出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1112 佐村八郎『国書解題』、岩波書店『国書総目録』、梅徳

 本探索1107、1108で続けて『古事類苑』と『群書類従』をたどってきたので、これは戦後の出版ではあるけれど、『国書総目録』にもふれてみたい。実は拙稿「浜松の泰光堂書店の閉店」(『古本屋散策』所収)で既述しているように、二十年ほど前のことになるが、『国書総目録』全八巻を購入しているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20210109101339j:plain  古本屋散策

 それに加えて本探索1107で参照した熊田淳美の『三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録の出版文化史』のコアは『国書総目録』で、様々に教示されるところが多かった。これらの「三大編纂物」は江戸、明治、昭和を通じて、それぞれが長きにわたる歳月と膨大な製作費をかけた特筆すべき出版プロジェクトに他ならないし、『古事類苑』と『群書類従』に関してはすでに見てきたとおりだ。

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

 その中でも、とりわけ『国書総目録』は熊田も述べているように、ロジェ・シャルチエの『書物の秩序』(長谷川輝夫訳、筑摩書房)に見えるターム「壁のない図書館」を体現するビブリオテークに相当している。この明治以前の国書五十万点に及ぶ総合国書目録は昭和十五年に始められ、昭和四十七年の全巻完成までに三十二年を要している。その歴史を熊田の前掲書、『国書総目録』第一巻の「編纂の辞」、『岩波書店七十年』などを参照し、たどってみよう。

f:id:OdaMitsuo:20210108171703j:plain:h120(『書物の秩序』)

 昭和十五年に岩波書店の岩波茂雄は『国書解題』刊行計画を公表した。それは明治時代の佐村八郎の『国書解題』を凌駕する国書解題目録編纂をめざすものだった。佐村は古代から慶応三年に至る国書を対象とする解題目録『国書解題』を月刊分冊形式で刊行した後、明治三十三年に合本化し、本探索1077の六合館から上梓する。そして三十七年には増訂第二版を吉川弘文館と六合館の共同出版として刊行するが、国書の選択と考証不足という批判もあり、佐村の死後の昭和時代には絶版になっていたようだ。

f:id:OdaMitsuo:20210109103005j:plain(日本図書センター復刻)

 佐村は山口県に生まれ、明治二十四年に上京し、哲学館、高等師範を経て、本探索1103などの今泉定助が設立した城北中学校の教師となり、そのかたわらで『国書解題』編集の決意を固めたと思われる。その今泉が吉川弘文館と国書刊行会の顧問的立場にあったことは既述しているが、そうした関係もあってか、三十三年に佐村は吉川弘文館に入る。そして編集に携わり、その番頭だった林平次郎の六合館から『国書解題』合本初版を刊行するに至る。

 この『国書解題』刊行を契機として、国書刊行会が発足し、「国書刊行会本」、『古事類苑』や『群書類従』の出版も続いていったのである。そして昭和円本時代を迎えての本探索1073、1074の「有朋堂文庫」や同1060の新潮社の『日本文学大辞典』などの出版、及び国史や国文学研究の進化も伴い、二万五千点を対象とする『国書解題』は多くの欠陥を有するものに位置づけられざるをえなかった。それが岩波による新しい『国書解題』企画発表の背景だった。

 昭和三十八年に「岩波書店創業五十年の記念出版」として刊行された『国書総目録』第一巻の「編纂の辞」において、岩波茂雄の発意で、辻善之助と新村出の主宰のもとに編纂事業が始まったのは昭和十四年のことだとして、次のように続いている。

