出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1368 『長谷川利行展』と「カフェ・パウリスタ」

 もう一冊、展覧会カタログを取り上げてみよう。浜松の典昭堂で『長谷川利行展』(一般社団法人 INDEPENDENT 2018)を見つけ、買い求めてきた。これは利行の最新の展覧会本で、一四四点の絵がカラーで掲載され、その「年譜」や「長谷川利行が歩いた東京」「参考文献目録」「長谷川利行自筆文献再録」も充実し、思いがけない一冊であった。

 以前にも別の展覧会目録を見ているし、『近代出版史探索Ⅱ』208などの矢野文夫による『長谷川利行』(美術出版社、昭和四十九年)も読んでいたけれど、あらためて大下藤次郎や『みづゑ』との深い関係を認識させられた。その小林真結編「年譜」を辿っていくと、中学時代に絵葉書流行があって、長谷川は多くの風景画絵葉書を買い求め、水彩画を描くようになった。そして明治四十一年頃から『みづゑ』の読者、寄稿者となり、翌年には中学も中退し、同人誌『水彩鳥』も刊行し、紀州の山奥や奈良に滞在し、水彩画の修練に明け暮れる。

長谷川利行 (1974年) (美術選書)

 明治四十三年の『みづゑ』(No.60)に「画家―芸術家になるのは天職だと信じるやうになる」と書き、大下藤次郎から年賀状が届いたことへの喜びも記しているようだ。続いて四十四年のところには「8月21日から一週間、敦賀にて『みづゑ』主催水彩夏期講習会に参加」とあり、その集合写真が掲載されている。大下は少しばりやつれた感じで中央に写っているが、四十人以上ということもあり、長谷川は特定できない。しかしその女性も含んだ写真から、明治三十年代後半から四十年代にかけての水彩画や絵葉書の流行をうかがうことができるように思われる。

 これを森清涼子編「大下藤次郎年譜」(『みづゑ』No.900)から見てみる。それによれば、明治四十四年八月、「敦賀水彩画講習会を松原尋常高等小学校図書教室で開く(21日~27日)」とある。これで写真の背景がその小学校だと判明する。しかも九月に入ると「健康がすぐれず、月の半分は病床にある」と述べられ、十月「午後4時没(10日)」とされる。それゆえにこの敦賀での水彩画講習会が大下の最後の旅で、しかも長谷川との最初にして最後の出会いだったことを伝えていよう。

みづゑ NO.900 1980年3月号 創刊900号記念特集|水彩画家・大下藤次郎|総目次 ( 900号)

 その後数年、長谷川は『みづゑ』に寄稿していたようだが、短歌を詠み始め、大正七年に『近代出版史探索Ⅲ』425、426の生田蝶介編集の『講談雑誌』に投稿し、生田の選により短歌が掲載され、私家版歌集『長谷川木葦集』を刊行する。博文館の『講談雑誌』への投稿は続けられ、生田との関係も生じたようで、生活の拠点を東京へと移し、大正十年からは『講談雑誌』に大衆小説「浄瑠璃坂の仇討」などを発表していく。残念ながら講談社の『大衆文学大系』別巻の「主要雑誌目次」に『講談雑誌』の収録はないので、それらの詳細は確認できないが、やはり同誌の挿絵画家岩田専太郎などとも知り合ったようだ。またその頃、生田の門下にあった植字工の千葉文二(青花)を通じ、矢野文夫を紹介された。すでに長谷川は水彩画から油絵へと移っていた。矢野は『長谷川利行』において、次のように最初出会いを記している。

 初対面の利行はすでに三十近い年齢で、陰気で口数も少なく、東海道五十三次をテント旅行でスケッチして歩いた、などと話した。一緒に駿河台下の『カフェ・パウリスタ』でコーヒーを飲んだのであるが、利行は一隅に十五号位のカンバスを画架に立てかけ、一瀉千里の勢いでカフェの内部を描いた。それは嵐のような激しい筆勢であった。その時は、三原色だけでなく、ガランスやエメラルドやブラックをふんだんに使用していたように思う。

 カフェ・パウリスタは移民の父とよばれる水野龍による創業で、「パウリスタ」は「サンパウロっ子」を意味するという。明治四十四年に箕面に第一号店が開店し、その後銀座、人形町、道頓堀、浅草と出店している。だが『近代出版史探索Ⅱ』348の『写真集 失われた帝都東京』には見出せないので、どのようなカフェなのか不明である。それでも本探索1352などの宮嶋資夫『遍歴』には数寄屋橋通りのカフェ・パウリスタが出てくるので、社会主義陣営がよく利用していたとわかる。

