指定文化財の仏像、または行政の拙速な お墨付き
小田 : まさにそういうことで、その指定文化財となる経緯と事情を確認する必要があると考えた。それで教育委員会に情報公開条例に基づき、昭和50年における指定文化財への経緯の公開を求めた。
A : おもしろいね。そこまでやるのか。
その前にいっておくと、薬師寺とか薬師堂は全国各地にあり、そこには薬師如来がまつられている。それは薬の知識がない時代に薬草などの漢方薬で病気を治すことができる人がいて、それが薬師の始まりで、薬師如来信仰にもつながっているようだ。
小田 : それには私も一言付け加えたいのだが、後回しにして、まずその公開情報にふれてみる
昭和50年10月1日付で文化財専門審議会委員長名により、委員に対し、10月9日に市指定文化財の指定に関する「審議委員会の開催」通知が出された。起案者は文化財保護係長となっている。審議委員の名前は不明だが、教育長や郷土館長などの印も押されているので、教育委員会管轄のもとでの開催だとわかる。
次に10月16日付で「指定文化財の指定について」が出されている。それは市の文化財保護条例に基づき、教育員会が文化財保護審議会の諮問の結果、「薬師如来立像―本[旧T応寺蔵]四尺三寸 所有管理者 J寺先代名」が指定されたことになっている。決裁年月日は10月23日である。
A : 指定に際しての現物の確認とか、その歴史的証明とかはないのかな。
小田 : 一応10月1日付では「必要に応じ、指定候補物件についての実地調査も実施」と謳われている。だが実際に9日の審議委員会の開催時は2時30分からで、現地調査は2時30分から3時30分とされているが、市役所での審議時間、及び車での移動時間から考えて、現地調査に赴いたとは思えない。
それはそこに挙げられた「指定理由」と薬師如来像のモノクロ写真によって、「実地調査」は省かれたと判断するしかない。ついでにそこに述べられた「指定理由」も引いてみます。
本薬師如来像は、平安後期、藤原時代の木彫であり、当地方としては数少ない藤原仏である。
作者については不明であるが、藤原期の特徴を示している。
昭和26年、石田茂作博士が調査され高く評価されている。[『市誌』上巻202頁]
この記述は何に基づくかというと、そこに添えられたJ寺側からのメモで、寺伝によれば、平安中期の藤原道長の仏師定朝の真作だとされているが、さすがに審議委員会にはそのことは提出できなかったはずだ。それで引用文には省かれたと考えられる。
ところが文化財指定後の『文化財ガイド』などでは「定朝法師新作の薬師如来」との大見出しが堂々と使われている。この定朝のことは注釈が必要だと思いますので、谷信一、野間清六編『日本美術辞典』(東京堂出版、昭和27年初版、同54年25版)を引いてみます。
定朝 じょうちょう 天喜五年(~1057)康尚(こうしょう)の子で木仏師となり、藤原頼道などの公家に重要され、治安二年(1022)に法成寺の造仏の功で法橋に叙せられ、木仏師が僧位を得た初例となる。永承三年(1048)に興福寺造仏の賞で法眼に上り、その間多くの仏像を製作したが、その唯一の遺品は天喜元年に頼道の平等院阿彌陀堂の本尊として造った丈六阿彌陀像である。これらの定朝の諸作品は浄土教を信仰する当時の公家精神を適格に表現した様式で、しかもその技法は木寄法を完成した軽快な木彫法であったので、ここに絵画における大和絵の完成と同じく、彫刻における日本の形式と様式とが成立し、以後の平安時代末期においては仏像彫刻の典型と認められ、俗に定朝様(じょうちょうよう)と称される。同時に定朝によって木仏師の社会的地位が高まり、その公家と寺院に対する職場が確保されて、世襲と流派とが生まれてくることになった。
A : この阿弥陀如来像を見れば、小さい写真にしても、薬師如来像と作者が異なることが一目で歴然とわかる。
小田 : そうでしょう。新しい美術辞典ではなく、同時代のポピュラーな東京堂版を引いたのは、審議会において、このような基礎文献すらも参照されていないことが明らかだからだ。
A : 本当にそうだね。二つの写真を見ただけでも、多少なりとも美術に通じていれば、指定文化財にふさわしいかどうかの判断をためらうのが当然だ。だがそうした審議に関する議事録もないようだから、お手盛りの形式的審議会に過ぎなかったんじゃないかという疑念も生じてしまうね。