 当時国書の解題として知られていたのは、佐村八郎氏の『国書解題』であるが、初版が出版されてからすでに数十年を経過し、その間増訂も行なわれたが、決して十分なものとは言い難く、もはや、日進月歩の業界の要望を満足させることはできなくなっていた。そのような情勢のもとに企画された『岩波国書解題』は、当時してはもっとも整った編集部を組織し、(中略)昭和十九年は、ほぼ第一巻の刊行の見通しがつくまでになった。しかし時はすでに日華事変から太平洋戦争に進んで、(中略)この仕事もついに中絶のやむなきに至った。
 (中略)戦後、世情が安定するとともに、(中略)昭和三十二年に至って、従来のような解題に代え、このカードを基礎にして、新たに国書の総目録を刊行するという方針が決定された。編纂を委託されたわれわれは、総目録といっても、単なる国書の目録ではなく、書誌学の成果を十分に取り入れ、(中略)新たに国書研究室を設け、目録類などの資料を整備して、『国書総目録』の編纂に当ることにしたのである。(後略)

 これは国書研究室の森末義彰、市古貞次、堤精二の名前で出され、五十万点収載、全八巻として、その第一歩を踏み出したのである。ただここに付け加えておかなければならないのは、熊田も指摘しているように、実際にこの企画を岩波に提案したのは岩波書店の梅徳(うめめぐみ)だとされている。彼は明治期の法学者梅謙次郎の息子で、東京帝大文学部史学科を中退し、昭和十年頃に岩波書店に入社している。実際に同十三年から始まる『国書解題』編纂作業の事務主任兼編集者となった。戦後を迎えて、梅は渋る岩波書店を説き伏せ、『国書解題』の仕事の再開を働きかけ、その結果設けられたのが国書研究室だったのである。だがその進展をほとんど見ることなく、梅は昭和三十三年に交通事故で急逝している。ここにも知られざる編集者がいたことになる。

 これは近代出版史に顕著だが、岩波書店の場合も、岩波茂雄と小林勇の影に隠れ、社史や出版目録などには現れていない多くの編集者がいる。梅もその一人であったといえよう。


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古本夜話1111 穂積陳重『法窓夜話』と有斐閣

 前回の田口卯吉『日本開化小史』の文庫化を確認するために、『岩波文庫解説総目録(上)』を繰ったところ、その下に続けて穂積陳重『法窓夜話』全2冊が掲載されていた。実は浜松の典昭堂で田口の『支那開化小史』と一緒に買い求めてきたのが、この原本に他ならない有斐閣版『法窓夜話』であり、偶然とも思われないので、続けて書いておくしかないだろう。

(『日本開化小史』)岩波文庫解説総目録 法窓夜話 続法窓夜話

 まず穂積に関しては『新撰大人名辞典』(平凡社)の立項を要約してみる。彼は明治大正時代の法学者で、安政三年伊予宇和島に生まれ、明治三年に藩の貢進生として大学南校に入り、七年開成校に進み、法律学を専修。九年文部省より海外留学を命ぜられ、英国とドイツで法学を修める。十三年治外法権撤廃のためにベルリン万国国際法会議に出席し、十四年帰国し、東京帝大教授兼法学部長、文部省書記官、貴族院議員となる。二十五年には法科大学長、後に帝国学士院長、大正五年に男爵、同十五年没。日本の法学界の先駆者にして、やはり法学者の穂積八束は弟、同じく穂積重遠は長男である。

 ところで『法窓夜話』だが、これは大正五年に有斐閣から刊行され、その「序」はロンドン留学中の息子の重遠が寄せている。そこで重遠は父が「話好き」で、自分が長じてからは「法律談」、それも「法律上の逸話、珍談、古代法の奇妙な規則、慣習、法律家の逸事、扨ては大岡捌きと云つた様々な、所謂『アネクドーツ』」であった。それらを自分が書き止め、「此の種の雑話を書物にすること」を勧めた。それでようやく父もその気になり、自分が洋行後は文学士田中秀央君たちに書き取ってもらい、ここにとりあえず百話だけをまとめ、『法窓夜話』第一輯を刊行するので、「御一読を願ひたい」と述べている。つまり同書は岩波文庫の正編ということになる。

 (有斐閣版)