 この『長谷川利行展』にも、昭和三年、四年付の「カフェ・パウリスタ」の油絵二点が収録されているけれど、いずれも矢野のいうところの長谷川の「一瀉千里の勢い」でカフェの内部を描いた」「嵐のような激しい筆勢」ゆえに、どこの店かは特定できない。それに矢野の証言に従えば、すでに大正時代からこの他にも「カフェ・パウリスタ」は描かれているようで、私もテレビの「開運!なんでも鑑定団」において、「カフェ・パウリスタ」に類似した作品を見ている。これは国立近代美術館に買い取られ、その所蔵となっている

 それにしても、大下藤次郎、長谷川利行、生田蝶介のラインが矢野文夫へとつながっていくのは意外でもあった。


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出版状況クロニクル178(2023年2月1日~2月28日)

23年1月の書籍雑誌推定販売金額は797億円で、前年比6.5%減。
書籍は474億円で、同7.0%減。
雑誌は323億円で、同5.8%減。
雑誌の内訳は月刊誌が266億円で、同3.3%減、週刊誌が56億円で、同16.0%減。
返品率は書籍が32.8%、雑誌が41.8%で、月刊誌は41.3%、週刊誌は44.3%。
最悪に近い前年マイナスと返品率で、23年が始まったことになる。
学参期以後の取次と書店の動向がどうなるのか、それが焦眉の問題であろう。
韓国映画『名もなき野良犬の輪舞』に「人を信じるな、状況を信じろ」というセリフがあった。
23年はどのような出版状況へと向かっていくのか、注視し続けなければならない。

名もなき野良犬の輪舞 [DVD]


1.出版科学研究所による22年度の電子出版市場販売金額を示す。
 

■電子出版市場規模(単位:億円)
201420152016201720182019202020212022前年比
(%)
電子コミック8821,1491,4601,7111,9652,5933,4204,1144,479108.9
電子書籍19222825829032134940144944699.3
電子雑誌70125191214193130110998888.9
合計1,1441,5021,9092,2152,4793,0723,9314,6625,013107.5

 22年の電子出版市場は5013億円で、前年比7.5%増。それらの内訳は電子コミックが4479億円、同8.9%増。電子書籍446億円、同0.7%減、電子雑誌は88億円、同11.1%減。
 電子コミックの成長は21年と比較し、半減し、緩やかになってきているが、占有率は89.3%に及び、23年は90%を超えるであろう。
 それに対し、電子書籍は500億円に達するかと思われたが、マイナスに転じ、成長は止まったと考えられる。しかし電子雑誌のほうは4年連続二ケタ減で、最も占有率が高い「dマガジン」も会員数の下げ止まりが見られないし、100億円に届くのも難しい状況にある。
 やはり今後の電子出版市場もコミック次第ということになろう。それに22年出版状況として特筆すべきは、電子出版が雑誌販売額の4795億円を上回ったことで、23年度には書籍販売額をも超えてしまうかもしれない。



2.同じく出版科学研究所の2011年から22年にかけての書籍雑誌販売部数の推移を挙げておく。

■書籍雑誌販売部数の推移(単位:万冊)
書籍雑誌
販売部数増減率販売部数増減率
201170,013▲0.3198,970▲8.4
201268,790▲1.7187,339▲5.8
201367,738▲1.5176,368▲5.9
201464,461▲4.8165,088▲6.4
201562,633▲2.8147,812▲10.5
201661,769▲1.4135,990▲8.0
201759,157▲4.2119,426▲12.2
201857,129▲3.4106,032▲11.2
201954,240▲5.197,554▲8.0
202053,164▲2.095,427▲2.2
202152,832▲0.688,069▲7.7
202249,759▲5.877,132▲12.4

 これまで販売金額と販売部数の双方を引くのは煩雑でもあり、主たる出版データは前者によってきた。
 だが『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』で示しておいたように、図書館貸出冊数推移との比較、今後の参照データでもあるので、ここで表化しておく。
 またそれは22年の販売部数が書籍は5.8%、雑誌は12.4%と、この12年間のうちで最大のマイナスとなっているからだ。
 実際に部数も書籍は7億冊から5億冊、雑誌は20億冊から8億冊をわりこんでしまい、書籍にしても雑誌にしても、まったく下げ止まりは見られず、まだ減少していくだろう。
 本クロニクルで繰り返し日販、トーハンの取次と書店事業の双子の赤字を指摘してきたが、23年はそれがさらに加速していくことは確実で、書籍雑誌販売冊数の推移にもうかがえる。
  



3.名古屋市東区の正文館本店が6月末で閉店。土地、建物、駐車場も売却。
 本社ビルの老朽化、建替資金の回収も困難であり、「本店を閉め、初代が戦前に購入しその後維持してきた土地を売却することはまさしく断腸の思いですが、将来のために決断致しました」とHPで公表。

