出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

出版状況クロニクル180(2023年4月1日~4月30日)

23年3月の書籍雑誌推定販売金額は1371億円で、前年比4.7%減。
書籍は905億円で、同4.1%減。
雑誌は466億円で、同5.7%減。
雑誌の内訳は月刊誌が398億円で、同5.0%減、週刊誌が67億円で、同10.1%減。
返品率は書籍が25.6%、雑誌が39.6%で、月刊誌は38.7%、週刊誌は44.2%。
23年第1四半期(1~3月)において、週刊誌販売金額は12.8%減、返品率は45.1%である。
最悪の状況で、5月の『週刊朝日』休刊が重なってくる。
また書籍のほうは6.7%減だが、3月の書店売上は8%減とされている。
そうした中で、八重洲ブックセンターが閉店し、日販とトーハンの事業再編や役員変更が発表されている。
それに本クロニクルの販売売上データのベースである出版科学研究所の『出版月報』も月刊サイクルでの刊行を終え、今後は年4回の『季刊出版指標』へと移行していく。
創刊は1959年なので、60余年を閲してきたことになる。
出版業界の全分野において、ドラスチックな転機の時を迎えていよう。
週刊朝日 2023年 5/5-5/12 合併号【表紙:正門良規(Aぇ! group)】 [雑誌]


1.『出版月報』(3月号)が特集「ムック市場2022」を組んでいるので、そのデータを示す。

■ムック発行、販売データ
新刊点数平均価格販売金額返品率
(点)前年比(円)(億円)前年比(%)前年増減
20057,8590.9%9311,164▲4.0%44.01.7%
20067,8840.3%9291,093▲6.1%45.01.0%
20078,0662.3%9201,046▲4.3%46.11.1%
20088,3373.4%9231,0621.5%46.0▲0.1%
20098,5112.1%9261,0912.7%45.8▲0.2%
20108,7622.9%9231,0980.6%45.4▲0.4%
20118,751▲0.1%9341,051▲4.3%46.00.6%
20129,0673.6%9131,045▲0.6%46.80.8%
20139,4724.5%8841,025▲1.9%48.01.2%
20149,336▲1.4%869972▲5.2%49.31.3%
20159,230▲1.1%864917▲5.7%52.63.3%
20168,832▲4.3%884903▲1.5%50.8▲1.8%
20178,554▲3.1%900816▲9.6%53.02.2%
20187,921▲7.4%871726▲11.0%51.6▲1.4%
20197,453▲5.9%868672▲7.4%51.1▲0.5%
20206,461▲13.3%870572▲14.9%50.2▲0.9%
20216,048▲6.4%901537▲6.1%51.21.0%
20225,729▲5.3%944519▲3.4%49.9▲1.3%

 22年は500億円を下回るのではないかと推測していたが、かろうじて踏みとどまった感がある。それは後半にムックシェアの大きい国内旅行ガイドの回復基調によるとされている。
 しかし出版販売金額がピークだった1997年と比較してみると、新刊点数は5623点とほぼ同じだが、減少が続いての結果である。販売金額は1355億円であり、3分の1近くになり、また販売部数のほうも1億4469万冊、22年は5180万冊と、こちらはまさに3分の1になってしまっている。
 また書店数の減少と雑誌の衰退がムック市場にも投影されていることになる。
ちなみに22年にムック新刊点数が200点を超えたのは宝島社、大洋図書、晋遊舎、ブティック社で、それに講談社、KADOKAWA、JTBパブリッシングが続いているので、現在のムック新刊市場のシェアがうかがわれる。
 この際だから家計簿、年賀状ムックを除く22年ベスト3も挙げておこう。
 1『60歳をすぎたらやめて幸せになれる100のこと』(宝島社)
 2『「SLAM DUNK」ジャンプ』(集英社)
 3『るるぶユニバーサルスタジオジャパン公式ガイドブック』(JTBパブリッシング)
である。
60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと (TJMOOK)  『SLAM DUNK』ジャンプ (集英社ムック)  るるぶユニバーサル・スタジオ・ジャパン公式ガイドブック (るるぶ情報版目的)



2.『日経MJ』(4/7)が「縮む百貨店」と題し、2020年に創業320年の山形の大沼が破綻した後の27店の閉店をリストアップしている。
 

■閉店した百貨店
閉店した店名所在地閉店時期
1 大沼 山形市2020年1月
2 天満屋広島アルパーク店広島市20年1月
3 丸広百貨店南浦和店さいたま市20年2月
4 新潟三越新潟市20年3月
5 ほの国百貨店愛知県豊橋市20年3月
6 東急百貨店東横店東京都渋谷区20年3月
7 高島屋港南台店横浜市20年8月
8 井筒屋黒崎店北九州市20年8月
9 中合福島店福島市20年8月
10 イセタンハウス名古屋市20年8月
11 そごう西神店神戸市20年8月
12 西武岡崎店 愛知県岡崎市20年8月
13 西武大津店大津市20年8月
14 そごう徳島店徳島市20年8月
15 丸広百貨店日高店 埼玉県日高市21年2月
16 そごう川口店埼玉県川口市21年2月
17  三越恵比寿店東京都渋谷区21年2月
18 タカシマヤフードメゾン岡山店岡山市21年2月
19 三田阪急兵庫県三田市21年8月
20 松坂屋豊田店愛知県豊田市21年9月
21 やまき三春屋青森県八戸市22年4月
22 天満屋広島緑井店広島市22年6月
23 丸広百貨店坂戸店埼玉県坂戸市22年8月
24 小田急百貨店新宿店本館東京都新宿区22年10月
25 藤丸北海道帯広市23年1-月
26 東急百貨店本店東京都渋谷区23年1月
27 高島屋立川店東京都立川市23年1月