 さらに重遠は「此の雑談輯」「法律談」をルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の一編にたとえたり、また田中秀央といえば、『近代出版史探索Ⅴ』927の『ラテン文学史』の著者だったりして、それらにもふれたいが、ここで止めるしかない。『法窓夜話』百話のすべてがそれら以上に興味深いのである。

近代出版史探索Ⅴ

 穂積の語り口は法学者による図版や写真も含めたエッセイの面白さとか、その系譜といったものを想起させる。それは『近代出版史探索』31の尾佐竹猛、『近代出版史探索Ⅱ』246の倉田卓次、同321の岡田三面子などの著書に通じる感慨をもたらし、彼らの源泉のひとつが穂積の『法窓夜話』だったのではないかと思ってしまう。

近代出版史探索 近代出版史探索Ⅱ

 それゆえに百話のうちのどれを紹介しようか迷うし、八「副島種臣伯と大逆罪」、四一「『ハムムラビ』法典」、七八「石出帯刀の縦囚」なども考えたのだが、ここではその四四「『エジェリヤ』の涙泉」を挙げてみよう。それはそこに出ているローマの「神聖の森」が『近代出版史探索Ⅴ』913などのフレイザー『金枝篇』を彷彿させるし、涙泉と森の写真はヌーマ王と女神エジェリヤのカメーネの森での神秘的恋愛のイメージを想像させずにはおかないからだ。しかもそれには落ちもついている。

 金枝篇

 穂積がこの遺跡を訪ねたのは明治三十二年秋で、何と岡田三面子=朝太郎博士と同行していたのである。そこで穂積は煙草のカッターナイフをなくし、涙泉に落としたのであろうということになった。そこで三面子が即座に次の一首を読んだのである。

 「エジェリヤ」がワイフ気取りの聖森(ひじりもり)
        ナイフ落してシクジリの森

 さてそうした「アネクドーツ」を挙げていけばきりがないので、これも言及しておかなければならない『法窓夜話』の出版事情に移る。その前に入手した一冊の状態にふれておくと、B6版上製、三八五ページで、裸本だけれど、函入だったと思われる。挿画と写真は二一ページに及び、法学者の「アネクドーツ」集にふさわしい佇まいの一冊に仕上がっている。売れ行きも好調だったようで、大正五年一月初版、三月再版、六月参版で、私の入手したのは参版だが、新たに著者による「跋」が巻末に付せられている。

 そしてまた奥付の記載から、『法窓夜話』が自費出版だった事実が浮かび上がってくる。著作者兼発行者は穂積陳重で、「著作権所有」欄には「穂積之印」が打たれ、その上に「禁漢訳」とあるのは、有斐閣の法学書などがかなり無断で漢訳されていたことを示しているのだろう。発行所は神田一ツ橋通町の有斐閣、発売所は神田区神保町の有斐閣雑誌店、売捌所は本郷区森川町の有終閣書房となっている。

 『有斐閣百年史』を参照して、これらを簡略に定義すれば、有斐閣は出版部、有斐閣雑誌店は有斐閣の雑誌や書籍だけでなく、他社の出版物も含めた取次と書店、有終閣はその本郷支店で、こちらは本郷において有斐閣の出版物を主としていたことから、『法窓夜話』の取次と販売の窓口に指定されたように考えられる。

 有斐閣と穂積陳重の関係は彼の写真入りで二ページにわたって記され、主要著書『五人組制度論』『隠居論』の出版も挙げられているけれど、『法窓夜話』に関しての出版事情にはふれられていない。それは同書が有斐閣の主要な法経書と異なり、エッセイ集であったこと、それもあって流通販売は有斐閣へ委託したけれど、穂積が自費出版したことなどが作用していると思われる。

