出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1123 松村英一『田園短歌読本』と海南書房

 前回の紅玉堂書店の「新釈和歌叢書」の著者に松村英一がいて、同じく彼は『歌集やますげ』『現代一万歌集』も上梓し、「新歌壇の中堅作家」、『短歌雑誌』の編集者、寄稿者の一人であったことを既述しておいた。

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 その松村が昭和十七年に海南書房から刊行した『田園短歌読本』も出てきたので、『日本近代文学大事典』で引いたところ、写真入りで一ページ半近くに及ぶ立項がなされていた。思いがけずに長いものゆえ、ラフスケッチ的に要約してみる。松村は明治二十二年東京に生まれ、森集画堂という錦絵商に小僧奉公する。十五歳の時に金港堂の雑誌『少年界』の投稿欄で半田良平、植松壽樹と知り合い、また『電報新聞』の窪田空穂選歌欄に投書したことで、窪田を中心とする十月会を結成し、大正二年に歌集『春かへる日に』(十月会)を上梓する。翌年窪田が創刊した文芸雑誌『国民文学』の編集に携わり、六年には読売新聞婦人部記者となり、前回ふれたように、半田や尾山篤二郎たちとともに『短歌雑誌』の編集にも関わった。

f:id:OdaMitsuo:20210122105155j:plain:h110(『田園短歌読本』)

 『短歌雑誌』との関係によって、松村たちが紅玉堂書店から著書を刊行するようになった経緯と事情が了解できる。また松村の場合、それらの編集経験をふまえた『改選現代短歌用語辞典』、さらに『現代一万歌集』『やますげ』の出版へと結びついていったと考えられる。その一方で、『短歌雑誌』において、投書欄の選歌に自ら当たり、多くの俊英を育てたのは松村の忘れてはならない功績だとされる。それもあって、大日本歌人協会の理事に就任し、実質的な運営者となっていったのであろう。

 そのような松村の軌跡に基づき、『田園短歌読本』も編まれたと思われる。「田園短歌」とは松村も最初に述べているように、「農村短歌」のことをさしている。『近代出版史探索』183で、春陽堂の農民文芸雑誌『農民文芸十六講』、同184で文教書院の和田伝編『名作選集日本田園文学』を取り上げているけれど、「田園短歌」にはふれてこなかった。大東亜戦争下において、「農民文芸」としての「農村短歌」にもスポットが当てられ始め、このような「読本」の刊行を見ることになったのだろうか。

近代出版史探索

 発行者を吉澤哲とする『田園短歌読本』の初版は三千部で、その奥付裏には和田伝の農村小説『ここに泉涌く』の一ページ広告が見える。海南書房はここでしか目にしていないが、吉澤も『国民文学』や大日本歌人協会、あるいは社名からして、政治家で歌人の下村海南の関係者かもしれない。

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 それらはともかく、「後記」で松村自身が率直に述べているが、「私は都会で育つた。従つて農村に対する知識に乏しく」、「農村短歌を評釈することは、私は適任でない」という自覚の下に、この「読本」は編まれている。それもあって、松村は『古事記』『万葉集』、及び平安期から徳川時代までの「田園短歌」をたどり、それが農村に取材した傍観者の歌、農村自身の中から生まれた実践者の歌に選別できるとして、次のようにいっている。

 然し農村短歌を大観して、若し現代のそれに著名な現象として何を掲ぐべきかとするならば、私は躊躇なく農村自身の中から生み出された農村短歌だと指摘するであらう。読者も作者もあることに馴れて注意する機会を持たぬやうだが、さういふ作品が出現したのは歴史的に見て極めて新しいことであるからである。短歌が一般庶民の手に移つたと言はれてゐる明治時代にしても、恐らく初期の間はかうした現象は見ることが出来なかつたと想像される。要するに短歌が一般に浸潤したと言つても、結局は矢張り教養ある一部の階級にとどまり、農民にまで薫染する力がなかつたのではないかと思はれる。事実農村短歌らしいものが現れたのは明治も後期に近い頃で、農村出身者が歌人として立つに及んで初めて作品を見ることが出来たのである。(中略)実に大きな変化であり、驚くべき事実としなければならない。

 ただここで留意しなければならないのは、「農村短歌らしきもの」は「農村出身者が歌人として立つに及んで初めて作品を見る」と断わっていることだ。それは本探索1095.1096の長塚節などを想定しているのだろう。実際に節の「ゆくりなく拗切りてみつる蠶豆の青臭くして懷しきかも」が評釈の一首として挙がっている。だが現実的には松村の言を借りれば、「医者が医者の歌を詠」むように、農民が農民の歌を詠むことで、「農村短歌」は出現していないということになる。したがって、ここに収録、評釈されている「農村短歌」は傍観者の歌が大半であると推定される。またそれらの歌は改造社の『新万葉集』、『支那事変歌集・銃後篇』から選ばれたもので、大東亜戦争下の自給自足体制と食糧の増産計画によって、農村が再認識される必要から、「農村短歌」=「田園短歌」というアイテムが仕立て上げられたといえるかもしれない。そこに評釈者としての松村も動員され、出版助成金付きの『田園短歌読本』なる一冊が送り出されたと解釈することもできる。

f:id:OdaMitsuo:20210123125911j:plain:h120(『新万葉集』) f:id:OdaMitsuo:20210123113218j:plain:h120

 戦後における松永伍一の『日本農民詩史』(法政大学出版局)も「詩史」であって、「短歌史」ではない。また家の光協会の『土とふるさとの文学全集』第14巻が「大地にうたう」となっているにもかかわらず、この巻すべてが詩で占められ、「農民短歌」「田園短歌」は一首たりともない。ということは「農村短歌」=「田園短歌」も大東亜戦争下の幻だったことになろう。

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古本夜話1122 紅玉堂書店「新釈和歌叢書」と半田良平『香川景樹歌集』