 百貨店の市場規模は1991年の9兆7000億円がピークで、2022年はその半分の5兆円となり、店舗数も1999年の311店から2023年は182店に減少している。
 かつて山形県は山形松坂屋や十字屋山形店などもあり、百貨店も競合状態にあったが、大沼の閉店で山形県は初めて百貨店ゼロ県となり、同じく20年には徳島県も続き、さらに17県が残り1店舗という百貨店状況となっている。
 どの百貨店にも書店はあったはずなので、百貨店と書店の失墜は連鎖していよう。こうした状況を招来したひとつの要因は、『出版業界の危機と社会構造』で指摘しておいたように、1980年代のロードサイドビジネスの隆盛による郊外消費社会の出現、及び日米構造協議に基づく大店立地法の成立と郊外大型ショッピングセンターのバブル的開発に起因している。
 いってみれば、百貨店も書店も日本の近代の文化的装置でもあった。80年代から始まった日本の風景がアメリカ化していく過程で、百貨店はバニシングポイントへと向かうことを宿命づけられていたとも考えられるのである。

出版業界の危機と社会構造



3.まさに2とリンクし、『東京人』5月号が「TOKYO百貨店物語」を特集している。

東京人2023年5月号 特集「Tokyo 百貨店物語」[雑誌]

 永江朗の「没後10年堤清二とセゾン文化が残したもの」が寄せられているように、そのコアとしての西武百貨店とリブロの関係は1980年代において、神話的栄光に輝いていたといっても過言ではない。それは『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』でも確認している。
 そこでの証言ではないけれど、中村文孝によれば、戦前において百貨店内書店のステータスは高く、とりわけ三越書籍部は洋書の新刊にまで目配りし、ハイブロウな読者たちの集うところだったという。
 私もその一端は聞き及んでいて、戦前の中村書店の函入漫画が三越に常備化されたことで、広告や目録に中村漫画は三越でも売っているという宣伝コピーが付されるようになったのである。
 戦前の漫画に関する出版物の位置付けは赤本扱いに近く、三越における常備化は異例のことで、中村書店にしても感激すべきものだったと思われる。
 そうした百貨店内書籍部の系譜を継承し、リブロも書店の聖地としてあったことなろう。
 永江はそのリブロの物語として、田口久美子『書店風雲録』を示しているだけで、今泉正光『今泉棚とリブロの時代』、中村文孝『リブロが本屋であったころ』を挙げていない。その理由もわかるが、そのようにしてリブロ史も実像が歪んでしまうのだ。
 またこの特集で鹿島茂がゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』にふれているし、本クロニクル178でも新版刊行を伝えているので、あらためて読まれてほしいと思う。

 書店風雲録 (ちくま文庫 た 53-1)  「今泉棚」とリブロの時代 (出版人に聞く 1)  リブロが本屋であったころ (出版人に聞く 4)  ボヌール・デ・ダム百貨店



4.丸善 CHIHDの連結決算は売上高1627億9900万円、前期は1743億5500万円で、「収益認識に関する会計規準」などの適用により、売上高78億円の減少。前年比は出されていない。営業利益は31億2900万円、前年比23.4%減、当期純利益は17億7300万円、同18.3%減。
 連結子会社47社、関連会社3社で、丸善雄松堂やTRCなどの「文教市場販売事業」と「図書館サポート事業」、丸善ジュンク堂などの「店舗・ネット販売事業」、岩崎書店や丸善出版などの「出版事業」がメインである。
 「文教市場販売事業」は売上高479億7600万円、(前期は565億1900万円)、営業利益は33億1300万円、前年比10.6%減。「店舗・ネット販売事業」は663億1000万円、(前期は698億2400万円)、営業利益は1900万円、前年比93.7%減。
「図書館サポート事業」は売上高336億8800万円(前期は317億4400万円)、営業利益は24億2700万円、同3.6%減。
「出版事業」は売上高41億2100万円、(前期は42億5100万円)、営業利益は2億6500万円、同7.1%増。

 はっきりいってしまえば、丸善ジュンク堂などの108店舗は赤字で、TRCなどの図書館事業によって、かろうじて利益が計上されていることになろう。
 しかし公共図書館売上も減少しているし、図書館サポート受託館数は1786館と前年89館増ゆえの増収だが、コストの上昇により減収となっている。
 書店事業は663億円の売上に対して、営業利益が1900万円でしかなく、その回復は不可能に近い。ジュンク堂新潟店が駿河屋ホビー店をオープンしているが、起死回生となろうはずもないだろう。
 図書館事業にしても、ピークは過ぎているし、今後の経費を考えると、いつまで書店事業を支えられるのかという状況の中にあると判断するしかない。
 それにゲオHDの大幅賃上げの影響も出てくるだろうし、本クロニクル175の2ndストリートに比すべき原資捻出の事業も見出されていない。
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5.『新文化』(4/13)が「マキノ出版民事再生の経緯と見通し」との大見出しで、マキノ出版にかかわる経営コンサルティングのセントラル総合研究所の八木宏之代表にインタビューしている。
 そのコアは出版業界特有の委託性をめぐる問題で、次のような発言に明らかなので、少し長くなるが、そのまま引いてみる。

