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混住社会論132 篠原雅武『生きられたニュータウン』(青土社、二〇一五年)と拙著『民家を改修する』(論創社、二〇〇七年)

生きられたニュータウン 民家を改修する



本連載「混住社会論」の読者とおぼしき未知の人物から著書を恵送された。それは篠原雅武の『生きられたニュータウン』で、サブタイトルは「未来空間の哲学」とある。著者紹介によれば、一九七五年にニュータウンで生まれ育ち、専門は哲学、都市と空間の思想史と記されていた。篠原は私の息子たちとほぼ同世代ということになり、彼らに共通するのは高度成長期後の産業構造の転換により、消費社会を背景にして成長してきたことだとわかる。それを郊外やニュータウンに当てはめてみると、私は先住民にして戦後の郊外一世、篠原はニュータウン二世に位置づけられるだろう。

前々回のカレン・テイ・ヤマシタの日系三世ではないけれど、あらためて郊外やニュータウンも、その歴史の進行と集積、世代の移行からして、すでに二世どころか三世の時代を迎えていること、そしてそうした世代が郊外やニュータウンを研究する時代になったことを実感させられる。それは日系三世のヤマシタが人種の混住する文化環境、ドラスチックな時代変化と社会状況をくぐり抜けてきたように、二世や三世たちの郊外やニュータウンもまた同様で、それらのトポスが私などの世代の風景とは異なるイメージ、及び多くの差異を伴う生活空間として体験され、考察されてきたことを意味していよう。そのようなアングルから、篠原の著書も提出され、それはエピグラフに掲げられた中原中也の「朝の歌」からも伝わってくる。

篠原はまず「序文」において、ニュータウンは理論と計画に基づく人工的な都市で、その多くが丘陵や海浜の埋立地に巨大な規模で建築され、団地を主要な構成要素とすると始め、その「独特の生活空間」を提出しているので、それらを抽出してみる。

 ニュータウンの空間は、透明で、平穏である。そして、この透明感、平穏には、どことなく紛い物めいた雰囲気がある。透明で平穏であるこの状態に現実感がない。

 ニュータウンは、現実に存在している。にも拘わらず、そのなかで起きていることいが、現実のことのように思えない。ニュータウンという空間世界に特有の事を考えていく手がかりは、この感覚にある。

 それでもニュータウンは実在している。団地があり、芝生があり、街路があり、公園がある。つまりニュータウンもまた実在の世界であり、それ特有の空間性がある。その内で起こる出来事や言葉のふるまいがたとえ固有名を欠いたものと思われようとも、固有名を欠くというあり方において、実在している。

このようなニュータウンの外との相互接触や相互浸透性の欠落に起因する透明性と非現実性を足がかりにして、篠原はニュータウンという世界、さらにその歴史における変化を問うていく。それはこれまでのニュータウンに関する概念枠としての新しい生活様式の母胎、その一方で農村や里山の破壊といった図式を超え、老朽化、建替えも含めた住環境再構築という現実の課題へともリンクしていくものとされる。おそらくこの二分法は、前者が『〈郊外〉の誕生と死』の私などの先住民と連なる郊外一世、後者が篠原たちの郊外二世のポジションだという判断によるのだろう。ただ私の場合はそれだけにとどまっておらず、郊外の果てへの旅を通じての混住社会のあり方を模索する立場にあるし、本連載もそのために書かれている。
〈郊外〉の誕生と死

それはともかく、篠原は安部公房の『燃えつきた地図』や建築家、都市理論家クリストファー・アレグサンダーの『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』(稲葉武司訳、鹿島出版会)、丹下健三門下の黒川紀章による、篠原が育ったらしい湘南ライフタウン、同じく磯崎新の「超都市」時代、ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』(未邦訳、Ecology without Nature, Harvard UP)などをたどり、ニュータウンの誕生とそれらの形象が参照され、トレースされていく。
燃えつきた地図  形の合成に関するノート/都市はツリーではない  Ecology without Nature

そして続けて戦後の日本における都市を巡る思想として、丹下とメタボリズムに連なる黒川などの建築家たちが召喚され、巨大都市化と分譲マンション問題も言及される。その近代都市組織化の論理に関して、やはり丹下の参謀浅田孝の『環境開発論』(鹿島出版会)を俎上に載せた後、「現在、ニュータウンでは、効用と機能性のもとでつくりだされた世界自体が老朽化し、崩壊を始めている」という状況へとたどり着く。
環境開発論

そうして多木浩二の『生きられた家』(岩波現代文庫)が開かれる。同書の初稿は、篠原が生まれた一九七五年に篠山紀信の民家写真集『家』(潮出版社)のテキストとして書かれたもので、それは出版社と版を変え、四十年以上にわたって読み継がれてきた。これは住むという営みが空間の中に定着することによって家が成立したこと、それが農村の民家に象徴され、家はただの建築物ではなく、生きられる空間であり、生きられる時間であることを考察した一冊といえよう。このタイトルが精神病学のミンコフスキーの『生きられる時間』(中江育生、清水誠訳、みすず書房)から取られていることは明らかだが、篠原の『生きられたニュータウン』も多木の著書のタイトルを反復しているし、彼は『生きられた家』への応答として、この一冊を書いたと述べている。
生きられた家  生きられる時間