 前回の『桂園遺稿』に関連して、確か二十年以上前に、紅玉堂書店の『香川景樹歌集』を拾っていたことを思い出した。

 その当時、「西村陽吉と東雲堂書店」(『古本探究』所収)を書き、西村が東雲堂書店の編集者で、若山牧水『別離』、石川啄木『一握の砂』、斎藤茂吉『赤光』などの詩歌集を刊行するかたわらで、自らも口語詩人であったことに言及しておいた。また西村は大正十四年に、紅玉堂書店創刊の詩歌雑誌『芸術と自由』の中心となり、口語歌集『晴れた日』も上梓している。

古本探究  f:id:OdaMitsuo:20210121133643j:plain:h110(『晴れた日』)

 紅玉堂書店はやはり歌人の前田夏村が営む文芸書出版社で、後に西村の出資を受け、東雲堂書店の系列会社になったと思われる。おそらくそれと連動して、大正六年創刊の歌壇の総合雑誌『短歌雑誌』の経営が東雲堂書店から紅玉堂書店へと移り、十二年から編集発行人は当初の西村から前田へと代わっている。

 それを背景にして、『香川景樹歌集』を含む「新釈和歌叢書」の刊行があったのだろうし、そこには一ページの「刊行趣旨」も掲載されているので、それを抽出、紹介してみる。

 万葉集以後、何百何千となく世に出た歌集を一々読破することは却々むづかしい為事であるばかりでなく、歌集研究者に非ざる限り殆ど無用に近い業である。さらばとて、其等の歌集に秘められて居る宝石にも譬へべき名歌秀什を路傍の石の如く看過してしまうことは、洵に甚大なる損失と言はねばならぬ。(中略)弊堂は茲に鑑みるところあり、新歌壇の中堅作家数氏に嘱して、個々の作家の撰集を作り、その一首々々に就て、語義、大意乃至感味などを簡明に論評し以てその作家の特色を闡明ならしめんとする企を試みた。(中略)この叢書出でて、多少なりとも新歌壇に貢献するところあらば、弊堂の志は十分達せられたものと言ふべきである。猶ほ、本叢書は一般に普及せしめたい希望の下に装幀を高雅瀟洒にし、定価を出来るだけ廉価にした。弊堂の意の存するところを汲んで戴ければ幸ひである。

 そしてこの叢書は四六判、一三〇ページに仮綴、定価八十五銭とされる。実際に見てるみると、この「仮綴」はアンカットフランス装ともいえよう。この際から、それらの明細も挙げてみる。

1 半田良平 『大隈言道歌集』
2 橋田東声 『正岡子規歌集』
3 尾山篤二郎 『源実朝歌集』
4 半田良平 『香川景樹歌集』
5 相馬御風 『良寛和尚歌集』
6 宗不旱 『柿木人麻呂歌集』
7 植松壽樹 『橘曙覧歌集』
8 松村英一 『田安宗武歌集』
9 花田比露思 『記紀歌集』
10 半田良平 『加茂真淵歌集』
11 川田順 『新古今集』
12 窪田空穂 『古今集』

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 この「新釈和歌叢書」は偶然ながら4の他に7も入手していて、この「第一期」が全点刊行されたのかは確認していないけれど、7には「第二期刊行書目」として、『万葉女流歌人歌集』から『木下幸文歌集』までの十二冊が掲載されている。だがこちらはリストアップを省略する。

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 4と7の出版は大正十四年と同十五年だが、この時代にあって、このような歌人、歌集の「叢書出でて、多少なりとも新歌壇に貢献するところ」があったのかどうか、不明だが、4は四刷、7は初版三千部とあるので、かなり売れたと判断できよう。それは4の奥付の検印紙に見られる「帝都復興努力しませう」というコピーが象徴しているように、関東大震災後の出版であることも作用しているかもしれない。また検印紙には半田の押印があることから、印税も支払われていたと推測される。

 『香川景樹歌集』の半田を始めとする「新歌壇の中堅作家」としての著者たちは、先の『短歌雑誌』の編集者、寄稿者にして、紅玉堂書店の著者でもあった。半田は『短歌新考』『野づかさ』、尾山篤二郎は『処女歌集』『歌はかうして作る』、松村英一は『歌集やますげ』『現代一万歌集』、窪田空穂は『鳥声集』、花田比露思は『歌に就ての考察』、植松壽樹は『歌集庭燎』などを刊行している。また国木田独歩の『独歩詩集』を見ると、拙稿「出版者としての国木田独歩」(『古本探究Ⅱ』所収)が夢想した独歩社という「自由の国」を思い浮かべてしまうし、紅玉堂書店もそうしたイメージを生じさせる。

f:id:OdaMitsuo:20210121113040j:plain:h110(『野づかさ』) 古本探究 2

 それらの紅玉堂書店の出版物と東雲堂書店のものを加えれば、大正時代に台頭しつつあった「新歌壇」なるもののシルエットが浮かび上がってくるかもしれない。

『香川景樹歌集』の巻末広告の最後の一ページには「出版目録無代進呈」が告知され、「ハガキで申込下さい。即時御送り申ます。本書に挿入してあります、愛読者カードを御送り願ふことが出来れば幸甚です」との言葉はまさにそのような紅玉堂書店への誘いに他ならないように思えてくる。


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出版状況クロニクル154(2021年2月1日~2月28日)