 いわゆる『返品』があるため、通常の会計原則は当てはまりません。
 出版社が異質なのは経理処理です。本来であれば総売上げが通常の売上高になるのですが、出版社は返品と相殺された売上げを純売上高として計上しています。いまは新会計基準に基づいて総売上高を計上しなくてはいけません。この業界はそうしていません。
 専門的で難しいかもしれませんが、いまの会計基準は引当金や在庫処分でも大きく関わってくる大切なこと。出版社経営者は自社の危機的な状況も掴めないまま、いつの間にか資金が枯渇してしまう。そして最後は『ヒット作が出れば』など、『たら・れば』の話になるのです。『出版社の経営は甘い』と言われる所以がそこにあります。
 出版界の慣例に詳しく、かつそれを指摘できない会計士が少なくないことも問題を大きくさせてしまう要因になっているともいえます。
 また、現行委託制度のビジネスモデルに限界を感じている出版社は、他業界にみる企業同士の合従連衡を進め、安定した出版活動ができるようにすべきです。


 もちろん現実的には他の様々な問題も絡んでいるはずだが、出版社も含んで9社のスポンサー候補、マキノ出版グループ会社のマイヘルス社や特選街出版などの破産も伝えられている。
 しかし民事再生とM&A問題の根幹にあるのは、この委託システムの他ならないし、それは出版社のみならず、取次や書店、倉庫会社にも連鎖してしまうもので、マキノ出版の場合、どのように調整され、民事再生となるのか、前回に続いてさらなる注視が必要であろう。



6.実業之日本社は『ダートスポーツ』などのバイク関連4誌を発行する造形社を子会社化、またオフロードバイク誌『ゴー・ライド』のモト・ナレッジと業務提携を発表。
 自社のバイク誌『ライダーズクラブ』『バイクジン』なども含め、バイク関連事業を拡大していく。

DIRT SPORTS (ダートスポーツ) 2023年 6月号 付録:テクニクスカタログ[雑誌]  オフロードマシンGoRIDE Vol.21(ヤングマシン増刊2022年12月号)  ライダースクラブ2023年5月号  BikeJIN2023年5月号

 公表も報道もされていなので、本クロニクルでも伝えていないのだが、いくつもの出版社がM&Aされているようだ。
 『FACTA』(5月号)が「小谷夏生子社外取のポラリス『破廉恥』事件」なる記事において、国内プライベート・エクイティ・ファンドのポラリスが、出版社「宣伝会議」の200億円超に上る買収を決めたと書いている。雑誌とその関連事業をめぐってPEファンドも暗躍しているのであろう。
 またこれは出版社ではないけれど、豊橋市の老舗書店豊川堂がイオンモール豊川に売場面積518坪の最大規模となる「本の豊川堂×nido cafe」の新規出店に際し、雑誌書籍は学参などを除き、京都の大垣書店のトーハン口座による仕入れになるという。
 これもでいわれている「企業同士の合従連衡」であろう。このようなFC化というべき老舗書店の新規出店もほとんど伝えられていないが、実際にはもはや周知の事実と考えざるをえない。



7.KADOKAWAは ところざわニュータウンにおける「EJアニメホテル」(アニメ、コミック、ゲームを活用した宿泊施設の運営)と成田国際空港での「成田アニメデッキ」(アニメキャラクターなどのグッズ販売と飲食店の経営)事業からの撤退を発表。

 それらに関連してだろうが、『ZAITEN』(5月号)に、「東京五輪問題」取材班による特集「KADOKAWA社長・夏野剛、『裏切りクーデター』社内外から憤怒」が掲載されている。
 KADOKAWAの「東京五輪問題」は本クロニクル173などでふれているが、会長の角川歴彦の逮捕と不在によって、内紛がおき、様々なリークが飛びかっているのであろう。長きにわたって角川を補佐していきた松原常務の退任も、それを象徴していよう。
 上場会社としてKADOKAWA、及びところざわニュータウン事業の行方はどうなっていくのだろうか。
ZAITEN 2023年 05 月号 [雑誌]
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8.音楽之友社の『レコード芸術』が7月号で休刊。
 同誌は1952年創刊で、クラシックレコード評論の専門誌、クラシック音楽界における需要なメディアであった。
 音楽評論家の沼野雄司によれば、「この雑誌が消滅したら、2023年は日本の音楽文化の核のひとつが崩壊した年として、後世に記憶されるだろう」とされている。


レコード芸術 2023年5月号

 それこそ音楽之友社はヤマハの子会社となっていたにもかかわらず、メイン雑誌の『レコード芸術』を休刊せざるをえない状況へと追いやられていたことになる。
 発行部数10万部は保たれていたとされるが、何よりも「趣味の共同体」として雑誌の終焉というしかない。
 これは雑誌名も社名も明らかにされていないけれど、男性ファッション誌で知られる出版社が、本社ビルと社長の自宅を売却し、苦しい台所事情の反映と囁かれている。
 本クロニクルでもトレースしてきたように、雑誌をめぐる休刊やM&Aの話はこれからも続出していくだろう。
 また「趣味の共同体」の雑誌の他ならない日本棋院の唯一の週刊専門誌『週刊碁』も9月に休刊となる。ピーク時は20万部だったが、2万部まで激減しているようだ。
週刊碁2023年05月01日号



