農村的相互扶助の自治会と、特権階級的な寺の微妙な関係
小田 : こちらのローカルな話題ばかりで恐縮なんだけど、これは避けて通れないので、順を追って話してみます。
発端は昭和19年の熊野灘を震源地とする東南海大地震で、静岡県中西部に大きな被害が生じ、O寺が崩壊してしまったことです。これは戦時下でのことで、実情は正確に伝えられなかったが、自治会内でもかなりの家が崩壊したと聞いている。
A : 現在でも盛んにいわれている熊野から東海地方にかけての大地震というのは、その戦時下の大地震の再来をさしているのだね。
小田 : そういうことで、それを体験した人たちの証言を聞くと、みんなで田や畑に逃げたが、目の前で家が崩壊していくのを目撃したとのことだった。その名残りもあって、昭和30年代までは家に丸太の支えが組まれているのを目にした。それは地震の際に崩壊は免れたけれど、傾いてしまったので、そのような処置をとっていたことになる。
A : 地震ならぬ戦争の名残りも昭和30年代までは目についた。例えば防空壕なんかもよく見かけたし。
小田 : そんな時代もあったねということになるが、村の人たちも集会所がなくなって困ったんだと思う。といって敗戦後の混乱と困窮の中で、早急に再建できるわけもなく、それが実現したのは昭和24年になってからだった。
それも当時の農村の慣習から考えれば、大工はいたにしても、全員が協力し、資材も調達し、所謂「結い」のかたちで建設したはずだ。昭和30年代までは農作業も共同だったし、道路や河川の修繕も「普請」ということばに象徴されるように、これも共同で営まれていた。
それが農村の現実であり、O寺はあくまで集会所であり、後に「薬師堂」として登記されるようなものではなかった。J寺はそのようなボランティア的労働は免除されていた。
A : つまりJ寺の住職と家族はそうした労働に関わることのない特別な人たちだったわけだね。
小田 : そう、南部では有数の大寺で、田畑は有しておらず、当然のことながら農業に関わりはないし、大学も出ていた。それこそテレビじゃないけれど、早くから新しい家電も揃い、食べ物にしても、普段から肉や魚を食べていて、まあ我々から見れば、特権階級だったといえる人じゃないかな。古い言葉でいうと、階級がちがうという感じだ。
A : でもそういう人が政治家を兼ねた場合、本当に政教分離どころか、政教一致になってしまうのだから、どうなっていくのか、わかるような気がする。
小田 : 私の場合、家がキリスト教の時代もあり、父も早くに亡くなったこともあって、関わりは薄く、よくわからなかった。だが政教一致の権力者ということになると、周りに取り巻きと信奉者が形成され、ご当人にしても何でも自分の思いどおりになるという心境にも至ったんじゃないかな。
おまけに昭和40年代は高度成長期だったし、市にも開発の時代が訪れていた。南部地区にしても、ゴルフ場の開発を始めとして、3ヵ所に及ぶ大規模な団地(建売住宅地)開発、様々な工場誘致などが盛んで、それに耕地整理という土地改良事業も重なっていた。
それらは必ず行政の許認可と様々な業者が入り乱れるわけだから、市のほうも「先代」を南部の実力者として位置づけ、利用するところがあったのだろうと思う。それもあって市議会議長に就任したとも考えられる。
でもこれらは自治会長になって、色々と調べていくうちに浮かび上がってきた事実で、それが新公会堂建設計画にも密接にリンクしていたとわかってきた。
A : それだったら、あなたが『郊外の果てへの旅/混住社会論』で言及している戦後の全国総合開発計画や、田中角栄の『日本列島改造論』に象徴される国土計画が、地方の小さな自治会にも波及していたことになるのか。