21年1月の書籍雑誌推定販売金額は896億円で、前年比3.5%増。
書籍は505億円で、同1.9%増。
雑誌は391億円で、同5.7%増。
前月の20年12月に続くトリプル増である。
雑誌の内訳は月刊誌が321億円で、同8.9%増、週刊誌は69億円で、同7.2%減。
返品率は書籍が31.9%、雑誌は42.3%で、月刊誌は42.2%、週刊誌は42.5%。
月刊誌の大幅プラスはコミックス『呪術廻戦』(集英社)、『進撃の巨人』(講談社)、『鬼滅の刃』(集英社)の爆発的売れ行きによるものだが、返品率は書籍よりも高く、週刊誌とともに高止まりしている。
コミックスの書店店頭の売上は30%増で、20年10月からのアニメ放送の『呪術廻戦』はシリーズ累計で3000万部を突破したようだ。
20年に続き、コロナ禍の中でも、販売状況はコミックス次第ということになるのだろうか。

呪術廻戦 1 (ジャンプコミックス) 進撃の巨人(32) (講談社コミックス) 鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)



1.出版科学研究所による20年度の電子出版市場販売額を示す。
 
■電子出版市場規模(単位:億円)
2014201520162017201820192020前年比
(%)
電子コミック8821,1491,4601,7111,9652,5933,420131.9
電子書籍192228258290321349401114.9
電子雑誌7012519121419313011084.6
合計1,1441,5021,9092,2152,4793,0723,931128.0

 20年の電子出版市場は3931億円で、前年比28.0%増。それらの内訳は電子コミックが3420億円、同31.9%増、電子書籍は401億円で同14.9%増、電子雑誌は110億円、同15.4%減。
 電子コミックの占有率は18年の80.8%、19年の84.4%から20年は87.0%に達し、20年の電子出版市場は電子コミック市場といっていいシェアとなり、21年は90%を超えてしまうかもしれない。
 それに対し、電子雑誌は3年連続のマイナスで、「dマガジン」の会員数も17年から減少が続いている。電子出版市場においても、雑誌の凋落があらわになってきている。電子書籍にしても、20年はコロナ禍と人気作家の電子化解禁によって400億円を超えたけれど、さらに伸びるのか、難しいところにきているように思われる。

 紙と電子を合わせた出版市場は1兆6168億円で、前年比4.8%増となり、電子出版占有率は前年の19.9%から24.3%となり、ついに4分の1を占めるに至った。
 だがそれは90%近くが電子コミックによるもので、コミックを刊行する大手出版社の業績に結びつくことはあっても、ダイレクトに取次や書店に利益をもたらすものではない。
 電子コミック市場の成長がこれからも続いていけば、取次や書店の苦境はさらに深まっていくばかりだし、週刊誌の衰退と紙のコミック誌の行方も気になるところだ。



2.本クロニクル144と145で、コロナ禍の中にある衣料品・靴専門店13社の20年3、4月の売上状況を示しておいたが、『日経MJ』(2/19)による21年1月の販売実績も見ておこう。

■衣料品・靴専門店販売実績 1月(前年同月比増減率%)
店名全店売上高既存店売上高既存店客数
カジュアル衣料ユニクロ1.82.0▲0.3
ライトオン▲24.8▲23.2▲26.1
ユナイテッドアローズ▲44.1▲45.2▲44.9
マックハウス▲22.1▲20.0▲26.7
ジーンズメイト▲35.8▲35.0▲22.1
婦人・子供服しまむら7.57.64.1
アダストリア▲20.1▲20.0▲17.3
ハニーズ▲21.0▲21.5▲20.8
西松屋チェーン0.5▲0.8▲2.7
紳士服青山商事▲34.0▲31.2▲27.7
AOKIホールディングス▲26.9▲26.0▲17.1
チヨダ▲15.8▲13.9▲10.2
エービーシー・マート▲24.2▲25.2▲19.7

 緊急事態宣言の再発令を受け、外出自粛の影響で、都市部を中心として客足が落ちこみ、11社が減収となった。
 ユニクロとしまむらを除いて、厳しい状況が売上高や客数に顕著である。総務省の20年「家計調査」によれば、コロナ禍での2人以上世帯の消費支出は月平均27万7926円で、前年比5.3%減となり、マイナスは2001年以降で最大である。
 その10ある品目分類のうちの「被服及び履物」「教養・娯楽」「交通・通信」などの7つの支出が減っていることから、衣料・靴専門店を直撃しているとわかる。
 現在のコロナ禍の中で、消費の行方は見通すことができないし、前回の本クロニクルで青山商事を例に挙げておいたけれど、店舗閉鎖や社員の希望退職募集といったリストラ、あるいはM&Aによる再編が進められていくことは必至だ。
 「教養・娯楽」も落ちこんでいるのだが、それに該当する書店売上は『鬼滅の刃』の神風のようなミリオンセラーによって救われたように見える。
 しかし書店にしても、店舗と社員のリストラと、M&Aによる再編は避けられないだろう。



3.楽天ブックスネットワーク(RBN)は書店向け書籍、雑誌の仕入れから出荷業務までを日販に委託し、両社の協業範囲の拡大を検討すると発表。
 それに関して、川村興市社長が『文化通信』(2/22)のインタビューに応じているので、要約してみる。


*当社は旧大阪屋と旧栗田が経営統合して以来、赤字が続いてきたが、これからは黒字転換するために日販との協業拡大などを進める。
*これまで取次として物流施設などのシステムインフラに関して大手取次と同じように維持してきたが、日販に業務を委託し、協業を進めるほうがローコストで取次事業を継続できる。
*現在も返品業務は出版共同流通、新刊返品業務は日販に委託してきたが、これからは一般書店向けの書籍、雑誌の仕入れから返品までを日販へ業務委託する。ただ書店への請求書などの商流、ネット通販(EC)向け仕入窓口機能は自社に残す。
*丸善ジュンク堂書店の帳合変更は採算に合わない取引条件を見直す中で起きたケースで、売上高は減少しても、経営的には筋肉質になるし、22年度からは黒字経営となる見通しだ。
*大阪と東京2本社体制も、楽天フルフィルメントセンター内「関西流通サンダー」に関西オフィスを開設して統合し、人員も200人から150人へと減少する。また採算割れしてきた図書館事業も22年3月で終了する
*経営改革を進めながらEC向けを伸ばし、リアル書店との取引規模は維持しつつ、現在30%ほどのEC売上比率を60~70%に引き上げたい。
*当社は親会社に楽天ブックスがあり、他の取次に比べて強みはECであり、ソーターなどのCD用出荷設備を増強したことで、楽天ブックスの「あす楽」の西日本の対合エリアを拡大し、売り上げも同様である。
*このECインフラを使い、リアル書店向けの客注、商品企画、ポイント連動などのサービスを提供していく。