9.『朝日新聞』(4/2)の「朝日歌壇」に佐佐木幸綱選として、次の一首が挙げられていた。

   信州をルーツの「みすず」休刊と知るに
          案ずる「図書」や「ちくま」を
                      (長野市) 細野正昭

 本クロニクル178で、みすず書房のPR誌ともいえる『みすず』の休刊を伝え、「これが出版社のPR誌の休刊の始まりとなるかもしれない」と書いておいたが、ここにも同様に心配している読者がいたことになる。
 しかし現在では、この一首にも注釈が必要であろうから、付け加えておけば、日本の近代出版社で人文書の代表的版元の岩波書店、筑摩書房、みすず書房はいずれも信州人によって創業されていることによっている。その他にも信州人によっていくつもの出版社が設立されているし、取次は新潟人が主流であり、そうして近代出版界も始まっているのだ。
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10.続けて『朝日新聞』だが、5月1日より朝夕刊月ぎめ購読料が4400円から4900円へと値上げし、愛知、岐阜、三重の東海3県で夕刊を休刊。

 前回の本クロニクルなどで、『朝日新聞』の3県に始まり、20年代にすべての夕刊がなくなることを既報しておいた。また「紙代高騰」問題にもふれ、値上げが迫っていることも。
 それとパラレルに地方誌の値上げも続けて発表されている。しかしそれでも『朝日新聞』よりは地方紙のほうが安いので、新聞販売店は盛んに地方紙への乗り換えを勧めているという。
 いずれにしても、この値上げによって新聞離れはさらに加速するだろうし、それを止めることもできないだろう。その影響が出版業界にも及んでくることは必至である。



11.近田春夫の『グループサウンズ』(文春新書)読了。
グループサウンズ (文春新書 1381)

 こういっては失礼かもしれないが、拾い物の一冊で、1960年代の同世代文化としてのGSに関して教えられることが多かった。 
 たまたま必要があって、古本屋で入手したちばてつや『テレビ天使』(虫プロ、1970年)を読んでいて、時代背景は60年代のテレビ芸能界で、そこにはGSも主要な役割で登場していたのである。
 まだ掲載はずっと先のことになるけれど、このところ60年代の記憶に始まる貸本マンガのことを書いていて、私たちの世代にとって、戦後のマンガとテレビがニューメディアに他ならなかったとあらためて思った次第だ。
 その頃はマンガ家も編集者も読者も含めて、電子コミックの時代になろうとは誰も想像していなかったはずで、本当に時の流れは予測もしなかったところへと進んでいく。
テレビ天使 3 (サンデーコミックス)



12.『新潮』(4月号)が特集「言論は自由か? 戦前を生きる私たちの想像力」を組んでいる。
新潮2023年04月号

 前回の本クロニクルでも同誌3月号の石戸諭「〈正論〉に消される物語――小説『中野正彦の昭和九十二年』回収問題考」にふれておいたが、それに続く特集と見なせよう。
 また4月にも講談社の岩崎夏海、稲田豊史著『ゲームの歴史』全3巻が「事実誤認と情報元が確認できない箇所が多数見つかった」として、販売中止となり、書店からの回収を発表している。だがこれもオープンな論議を経てのものではないと見なせよう。
 私も『近代出版史探索』を重ねる中で、否応なく戦時下の検閲と発禁問題に向き合ってしまうので、「戦前を生きる私たちの想像力」は他人事ではない。
 またそれにこの特集は『新潮』自体の戦後占領下のGHQによる検閲から始まっているので、現在とも無縁ではないことを開示していよう。

新潮2023年03月号  中野正彦の昭和九十二年  近代出版史探索VI



13.富岡多恵子が亡くなった。享年87歳。

 私は富岡の小説『波うつ土地』などを郊外文学テキストとして言及し、『中勘助の恋』『釈迢空ノート』などにも大いに学ばせてもらった。
 また本ブログ「古本夜話」86で、「平井蒼太と富岡多恵子『壺中庵異聞』」も書いているので、彼女とモデルとしているし、追悼代わりに読んでもらえればと思う。

波うつ土地  中勘助の恋  釋迢空ノート (岩波現代文庫 文芸 106)
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14.深夜叢書者の齋藤慎爾に続いて、評論家の芹沢俊介、同じく小浜逸郎が死去した。

 まったく偶然ながら、3人は吉本隆明絡みの出版者、評論家で、齋藤は吉本の『「反核」異論』などを刊行し、芹沢と小浜は吉本の『試行』の寄稿者として始まっていた。
 齋藤は83歳、芹沢は80歳、小浜は75歳で、吉本の87歳の死には届かなかったにしても、生を全うしたのではないだろうか。
 これも偶然だが、この一文を買いている時に、『吉本隆明全質疑応答Ⅴ(1991~1998)』(論創社)が届いた。

「反核」異論 (1983年)  吉本隆明 全質疑応答V


 
15.こちらもほぼ同時に、四方田犬彦『大泉黒石――わが故郷は世界文学』(岩波書店)と脇田裕正『降り坂を登る――春山行夫の軌跡一九二八-三五』(松籟社)が届いた。

 大泉は大正時代のベストセラー作家でありながらも、文壇から追放され、退けられた存在にして「世界文学の人」、春山は昭和初期にリトルマガジン『詩と詩論』によって、詩と文芸批評を追究したが、現在ではほとんど忘却された詩人、文芸批評家である。
 いずれも比較文学の文法に則り、近代出版史の謎をときほぐす試みといえよう。
大泉黒石 わが故郷は世界文学  降り坂を登る: 春山行夫の軌跡 一九二八─三五



16.『新編図書館逍遥』は新たな表紙も決まり、編集中で6月刊行予定。
 論創社HP「本を読む」87は「山根貞男と『漫画主義』」で、これから20編ほど貸本マンガを論じていきますので、ご期待下さい。