しかし篠原は多木の初稿と篠山の写真集の刊行された七五年生まれであり、「民家のような家の住んだことがない」ので、ニュータウンにそれを求めることになったのである。民家のような豊穣な意味はなくても、ニュータウンに人が住むようになって半世紀が経ち、そこで生活を営んできた人々が多く存在するし、まさに「生きられた時間」があったのだ。それゆえにその空白と廃墟化を直視し、そこから脱出し、未来へとつなげようとするのだが、それはまだ充分なるイメージの開花へと至っていないように思われる。そしてそこに郊外二世のアポリアが立ちはだかっているのだろう。

さてここで「民家のような家に住ん」できた私の立場を語るために、自著の『民家を改修する』にふれることにしよう。実は世代と内容は異なるにしても、両書に登場する人物や書物は共通していて、それは篠原と私がともに「生きられる」トポスを求めていることで生じた結果ではないだろうか。
民家を改修する

拙著は二〇〇五年から六年にかけての二年間にわたる自宅の築六十年を経た民家改修の始まりから終わりまでを詳細に記録した一冊である。私は生まれてほとんどずっとこの家で暮らし、妻もそれは三十年に及び、息子たちもこの家で十八歳までを過ごしていた。ところが何の手入れも施さずにきたために、家の老朽化、高齢化に伴う生活の様々な不都合が目にみえて生じるようになり、それらのための改修に必然的に迫られたのである。そのことを考えているうちに、今和次郎の『日本の民家』(岩波文庫)を思い出し、古民家的改修を目論むようになった。
日本の民家

といって改修のディテールに通じていたわけではないので、とりあえず旧知の綜合設計事務所に相談することにした。それには『環境開発論』の浅田孝についても尋ねてみたいと思った事情も絡んでいた。この設計事務所を創業したのは丹下健三研究室出身の山梨清松で、磯崎新や黒川紀章の兄弟子に当たり、丹下の分身なる浅田もよく知っていると思われたからである。たまたま私の訪問時に山梨が事務所にいたので、浅田のことを聞くと、彼は丹下研究室の古い名簿を持ってきた。そこには浅田や山梨に続いて、磯崎や黒川ばかりか、藤森照信の名前も並んでいて、当時の丹下研究室事情を話してくれて、そればかりか、まったく思いがけないことに、私の民家改修も山梨の鶴の一声ともいうべき言葉によって、その設計を引き受けてくれることになったのだ。この綜合設計事務所も建築設計・都市設計の他に「環境設計」も柱にしているので、磯崎や黒川と同様に浅田の影響を受けているのは明らかだったから、これで私の家の改修計画も浅田の唱える「環境」と無縁ではなくなったことになる。

ちなみにそれからしばらく後で、私も「浅田孝『環境開発論』」(『日本古書通信』二〇〇九年一月号所収)を書いている。そこで彼が建築と都市計画を文明史的視点で捉え、「環境」という言葉をキーワードとし、起源的に用いたこと、また実際に六〇年代から人口、車、公害といった都市環境の混乱、郊外の乱脈なスプロール開発、三十年後の控えている老齢人口の増加と若年労働力の急減を踏まえ、ゴミ問題、地球温暖化、バリアフリー、エコロジー、リサイクルなども、その「環境」の論の中に取りこんでいたことなどにふれておいた。そしてまたその『環境開発論』は短絡的に田中角栄の『日本列島改造論』(日刊工業新聞社、七二年)に引き継がれたのではないかという推論についても。
日本列島改造論

そのような経緯と事情によって、私の民家改修プロジェクトはスタートし、それにゼネコンや宮大工も加わり、ひとつの民家改修物語であると同時に、私の家族の物語をも織り成すものとなった。そしてこれもまた思いがけないことだったけれど、近郊のニュータウンに六ヵ月仮住まいし、篠原のいうところの「独特の生活空間」を体験することになった。それは「白昼夢の世界」にいるような錯覚をもたらしもした。それについては拙著の1「民家を改修する」に記しておいたし、2「家と私」では家族の物語の註的なものも付け加えることになった。いささか羞恥の念を禁じ得ないが、ここで再録しておく。

 私はこの家に何かの痕跡を残そうと思った。何百年も前から営まれてきたであろう一族の営みの形象としての民家、住むことに示された民衆の知恵、知られざる大工職人たちの高度な技術、歴史の佇まいを含め、家族や死者の記憶、戦後の生活史、家族の悲しみや喜び、それらのすべてを封じこめようと思った。
 考えれば考えるほど、住むということと家は人間にとって根源的な体験であり、死ぬまでその呪縛がとけない経験であるのかもしれない。……