 本クロニクル168で焼津谷島屋の民事再生、同169で沼津市のマルサン書店仲見世店の閉店、同175で長野県の山根書店の閉店などを既述しておいたが、地方の老舗書店の閉店はこれからも続いていくだろう。
 正文館本店の場合、店舗面積は400坪近くあったはずで、これに駐車場用地を加えれば、大きな会社資産である。その閉店、売却には経営者の「まさしく断腸の思い」がうかがえるが、「将来のために決断」するしかなかったと推測される。
 しかしあえていえば、正文館のように先送りせずに、土地建物を売却できることは幸いだと見なせよう。そのような売却もできず、そのまま不良債権が塩漬けとなってしまっている例も多い。そこに老舗書店の閉店の難しさのひとつが潜んでいるのである。



4.三省堂書店の決算は最終損益が5億9400万円の赤字と発表。前期は3億3700万円の赤字。

 本社ビル建替えに伴う神保町本店の閉店、池袋本店の縮小が大きく影響し、減収減益とされている。
 だが本クロニクル170で丸善ジュンク堂、同171で八重洲ブックセンターの連続赤字を見てきたように、大型店のナショナルチェーンにしても、構造的な赤字に陥っていることは明白だ。
 それに23年からは諸経費の上昇が迫っており、当然のことながら人件費も含まれるし、黒字化の困難はいうまでもあるまい。
 再販委託制の行き詰まりと雑誌の衰退の只中で、書店は漂流するしかない状況を迎えていよう。



5.朝日新聞出版の月刊誌『Journalism(ジャーナリズム)』が3月で休刊。
 2008年の創刊で、新聞、雑誌、放送、出版などの記事や論考を主としていた。


Journalism (ジャーナリズム) 2023年 2月号  週刊朝日 2023年 3/3 号【表紙:KARA 】 [雑誌]

 『朝日新聞』の三八ツ広告で見ることもあり、内容によって、年1、2回購入していたが、書店では売っていなかったので、新聞販売店を介してだった。ただそれらの号にしても、大学の紀要論文的印象が強く、あまり参考にならなかった記憶が残っているだけである。前回『週刊朝日』の5月休刊にふれ、雑誌出版社としての朝日新聞社=朝日新聞出版は終焉しつつあると書いておいたばかりだが、『Journalism』もそれに連なったことになろう。
 それでも『週刊朝日』は1950年代に百万部を超えていた週刊誌で、その書評欄は数々のベストセラーを生み出したこともあり、『朝日新聞』の「歌壇」には休刊を惜しむ歌が多く寄せられたようだ。「佐佐木幸綱選」「永田和宏選」として、次の三首が挙げられているので、雑誌レクイエムとして引いておく。


  スマホなど無かった時代の情報源「週刊朝日」が休刊するとふ
                        (川越市) 西村 健児
  残念な「週刊朝日」休刊よ、東海林さだおの見開きもまた
                        (相馬市) 根岸 浩一  
  この国が軍拡に舵を切る最中「週刊朝日」休刊決まる
                        (磐田市) 白井 善夫



6.みすず書房の月刊誌『みすず』も8月号で休刊。

  

 かつて『みすず』は出版太郎の『朱筆』連載もあったので、1970年代から欠かさず読んできた。当時、出版太郎が誰なのか定かでなかったが、『朱筆』『朱筆Ⅱ』が単行本化された後、彼が私のいうところの4翁の1人である宮田昇だったことが明らかになった。それに合わせて、告白すれば、宮田の『朱筆』を継承するつもりで、本クロニクルも始められたのである。実際に宮田も本クロニクルを読んでいた。

 しかし21世紀に入ってからは恒例の1、2月合併号の「読書アンケート特集」に目を通すだけで、休刊にしても、23年の同号で知ったことになる。自著も訳書も何度か挙げてもらっているのに、定期購読してこなかったことを申し訳なく思う。
 それにつけても『みすず』は秀逸なリトルマガジンで先駆的な出版社のPR雑誌だったと考えられるが、これが出版社のPR雑誌の休刊の始まりとなるかもしれない。



7.『月刊ポップティーン』も2月号で休刊。ウェブマガジン「ポップティーンメディア」へと移行する。
 1980年に女子中高生を読者として主婦の友社から創刊され、94年に角川春樹事務所に移行し、2021年には同誌事業フォーサイド子会社ポップティーンへと譲渡されていた。

Popteen(ポップティーン) 2023年 02 月号 [雑誌] 