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古本夜話1110 田口卯吉『支那開化小史』と塩島仁吉

 前々回に田口卯吉と経済雑誌社の名前を挙げておいたが、田口の『支那開化小史』を入手しているので、この一冊も取り上げておこう。同書は『日本開化小史』(岩波文庫)と異なり、文庫化されていないが、中扉、奥付などから判断すると、明治十六年から二十一年にかけて全五冊刊行後、二十三年に合本化されたものの同年再版訂正本だと見なせよう。この菊判上製、三九八ページの端正な一冊本は背表紙に「全」とあること、及び蔵書印やラベル貼付を考えれば、架蔵者による和本の洋本化のための造本が施されている。それは近代化の中での田口の「開化史」(文化史)に対する敬意だけでなく、経済雑誌社への配慮もうかがわれるように思える。蔵書ラベルには嘉治とあり、岩波文庫の『日本開化小史』校訂者が嘉治隆一だから、何らかの関係が秘められているのかもしれない。

f:id:OdaMitsuo:20210109110142j:plain:h110(『日本開化小史』)

 それゆえに、まずは『出版人物事典』における田口の立項を挙げてみる。

出版人物事典

 [田口卯吉 たぐち・うきち 号・鼎軒]一八五五~一九〇五(安政二~明治三八)経済雑誌社創業者。東京生れ。英語、蘭医学、経済学を学び大蔵省に入る。仕事のかたわら『日本開化小史』『自由貿易日本経済論』を書く。一八七八年(明治一一)官を辞し、翌年一月、経済雑誌社を創業、『東京経済雑誌』を創刊、一貫して自由貿易経済論の立場をとる。また雑誌『史海』を創刊。同社が発行した『大日本人名辞書』『日本社会亊彙』『国史大系』などは良書の大衆化をねらったもので、予約出版の方法をとるなど、明治出版文化史上画期的なものといわれる。法博。東京府会議員、衆議院議員などをつとめた。

 ここには記されていないけれど、田口は旧幕臣で、静岡藩に復任し、沼津兵学校に学んでいる。それらの人脈は山口昌男「幕臣の静岡―明治初頭の知的陰影』(『「敗者」の精神史』所収、岩波書店)に描かれている。そうした事柄をリンクさせていってみれば、田口は旧幕臣の出版者として、いち早く経済雑誌社を設立し、自らの著作も刊行していったのである。

「敗者」の精神史

 『支那開化小史』の「例言」において、田口は次のように述べている。「社会の大勢事情の変遷を記するは史論躰に如かず」で、支那の史家は卓見多けれど、「唯、一時の変遷を述ふるに止まれり」。それゆえに「浅学寡聞極めて遺漏多き」は承知の上で、「此書勉めて其所見を引証して、以て之を連続せしめんとせり」と。
 
 そしてその「目録」の第一章の最初は「支那の地勢」と題され、それに呼応するように、折り込みの「支那本部全図」が示され、「亜細亜の東方に大なる郊原あり、渺茫として数千里に渉れり、称して支那国と曰ふ」と始まっていく。鼇頭(ごうとう)の部分には漢文による各人からの引用注記がなされ、それらが本文の補注の役割を果たしているのだろう。ただそれらの人物と出典に関してはこちらの素養不足もあって確かめられない。

 そのようにして「支那開化」がたどられ、各時代の変遷を象徴させるように、やはり折り込みの「七国地境図」「漢楚之形勢」「三国分割之形勢」がそれぞれに示され、明の時代にまで及んでいく。

 田口の「例言」に見えるように、『支那開化小史』に「批評」を寄せているのは島田三郎、末広重恭、小池靖一、「跋」は中根香亭で、島田と中根は沼津兵学校での同窓と師であるから、末広や小池も、その関係者のように思える。だが当時の漢文リテラシーを彷彿とさせるように、三人とも漢文でしたためているので、それらの子細は読み取れないことも記しておこう。

