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【自治会、宗教、地方史】No. 30 第二部 4 指定文化財の仏像、または行政の拙速な お墨付き

指定文化財の仏像、または行政の拙速な お墨付き

小田 : まさにそういうことで、その指定文化財となる経緯と事情を確認する必要があると考えた。それで教育委員会に情報公開条例に基づき、昭和50年における指定文化財への経緯の公開を求めた。

A : おもしろいね。そこまでやるのか。

 その前にいっておくと、薬師寺とか薬師堂は全国各地にあり、そこには薬師如来がまつられている。それは薬の知識がない時代に薬草などの漢方薬で病気を治すことができる人がいて、それが薬師の始まりで、薬師如来信仰にもつながっているようだ。

小田 : それには私も一言付け加えたいのだが、後回しにして、まずその公開情報にふれてみる

 昭和50年10月1日付で文化財専門審議会委員長名により、委員に対し、10月9日に市指定文化財の指定に関する「審議委員会の開催」通知が出された。起案者は文化財保護係長となっている。審議委員の名前は不明だが、教育長や郷土館長などの印も押されているので、教育委員会管轄のもとでの開催だとわかる。

 次に10月16日付で「指定文化財の指定について」が出されている。それは市の文化財保護条例に基づき、教育員会が文化財保護審議会の諮問の結果、「薬師如来立像―本[旧T応寺蔵]四尺三寸 所有管理者 J寺先代名」が指定されたことになっている。決裁年月日は10月23日である。

A : 指定に際しての現物の確認とか、その歴史的証明とかはないのかな。

小田 : 一応10月1日付では「必要に応じ、指定候補物件についての実地調査も実施」と謳われている。だが実際に9日の審議委員会の開催時は2時30分からで、現地調査は2時30分から3時30分とされているが、市役所での審議時間、及び車での移動時間から考えて、現地調査に赴いたとは思えない。
 それはそこに挙げられた「指定理由」と薬師如来像のモノクロ写真によって、「実地調査」は省かれたと判断するしかない。ついでにそこに述べられた「指定理由」も引いてみます。

 本薬師如来像は、平安後期、藤原時代の木彫であり、当地方としては数少ない藤原仏である。
 作者については不明であるが、藤原期の特徴を示している。
 昭和26年、石田茂作博士が調査され高く評価されている。[『市誌』上巻202頁]

 この記述は何に基づくかというと、そこに添えられたJ寺側からのメモで、寺伝によれば、平安中期の藤原道長の仏師定朝の真作だとされているが、さすがに審議委員会にはそのことは提出できなかったはずだ。それで引用文には省かれたと考えられる。

 ところが文化財指定後の『文化財ガイド』などでは「定朝法師新作の薬師如来」との大見出しが堂々と使われている。この定朝のことは注釈が必要だと思いますので、谷信一、野間清六編『日本美術辞典』(東京堂出版、昭和27年初版、同54年25版)を引いてみます。

日本美術辞典

 定朝 じょうちょう 天喜五年(~1057)康尚(こうしょう)の子で木仏師となり、藤原頼道などの公家に重要され、治安二年(1022)に法成寺の造仏の功で法橋に叙せられ、木仏師が僧位を得た初例となる。永承三年(1048)に興福寺造仏の賞で法眼に上り、その間多くの仏像を製作したが、その唯一の遺品は天喜元年に頼道の平等院阿彌陀堂の本尊として造った丈六阿彌陀像である。これらの定朝の諸作品は浄土教を信仰する当時の公家精神を適格に表現した様式で、しかもその技法は木寄法を完成した軽快な木彫法であったので、ここに絵画における大和絵の完成と同じく、彫刻における日本の形式と様式とが成立し、以後の平安時代末期においては仏像彫刻の典型と認められ、俗に定朝様(じょうちょうよう)と称される。同時に定朝によって木仏師の社会的地位が高まり、その公家と寺院に対する職場が確保されて、世襲と流派とが生まれてくることになった。

A : この阿弥陀如来像を見れば、小さい写真にしても、薬師如来像と作者が異なることが一目で歴然とわかる。

小田 : そうでしょう。新しい美術辞典ではなく、同時代のポピュラーな東京堂版を引いたのは、審議会において、このような基礎文献すらも参照されていないことが明らかだからだ。

A : 本当にそうだね。二つの写真を見ただけでも、多少なりとも美術に通じていれば、指定文化財にふさわしいかどうかの判断をためらうのが当然だ。だがそうした審議に関する議事録もないようだから、お手盛りの形式的審議会に過ぎなかったんじゃないかという疑念も生じてしまうね。