 結局のところ、RBNは書店取次から撤退し、アマゾンのようなECに特化していくと表明していることになろう。
 本クロニクル151で、楽天の市川市物流センターにオンライン書店「楽天ブックス」が稼働したことやRBN帳合の書店の閉店にふれ、「大阪屋や栗田からつながる書店の清算を進めているかのように思える」と既述しておいたけれど、それは丸善ジュンク堂も例外ではなかったのである。
 大阪屋がOPLをマーク提供する図書館事業を始めたのは1990年代で、その担当者と話したことがあったが、ECによる時代の変化にはすさまじいものだとあらためて実感してしまう。
 それこそRBNの少額取引専用サービス「ホワイエ」はどうなるのだろうか。
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4.丸善ジュンク堂書店は出版社に5月1日からメイン取次をRBNからトーハンと日販に変更することを通知。
 同書店は93店舗(FC店を除く)と外商拠点10ヵ所、書籍流通センター(SRC)を運営しているが、今回の帳合変更で、トーハンは直営FCを合わせて53店舗と外商拠点、SRC、日販には海外(台湾)を含めて16店舗が移る。
 それにより、トーハン帳合は店舗85店と外商10拠点とSRC、日販は店舗30店となる。現物返品はなく、伝票切り替えで対応する。

 この帳合変更によって、RBNの売上高がどれだけ減少するのかは不明だが、面白い偶然の一致が本クロニクルに見出されるで、それを伝えておこう。
 本クロニクル148で、20年の丸善ジュンク堂の売上高740億円あることを示したが、同136のRBNの前身の大阪屋栗田の売上高も同じく740億円とまったく同じなのだ。だからそれをそのまま当てはめれば、RBNが丸善ジュンク堂と取引を中止すると売上がゼロになってしまうということになる。
 だがそれは大阪屋とジュンク堂の蜜月時代のことで、現在ではRBNは丸善ジュンク堂において、そのシェアをかなりトーハンに奪われ、そうした取次状況も含め、既存の取引条件では赤字が続いてしまうために、今回の処置となったのであろう。
 しかしトーハンや日販であれば、まだそうした特販取次条件に耐えられるということなのか、それとも取引条件の見直しも含めての帳合変更だったのか、そうした疑念がつきまとう。
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5.フタバ図書に関しても前回ふれているが。あらためてレポートしておこう。
 フタバ図書は株式会社ひろしまイノベーション推進機構の「ふるさと連携応援ファンド投資事業有限責任組合」が設立する新会社に事業譲渡する。
 新会社に9億円を出資するのはその他に日販、蔦屋書店、もみじ銀行、エディオン、広島マツダで、フタバ図書と関連会社6社から39店舗とメディアマックス事業(レンタル部)などを承継する。
 新会社もフタバ図書の称号を続用するが、TSUTAYAのFCとなり、TSUTAYA BOOK NETWORK(TBN)に加わる。
 資本金は5億円、CEOは日販の横山淳、COOはTSUTAYAの土橋武とされ、もみじ銀行がCFOを派遣する予定となっている。

 この概要がリリースされたのは1月28日で、その当日の午後5時にフタバ図書のオンライン会見が始まった。
 それを『新文化』(2/27)が「社長室」欄で「答えたくないオンライン会見」として、次のように述べている。
 「新聞社やテレビ局などメディアから質問が寄せられた。(中略)質問が相次ぎ、緊張感が高まっていく様子がパソコンの画面ごしにも伝わってきた。とくに、40年間続いたと報じられたフタバ図書の「粉飾決算」「近年の決算情報」「金融機関の債権放棄」などについては、質疑応答の攻防が続き、平行線を辿った」として、「知りたいマスコミと、答えたくない当事者」の構図を伝えている。

 本クロニクルから見て、ずっと指摘してきたように、20年の書店問題として、文教堂、フタバ図書、戸田書店の行方に注視してきた。ようやく21年になって、フタバ図書も文教堂と同じ「産業競争力の強化に基づく特定認証紛争解決の手続き」(ADR手続き)による新会社への事業譲渡ということになった。ただそのオンライン会見は前述のように、「知りたいマスコミと、答えたくない当事者」に終始し、きわめて不透明、説明責任を欠くものだったと見なすしかない。

 これらのことを考えると、取次にとって、書店問題はメガフランチャイジーとしてのナショナルチェーンの処理に向かうしかない状況にあると判断できよう。しかもそれらは赤字や負債が積み上がり、民事再生や破産は取次やFC本部に大きく跳ね返るので、ADR手続きによって、とりあえず延命させるというスキームである。
 その受け皿としてのTSUTAYAだが、静岡の谷島屋に続いて、フタバ図書もTBNに加えたとしても、そのかたわらで、1月の閉店は7店2000坪に及んでいる。日販の最大のメガフランチャイジーTSUTAYAの大量大型閉店は21年の始まりを象徴するものになるかもしれない。
 戸田書店の静岡本店跡地しても、デベロッパーに売却とされていたが、駅前一等地にもかかわらず、まだ埋まっていない。支店やFCは丸善ジュンク堂などに移ったけれど、静岡本店の場合、それこそRBNなどとの清算に至っていないのだろうか。

