の歓喜」のうちに死んでいったのである。
この「富美子の足」こそが『月光の囁き』の物語の始まりにして、富美子や宇之吉が紗月や拓也のモデルであったのではないだろうか。なお「富美子の足」は『潤一郎ラビリンス4』(中公文庫)の「近代情痴集」に収録されている。
またこれは蛇足であるかもしれないけれど、女性の側からの「犬」願望を描いた作品として、ほぼ同時期にやはり「ヤングサンデーコミックス」から、柏木ハルコの『いぬ』が刊行されていることを付記しておく。