【自治会、宗教、地方史】No. 29 第二部 3 О寺の仏像にたいする疑い

О寺の仏像にたいする疑い

小田 : そのきっかけというか、発端は昭和50年にО寺の仏像が市の指定文化財となったことだった。しかしこれまで厨子に納められていて、戦後になって昭和37年と49年のお開帳の時しか見たことのない仏像がどうして指定文化財とされたのかという疑問が最初からつきまとっていた。

 だって寺の名称で呼ばれていても、村の集会所でしかないところに、どうしてそんな貴重な仏像があるのか。具体的にいえば、薬師如来像ということになるのだが、ここにあること自体が不可解だったわけですよ。この薬師如来の存在によって薬師堂登記の発想が生じたんだと思う。

A: でもそれはいくらなんでも、最初から無理があるんじゃないの。

  そもそもО寺自体が村の集会所で、囲炉裏があり、火の危険があるところに、そんな貴重な薬師如来がおかれていることすらおかしい。それに神棚もあるというのだから、どう考えても薬師堂とするのは納得がいかない。

小田 : 普通の常識で考えれば、当然そうなるし、私も以前から疑問に思っていた。それに昭和61年、平成10年、22年と3回のお開帳があり、その実物や写真を見て、どうしてこんな仏像が指定文化財となったのか、不可思議でしかなかった。

 私も若い頃は西洋美術史でいうところのイコノグラフィ(図像学)にはまっていたし、それが日本の美術や民俗の解読にも応用されていることを学んできた。ただAさんのように実際に骨董品の仕入れや販売まで手がけたことはないし、テレビの「開運!なんでも鑑定団」を見ているくらいだけど。当の薬師寺像がとても指定文化財に値するものでないことは一目見るだけでわかった。

A: 私は実物を見ていないが、あなたかそこまでいうのであれば、そうなんでしょう。それに謙遜的発言だけれど、本当はかなり仏教美術にも通じているのではないか。そのことはあなたの本の表紙カバーに女神像が使われていることにも明らかだと思う。あの女神像は私から見ても、とてもいいもののように映る。

古本屋散策 (女神像)

小田 : さすがにAさん、よく見ているね。あの女神像は20年ほど前に郊外のリサイクルショップで見つけ、3万円で購入したもので、それこそこれを目にした近所の人から、「開運!なんでも鑑定団」に出るように勧められたことがある。 これは東南アジアのもので、昭和40年代に日本へと持ちこまれたと思われ、名のある人の手になるものだとは見なせないけれど、気に入って玄関のところに置いてある。毎日のように見ているのだが、飽きないし、民芸品として優れていると思う。もちろん芸術作品と考えているわけではないが。

 そのことに加えて、近年かつて手が出なかった高価な美術全集が驚くほど安く入手できるようになった。それで集英社の『日本古寺美術全集』などを繰るのを楽しみとしている読書事情もあり、目が肥えたことにもよっている。

 

A: それはうらやましい限りだ。あの手の大判の美術全集は印刷もいいし、細部までクローズアップされているので、まさに仏像などを玩味するにはふさわしい。ただ問題なのは場所を取ることなので、安くなっていても、買えないし、置くところがない。
 もちろん現在ではデジタル画像で細部までクローズアップできることは承知しているが、大判の美術書を見る喜びとはちがうものだ。

小田 : 私の場合も書庫があるので僥倖だというしかないのだが、歳をとり、活字だけの本よりも、こうした大判の美術書にすっかり馴れ親しんでしまったし、それらの仏像の放つオーラも同様だ。

A: ところがその薬師如来像には民芸的な美しさも、仏像のオーラもまったく感じられないといいたいのでしょう。

【自治会、宗教、地方史】No. 28 第二部 2 当事者になるまで気づいていなかった政教一致

当事者になるまで気づいていなかった政教一致

小田 : 私もそれが引っかかっていた。これも昭和31年にО寺と土地はJ寺として所有登記されているのに、どうしてあらためて薬師堂として登記したのか。つまり薬師堂としなければならない理由があったのかということだ。

 それは昭和31年の所有権登記は私が推測するように、シャウプ税制に起因する名義上のもので、実質的にJ寺のものにするためには薬師堂の名目を利用するしかなかったのではないか。すでにО寺再建の当時者たちはほぼ全員が故人となっていたので、村の集会所としての再建にまつわる事実を知っている者はいなくなっていたし、先代は実質的にJ寺のものにする時期が到来したと考えたのではないか。