 それに大手取次とナショナルチェーンを成立させていたのは、逆説的だが、中小書店に他ならず、それがベースとして出版業界を支えていたからだ。それらの中小書店が壊滅的状況を迎えている中で、大取次の存立すらも問われていくだろう。その最終的段階として、戦前の国策取次の日配の再現も予想できるようにも思われる。



6.取協の発表によれば、2月13日の福島沖震度6強の地震で、福島、宮城県の書店97店に被害があり、そのうちの「甚大な損害により再開未定」とする書店は10店に及ぶとされる。
 その中でも、チェーン店は未来屋が3店、TSUTAYAが2店である。

 まだ今年も始まったばかりなのに、コロナ禍に加えて地震が起きてしまった。
 ただ地震発生が午後11時8分ということもあって、本の落下、ガラス破損、什器のずれ、スプリンクラーによる水濡れ被害などで、人身被害がなかったことは何よりだ。
 早く再開でき、学参期に間に合わせられることを願おう。



7.『日経MJ』(2/5)の「米国流通現場を追う」のアメリカの商業不動産業界の調査によれば、20年のパンデミックとロックダウンの影響を受け、業績が急速に悪化し、大手小売企業40社が破綻し、1万1157店舗が閉店し、年間記録となった。それは大手だけなので、氷山の一角とされる。
 1月にはフランス化粧品ロクシタンの米国法人が連邦破産法11条の適用を申請し、チョコレート専門チェーンのゴディバも全128店舗を閉鎖する計画を発表。
 またモール運営企業も同じく破産法11条適用申請が相次ぎ、全小売面積は2025年までに20%減るとの予想も生じている。

 これはの衣料品や靴とも密接にリンクするけれど、書店のメガフランチャイジーも同様であるし、のフタバ図書もしかりだろう。ロクシタンは家賃とリース契約の破棄を目的とした適用申請とされる。
 日本の場合にしても、郊外消費社会のロードサイド店を始めとして、建物はサブリース家賃システム、店のオペレーションにも多くのリースが採用されているので、それらにも及んでいくことになる。
 まさに冗談ではなく、空き店舗が連なるゴーストタウンのような郊外消費社会の風景が出現するかもしれないし、すでにその兆候は現れているという声も聞こえてくる。



8.アマゾンの創業者でCEOのジェフ・ベゾスが21年7~9月期に退任し、取締役会長となる。 
 クラウド部門を率いるアンディ・ジャシーがCEOに昇格する。
 2020年10~12月期売上高は初めて1000億ドル(約10兆5000億円)を超え、通期では3860億ドルに達した。

 本クロニクル152で、コロナ禍の中にて、アマゾンが売上を4,5割伸ばしたとされることから、「不公正に利益を得ている」として、フランスでアマゾン不買運動が起きていることを既述しておいた。先の売上高も、それを裏づけているかもしれない。
 アマゾンによる日本での出版物販売金額も伸びていることは確実だ。それによって取次シェアも変わっているはずだし、KADOKAWAは早くからアマゾン直取引へと移行しているので、そのシェアはかなり高いと推測される。
 このほどKADOKAWAはサイバーエージェントとソニーを引き受け先とする第三者割当による新株式の発行で、100億円に迫る巨額の資金調達を決議している。「グローバル・メディアミックス」に加え、2社との協業でゲーム開発や運用、アニメコンシューマーゲームの世界的展開をめざすとされる。それに電子コミックのこともあり、このコロナ禍の1年で、KADOKAWAのアマゾンにおける売上高は予測する以上に伸びていて、ポスト取次時代もふまえ、今回の資金調達とも無縁ではないようにも思われる。
odamitsuo.hatenablog.com



9.枻出版社が民事再生法を申請。
 同社は1973年設立で、バイク、釣り、写真、サーフィン、ゴルフ、旅などのアウトドア系の趣味やライフスタイルをテーマとする雑誌、書籍、ムックを手がけていた。
 それらの雑誌は『Lightning』『RIDERS CLUB』『PEAKS』『NALU』『湘南スタイル』『世田谷ライフマガジン』などである。
 20年3月 は雑誌176点、ムック249点など459点を出版し、その他も広告事業、飲食店、ゴルフショップといった事業を幅広く展開していた。
 17年には売上高102億円を計上していたが、20年には53億円と半減し、3期連続赤字となり、一部の雑誌の権利や不動産の売却、不採算事業の整備を進めたが、自主再建を断念し、今回の措置となった。
 負債は62億7400万円。

 枻出版社はかつて本クロニクルも言及したことがあり、書店でも雑誌出版社としての認知度は高く、TSUTAYAなどの大型複合店でもよく売られていた。
 しかしその趣味やライフスタイルのトレンドも、スマホ時代の到来によって、賞味期限切れとなったように思われる。それに加えて、本クロニクル146で見てきたが、近年の50%を超えるムックの返品率は、枻出版社へのボディーブローとなり、連続赤字の大きな要因だったであろう。
 いくつかの雑誌は実業之日本社やヘリテージに事業譲渡が決まったとされるが、負債金額は大きく、売れないムックを抱えての民事再生申請の行方はどうなるであろうか。
RIDERS CLUB ライダースクラブ 2021年3月号 PEAKS(ピークス) 2021年2月号【特別付録◎フィンガーレスミトン【改】】 NALU(ナルー) 2021年1月号 湘南スタイルmagazine 2021年2月号 世田谷ライフMagazine 2021年3月号 NO.76
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10.自己御啓、ビジネス、仏教書などのサンガが自己破産。
 サンガは1998年に設立され、宮城県仙台市に本店、東京千代田区にオフィスを置き、12年後に年商1億4100万円を計上していたが、20年には1億円に減少し、新刊も少なくなっていた。
 負債は1億円以上になるとの見通し。

