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古本夜話1388 『雨雀自伝』とロシア文学者たち

 『雨雀自伝』の中で、彼がロシア文学によって教育され、生活の意義への問いを喚起されたと告白している。それは明治末期のことで、ドストエフスキーの英訳に読みふけり、二葉亭四迷訳のゴーリキーやアンドレイエフを愛読していたとされる。
 

 前回の演劇のトレンドではないけれど、やはり同時代にロシア文学根雨も隆盛しつつあったようで、その頃雨雀は羽中田というロシア文学者と出会っている。彼は外国語学校露語科出身で、ペテルブルグに留学して帰国し、雑司ヶ谷の並木裏に家を建て、養鶏などを手が54けていた。肺患をわずらっていたが、とても熱情的な男で、クープリンの『ヤーマ』やアンドレイエフの『人の一生』のことを語り、後者の初演を観ているらしく、その舞台で挨拶をしたアンドレイエフの印象なども話してくれたのである。それだけでなく、雨雀に「今にきっとロシアは世界を驚かす時代が来ます。単に文学の問題じゃありませんよ」と告げたのである。それを受けて雨雀は書きつけている。「私はこの男の強い印象を今でも忘れることが出来ない。しかし、彼は何の仕事もせずに死んでしまった。あるいはこの男が生きていたら、二葉亭以上の仕事をしていたかもしれない」と。

 この雨雀による羽中田という露チア文学者に関する回想で思い出されたのは、栗林貞一訳『クープリン傑作集』のことである。同書はかつて「天佑社と大鎧閣」(『古本探究』所収)において、その書影を示しておいたが、「モロフ」「船暈」「イズムルード」「幼年学校生と」を収録した中短編集で、上製菊半裁判のフォーマットは明らかに、『近代出版史探索Ⅵ』1199の新潮社『世界文芸全集』を範としている。栗林はその「緒言」において、クープリンはロシア文学の中でも「一般に熱く知られてゐる」し、一九一七年の革命以後、ゴーリキー、アンドレイエフなどの死が相次いで伝えられているが、「クープリンの存在が益々高価なものになりつゝある」として、次のように続けている。

古本探究

 「モロフ」は彼の処女作であると共に、出世作である。工場生活を描いたものとして有名で、現時日本で騒がれてゐる労働者対資本家の問題が、怖ろしい迄に如実に描かれてゐる。日本でも可成り多くの労働小説が書かれてゐるやうだが、これ程大きな舞台をもつた、そしてこれ程精細な研究によつて書かれたものは見ないやうである。

 これらの「緒言」に見えるクープリン、その位置づけと評価、処女作「モロフ」の紹介に付け加えることはないし、『クープリン傑作集』が大正九年十一月の刊行であることから判断すれば、この栗林の言が日本におけるクープリンの位相ということになろう。やはりロシア革命を背景とするプロレタリア文学として迎えられたと推測できよう。また巻末の一五ページに及ぶ「天佑社刊行書目」には新刊として、同じくクープリンの松永信成訳『魔窟』も掲載され、これは羽中田が雨雀に語っていた『ヤーマ』で、娼婦や売春婦の恐るべき実態を描いた長編である。

(『魔窟』)

 本探索1211などで天佑社が三上於兎吉訳『貴女の楽園』を始めとするゾラの作品を翻訳出版していたことにふれているが、ロシア文学のクープリンの代表作も刊行していたことになる。しかしゾラの翻訳者が後の流行作家の三上であることに比べて、クープリンは栗林だけでなく、松永のほうも大阪外語露語部初代教授以外のプロフィルがつかめない。それでも『クープリン傑作集』のほうは手がかりが残されて、『近代出版史探索Ⅳ』832の昇暁夢校閲とあるので、昇もクープリンの『決闘』(博文館)の訳者であり、彼らは大正時代におけるクープリン翻訳人脈を形成していたのかもしれない。

 その「緒言」には一九一九年から二〇年にかけての「露領浦潮斯徳市に滞留中訳出した」と記されていることからすれば、羽中田と同じロシア留学仲間のようにも察せられる。またその翻訳に際し、これも本探索1248の山内封介先輩の援助を受けたとの言も見えているのだが、この山内のほうもプロフィルがはっきりしないのである。

 おそらく明治四十年代に昇を中心としてロシア文学の翻訳と紹介がなされ始め、そこに若きロシア文学者たちも加わり、彼らが大正時代を迎えて、研究者、翻訳者として出版社とコラボレーションするかたちで、翻訳を活発化させたように思われる。だが先の羽中田ではないけれど、栗林や松永にしても、早逝したり、翻訳活動が短かったりして、彼らの業績が評価されずに終わってしまったのではないだろうか。それは詩人や作家たちも同様だが、とりわけ翻訳者に関して顕著で、本探索1309の『チリコフ選集』の訳者の関口弥作もその一人だと考えられる。そういえば同じく「天佑社刊行書目」にやはり昇校閲、水谷勝訳『チエホフ名作集』があるが、これは後の詩人、児童文学者の水谷まさるなのであろうか。いずれにしても外国文学の翻訳は謎が多いけれど、とりあえずロシア文学はその感が強い。


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