 実はJ寺は昭和58年に新築したことで、その際に薬師堂を移転登記したかたちになっている。それが薬師堂登記のからくりではないかとずっと考えていた。実際にJ寺新築と薬師寺登記はリンクしているわけだから。

A : ところがなんでしょう。

小田 : そうなんだ。昭和49年のお開帳の時から、薬師堂画策が動き出していたことを前提として考えるべきではないかと思った。するとこれまで断片的だった事情がすべて結びつき、トータルな構図が浮かび上がってきた。

 これまでもふれてきたように、先代は昭和30年代後半に市会議員となり、それまでの農村の一介の住職から政治家としても権力を有するようになっていた。そして3期にわたって市会議員をつとめ、市議会議長という要職を得た。

 私の場合は檀家以上の関係はなかったので、想像するしかないけれど、そうしたキャリアに加え、政教一致というポジションを得ることで、野心と欲も膨らむ一方だった。

A : 時代は高度成長期だったし、絵に描いたような地方政治家の誕生というわけだね。しかもそれに宗教権力までが相乗することになった。

小田 : それまで市の南部地区は農村地帯だったが、高度成長期の流れを受け、耕地整理事業のかたわらで、工場、団地、商業施設などの開発が盛んになった。
 そうなると開発などの窓口、口利き訳として、先代が重宝な地位へと躍り出たんじゃないかと思うし、市のほうも大いに利用できる存在となった。それは取り巻きの中に市役所の人たちがいたことからもわかるし、先の不動産屋の例を見ても、そうした癒着が生じていった。それが高じて、何でも自分の思いのままになるし、県会議員への野心も芽生えていった。

A : 実際に立候補したんでしょう。

小田 : そう、昭和54年のことで、これも連鎖していると思う。それこそ政教一致の典型で、自治会を挙げての選挙運動を繰り拡げたが、落選してしまった。そもそも県会議員に打って出るためには組織票、つまり農協、企業組合などの支持が不可欠なのに、南部地区の檀家をメインにしていたことから、あえなく落選してしまった。そうした票読みができなかったし、思い上がっていた実例といえるだろう。

A : あなたは関わらずにすんだの。

小田 : 同調圧力には強かったけど、何とかやりすごした。ただ妻のほうは婦人会との絡みで、かたちだけはつきあわざるを得なかったようだ。その際にはそれほど深く考えなかったけれど、先代の市会議員立候補と選挙、それに続く政治家としての活動も、そうした自治会と檀家の支持をベースにして成立していたことを実感として受け止めた。

 だがそうはいっても、昭和30年代後半はまだ自治会の世帯数は30余、そのほとんどが檀家だったから、それもしょうがないと思ったことも事実だ。
 
A : でもそれが自治会の変貌にもかかわらず、ずっと続いてしまったことが問題となるわけなんでしょう。

小田 : 確かにそうなんだが、こちらも組長が回ってきても、先代が政教一致の差配の土地や建物をめぐる問題にも深く関わっていたことに気づいていなかった。自治会役員を引き受け、色々と調べる必要が生じ、それでようやく事実を知ることになった次第だ。迂闊というしかないが、これらも自治会長をやってみて、初めてわかったというしかない。

A : それはよくわかる。私だって役員になるまで何もわからなかったし、その後の自治会長の仕事を重ねる中で、すべてを学んだといっていいから、一介の自治会員であった場合、みんな同じじゃないのかな。

小田 : そう言われると納得するところもあるのだが、内心忸怩多たるものが残るわけよ。

A : あなたの性格からすれば、そうだろうね。そのことはともかく、薬師堂登記のからくりはどのようなものだったのか。

小田 : これは長くなるけど、かまわないかな。

A : 遠慮しないで、深々の興味をもって拝聴しますから。

【自治会、宗教、地方史】No. 27 第二部 1 戦後社会における「散文的な」祭りの誕生、または創出された宗教性

編者からの言葉
『自治会、宗教、地方史』の第一部は、自治会長として老人憩の家の建て替えプロジェクトを進めるなかで立ち上がってきた法律的な問題をめぐるものでした。当事者たちの死去によって真実が失われたなか、現存する文書にもとづいて土地の所有権を主張する宗教法人と、宗教法人が立てた弁護士との話し合いは平行線をたどるばかりであり、社会通念や道義的責任は登記された事実の前では無力であったと言えるでしょう。