 これらの『支那開化小史』本文も日本近代における支那を表象して興味深いのだが、それ以上にリアルなのは巻末の八ページに及ぶ「経済雑誌社発兌書目録広告」で、先に立項に挙げられたものや田口の著書も含めて五十点余の書籍が掲載されている。そこにはヘルベルト・スペンセル『社会学之原理』(外山正一閲、乗竹孝太郎訳)、アダムス・スミス『国富論』(尺振八閲、石川暎作訳)もあり、社会学や経済学の古典が早くも翻訳されていたことを教えてくれる。またさらに『東京経済雑誌』と『史海』の雑誌も一ページ広告されているので、まだ博文館は創業したばかりだったことからすれば、経済雑誌社はこの時代にあって、突出した大出版社だったといえるのかもしれない。

 その流通と販売を支えた「売捌書肆」一覧も奥付裏に示されているので、それらも挙げておこう。東京は北畠茂兵衛、小林新兵衛、輿論社、巖々堂、東京堂、中西屋、大阪は嵩山堂、岡島真七、梅原亀七、松村九兵衛、京都は大黒屋、名古屋は川瀬代助、熊本は長崎次郎、これに丸善書店が東京、大阪、横浜にあり、この時代に丸善がすでに大阪、横浜に支店を出していたとわかる。これらの近代書店といえる「売捌書肆」が他の書店への取次も兼ね、近代出版社としての経済雑誌社の直販以外の流通販売を担っていたのである。

 それは『支那開化小史』の広告に付されているように、「文部省検定済尋常師範学校及び尋常中学校教科書用」に選定されていたことも大いに作用しているはずだ。なおこれらの「売捌書肆」に関してはすべてではないけれど、拙書『書店の近代』で言及しているので、よろしければこちらも参照されたい。

書店の近代

 しかしこのような流通販売インフラの中での田口と経済雑誌社の出版活動は、経済的に苦難に充ちていたと想像するに難くない。『東京経済雑誌』は自由主義経済を主張し続けたことで、何度も禁錮罰金刑に処せられていることにも明らかであろう。実際に『支那開化小史』の奥付はそれを垣間見せている。著作兼印刷者は田口だが、発行者としては「経済雑誌社仮持主」とある塩島仁吉の名前がすえられている。そこに「版権所収」は謳われているけれど、田口の押印はない。それらの事実からすると、経済的事情が絡んでいると推測されるし、管見の限り、「発行者兼経済雑誌社仮持主」といった奥付表記はここで初めて目にするものだ。

 塩島(宮川)の名前は杉村武「田口鼎軒と東京経済雑誌社」(『近代日本大出版事業史』所収)で、『泰西政事類典』や『大日本人名辞書』の編纂者、先の「広告」の『泰西経済学者列伝』の纂訳者として見えている。しかし彼の詳細なプロフィルは判明しないけれど、経済雑誌社の中枢にいて、田中の出版事業を支えた一人であったことは確実であろう。

 念のために、復刻版『大日本人名辞書』(全五巻、講談社学術文庫)を確認したが、塩島の手がかりはつかめなかった。ただその代わりに、この復刻版が昭和十一年の内外書籍株式会社の川俣馨一による新訂版『大日本人名辞典』に基づくものだと知った。内外書籍と川俣に関しては『近代出版史探索Ⅱ』262でふれているが、経済雑誌社の『大日本人名辞書』の復刻にも連鎖していたことになる。

f:id:OdaMitsuo:20210109142543j:plain:h100(講談社学術文庫版)近代出版史探索Ⅱ

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古本夜話1109 松本清張『Dの複合』と重松明久『浦島子伝』

  『群書類従』に関して、もう一編書いておきたい。それはその第九輯に収録された「浦嶋子伝」をめぐってである。そういえば、『近代出版史探索Ⅴ』979でふれた大江匡房の「傀儡子記」なども同輯に見出せるし、確認に至っていないけれど、多くの古典籍に出典はまず『群書類従』に範を仰いでいるのかもしれない。

近代出版史探索Ⅴ

 これも三十年以上前のことになってしまうが、現代思潮社からそれまでの西洋版ではない「日本の各時代のベストセラー・シリーズ」と銘打った「古典文庫」が刊行され始め、その中の一冊に重松明久の『浦島子伝』があった。同書を購入したのは、松本清張の『Dの複合』(カッパ・ノベルス)を読んでいたからだ。このミステリーは日本各地の浦島伝説や羽衣伝説などを物語の経糸としていて、清張はこの作品に自らの古代史や民俗学見識を意図して散種しているように思われた。