 本クロニクル159で、角川春樹事務所とフォーサイドが資本業務提携し、後者が前者の株式15%を保有に至ったことを取り上げ、デジタルトランスフォーメーション(DX)絡みで、よくわからない印象がつきまとうと述べておいた。
 だがおそらくそのような流れの中で、休刊という事態に及んだのであろう。
 かつて『ポップティーン』はギャル雑誌としてのセックス特集が過激だとされ、国会で問題になったこともあったが、もはや雑誌出版史においても記憶されていないようで、この度の休刊となった。
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8.男性誌『昭和40年男』『昭和50年男』、バイク誌『タンデムスタイル』『Lady's Bike』などを発行のクレタとクレタパブリッシングが破産し、ヘリテージがそれらの事業を譲受する契約を締結。
 ヘリテージは2020年9月に設立され、21年9月に枻出版社の『Lightning』など7誌と飲食事業を譲受している。
 クレタは1991年設立で、99年にエルピーマガジン社、後のクレタパブリッシングと提携している。クレタパブリッシングは2016年に売上高3億4500万円を計上していたが、21年には2億5000万円に減少し、今回の処置となった。


昭和40年男 2023年4月号 [雑誌]  昭和50年男 2023年3月号 [雑誌]【小室哲哉がオレたちにかけたマジック】  タンデムスタイル(Tandem Style) 2023年 04 月号 [雑誌]  レディスバイク(Lady's Bike) 2023年4月号 [雑誌]  LIGHTNING(ライトニング) 2023年4月号 VOL.348 

 『昭和40年男』は書店で見かけていたので知ってはいたけれど、講読したことはなく、版元としてのクレタ、クレタパブリッシングも認識していなかった。
 それはヘリテージも同様で、本クロニクル154で枻出版社の民事再生法に言及し、事業譲渡の1社として挙げておいたが、その業態も含め、詳細は全く判明していなかったし、その後の経過も報道されていなかった。
 今回のクレタとクレタパブリッシングの破産で、再びヘリテージが登場してきたことになろう。
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9.毎日新聞社は4月から愛知、岐阜、三重の3県の夕刊の廃止を発表。

 前回の本クロニクルで、『静岡新聞』の夕刊が3月末で廃止となることを伝えたが、全国紙と地方紙の違いはあるにしても、このように続く夕刊の休刊や廃止は、他の全国紙、地方紙に与える影響は大きく、今後はそのようなラッシュを迎えることになろう。書店ではないけれど、新聞販売店もどうなるのか。
 19世紀から20世紀にかけては戦争と革命、それに併走する出版と新聞ジャーナリズムの時代であったと見なせよう。しかし21世紀に入り、戦争だけが残り、もはや革命は見失われ、出版、新聞ジャーナリズムは凋落してしまったことになるのだろうか。



10.『日本古書通信』(2月号)が「河野書店・河野高孝さんに古書業界この四〇年を聞く」を掲載している。

河野は全古書連理事長兼任となる東京古書組合理事長も務め、東京洋書会、明治古典会の運営にも携わってきた。
 このインタビューは4ページに及ぶもので、40年間の古書業界の動向とその行方も語られ、それらは出版業界と併走するものだし、出版業界の人々にも一読を勧めたい。
 またインタビューしている同誌の樽見博が巻末の「談話室」で、まったく変わってしまった、次のような町田のブックオフ事情にふれていた。
商店街の至るところにブックオフの看板が並び、ブックオフの聖地のようなのには驚いた。創業者から経営者も変わったが、現在全国に六〇〇店以上あるようだ。ただ新古本屋という感じではなく、古着屋など様々なリサイクル品販売に変わっている。

 本クロニクル168などで、ゲオの2nd STREET化にふれてきたが、ブックオフのほうもまさに「本離れ」し、業態転換を図っていくと思われる。そういえば、近隣のブックオフの閉店も続いているようだ。
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11.『新文化』(2/16)が「新星出版社『実用書』『営業』軸に100周年」との大見出しで、記念出版『ビジュアル大事典』を特集し、富永靖弘社長にインタビューしている。
ビジュアル大事典 

 所謂「実用書」出版社の一面特集はこれまでほとんど目にしていなかったし、『ビジュアル大事典』にしても、企画や価格にしても、これまでの新星出版社のコンセプトからはテイクオフしているし、1000円という書店報奨金も大手出版社に比肩するものである。
 新星出版社は1923年に富永龍之助によって操業された冨永興文堂が前身だが、『出版人物事典』『日本出版百年史年表』には見えておらず、『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』に記載されているだけだった。
 それはやはり特集にあるように、「実用書」と「営業」に強い出版社であっても、「書店の平台」で売るべき本として、書店員が認識していなかったことにもよっている。
 だが時代は変わったのだ。これを機会に全出版目録を出してほしいと願う。