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古本夜話1388 『雨雀自伝』とロシア文学者たち

 『雨雀自伝』の中で、彼がロシア文学によって教育され、生活の意義への問いを喚起されたと告白している。それは明治末期のことで、ドストエフスキーの英訳に読みふけり、二葉亭四迷訳のゴーリキーやアンドレイエフを愛読していたとされる。
 

 前回の演劇のトレンドではないけれど、やはり同時代にロシア文学根雨も隆盛しつつあったようで、その頃雨雀は羽中田というロシア文学者と出会っている。彼は外国語学校露語科出身で、ペテルブルグに留学して帰国し、雑司ヶ谷の並木裏に家を建て、養鶏などを手が54けていた。肺患をわずらっていたが、とても熱情的な男で、クープリンの『ヤーマ』やアンドレイエフの『人の一生』のことを語り、後者の初演を観ているらしく、その舞台で挨拶をしたアンドレイエフの印象なども話してくれたのである。それだけでなく、雨雀に「今にきっとロシアは世界を驚かす時代が来ます。単に文学の問題じゃありませんよ」と告げたのである。それを受けて雨雀は書きつけている。「私はこの男の強い印象を今でも忘れることが出来ない。しかし、彼は何の仕事もせずに死んでしまった。あるいはこの男が生きていたら、二葉亭以上の仕事をしていたかもしれない」と。

 この雨雀による羽中田という露チア文学者に関する回想で思い出されたのは、栗林貞一訳『クープリン傑作集』のことである。同書はかつて「天佑社と大鎧閣」(『古本探究』所収)において、その書影を示しておいたが、「モロフ」「船暈」「イズムルード」「幼年学校生と」を収録した中短編集で、上製菊半裁判のフォーマットは明らかに、『近代出版史探索Ⅵ』1199の新潮社『世界文芸全集』を範としている。栗林はその「緒言」において、クープリンはロシア文学の中でも「一般に熱く知られてゐる」し、一九一七年の革命以後、ゴーリキー、アンドレイエフなどの死が相次いで伝えられているが、「クープリンの存在が益々高価なものになりつゝある」として、次のように続けている。

古本探究

 「モロフ」は彼の処女作であると共に、出世作である。工場生活を描いたものとして有名で、現時日本で騒がれてゐる労働者対資本家の問題が、怖ろしい迄に如実に描かれてゐる。日本でも可成り多くの労働小説が書かれてゐるやうだが、これ程大きな舞台をもつた、そしてこれ程精細な研究によつて書かれたものは見ないやうである。

 これらの「緒言」に見えるクープリン、その位置づけと評価、処女作「モロフ」の紹介に付け加えることはないし、『クープリン傑作集』が大正九年十一月の刊行であることから判断すれば、この栗林の言が日本におけるクープリンの位相ということになろう。やはりロシア革命を背景とするプロレタリア文学として迎えられたと推測できよう。また巻末の一五ページに及ぶ「天佑社刊行書目」には新刊として、同じくクープリンの松永信成訳『魔窟』も掲載され、これは羽中田が雨雀に語っていた『ヤーマ』で、娼婦や売春婦の恐るべき実態を描いた長編である。

(『魔窟』)

 本探索1211などで天佑社が三上於兎吉訳『貴女の楽園』を始めとするゾラの作品を翻訳出版していたことにふれているが、ロシア文学のクープリンの代表作も刊行していたことになる。しかしゾラの翻訳者が後の流行作家の三上であることに比べて、クープリンは栗林だけでなく、松永のほうも大阪外語露語部初代教授以外のプロフィルがつかめない。それでも『クープリン傑作集』のほうは手がかりが残されて、『近代出版史探索Ⅳ』832の昇暁夢校閲とあるので、昇もクープリンの『決闘』(博文館)の訳者であり、彼らは大正時代におけるクープリン翻訳人脈を形成していたのかもしれない。

 その「緒言」には一九一九年から二〇年にかけての「露領浦潮斯徳市に滞留中訳出した」と記されていることからすれば、羽中田と同じロシア留学仲間のようにも察せられる。またその翻訳に際し、これも本探索1248の山内封介先輩の援助を受けたとの言も見えているのだが、この山内のほうもプロフィルがはっきりしないのである。

 おそらく明治四十年代に昇を中心としてロシア文学の翻訳と紹介がなされ始め、そこに若きロシア文学者たちも加わり、彼らが大正時代を迎えて、研究者、翻訳者として出版社とコラボレーションするかたちで、翻訳を活発化させたように思われる。だが先の羽中田ではないけれど、栗林や松永にしても、早逝したり、翻訳活動が短かったりして、彼らの業績が評価されずに終わってしまったのではないだろうか。それは詩人や作家たちも同様だが、とりわけ翻訳者に関して顕著で、本探索1309の『チリコフ選集』の訳者の関口弥作もその一人だと考えられる。そういえば同じく「天佑社刊行書目」にやはり昇校閲、水谷勝訳『チエホフ名作集』があるが、これは後の詩人、児童文学者の水谷まさるなのであろうか。いずれにしても外国文学の翻訳は謎が多いけれど、とりあえずロシア文学はその感が強い。


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[関連リンク]
 過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1387 森鷗外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』、自由劇場、画報社