浦島子伝 f:id:OdaMitsuo:20210108110642j:plain:h110 (カッパ・ノベルス)

 それもあって、たまたま出たばかりで、帯文に「甦える古代神仙思想」とのコピーが付された『浦島子伝』を読むことになったのである。そこには『Dの複合』にも挙げられている『丹波国風土記』を始めとし、七つの「浦島伝説」が原文、訓読文、注を揃え、収録されていた。それらを出典とともに示す。

1「浦嶋子」 『丹波国風土記』
2「水江浦嶋子」 『万葉集』
3「浦島子伝」 『古事談』
4「浦島子伝」 『群書類従』
5「続浦島子伝記」 『群書類従』
6「浦嶋太郎」 南葵文庫旧蔵写本・絵、霞亭文庫蔵板本
7「浦嶌太郎」 国立国家図書館蔵

 これで当時『群書類従』は未見だったけれど、「浦島伝説」のひとつが『群書類従』に基づくことを知った。6の南葵文庫は拙稿「永井荷風と南葵文庫」(『図書館逍遥』所収)、同じく霞亭文庫については「霞亭文庫と玄文社」(『古本探究3』所収)を参照されたい。

図書館逍遥 古本探究3

 重松は1から5の「浦島伝説」の原文を示し、6と7は小説を意味する草子的な日本語となっているので、注だけが施されている。その後に七つの「浦島伝説」の倍に及ぶ二百ページ近くの「浦島子伝 解説」「浦島伝説の性格と変容」「浦島伝説の宗教的背景」が続いている。これらはテキスト・クリティックと同じく、啓蒙的というよりも、専門的な文献、歴史的研究で、私の知見を超えているけれど、簡略に抽出してみる。

 浦島伝説は1から3に見られるように、八世紀から『丹後国風土記』の「浦嶋子」、『万葉集』の「水江浦嶋子」、『古事談』の「浦島子伝」、つまり「浦島子」を主人公として書き継がれてきた。その本質的性格は神婚説話で、長生と美女との歓楽という二つの人間的固有の欲望を空想的に想像した仙境淹留話である。だが『風土記』系の神仙境が山、もしくは天上であり、『万葉集』系は神仙境が海宮とされ、双方が神仙思想の原義に即応して構想されているのだが、舞台設定は対照的である。それらと比べると、『古事談』系は道教の色彩が強く、4と5の『群書類従』の「浦島子伝」や「続浦島子伝記」も金丹・石髄という道教系の仙薬を打ち出している。

 そうした浦島伝説が竜宮物語として一般化するのは平安時代になってからの6の「浦嶋太郎」においてで、主人公の名前は浦島子から浦島太郎へと変わっていく。そして物語も神仙8譚を継承しながらも、亀を助けることによる報恩譚へと変容し、海上で美女と出会い、竜宮に赴き、二人は結婚する。楽しい三年の月日が過ぎ、浦島太郎は父母を案じ、帰郷を申し出ると、乙姫は亀が姿を変えたものだと告白し、玉手箱を与えた。帰朝した浦島太郎は自分が行方不明になったのは七百年以前のことで、父母の墓所も示され、茫然自失し、玉手箱を開ける。するとたちまち年老い、鶴となって蓬莱山へと向かい、そこで亀と遊び、後に浦島太郎は浦島明神として衆生を済度し、亀も同じく神となり、夫婦の明神となったとされる。