 第二部は、「村の集会所がどうして薬師堂になったのか」という疑問から始まり、史資料を想像で補い、推測に推測を重ねることによって、「お開帳」が始まった経緯や、薬師堂に安置されている仏像が市によって「指定文化財」として認定されたプロセスを再構成していきます。
 対談は仏像の真正性をめぐって進んでいくように見えますが、ここで見逃せないのは、その背後には、行政と宗教と開発の三位一体の構造や、ミクロなレベルで創作された偽史、地方史・郷土史編纂、地方出版事業の関係を批判的に捉えなおそうとする歴史意識がある点です。『自治会、宗教、地方史』というタイトルの意図は第二部において、いっそうはっきりしてくるはずです。

 未完のまま遺されていた第二部は、21回にわけて掲載していきます。

                                         小田 透


戦後社会における「散文的な」祭りの誕生、または創出された宗教性

小田 : 私がずっと気になっているのは、村の集会所がどうして薬師堂になったのかということだ。
 我々の記憶にある昭和30年代のО寺の真ん中にかなり大きな作りつけの囲炉裏があり、それだけでも薬師堂という雰囲気はなかった。それから東側にかまどと便所があり、そこで煮炊きをしたりしていた。外には井戸があり、水はそこからくんでいた。
 確かにその北側は下が押し入れで、その上に厨子に入った仏像があることは知っていたが、隣には神棚と祭太鼓もすえられ、寺という感じではなかった。 寄り合いや会食の場で、大人たちはそこで酒盛りや花札などもしていたようだ。

A : それではあなたの体験からすれば、О寺は村の集会所で、色んな行事などが行なわれていたことになるわけか。

小田 : そう、そうした環境の中で、先に話したお開帳が昭和37年に行なわれた。これは12年に1回の寅年の行事とされるが、戦前からのものだとは思えない。想像するに、集会所を再建したので、それを祝して祭もやりたいが、他の金毘羅とか庚申とかの旧来の行事もあるし、金もかけられないので、12年に1回の祭としたんじゃないのかな。その口実として、厨子を開いて仏像を見せるということを併存させたんじゃないかな。

 私の前著『全国に30万ある「自治会」って何だ!』でも、昭和50年代後半にそれまでなかった屋台をともなう祭の始まりに言及しておいたけれど、宗教的でも神聖なものでもなく、郊外の新住民の要望から始まったもので、いってみれば、極めて散文的な誕生といえる。そのことから類推すれば、お開帳というのも似たような始まりだったと思う。

 全国に30万ある「自治会」って何だ!

A : だから薬師堂といった絡みはまったくなかったと。それに囲炉裏やかまどのある薬師堂なんてものは考えられないしね。薬師堂に火の気は禁物だし、火事になったら仏像まで焼けてしまうわけだから。

小田 : そのとおりだ。それに市内の由緒ある寺はともかく、近隣の寺で12年に一度のお開帳などという物々しい宗教行事は聞いたことがない。これは比較にも範にもならないけれど、長野の善光寺のお開帳のことを聞きかじり、それをもじったんじゃないか。

 それにО寺の再建時から決められていたのではなく、誰かの思いつきによっている。再建年は昭和24年だから寅年ではないし、私が体験したお開帳はすでに話したように、村祭の感が強かった。小学生だったので、宗教行事だと考えなかったのではないかといわれれば、そうかもしれないけれど、役者をよんで芝居まで披露されたわけだから、そう思うしかなかった。

A : それはそうでしょう。色んな地域で、村芝居の伝統が残っていて、映画の『大鹿村騒動記』はまさに村の公会堂を使う村芝居をテーマにしているが、宗教行事ではなく、村祭、娯楽として描かれている。

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 あなたが見た芝居にしても、そのお開帳が宗教行事というよりも、村祭りの一環として行なわれたことを示唆しているんじゃないかしら。
 でもそのお開帳が宗教行事のようなものに代わっていったのはいつからなの。

小田 : それは第2回目の昭和49年からで、このお開帳をきっかけにして、О寺が薬師堂へと変えられていった。それは新しい厨子と仏具、賽銭箱や天幕、入口正面のしめ縄=鰐口などの薬師堂化に伴うリニューアルで、この時にはまだ学生で東京にいたこともあって立ち会っていないし、詳細はわからない。それでも何か変わったなという感じは覚えている。