もちろんこれは『生きられた家』を念頭に置き、コレスポンダンスしているものでもあり、実際に3「住むことの変容」において、戦後の建築と家の変容をたどり、そこに多木の「民家はまもなく消えてしまうだろう……」というセンテンスを引用しておいた。これは篠原も『生きられたニュータウン』で引用している一文に他ならない。

 この拙文をもって、これも恵送された『生きられたニュータウン』へのささやかな応答としよう。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」131  江藤淳、吉本隆明「現代文学の倫理」(『海』、一九八二年四月号)
「混住社会論」130  Karen Tei Yamashita , Circle K Cycles(Coffee House Press、二〇〇一年)
「混住社会論」129  高橋幸春『日系ブラジル移民史』(三一書房、一九九三年)と麻野涼『天皇の船』(文藝春秋、二〇〇〇年)
「混住社会論」128  邱 永漢『密入国者の手記』(現代社、一九五六年)
「混住社会論」127  宮内勝典『グリニッジの光りを離れて』(河出書房新社、一九八〇年)
「混住社会論」126  江成常夫『花嫁のアメリカ』(講談社、一九八一年)と有吉佐和子『非色』(中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」125  トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』(原書一九四九年、毎日新聞社一九七八年)
「混住社会論」124  スティーヴン・グリーンリーフ『探偵の帰郷』(早川書房、一九八五年)とリチャード・ピアス『カントリー』(ポニー、一九八四年)『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」123  『アメリカ教育使節団報告書』(一九四六年、講談社学術文庫、一九七九年)
「混住社会論」122  カムマーン・コンカイ『田舎の教師』(勁草書房、一九八〇年)
「混住社会論」121  谷恒生『バンコク楽宮ホテル』(講談社、一九八一年)
「混住社会論」120  矢作俊彦『THE WRONG GOODBY ロング・グッドバイ』(角川書店、二〇〇四年)
「混住社会論」119  スタインベック『怒りの葡萄』(原書、一九三九年、第一書房、一九四〇年)とピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(東洋経済新報社、二〇〇七年)
「混住社会論」118  ゾラ『大地』(原書、一八八七年、論創社、二〇〇五年)と長塚節『土』(春陽堂、一九一二年)
「混住社会論」117  渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、一九九八年)と久米邦武編『特命全権大使 米欧国回覧実記』(新橋堂、一八七八年)
「混住社会論」116  ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』(原書、一八八三年、論創社、二〇〇二年)
「混住社会論」115  M・M・ジンマーマン『スーパーマーケット』(経済界、一九六二年)
「混住社会論」114  『大和ハウス工業の40年』(同編集委員会、一九九五年)
「混住社会論」113  安土敏『小説スーパーマーケット』(日本経済新聞社、一九八一年)とテーラー『科学的管理法』(産業能率短期大学出版部、一九六九年)
「混住社会論」112  藤田 田『ユダヤの商法』(KKベストセラーズ、一九七二年)と『日本マクドナルド20年のあゆみ』(同社、一九九一年)
「混住社会論」111  ジョージ・リッツア 『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部、一九九九年)
「混住社会論」110  藤原伊織『名残り火』(文藝春秋、二〇〇七年)
「混住社会論」109  ピエール・ブルデュー『住宅市場の社会経済学』(藤原書店、二〇〇六年)と矢崎葉子『それでも家を買いました』(大田出版、一九九〇年)
「混住社会論」108  庄野潤三『夕べの雲』(講談社、一九六五年)
「混住社会論」107  宮部みゆき『理由』(朝日新聞社、一九九八年)
「混住社会論」106  黄 春明『さよなら・再見』(めこん、一九七九年)
「混住社会論」105  日影丈吉『内部の真実』(講談社、一九五九年)
「混住社会論」104  ウェイ・ダーション『セデック・バレ』(マクザム+太秦、二〇一一年)
「混住社会論」103  松本健一『エンジェル・ヘアー』(文藝春秋、一九八九年)
「混住社会論」102  村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」101  赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社、一九九九年)
「混住社会論」100  中上健次『日輪の翼』(新潮社、一九八四三年)
「混住社会論」99  多和田葉子『犬婿入り』(講談社、一九九三年)
「混住社会論」98  本間洋平『家族ゲーム』(集英社、一九八二年)
「混住社会論」97  黒岩重吾『現代家族』(中央公論社、一九八三年)
「混住社会論」96  近藤ようこ『ルームメイツ』(小学館、一九九七年)
「混住社会論」95  鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』(角川文庫、一九八五年)
「混住社会論」94  山田太一『岸辺のアルバム』(東京新聞社、一九七七年)
「混住社会論」93  小島信夫『抱擁家族』(講談社、一九六五年)と『うるわしき日々』(読売新聞社、一九九七年)
「混住社会論」92  佐藤洋二郎『河口へ』(集英社、一九九二年)
「混住社会論」91  佐藤泰志『海炭市叙景』(集英社、一九九一年)
「混住社会論」90  梶山季之『夢の超特急』(光文社カッパノベルス、一九六三年)
「混住社会論」89  岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1