 続けてふれてきた国際文化研究所や『若きソウエート・ロシヤ』などからわかるように、戦前において、秋田雨雀は社会主義や演劇運動のキーパーソンの一人であった。この際だから、そこに至る雨雀の前史を見ておこう。『雨雀自伝』(新評論社、昭和二十八年)において、明治四十年から大正三年にかけては「舞台上の自然主義時代」と題され、『新思潮』の編集に携わる一方で、イプセン会の文学者たちともつきあい、ロシア文学へとも引きずりこまれていったと述べられている。またその他の外国文学の翻訳状況も語られているので、それを引いてみる。雨雀は二十歳で、明治四十一年のことだった。

 

 他の国の文学では、森鷗外によって、シュニッツレル、ヴェデキント、ヘルマン・バールウが翻訳されていた。飯田旗軒のゾラの「巴里」の発売を禁ぜられたのもこの年であった。この時代の森鷗外の文壇的功績は記憶されなければならない。彼は日本における自然主義文学の勃興期に大して活躍していなかったが、自然主義が爛熟期に入り、自家中毒を起しかけているとき、これに刺激を与え、この運動を演劇活動の上に移行させたものは彼であった。日本における舞台上の自然主義運動は森鴎外の持っていた一種の推進力によって強められたものであった。

 この鷗外の「舞台上の自然主義運動」は具体的にいえば、イプセンの鷗外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』と自由劇場による第一回試演をさしているのだろう。『近代出版史探索Ⅱ』204で、明治末から大正にかけての活発な劇団や試演会の設立、及びそのトレンドに伴う戯曲や脚本シリーズの出版にふれているが、自由劇場は明治四十二年に小山内薫と歌舞伎俳優市川左団次によって設立された最初の近代演劇団で、同三十九年結成の坪内逍遥たちの文芸協会と並ぶ存在であろう。また『日本近代文学大事典』の自由劇場の立項には『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の舞台写真も収録され、そこから近代演劇運動も始まったことを伝えているかのようだ。

 実はこの鷗外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』が手元にある。例によって浜松の時代舎で購入したもので、裸本だが、四六判上製、三五九ページの一冊で、そのまま脚本、台本として使われたであろうと推測できる活字の組み方、造本である。その事実を肯うように本扉には「自由劇場用脚本無断興行を禁ず」との断わりが記されている。

OD>昭和初期世界名作翻訳全集 18 ジョン・ガブリエル・ボルクマン (『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』、ゆまに書房復刻)

 奥付を見ると、明治四十二年十一月の刊行で、定価一円とあり、当時の文芸書としては低価格だと考えられるので、かなり初版部数は多かったのではないかと思われる。発行所は本郷区切通坂町の画報社、発行者は神田区小川町の木澤孚で、版元も発行者もここで初めて目にする。『日本出版百年史年表』にも見当たらない。そこでプロパーの『演劇百科大事典』(平凡社)も繰ってみたのだが、やはりそれらの手がかりはつかめない。想像するに当時の所謂「戯曲熱」、「演劇熱」の端境期にあって、雨雀ではないけれど、その渦中に引きずりこまれたのが発行者と版元だったのではないだろうか。それは急ごしらえの出版社だったとも見受けられるし、発行者と版元の住所が異なっているのも、その事実を語っているようにも思われる。

 しかしそうした出版事情が秘められているにしても、奥付の著作者森林太郎の下に押されている大きな「森」の印は、百年以上を閲しているのもかかわらず、褪色しておらず、あたかも最近押されたかのようで、赤く生々しい。鷗外自身によるとは思われないが、「戯曲」、「演劇」の時代の痕跡と見なしたい気にさせられる。それに加えて、この鴎外訳の一冊を読んでみると、同書が自由劇場初演のための脚本で、実際にこの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』をもとにして演じられたことを想像し、その読み合せや稽古の現場に立ち会っている錯覚も生じてくる。

 幸いにして、先の『演劇百科大事典』には『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の立項が見出される。

 ジョン・ガブリエル・ボルクマンJohn Gabriel Borkman ノルウェーの戯曲。四幕。H・イプセン作。一八九六年、「小さなアイヨルク」につづいて故国で書かれた晩年の作品。九七年一月のリスチャニア、ストックホルム、コペンハーゲンで初演された。強烈な自我をあくなき野心に倒れたボルクマンが、敗残の身を一室に閉じこめて八年たったある冬の物語。未来を託した一人息子のエルハルトの家でから絶望の極におちいったボルクマンは、かつての恋人エルラ、妻のグンヒルト姉妹の見守る中に、ふたたび栄光の幻想につかれながら雪の崖に息絶える。権力への妄執から愛を売った超人ボルクマンの悲劇は、我欲と執着の老境に達したイプセンの新時代の到来にたいするあこがれと恐怖の告白であり、現代社会にたいする痛烈な批判である。日本では明治四二年一一月小山内薫と二世市川左団次で自由劇場の旗揚げ公演で初演した。

 残念ながら鷗外訳には言及もなく、添えられた写真は大正十三年築地小劇場公演のもので、誰がボルクマンや妻のグンヒルト、息子のエルハルトを演じたかは明記されていないけれど、大正後年になっても、イプセンと『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の時代が続いていたことを教えてくれる。

 このような明治から大正にかけての演劇の時代を背景にして、昭和円本時代を迎え、拙稿「第一書房『近代劇全集』のパトロン」(『古本屋散策』所収)、『近代出版史探索Ⅲ』550の近代社『世界戯曲全集』、同551の国民図書『現代戯曲全集』、同552の春陽堂『日本戯曲全集』などが刊行されていくのである。その中に雨雀の前史はあったことになろう。