 本クロニクル148で、サンガが仏教誌『サンガジャパン』を刊行し、佐藤哲朗の好著『大アジア思想活劇』を出していることも記している。
 だが経営者の島影透が亡くなり、「経営者の死で、その行方が気にかかる」と書いておいたばかりだった。やはりその死で事業継続は断念され、また後継者も現れなかったことで、今回の措置となったのであろう。
 近年、報道されていないし、本クロニクルでもあえてふれていないけれど、そのような例をいくつも知っているし、まだこれからも起きてくることは避けられないだろう。
Samgha JAPAN(サンガジャパン) Vol.36 (2020-11-25) [雑誌] f:id:OdaMitsuo:20210225170256j:plain:h115



11.東浩紀『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)を読んだ。

ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる (中公新書ラクレ)

  これはゲンロンいう出版社と併走した10年の歩みの告白で、近年にない出版ドキュメントとしての好著である。それは東が「ひとは40歳を過ぎも、なおも愚かで、まちがい続ける」ことを自覚し、「恥を晒し」ても、「その事実がもしかりに少なからぬひとに希望を与える」かもしれないと考え、この1冊を上梓しているからに他ならない。
  それは多くの出版関連書が失敗にもかかわらず、成功をよそおっているし、そのことが少なからぬ人たちに間違った認識を与えていることを身に沁みて感じているからだ。

 またさらに、東はサブタイトルに示された「知の観客」をつくるという営為に一貫して寄り添っていることも特筆すべきだし、それは私などが及ばない啓蒙と教育の視座に基づいている。彼の言葉を引いてみよう。


ほんとうはむかしは出版社もそういうことをやってきたのだと思います。小説であれば、作家を育てるだけでなく、読者を育ててきた。文芸誌も読者とともに育ってきた。けれどもいまの出版社は、売れる作家をどこから探し出してきて、一発当てるしか考えていないように感じます。読者=観客を育てるという発想を、出版人は忘れてしまったのではないでしょうか。

 この『ゲンロン戦記』は石戸諭の「聞き手・構成」による一冊で、私がずっと手がけてきた「出版人に聞く」シリーズを想起させる。このシリーズが『ゲンロン戦記』の成立に少しばかりヒントになったとすれば、本当に幸いに思う。



12.『文学界』(2月号)の「創刊1000号記念特別号」の創刊特集で、島田雅彦が「散歩者は孤児ではない」という一編を書いている。

文學界(2021年2月号) (創刊1000号記念特大号)

 これは「創作」とあるけれど、まぎれもなく島田を主人公とする「私小説」として読めるし、思いがけない人物も登場しているので、要約紹介してみる。

 島田は1981年のロシア語研修付きソ連ツアーで、老紳士と一緒になる。彼は野田開作と名乗り、鎌倉で独り暮らしをしている61歳の際の文筆家だった。
 野田は島田に小説を書いているなら読ませてほしいし、どこかに紹介もすると申し出て、実際に島田の処女作『優しいサヨクのための嬉遊曲』は野田を通して、『海燕』に持ちこまれ、デビュー作となった。つまり野田はプロモーターを務め、島田を「物書きとして世に送り出した恩人」だったことになる。
 野田は三田文学系の作家だったが、南方戦線に送られ、戦地では飛行機乗りとなり、慰安婦たちとつき合った。戦後はエロ小説家、児童書のリライトなどの仕事に携わり、出版界のマイナーな領域で生きてきたようなのだ。
 もし野田が生きていれば、現在は百歳になると気にかかり、島田はつてをたどって調べた自宅へ電話をすると、本人が出た。「百歳の恩人」は存命だったのである。野田のことだから、「実話」と信じたい。

 さてこの野田だが、塩澤実信『倶楽部雑誌探究』(「出版人に聞く」シリーズ13)に出てくる。野田は倶楽部雑誌のゴシップやエロを扱う「色頁」の書き手として有名で、「彼は今でいえば、コラムニストというのかな、当時の雑誌に欠かせないライターで、人柄も学識も申し分なかった」と塩澤は証言している。
 その野田が島田を「物書きとして世に送り出した恩人」だったのであり、1980年代まではそうした出版界の人脈と系譜が保たれていたことを伝えていよう。

f:id:OdaMitsuo:20210226104919j:plain:h120 倶楽部雑誌探究―出版人に聞く〈13〉 (出版人に聞く 13)



13.森功の『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』(幻冬舎)が出された。

鬼才 伝説の編集人 齋藤十一

  新潮社の影の天皇と称されてきた齋藤の初めての評伝である。
 齋藤の個人史、家族史、彼が齋藤家の家長であった事実などは初めて知るものだが、編集者としての軌跡はこれまでも断片的に書かれてきたし、それらの集成ともいえるし、とりたてて驚きはない。
 私見によれば、齋藤は新潮社の「文壇照魔鏡」事件、中村武羅夫の「誰だ? 花園を荒らす者は!」、河盛好蔵の「フランスモラリストとゴシップ文壇史好み」といった新潮社のDNAを、戦後の『週刊新潮』へと還流させ、そのことで戦後そのものを体現させたと考えらえる。
 またそれを実現させるために、『週刊新潮』のスタッフとして、12の野田開作を始めとするライターや作家を、マイナーな倶楽部雑誌などから召喚してきたこと、及び週刊誌ならではの高い原稿料によって、影の天皇の地位を占めたように思われる。



14.論創社HP「本を読む」〈61〉は「『ロルカ全集』と五木寛之『戒厳令の夜』」です。
 『出版状況クロニクルⅥ』は編集中。

ronso.co.jp

古本夜話1121 五車楼『桂園遺稿』

 前回、正宗敦夫は井上通泰に師事して歌を学び、与謝野寛・晶子夫妻ともに『日本古典全集』を編集して予約出版で刊行し、その別バージョンの「歌文珍書保存会本」として、井上の『万葉集新考』も出していることを既述しておいた。

(『日本古典全集』)