A : そこで気になるのは薬師堂としての表示登記が58年、保存登記が60年と、O寺の大修理からほぼ10年後なのはどういう経緯と事情なのか。

【自治会、宗教、地方史】第一部  No. 5 の別稿 昭和50年代後半における新住民の急増、または郊外社会の誕生と地域の祭の始まり

昭和50年代後半における新住民の急増、または郊外社会の誕生と地域の祭の始まり


[編者註:今回は、第一部の No. 5 に挿入することを意図して書かれたものの、破棄されたらしい別稿を掲載します。まず、No. 5 の関連箇所をあらためて提示し、その後、別稿を掲載します]


[No. 5 の記述]

小田 : 昭和30年代から40年代にかけて、O寺というのが村の集会所だった。それが昭和49年頃に寺の薬師堂に代わり、57年になって老人憩の家が併設されたが、その登記はされず、60年にO寺は薬師堂として登記されてしまった。

A : あなたはそれを知っていたの。

小田 : いや、まったく知らなかった。49年は学生で東京にいたし、50年代には戻って暮らしていたけれど、まったく知らされていなかった。こちらも20代で、まだ祭もなく、自治会にもほとんど関わっていなかったし。

A : 家の人たちはどうだったのかしら。


[別稿]

小田 : いや、まったく知らなかった。昭和49年は学生で東京にいたし、50年代には戻って暮らしていたけれど、まったく知らされていなかった。こちらも20代で、まだ祭もなく、自治会にほとんど関わっていなかったし、その間に父が亡くなったこともあって、そうした事情や経緯を聞かされてもいなかったからだ。

A : でも、屋台のある祭の誕生には参加していたのでしょう。

小田 : そう、それも昭和50代後半になってからだった。当時新住民が急増し、しかもどの家族も小学生を中心として子供も多くなり、町のような屋台のある祭をやろうという声が新住民から上がりはじめた。

 現在から考えれば、時代のトレンドだったし、それは近隣の自治会にも大いなる影響を及ぼし、南部地区のすべてが屋台のある祭を実現させることになった。

 ここでひと言付け加えておくと、祭は現在の自治会活動とは異なり、あくまで自治会員が主体となり、自発的に始められたもので、市の要請とか指導に基づくものではなかった。それは新しい郊外社会が生み出した動向だったんじゃないかな。

A : あなたも積極的に参加したということなの。

小田 : それは少しばかり説明を要する。私も新住民の主唱者たちと同じく、子供がいたし、祭そのもの自体を否定する立場ではなかったので、積極的とはいえないにしても、できることは協力した。

 でも主唱者たちが子供のためにとはいいながら、本当は自分たちがやりたくて、それを通じて自治会のポジションを得ようと考えていたこと、及びそうしたことが祭を始めてしまうと、モチベーションが見失われたりした場合、祭は単なる行事、お荷物的な慣習行事になってしまうのではないかと思っていた。

A : ところが本当にそうなってしまったんじゃないの。

小田 : プロセスは省くけれど、初めの頃に小学生だった世代が現在の祭の長となっているし、彼らは先述したホテル暮らしのように生活をしている。しかもかつての農村の周辺は郊外消費社会と化し、今でも増え続けている建売住宅のチラシには、「神立地」と謳われているほど、消費社会インフラが完備されている。

 祭を始めたころは何もなく、だから子供たちのためにという名目も立ったけれど、現在ではもはや成立しない。結局のところ、スケジュールと順番が回ってくるので、やらざるを得ないという心境じゃないかな。

 その一方で、寺のほうにしてみれば、自治会の宗教行事の中心は自分のところであったはずなのに、神社のほうに重点が移ってしまうことは面白くない。しかも祭事は神社で行なわれるが、場の中心はO寺なので、そのことに対する反発もあって、薬師堂登記も実行されたんじゃないかと思える。

A : でも併設された老人憩の家のほうはどうなったの。

小田 : 60年の薬師堂登記によって、老人憩の家は存在するにもかかわらず、幽霊のような存在になってしまった。

 まあ、これには言い訳もあって、自治会が法人化されていなかった時代なので、登記できなかったということも挙げられる。でも老人憩の家の建設も薬師堂化にしても、先代が仕切っているのだから、公私混同であることは間違いない。

A : それらに関する記録や文書類は残されていないのかしら。

小田 : 何もない。


[編者註:「前口上」で述べたように、諸事情によりカットした部分を除けば、第一部の原稿はこれですべて掲載したことになります。第二部については、小休止を挟んだ後、2026年1月1日から、これまでと同じように月曜と木曜の週二回のペースで掲載していきます]

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