(『近代劇全集』)(『世界戯曲全集』) (『現代戯曲全集』)


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古本夜話1386 秋田雨雀『若きソウエート・ロシヤ』

 高杉一郎は前回の『スターリン体験』の国際文化研究所外国語夏期大学のところで、秋田雨雀所長の『若きソウエート・ロシヤ』の書影を挙げている。これは昭和四年に叢文閣から刊行された一冊だが、やはり同年の再版が手元にある。

スターリン体験 (同時代ライブラリー)

 この『若きソウエート・ロシヤ』は雨雀の「自序」にも記されているように、「一九二七年の革命十週(ママ)年記念祝祭に際して、国家の客としてソウエート・ロシヤを訪ふことの出来たものの一人」の帰朝報告として読むことができよう。それは同書の巻末に「『婦人之友』サロン」という雨雀の同サロンでの講演と質疑応答が収録され、そこでは司会者の「現代ソウエート・ロシヤはある人々には夢の郷、ある人々には魔の国として想像されて居ます」という発言から始まっている。ここに一九二七年=昭和三年における日本の「ソウエート・ロシヤ」に対する相反する視座が提出され、社会的には後者の「魔の国」を想起する人々のほうが多かったと思われる。

 

 しかしここでの雨雀のレポートは「科学的精神」「帰納的方法」に基づくと述べ、自分の専門である文学と演劇、若い男女の労働者の生活、少年少女の教育の方面から見ていると断っているけれど、「夢の郷」の色彩が強い。それらの内容はモスクワと記念祭、ソウエートの労働者と農村生活、教育と文化文学と演劇及び映画、ウクライナからカフカズへの旅行日記などで占められている。それぞれのレポートは口絵のレーニンの写真入り「1917×1927/INVITATION CARD/TO THE INTERNATIONAL CONGRESS OF THE FRIENDS OF THE U.S.S.R.」などから始まって、そうしたシーンを確認するような多くの写真が収録され、図らずも「夢の郷」を浮かび上がらせる装置となっていると思われる。写真は本文三三四ページに対して二四ページに及び、それ以外にも各ページに多くの写真が挿入掲載されている。ベンヤミン的にいえば、ソウエートという夢と神話のファンタスマゴリー化を促進しているのである。

 モスクワは各国からの千人近い招待客が集まり、祝祭気分で沸き返っていた。雨雀は大劇場でのソウエート・サイウズの大会に招待された。

 大ホールの中にあふれた聴衆は床から天井まで一杯になつて、あらゆる組織された機能の代表者が舞台に送られた。苦悩の中に立つて勇敢に戦ひつゝあるスターリンの簡素なそして英雄的な姿が聴衆の前に立つた時には、大劇場全体に割れるやうな拍手が起つた。私たちの方から見て最も面白く思はれたのは廿四五歳のコムソモールカ(婦人共産党員)の真っ白な肥つた腕の波であつた。彼女たちは一斉に立つて拍手をした。此の時パリコムミユンの為に働いた八十歳以上の老人が「サ(ママ)ウエートを脅す者があれば、自分は今、年とつて居るが直ぐに武器をとつて立つことを辞するものでない!」と言つた。数千の聴衆は殆んど熱狂の極に達した。その瞬間奏楽につれてインターナショナルの歌が起り、舞台から赤い六丈程の大幡が聴衆に向つて繰り出されていく。その赤大幡には「ゼン」「全」「ALL」「TOUT」「GANZ」「BCE」の文字が記されていた。

 これはソウエートの記念祭であるのに、リーフェンシュタールのナチス党大会の記録映画『意志の勝利』を想起するのは私だけだろうか。だが残念ながら、この大会の写真は収録されていない。だがその代わりのようにして、「人類始つて以来の最大のデモストレーションと言われた完全には百万の群衆が動き始めた」赤の広場の祭典の写真は掲載されている。「ソウエート連邦社会主義共和国――ウラ!!」との叫びが発せられる中で、「軍隊の尾が武装した青年団に続き、青年××党(KUM)の尾が充実した工場労働者の尾に続き工場労働者の後に全市のあらゆる種類の労働者が続いた」。その光景はこれもリーフェンシュタールの一九三六年のベルリンオリンピックドキュメンタリーの『民族の祭典』『美の祭典』を彷彿とさせる。

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 それらに加えて、雨雀は映画『戦艦ポチョムキンの反乱』や『母』も観せられているし、その「観劇記」に明らかなように、様々な劇場で多くの演劇を見ている。その事実は雨雀がソウエートの祭典、映画、演劇が三位一体となったプロパガンダの中へと誘致されてしまったような印象をも与える。それは本探索1289のエマ・ゴールドマンが1920年代初頭のロシアにおいて、体験しなかったことであり、その後の「文化革命」の成果ということになるのであろうか。ちなみに『近代出版史探索Ⅴ』816で、昭和十二年に第一書房から刊行されたジイド『ソヴエト旅行記』の異例の売れ行きにふれているが、これはジイドの一九三六年のゴーリキーの告別式とそれに続く滞在に基づくもので、フランスではベストセラーになっていた。ジイドはコミュニズム同調者から反スターリン主義の立場に転じ、フランス共産党からも離反することになったのである。

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 しかし雨雀のほうは帰国して、国際文化研究所長となり、『国際文化』を創刊し、外国語夏期大学をも開催し、『若きソウエート・ロシヤ』の忠実なレポータにしてプロパガンダ実践者になっていったように思われる。