12.『週刊読書人』(1/27)が「追悼 渡辺京二を偲ぶ」と題し、藤原良雄、新保祐司、小川哲生による鼎談を2面掲載している。

 前々回の本クロニクルでも渡辺を追悼しているし、『朝日新聞』(2/11)や『選択』(2月号)でも追悼記事や特集を見ている。
 屋上屋を架すようだが、たまたま3月にゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』(伊藤桂子訳、論創社)の新版が刊行されるので、そのことに関連して書いておきたい。
 レガメーの「江ノ島のお茶屋の女」を表紙絵とする葦書房版『逝きし世の面影』を読み、渡辺にそれらを記録した来日異邦人たちがどこから来たのかを問うべきで、それはフランスの場合、ベンヤミンの『パッサージュ論』やゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の世界からやってきたのではないかという私信をしたためたことがあった。同様のことを「来日異邦人の記録」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)として書いている
 すると渡辺から読んでみるつもりだとの返信があり、その後「ルーゴン=マッカール叢書」は全巻を読んでくれたようだ。
 とりわけ『ボヌール・デ・ダム百貨店』は「叢書」中でも、消費社会を描いた嚆矢といえる作品で、今回の新版は当時の挿絵入りで、こちらも読んでもらえればと思っていたのである。刊行が遅れてしまい、間に合わなかったことが残念でならない。

ボヌール・デ・ダム百貨店(新版) 逝きし世の面影 (日本近代素描 1) パサージュ論(一) (岩波文庫, 赤463-3)  文庫、新書の海を泳ぐ―ペーパーバック・クロール   



13.『キネマ旬報』(2/下)の恒例の「ベスト・テン発表特別号」が出された。

キネマ旬報 2023年2月下旬号 No.1915 ベスト・テン発表号 

 恥ずかしいことに、22年は「日本映画」「外国映画」の双方のベストテンを一作も観ていなかった。
 その一因は50、60時間は当たり前という長大な韓国ドラマにはまってしまったことにあり、1作を観るのに1ヵ月もかかってしまう事情にもよっている。
 だがそのことはともかく、この「特別号」で驚かされたのは24ページに及ぶ「映画人追悼」記事と「映画・TV関係者物故人」リストで、22年にはずっと観てきた映画の監督や俳優があまりに多く亡くなってしまったことを実感させられてしまった。しかしそれは銀幕の上だけでなく、私たちもその年齢に達していることも。

 監督でいえば、ピーター・ブルックも97歳で亡くなっている。その『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』を観たのは半世紀以上前のことだった。DVDが出ていたことを知り、ただちに購入した。近日中に観るつもりだ。
 1986年から「日本映画時評」を連載してきた山根貞男の83歳の死も伝えられてきた。もはや彼の「時評」も読むことができなくなってしまった。
マラー/サド─マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺 [DVD] (『マラー/サド』)



14.黒木亮『兜町の男――清水一行と日本経済の80年』(毎日新聞社)を読了。

兜町(しま)の男 清水一行と日本経済の80年 

 清水一行に関して一冊が書かれるとは予想していなかったが、ここに経済小説家清水伝が刊行されたことになる。
 参考資料として、井家上隆幸『三一新書の時代』(「出版人に聞く」16)が挙げられ、実際に引用されている。編集者としての井家上の役割も顕彰され、本当によかったと思う。
三一新書の時代 (出版人に聞く 16) 



15.『新編図書館逍遥』は4月刊行予定。
 『近代出版史探索Ⅶ』も書き終えているので、年内には刊行できるだろう。
 論創社HP「本を読む」〈85〉は「戦後の漫画=コミック出版の変容」です。

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古本夜話1367 横浜美術館『小島烏水 版画コレクション』

 今橋映子編著『展覧会カタログの愉しみ』(東大出版会)があるのは承知しているけれど、展覧会カタログの全容は把握しがたく、刊行も古本屋の店頭で出合うまでは知らずにいたことも多い。それに市販されていないので、目にふれる機会も少ない。そのような一冊が横浜美術館企画・監修『小島烏水 版画コレクション』(大修館書店、平成十九年)で、サブタイトルは「山と文学、そして美術」とあった。このカタログが大修館を発行所としているのは、昭和五十年代にいち早く『小島烏水全集』を刊行したことによっているのだろう。

展覧会カタログの愉しみ   小島烏水版画コレクション―山と文学、そして美術   小島烏水全集 第1巻

 烏水が志賀重昂の『日本風景論』や大下藤次郎の水彩画にまつわる人脈に連なり、本探索1364で大下亡き後にその夫人を助け、『みづゑ』の編輯を担った経緯を既述しておいたが、彼が版画や美術コレクターだったことはこのカタログを入手するまで念頭になかった。とりわけ西洋版画はデューラー、ゴヤ、ミレー、ドラクロワ、ドーミエ、マネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティス、ピカソにまで及んでいて、当時の西洋版画コレクションとしては驚くばかりの収集のように思われる。

 (『日本風景論』)

 『小島烏水 版画コレクション』の圧巻は浮世絵に加えて、それらの西洋版画を収録した「東西版画コレクション」で、同書の半分以上を占めている。烏水は山や風景論との関係から歌川広重の浮世絵に注視するようになり、優れた浮世絵が国外に流失している事実に気づき、本格的な浮世絵研究と収集を始め、大正三年に『浮世絵と風景画』を上梓するに至る。この版元は『近代出版史探索Ⅱ』225の前川文栄閣で未見だが、日本で最初の実証的浮世絵研究書とされる。歌川広重「東海道五拾三次」や葛飾北斎「冨嶽三十六景」などを中心に四百点近くを収集したようだが、昭和十六年には売り立てられ、散逸したと伝えられている。これらの「東西版画コレクション」の浮世絵図版はその際の『目録』の再現のようだ。