 そうした正宗と井上の関係からすれば、旧派風の歌人される正宗は歌だけでなく、出版や編集に関して、井上を見習っていたのではないかと思われる。そのように考えたのは、浜松の典昭堂で『桂園遺稿』上下を入手したからである。これは明治四十年に五車楼蔵版として刊行され、監修は池辺義象、井上通泰、高崎正風、編集は弥富浜雄となっている。菊判上製、二冊とも八百ページを超える大冊で、定価は上下で七円とされている。

 「桂園」とは江戸時代の歌人の香川景樹の雅号で、「桂園派」とはその流派をさす。『日本古典文学大辞典簡約版』(岩波書店)の立項を抽出してみる。景樹は明治五年因幡鳥取藩家臣荒井家に生まれ、少年の日より学問・和歌を好み、二十六歳で和歌修行のために上京する。そして次第に歌人として頭角をあらわし、一家を創立した。香川を名乗るようになったのは、去ったとはいえ、養家先が香川だったからだ。自己の新風、所謂「桂園調」に開眼し、京都で門人の育成と桂園歌調の普及に尽力した。それは『古今和歌集』を理想とし、一種の文学本能説を唱え、作りやすくわかりやすい和歌を実作し、流麗で典雅、繊細で洒脱、しかも生新であり、あまねく天下を風靡したとされる。

日本古典文学大辞典 簡約版

 こうした景樹や著書の立項、解題から、明治に入って『桂園遺稿』に先がけて、井上通泰編『桂園叢書』三集が出され、昭和になって本探索1073の「有朋堂文庫」、同1117の『校註国歌大系』18にも収録され、また他ならぬ正宗の校訂により、香川景樹歌集『桂園一枝』(昭和十四年)が岩波文庫化されていることを教えられた。この歌集について、正宗が「徳川時代の歌集で、否わが国の歌集では、全体としてこの集の右に出づる集は、いかほどもあるまい」と評価していることも。

(『桂園一枝』)

 それらに加えて『桂園遺稿』は編者の弥富の「凡例」によれば、景樹が三十四歳の享和元年から六十八歳の天保六年までの歌稿を収録したとされる。また奥付の「著作権所有」のところには弥富の押印があるので、編者が著作権と印税の権利を有していたとわかる。ただ私は景樹の歌集や弥富のプロフィルにも通じていないので、これ以上の贅言は慎み、ここで初め目にする五車楼という版元にふれておきたい。

 函と奥付に見えているように、五車楼は東京日本橋区と京都市御幸町に住所を置き、前者の発行者は藤井孫六、後者は藤井孫兵衛である。『日本出版百年史年表』の明治七年の「京都府管下第一書籍商社」リストを見てみると、「藤井孫兵衛(上京区御幸町通り姉小路上ル)」とあるので、これが京都の五車楼だと判明する。いつの頃からは不明だけれど、その後五車楼は東京に支店を設け、孫六のほうは孫兵衛の息子に当たるのだろう。

 しかし明治末において、京都の出版社が東京支店を設けるのであれば、全国的な教科書、もしくは辞書の版元に限定されるのではないかとも推測される。だが五車楼がそうした出版社であるとは聞いていない。考えられるのは老舗出版社ゆえに売るべき、また売れる出版物と財力もあり、それに取次との関係から東京へ進出を試みたということになるのだろうか。例によって巻末広告で出版物を見ることができれば、それらの判断もつくのだが、実はそれが函に掲載されているのである。そのような例はほとんど見ていない。そこで煩雑が、それらを挙げてみる。番号は便宜的に振ったものである。

1 神澤貞幹翁編述 『翁草』 全二十一冊  正価金十五円
2 浅井虚夫著 『女官通解』 全一冊    正価金七十銭
3 生間正起編 『式法秘書 全五冊    正価金三円五十銭
4 皆川淇園著 『習文録』 全五冊    正価金七十五銭
5   〃  『助字詳解』 全三冊    正価金五十銭
6   〃   『助語審解』 全三冊  正価金五十銭
7   〃   『実学解』  全六冊    正価金一円
8   〃   『虚字解』  全二冊   正価金五十銭
9   〃   『虚字詳解』 全八冊    正価金一円五十銭
10 富士谷御杖著 『和歌あゆひ抄』 全三冊  正価金五十銭
11  〃    『和歌かさし抄』  全二冊  正価金四十銭
12  〃   『歌ふくろ』    全三冊  正価金六十銭
13 綾足大人著 『詞草小苑』    不明   正価金三十五銭

 すべてにはふれられないので、正価が高いことと冊数の多さからいって、1の神澤貞幹と皆川淇園に関して、やはり『日本古典文学大辞典簡約版』を参照し、言及してみる。

 神澤は江戸時代の随筆家、俳人、永井荷風が『断腸亭日乗』(岩波文庫)でその書名を挙げている。皆川はやはり江戸時代の漢学者で、「開物学」なる一家の学問を創め、字学においても『実学解』『虚学解』は当時のベストセラーだったという。

摘録 断腸亭日乗 上 (岩波文庫)

 このように神澤と皆川のプロフィルや著書を挙げてみても、近世の随筆や字学のベストセラーが東京の近代出版業界で受け入れられたとは思えない。これらを携えて東京へ進出したものの、それは長くなく、ほどなく撤退するしかなかったであろうし、五車楼の名前が残されていないことも、そのことを示しているのだろう。


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古本夜話1120 正宗敦夫と『日本古典全集』

 『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」を繰っていると、『日本古典全集』も見つかり、それによって初めてまとまった大部の明細リストを目にすることができた。ただそれは一ページ半に及ぶので、挙げられないし、またこの全集の揃いは古本屋でも見たことがないので、まずはその俯瞰的な解題を引いてみる。

世界名著大事典〈第6巻〉マラーワン (1961年) f:id:OdaMitsuo:20210118180150j:plain:h110 f:id:OdaMitsuo:20210119173246j:plain:h110(『日本古典全集』)