 こうした浦島伝説をふまえ、松本清張は『Dの複合』において、重松も引いている謡曲「浦島」や坪内逍遥の「新曲浦島」などにも言及し、さらに羽衣伝説を重ね合わせ、それにまつわる逍遥の「堕天女」をも挙げている。だが残念ながら『Dの複合』は昭和四十年からの『宝石』連載で、重松の『浦島子伝』の刊行は同五十六年であり、参照されていない。その代わりに、『近代出版史探索Ⅴ』984の高木敏雄『日本神話伝説の研究』、同997の藤沢衛彦『日本伝説研究』の書名が引かれ、清張が単なる思いつきでなく、用意周到に浦島伝説を自家薬籠中のものとし、『Dの複合』に臨んだとわかる。とりわけそれは著者不明の『日本民間説話の研究』に象徴され、主人公はそれを国会図書館にまで足を延ばして読むのである。

Dの複合(新潮文庫)f:id:OdaMitsuo:20191217170856j:plain:h113  f:id:OdaMitsuo:20200208121308j:plain:h115

 「『日本民間説話の研究』は今から三十年前の本で、おそろしく古いが、(中略)一二一頁を開いた。そこは「浦島・羽衣伝説の淹流説について」という項だった」として、次にほぼ二段組三ページに及ぶ引用が続いている。これは高木と藤沢の著作をベースして、清張が提出しているオリジナルな「浦島・羽衣伝説の淹留説について」に他ならないように思えるし、重松の『浦島子伝』にしても、『Dの複合』を前提して成立しているのではないだろうか。

 ここではそれを目的としていないので、推理小説としての『Dの複合』にはふれられなかったが、興味を持たれた読者はぜひ読んでほしい。

 これらに関連して、ずっと岐阜県立美術館蔵の山本芳翠「浦島図」を見たいと思っているのだが、まだそれを果たせていない。
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古本夜話1108『群書類従』の近代出版史

 『古事類苑』を取り上げたからには、その範ともなった『群書類従』にも言及すべきだろうし、実は前者と異なり、後者は架蔵してもいるからだ。この江戸時代の盲人塙保己一によって編まれた日本で初めての百科事典は文芸叢書の成立と出版事業に関しては、紀田順一郎「文献データベースの夜明け―塙保己一と『群書類従』」(『日本博覧人物史』所収)などに譲り、ここではまずその近代出版史にふれてみたい。

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 私の手許にあるのは続群書類従完成会が昭和三十四年に刊行した『群書類従』の補巻も含めた全三十巻、訂正三版で、その初版は昭和三年、再版は十四年だと考えられる。だが『群書類従』は『全集叢書総覧新訂版』に見られるように、正続合わせて、明治時代には経済雑誌社、国書刊行会、大正時代からは続群書類従完成会、昭和に入って前回の内外書籍、太洋社、酣燈社、古典保存会、第一書房、名著普及会などが入り乱れて復刻を繰り返しているので、混乱極まりないといっていい。しかし大正から昭和戦後にかけて、一貫して『群書類従』刊行に取り組んできたのは続群書類従完成会なので、そこに至る過程をたどってみる。

全集叢書総覧新訂版

 拙稿「田口卯吉と経済雑誌社」(『古本屋散策』所収)において、田口の経済雑誌社の出版事業を取り上げ、田口が明治二十年代後半から三十年代にかけて、来るべき総合的辞典のための日本史の史籍整理として正続『群書類従』出版の試みに挑んだことにふれておいた。それは予約出版によるもので、私見によれば、近代出版において田口が初めて採用した流通販売システムであったし、『泰西政事類典』(明治十五年)や『大日本人名辞書』(同十九年)も、そのようにして出版されたのである。近代出版の雄である博文館はまだ創業しておらず、出版社・取次・書店という近代出版流通システムも同じく立ち上がっていなかったのだ。

古本屋散策

 それは『大日本人名辞書』の場合、成功したけれど、明治二十六年の第一版『群書類従』全十九冊は六五〇人の予約者を集めたが、新しい活字の彫刻などの経費がかさみ、赤字となった。同三十一年の第二版は一七五〇人の予約を得て、再版でもあり、利益を得たようだ。だが明治三十五年から大正元年にかけての『続群書類従』第一版は田口が途中で亡くなったこともあり、三十四冊の予告が十九冊で中絶してしまった。