 (『浮世絵と風景画』)

 烏水は大正四年に横浜正金銀行ロサンゼルス分店長として赴任し、翌年にロサンゼルス博物館美術工芸ギャラリー(現ロサンゼルス・カウンティー美術館)で、自らの浮世絵コレクションの展覧会を開催した。同じくその展示室にあったデューラーやレンブラントの版画を見て、西洋版画にも目覚め、こちらも五百点以上を収集し、帰国後の昭和三年に「小島烏水蒐集泰西創作展欄会」を開いた。これも日本で初めての西洋版画の体系的な紹介となった展覧会で、美術界に対して衝撃を与えたとされる。つまり烏水はアルピニストであっただけでなく、先駆的な浮世絵と西洋版画のコレクターにして研究者だったことになろう。

 だがそれはひとまずおき、ここで肝心の水彩画のことにもどらなければならない。『小島烏水 版画コレクション』の最初のセクションは「山と文学から美術へと」題され、次のような言及がなされている。

 烏水は、大下藤次郎や丸山晩霞、三宅克己らの自然の美を描いた水彩画にも共感し、自著の口絵や挿幀を彼らに依頼し、自然美を軸として文学と美術の融合を試みた。また、彼らの作品評を雑誌に発表し、「水彩画講習所(後に日本水彩画研究所と改称)」の開設に際しては資金援助をした。特に大下との交流は深く、1909(明治2)年に大下が急逝すると、彼が主催していた雑誌『みづゑ』の編集を手伝い、廃刊の危機を救った。烏水は、大下藤次郎の水彩画について「清流や止水の表現に優れている」と評し、また、丸山晩霞の作品については、「私はあんなに、水々しい緑、生々しい苔、詩人ワーズワースの話し相手になりそうな岩、画面から禽の声でも落ちて来そうな森林の幽邃を味わったことはなかった」と述べている。

 実際に大下は「梓川と焼岳」「六月の穂高岳」「雨雲の富士山」「題名不詳[山あいの村]」「飯坂付近」「上州赤城連山」、丸山は「題名不詳[夏の山岳風景]」「展けたる谷」「題名不詳[森の中]」「同前[山岳風景、万里の長城]」が収録されている。烏水の大下評の「清流や止水の表現に優れている」は「梓川と焼岳」、丸山評の「水々しい緑」と「ワーズワースの話し相手になりそうな岩」は「同題名不詳[夏の山岳風景]」、「生々しい苔」と「禽の声でも落ちて来そうな森林の幽邃」は「同前[森の中]」を前にしてもらした言葉のように思われる。

 また大下の「梓川と焼岳」を口絵とし、丸山の装幀によるのは『山水美論』(如山堂、明治四十一年)、丸山の口絵と装幀は『山水無尽蔵』(隆文館、同三十九年)、『雲表』(左久良書房、同四十年)で、これらの書影も『小島烏水 版画コレクション』で見ることができる。

   

 なお水彩画は大下と丸山の他に、三宅克己、荒木猪之吉、吉田博、鶴田吾郎などの作品も収録され、烏水のコレクションと同時代の水彩画家たちの世界をうかがわせている。また自筆スケッチ帖なども含め、八点に及ぶ荒木の作品はここで初めて目にするが、横浜生まれの山岳画家で、烏水の親友といえる人物であり、単行本の表紙や口絵を最も多く手がけているようだ。いずれ古本屋でめぐりあえることを期待しよう。


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古本夜話1366 森鷗外「ながし」

 大下藤次郎の『水彩画之栞』に序文ともいうべき「題言」をよせた森鷗外は、大下が明治二十三年、二十一歳の時に書いた手記「ぬれきぬ」(「濡衣」)によって、大正二年に「ながし」という小説を書いている。このことは前々回の『みづゑ』の土方定一「藤次郎と森鷗外、原田直次郎」でも言及されている。

 大下は父巳之吉の唯一の息子だが、父が次々と妻をとりかえたことから、実母は家を去り、大下は十歳の頃から継母げんによって養育された。彼の境遇は家業が栄え、経済的には裕福であったが、決して幸福ではなかった。彼の手記「ぬれきぬ」はその継母おげんのもとでの「家の奴隷」のような生活、辛苦の生活の中で起きたひそかな事件の記録であった。継母は大下を何かにつけて憎み、出路のように酷使し、何ごとにも疑い深く、大のやきもち焼きと説明されている。そうした中で大下が二ヵ月ぶりに風呂に入り、女中に江中を流してもらったことから起きた継母との激しい感情の波紋を描いたものだとされる。残念ながら『みづゑ』に「ぬれきぬ」は収録されていない。