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古本夜話1385 高杉一郎、国際文化研究所外国語夏期大学、『国際文化』

 エロシェンと神近市子をたどり、かなり迂回してしまったが、高杉一郎に戻る。彼は『スターリン体験』(岩波書店「同時代ライブラリー」、平成二年)において、「国際文化研究所の外国語夏期大学」という一章を設け、駿河台の文化学院で、昭和四年七月十五日から八月十五日まで一ヵ月間開かれた大学に言及している。

スターリン体験 (同時代ライブラリー)

 これは本探索1320でも触れたように、秋田雨雀が一九二七年=昭和二年に十月革命十周年記念としてモスクワに招かれ、帰国後に蔵原惟人や村山知義と創立し、所長となった国際文化研究所主催によるものだった。その学生募集広告には「教材は新興科学と新興芸術の代表作を使う。従来の語学講習会にあきたらず、世界最深の文化の精髄にふれようとする者は来れ!」とあった。もはや時代状況からいって、大学の社会科学研究会(RS)は解散を命じられ、そのような「新興科学と新興芸術の代表作」のテキストを読む場所はなくなっていたのである。

 高杉は東京文理科大学の学生で、直面する社会問題を解く鍵は「新興科学と新興芸術」に象徴されるマルクス主義の中にあるのではないかと考え、フランス語クラスを申しこんだ。すると「一種の解放区のような感じ」で、四百名近い受講生が集まり、エスペラントクラスには日大予科の語学教師の新島繁、『近代出版史探索Ⅱ』395の矢川徳光もいて親しくなった。フランス語講師は小牧近江、佐野碩、佐々木孝丸で、小牧と佐々木はいうまでもなく本探索で繰り返し触れているし、佐野も同様である。

 佐々木はエスペランティストでもあり、高杉は彼の勧めでエスペラントの独習を始め、「柏木ロンド」のメンバーも紹介された。これも高杉が、「柏木ロンドの人々」という一章を割いているように、日本のプロレタリア・エスペラント運動の源泉となった集まりで、比嘉春潮、中垣虎児郎、永浜寅二郎、大島義夫、伊東三郎、清美陸郎、大栗清実がメンバーであり、彼らは外国語夏期大学のエスペラント教師だったことになる。『近代出版史探索Ⅴ』981の比嘉がここにもいたのである。

 この国際文化研究所は昭和四年にプロレタリア科学研究所へと改組されていくのだが、一方で高杉のほうは八年に改造社に入り、二年間の出版部の仕事を経て、十年に創刊された『文藝』へと移り、応召まで編集主任を務めていく。太田哲男『若き高杉一郎』(未来社、平成二十年)は高杉へのインタビューをベースとして、その「改造社の時代」をたどり、主として改造社における『文藝』の仕事に焦点を当てているけれど、その前史としての外国語夏期大学にもふれている。

若き高杉一郎: 改造社の時代

 そこで高杉=小川五郎は夏期大学が「ひとつの《事件》だったよ。その雑誌『国際文化』は魅力のある雑誌だった。裏表紙には目次がエスペラントで書かれていた。そこには中国からの留学生も参加していた」と語られている。この雑誌は未見だが、『日本近代文学大事典』第五巻「新聞・雑誌」に立項、及び意外な人物が見出せるので、それを引いてみる。

 「国際文化」こくさいぶんか 総合雑誌。昭和三・一一~四・一〇。全一二冊。国際文化研究所機関紙誌。編集発行人小川信一(大河内信威)、東京上落合の国際文化研究所発行。白揚社発売。「国際文化」はソ連邦を先頭とする国際プロレタリア文化―科学、文学、芸術、哲学、教育、スポーツ、技術などの研究および紹介に関する論文、プロレタリア芸術作品の写真、翻訳の紹介、国際文化資料、国際文化ニュースの報道のために刊行され、編集スタッフは昭和三年一〇月に蔵原惟人が中心になって発足した国際文化研究所(所長秋田雨雀)のメンバーで、編集長がはじめ蔵原、のち小川、編集員が秋田雨雀、藤枝丈夫、林房雄、永田一脩、仲小路彰、佐々木孝丸、辻恒彦であった。掲載されたものでは山田清三郎の『プロレタリア文学運動史概観』の連載などが目立つ。そして、ナップ改組による同研究所の解散、プロレタリア科学研究所の創立、機関誌「プロレタリア科学」の発刊によって廃刊となった。

 ここで少しばかり驚かされるのは編集員として『近代出版史探索』133などの、後のスメラ学塾の仲小路彰の名前が挙がっていることで、彼もまた国際文化研究所に集った一人であったのだ。それは編集長が小川信一=大河内信威で、子爵で東京帝大教授の大河内正敏の息子であったこと、もしくはプロレタリア科学研究所のメンバーとなる三木清の関係から『国際文化』に結びついたのかもしれない。

 ただ『国際文化』の解題において、主要論文として挙げられているのは山田清三郎の「プロレタリア文学運動史概観」だけなので、高杉が語っていた「魅力のある雑誌」のニュアンスは感じられない。この雑誌は見られないにしても、細目だけでも一見してみたいと思う。

 なお『若き高杉一郎』で明らかにされたのは、エスペラントを学ぶきっかけを得ただけでなく、『改造』への関心を高めたほかに、夏期大学で後の夫人となる日本女子大生の大森順子と出会ったことである。高杉にとって夏期大学は「ひとつの《事件》」どころか、後の人生を決定する場でもあったことになろう。そうしたエピソードは後述するつもりだ。


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