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古本夜話579 グラネ『支那人の宗教』と津田逸夫

前回「東亜研究叢書」について、その十三冊を挙げ、そのうちの既刊本は五冊だが、どれだけ刊行されたのかは不明だと既述しておいた。また「以下続刊」との記載があったものの、時代状況からすれば、それは困難だったのではないかと推測していたからだ。しかもその後、それらのうちの何冊かが岩波書店からも出されていることを知った。

さらに数年前に、今はなくなってしまった神戸のロードス書房の目録で、マルセル・グラネの『支那人の宗教』を見つけ、購入したところ、その表紙に「東亜研究叢書」と銘打たれていたのである。しかもそれは昭和十八年十一月に河出書房から発行され、「東亜研究叢書」第二十一巻で、訳者は津田逸夫とあった。

そして生活社版と同様に、冒頭に「東亜研究叢書の刊行に就いて」が置かれていて、この一文も生活社版をほぼ踏襲していた。ただこちらは昭和十八年十月の日付で、満鉄調査局長内海治一の名前で出され、「今般弊社職制改正に依り調査部が調査局に改組さるるに伴なひ、本刊行会の事業は直接当調査局に於て継承実施することとなつた」との文言が見えている。これが『支那人の宗教』の満鉄調査局蔵版、河出書房刊行となった経緯と事情だと考えられる。そのことから判断すれば、第二十巻までは生活社と岩波書店から発行され、第二十一巻から河出書房に移ったのであろうが、こちらはこちらで、これも何巻まで出されたのかは定かではない。それに同じ叢書ではあっても、時代状況を反映してか、河出書房版はひと回り小さいA5判の並製で、用紙はほぼザラ紙に近く、物資が不足しつつあることを物語っているようだ。

しかしこの大東亜戦争下にあっても、「東亜研究叢書」が出され続けていたという事実は注目すべきだし、その中にフランス人グラネの著作が第一巻の『支那文明』に続いて、『支那人の宗教』も含まれていたことは、「同叢書」が「欧米人の東亜に関する研究」の翻訳を主旨にしていたにしろ、特筆に値しよう。前者の訳者は前々回の『概観回教圏』で「アラビア系諸国」を担当していた野原四郎の名前が挙げられていた。だが『支那文明』はまだ刊行されていないようで、戦後の『世界名著大事典』の『中国文明論』の立項に邦訳の事実は記されていない。
(『概観回教圏』)

それはともかく、これも『同事典』に立項されているグラネも引いておこう。

 グラネ Marcel Granet (1884〜1940)フランスのシナ学者。社会学者デュルケムおよびシナ学者のシャヴァンヌに師事。1908〜11年に中国留学。1925年以後東洋語学校教授、次いでソルボンヌのシナ学研究所を主宰した。彼は独自の社会学的方法論とすぐれた透察力をもって中国の古典を研究し、その成立の背景となった社会生活の諸様相、ひいては古典を生み出した思想の特質に、生き生きした解明をあたえた。(主著の原文タイトルは省略)

このグラネの『支那人の宗教』は『中国文明』が未刊だったとすれば、昭和十三年に弘文堂から刊行の内田智雄訳『支那古代の祭礼と歌謡』(現在は平凡社東洋文庫)に続く二冊目の翻訳ということになる。『支那人の宗教』はまず第一章の「農民の宗教」で、古来の宗教的土台を示し、第二章の「封建宗教」と第三章の「おほやけの宗教」で、支那の過去における帝国のかたちに至る国民的統一の前後にふりわけられた魯の国の宗教に基づく封建宗教、孔子の教えを国民的宗教とするおほやけの宗教に言及し、第四章の「宗教のよみがえり」では仏教道教が語られ、最後に支那における将来の宗教の行方が問われるという構成になっている。
支那古代の祭礼と歌謡(大空社復刻)中国古代の祭礼と歌謡(『中国古代の祭礼と歌謡』)

訳者の津田逸夫に関しては先の「東亜研究叢書の刊行について」の最後に付け加えられた紹介があるので、これも引いておこう。

 訳者の津田逸夫氏は、一九三五−四〇年の五年にわたり、フランスのソルボンヌ大学支那学科L’institut dues Hantes Études Chinoises(ママ)において、原著者グラネ博士より儀礼とくに土喪令、土婚礼、暦、四川省民間伝承の講義を又、実修科 Écoledes , Haute Études Pratiques(ママ) においては、後漢書の方術列伝及び抱朴子の講義を聴きグラネ教授の下で、支那学、特に支那における古代音韻の方面よりみたる言語学等を研鑽し、コレーヂ・ド・フランスにてモース氏よりメラニシアの原始宗教の講義を聴き、ペリオ氏の推薦によってパリのアジア協会会員となつた篤学の士である。かくの如く原著者グラネ教授と長く親交したのであるから、原著を邦訳するには最適任者であつて、引きつゞき公刊される「支那文化」の邦訳と共に、われわれがグラネ博士の名著を邦文にて読むを得たることを欣びたい。「支那文化」は古典の分析によつて、古代の社会環境(農民、封建貴族等)の分析をこころみた総合的著作である。

この記述に至って、やはり『支那文明』=『支那文化』が昭和十八年時点で未刊だったとわかる。だがそれでも『支那人の宗教』の出版のかたわらで、『支那文化』の刊行も進められていたことになるのだろうか。

またここにペリオの名前が挙がっているが、彼もフランスのシナ学者、探検家で、中央アジアを探検し、敦煌石窟から多くの古写本、絵画、彫刻等を発見し、帰国後コレージュ・ド・フランスの教授となっている。津田はグラネやモースだけでなく、ペリオの近傍にもいたことになる。ここに昭和戦前にあって、社会学や人類学などを目的とし、パリにわたった人々の名前の中に津田も加えることができる。もう少ししたら、彼らにも言及することになるだろう。

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