 そこで鷗外の「ながし」(『鷗外選集』第三巻所収、岩波書店)をあらためて読んでみた。それは「八月三十日の事である。午後はまだなかなか暑い」と始まり、次のように続いていく。

 藤次郎が自分の預かつてゐる三頭の馬に飼(かひ)を付けて、寝藁を入れて寝かして置いて、厩から店へ帰つた時は、顔や手足が汗と埃とによごれて、体が棉のやうになり、精神がぼうつとしてゐた。

 このイントロダクションはどれほど大下の「ぬれきぬ」が参照されているか詳らかにしないが、「ながし」の物語にとってはとても効果的な始まりとなっている。しかしそれには若干の補足説明が必要であろう。これは二十一歳の藤次郎が家業に携わっていることを伝え、それは本郷真砂町の広大な敷地と五百坪の建物からなる旅人宿、下宿、陸軍馬匹用達に加えて、貸家の差配なども兼ねていたのである。

 だが藤次郎は父の巳之吉が四十五歳になって初めてできた男の子だったので、現在は六十五歳の老人であり、その一方で四人目の妻のおげんは三十五歳にすぎなかった。傍から見れば藤次郎は「若旦那」の身分であったが、父の歳と継母の性格からていのよい男衆のように働かされ、陸軍の荒馬の世話もさせられていたのである。それが冒頭のシーンに象徴的に描かれていた。

 この後、店と建物の構図が帳場、土間、台所、自分の部屋を挙げて説明され、帳場の背後の台所の三枚敷の畳のところにおげんが常にいて、「そこで店と台所とを見張つてゐる」と述べられている。湯殿は帳場から対角線で結びつけられる場所にあり、それらはおげんが藤次郎も含め、湯殿も「見張つてゐる」ことを意味していよう。彼は湯舟から上がり、体を洗い始めたが、手拭で背中をうまく洗えないでい

 彼女は他の女中よりも上品で、着物も小綺麗にしていた。そして湯殿をのぞき、「流しませうか。(中略)それに分かりやしませんわ」といった。藤次郎は「此女との中を、なんの理由もなく継母に彼此云はれてゐる」こともあって、断わろうかと思っているうちに、彼女がすばやく側にきたので、手拭を渡してしまった。彼は彼女と「或る秘密を共有する」「一種の甘み」を味わい、それは「意地悪く自分ともとの間を見張つてゐる継母に反抗する快さ」を感じていたのである。ここに鷗外が「ながし」というタイトルを付した理由が浮かび上がる。

 その後、継母の気に入りの女中が、藤次郎の背中を流したもとのことを告げ口し、もとがひどく叱られ、泣いていることを聞かされる。それから藤次郎が九歳の頃、実母が家出し、十一歳でおげんが継母になったが、美人であるけれど、素性の知れないおげんは冷淡でかわいがってくれず、市舞踏した経緯が語られていく。もととの「ぬれきぬ」は藤次郎、父、継母とのやりとりにまた発展していくわけだが、もとの泣く姿はずっと続き、藤次郎も慰めることもできず、その後も一家は同じようなことを繰り返していくばかりだった。

 鷗外は「ながし」を次のように結んでいる。

 藤次郎は後に西洋画で一家をなした人である。此出来事のあつた明治二十三年の翌年から画の師匠を取つて、五六年のうちに世間に知られるやうになつたのである。巳之吉は此出来事があつてから三年目に亡くなつた。それから又三年立つて、おげんは自分の不身持に余儀なくせられて、藤次郎の家から身を引いた。藤次郎は画をかく外に文章も作つた。その「濡衣(ぬれきぬ)」と題した感想文に此話の筋が書いてある。

 藤次郎は明治四十四年に四十二歳で亡くなり、鷗外はその死を追悼し、大正二年に『太陽』に「ながし」を発表したのである。


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古本夜話1365 島崎藤村「水彩画家」と丸山晩霞

 水彩画というと、ただちに思い出されるのは島崎藤村の「水彩画家」である。この作品は春陽堂の『新小説』の明治三十七年一月号に掲載され、同四十年にやはり春陽堂の藤村の最初の短編集『緑葉集』に収録されている。