 日本古典全集(223種、264冊、1926~44)正宗敦夫ほか編集、校訂。国文学、史書を主とし、辞書、遊芸、医書など広範囲にわたり、6期に分けて刊行。間々異文を校合し、各巻ごとに創意に富む解題を付している。第1期48種50冊、第2期72種50冊、第3期25種50冊、第4期44種25冊、第5期20種37冊、第6期14種52冊。ただし第6期は50冊の予定が中絶したものである。古典全集刊行会刊。

 この中で九冊刊行の『狩谷掖斎全集』第一、二、三、五、七巻の五冊を入手している。それは二十年ほど前になるが、梅谷文夫『狩谷棭斎』(吉川弘文館)を読んだ直後に、古書目録で見つけ、購入したのである。あらためて先の「同目録」と照合してみると、それらは大正十四年から昭和三年にかけての第1期と第2期に当たるもので、文庫という判型は変わっていないけれど、赤い表紙の装幀は異なっている。そのことも含め、言及してみる。ただ狩谷に関しては差し控える。

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 私はかつて「正宗敦夫の出版事業」(『古本屋散策』所収)で、この全集ではなく、「歌文珍書保存会本」の別巻と見なせる井上通泰『万葉集新考』を取り上げている。これは昭和三年にやはり国民図書から全八巻で再刊されているようだ。それはともかく、ここであらためて、『日本近代文学大事典』における正宗の立項を引いてみる。

古本屋散策

 正宗敦夫 まさむね・あつお 明治一四・一一・一五(戸籍上は三〇日)~昭和三三・一一・一二(1881~1958)歌人、国文学者。岡山県生れ。正宗白鳥の弟。高等小学校卒業後、上京して井上通泰に歌を学ぶ。旧派風で寡作、わずかに歌集『鶏肋』(大四・一私家版)と、それ以後の作を合わせた正宗甫一編『正宗敦夫歌集』(「清心国文」昭三四・三 二号所載)がある。歌文珍書保存会、日本古典全集会など、古典籍普及の事業に尽くし、また『万葉集総索引』(昭四~六)や遺著『金葉和歌集講義』などの労作がある。(後略)

 このように「古典籍普及の事業に尽くし」たとして立項されているとともに、歌人の吉崎志保子が『正宗敦夫の世界』(私家版、平成元年)を刊行し、そこに「日本古典全集の刊行」由来を記している。また兄の白鳥も『人間嫌ひ』(『正宗白鳥全集』第四巻所収、新潮社)で、弟とこの全集にふれ、吉崎もこの小説に言及しているので、それらを参照し、『日本古典全集』の経緯と事情をたどってみたい。

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 大正十年に与謝野寛は第二次『明星』を発刊するが、そこに正宗は短歌やエッセイを寄せ、歌会に参加する。そうして与謝野夫妻と親交し、その過程で、寛による西洋の文庫を範とした『日本古典全集』の企画が持ち上がったようだ。吉崎によれば、同十四年九月の『明星』に、与謝野夫妻と正宗を編纂、校訂者として、『日本古典全集』刊行趣旨が掲載され、「我国のあらゆる古典中より、一般文化人として、専門の学徒として、必読すべき代表的の書物全部を選択し」、「原書五百種、本書一千冊」を刊行予定とするものだった。

 前述した『狩谷掖斎全集』第一巻の『校本日本霊異記』は確かに編纂校訂者として三人の名前が並び、大正十四年十一月刊行ので、初期配本に位置づけられよう。奥付は「非売品」とあるので、『日本古典全集』が円本と同じ予約出版で流通販売されたとわかる。発行者は長島豊次郎、発行所は日本古典全集刊行会で、住所はいずれも東京府北豊島郡長崎村となっている。また印刷所の新樹製版印刷所、印刷者の高瀬清吉の住所も同じので、長島と高瀬は与謝野と『明星』の関係者のように思われる。

校本日本靈異記他 (覆刻日本古典全集) (『校本日本霊異記』、現代思潮新社覆刻)

 検印のところに押されているのは読み取れないだが、「万という単位で印税が入」り、「与謝野夫妻は印税の前借の形で金を借り、荻窪に洋風の邸宅を新築」と吉崎が記していることからすれば、与謝野の印だと考えられる。吉崎の記述は白鳥の『人間嫌ひ』に基づいているのだが、これは戦後の作品もあり、白鳥の思い込みよるもの、もしくは彼女の記す出版史から判断すると、このような印税に関する言及も、どこまで信憑性があるのか、少しばかり疑問も生じてしまう。だが第1期、第2期までの七一冊までは三人の共編で出し、それ以後
正宗が一人で編纂したというのは事実だと思われる。それはつまり与謝野夫妻が煩雑な出版実務と編纂の手を引いたこと、及び出版者の問題もあったとされる。

f:id:OdaMitsuo:20210119171148j:plain(『日本古典全集』第1期)

 それは昭和二年と三年の『狩谷掖斎全集』第五巻、第七巻も顕著で、前者は三人の編纂だが、同じ検印があり、発行者は麹町区永楽町丸ノ内ビル内の株式会社日本古典全集会と関戸信次、後者は正宗一人、検印はなくなり、発行者も再び長島と日本古典全集刊行会に戻っている。そこに推測できるのは白鳥が書いているように、初期の成功を受け、寛が派手にやろうとして、小林一三などにも出資を仰ぎ、株式会社化したのだが、会社と寛の間が決裂し、破綻してしまったという事実である。そのことで、『日本古典全集』の仕事は正宗が一人で負うことになったのである。

 なお『日本古典全集』『世界名著大事典』では264冊だが、『正宗敦夫の世界』では266冊、『全集叢書総覧新訂版』では263冊とされていることを付記しておく。

全集叢書総覧 (1983年) 


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