 それを引き継いだといえるのが国書刊行会第一期で、明治三十九年に『続々群書類従』十六冊、『新群書類従』は十冊刊行したが、復刻事業の「量的制限」もあって、双方合わせて六冊の削除となった。そして同四十三年から第二期の早川純三郎編集長時代に移行する。その際に国書刊行会の編集担当者だった太田藤四郎が、経済雑誌社で中絶してしまった『続群書類従』の続刊を提案するが、早川に受け入れられず、大正十一年に国書刊行会もそのまま解散となってしまった。そこで同年に太田は国書刊行会の編集者たちと続群書類従完成会を設立し、『群書類従』新版七十二冊を出版していく。

f:id:OdaMitsuo:20210107171748j:plain:h80(『続々群書類従』)f:id:OdaMitsuo:20210107175008j:plain(続群書類従完成会編)

 『全集叢書総覧新訂版』ではなく『世界名著大事典』第六巻のほうの『群書類従』刊行史を確認してみると、続群書類従完成会は円本時代から九年にかけて「正編」三十冊を出版しているので、これが第一版、同じく同十年版が第二版、私が架蔵する戦後の三十四年版が訂正三版だと判明する。すなわち二十九輯と「正続分類総目録・文献年表」を加えての全三十巻ということになる。ただ手元にあるのはB6判だが、A5判も出されているようだ

世界名著大事典

 ここでは「正続分類総目録・文献年表」の一冊を見てみる。奥付に同書は昭和五年版の訂正増補で、昭和三十四年刊行とある。編纂者は太田藤四郎、発行者は太田節と記され、平成に入っての『群書類従』発行者社は太田善麿だったことからすれば、太田一族が一世紀近くにわたって家業としての『群書類従』出版に従事してきたとわかる。また検印のところには「続群書類従完成会印」が押され、同会の版権所有をも伝えている。おそらく戦前のみならず、戦後まで錯綜していた版権問題が解決したことを告げてもいよう。

 またこの「正続分類総目録・文献年表」には他の巻には見られない「緒言」が昭和四年九月の日付で記され、これは円本時代の第一版に寄せられたものだとわかるし、まさに太田藤四郎が編纂者として書いているはずだ。そこには簡略な『群書類従』の紹介と其完成会出版事情も述べられているので、その前半の部分をここに引いてみる。

 昔し検校、一千二百七十余種の古書を集め、之を二十五の部類に分ちて、一部の書に編みなし、群書類従と名づけ、桜の木に彫り、楮の紙に摺り、六百六十冊に仕立て、別に目録一冊を添へて、世に広め後に伝へおきたまひぬ。加え更に其続篇として、二千一百余種をも集め、写本のまゝにて遺しおきたまへり。其目録二冊は、早く梓行して人に知られたり。今や聖代文運の盛なるに逢ひ、我が完成会にて、その正続二篇の書を併せて、新に活字にて摺り上げ、之を壹百冊に綴じなして、遠く海の外にも送りぬ。検校も遺志の成りぬるを悦びたまふらむかし。その昔し此の書を集めたまひし時に、旨する筋道を記しおきたまひけむもの、今の世には聞えず、其の昔しの深き思ひはかりを、今愚なる心に汲みとる由の無きぞ口惜しき。

 しかし塙保己一の「昔しの浮き思ひ」を継承しようとする出版の「筋道」とその行方は困難と不安が予想されたようで、「緒言」は「かの遺志に背かじと且つは思ひ、且つは便り善かれと今に人の為を思ふに、思ひまどふすじみち多かるを、はたいかにかせむ」と結ばれている。

 それでもその後の昭和時代を通じて、同会によって数次に及んで『群書類従』の出版は続けられていた。だが平成十八年になって、続群書類従完成会は倒産し、その出版事業は翌年に八木書店に継承される「筋道」をたどったのである。

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