 水彩画の隆盛が明治三十年代から四十年代にかけてであることは既述しておいたが、そうしたトレンドの中でこの短編集も書かれたことになる。しかもそれは藤村の小諸義塾の教師時代の同僚がモデルで、たまたま「水彩画家」のテキストは『島崎藤村全集』(第二巻所収、筑摩書房)を参照しているのだが、その巻頭には藤村と丸山の並立写真が掲げられている。幸いにして、丸山は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 丸山晩霞 まるやまばんか 慶応三・五・三~昭和一七・三・四(1867~1942)画家。長野県生れ。本名健作。児玉果亭に南画を学び、本多欽吉郎の彰技堂画塾に入り油彩画を修得。明治美術会展に水彩画を出品。欧米に漫遊。小諸義塾の図画教師となり、明治三七年島崎藤村『水彩画家』のモデルとされた。大下藤次郎、三宅克己とともに水彩画の先駆者で、『最新水彩画報』『水彩新天地』『水彩画の描き方』(大正一一・一一 実業之日本社)の啓蒙書がある。山岳画を得意としたが「方寸」に俳句を寄稿、俳画も描いた。

(『水彩画の描き方』)

 ここでは丸山が大下藤次郎、三宅克己と並んで、水彩画の先駆者とされているので、彼らの関係などを補足しておこう。前回ふれておいたように、大下は三宅を通じて水彩画に引き寄せられていくのだが、三宅のほうは丸山の水彩画に魅せられ、明治三十二年に小諸に移り住み、藤村の推挙で、小諸義塾の図画教師に就任している。ここで三人の水彩画の先駆者たちと藤村がつながるし、三宅も『水彩画手引』(日本葉書会、明治三十八年)、『欧州絵行脚』(画報社、同四十四年)、『水彩画の描き方』(アルス、大正九年)などを刊行している。先の丸山の立項やこの三宅への補足で、二人も大下と同じく水彩画本の著者だと判明するけれど、やはり実用書ということもあってか、古本屋で彼らの著書に出会っていない。

 (『欧州絵行脚』)

 少しばかり前置きが長くなってしまったが、藤村の「水彩画家」に移らなければならないし、そのストーリーを紹介してみる。水彩画家の鷹野伝吉は欧米をめぐる一年の長旅を終え、「静かな田園画家の生活を送るために」、千曲川のほとりにある故郷の小諸へ帰るところから物語は始まっている。小諸駅では出立の際に「画家風情(えかきふぜい)と言へば乞食も同様に軽蔑して、碌々振向いても見なかった薄情者迄」が群をなし、「鷹野君―万歳」と狂はんばかりに歓呼の声を挙げ、家の前では年老いた母、妻、妹、娘が待つていた。北佐久の山や森や村までも豊富な画材を広げていて、「水彩画家を迎へるやうで」あった。

 ところが母親のほうは優曇草が咲いたことに恐しい前兆を見ていたし、洋行して外見は変わっても、伝吉は相変わらずの「痴児(たわけ)」なのだ。母親の予兆どおり、妻は結婚前に思っていた男に未練を示し、伝吉は音楽研究のためにオーストリアに留学していた女に懸想し、家族を解散させようとするに至る。「美術家のところに嫁(かたづ)いて来たのが、お前の不幸(ふしあはせ)」で、美術家の「乃公(おれ)は狂々(きちがい)」と伝吉は妻に語るのだ。

 この「水彩画家」の表層をなでると、洋行して箔がついたのかのごとく見え、周りも見る目が変わったようだが、所詮「金銭(ぜにかね)に関(かな)はねえ伝吉の画家根性(えかきこんじょう)」は世間からつけこまれ、家庭がうまくいないという物語として受けとめられよう。そのためにモデルと見られた丸山が藤村に激しく抗議したというのは周知の話である。

 だがそれは表層の枠組みであって、伝吉とお初という夫婦の物語、それも洋行から帰国後の「同じ夫婦の第二の結婚」「涙の結婚」の物語というべきもので、そこに伝吉の水彩画家というキャラクターが織りこまれる仕掛けとなっている。水彩画家は文学者、もしくは考えている人間とも言い換えられるだろう。それを象徴する夫婦の会話を引いてみる。

 「(前略)狂といふものは児童のやうなもので、泣いたり笑つたりして、貴方のやうに考へてばかり居ませんもの。」
 「むゝ、乃公(おれ)のはその考へる児童さ。」
 「私に言はせると、貴方は迷ひ過ぎる。」
 「迷ひ過ぎる? 迷へばこそ、画なぞかいて、斯うして一生を送るのさ。」

 この「考へる」ことの問題は『近代出版史探索Ⅴ』932のドストエフスキー、内田魯庵訳『罪と罰』に端を発し、明治四十一年の『春』、家族の問題は『家』へと引き継がれていくことになろう。

  

 藤村は「水彩画家」などにまとめられる短編を書き継ぐ一方で、『破戒』という長編小説へと向かうのである。これも拙稿「『破戒』のなかの信州の書店」(『書店の近代』所収)を参照して頂ければ幸いだ。

  書店の近代―本が輝いていた時代 (平凡社新書)

 なお丸山晩霞の水彩画は『島崎藤村若菜集 春』(「明治の古典」6、学研)に見ることができることを付記しておく。

 


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