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古本夜話29 三人の画家と「宿命の女」

浅草の硯友社系の二流の小説家北島春石の「春石部屋」に集まっていた人々の中に伊藤晴雨の顔があったことも既述しておいた。春石の家に来客が多かったのは彼の親分肌の鷹揚さもあったが、その夫人も少女時代には剣舞小屋の舞台に立ったりしていたことから、「二人とも人生の下積みの苦労」をなめ、「酸いも甘いも知り尽くしている」ゆえだと、桜井均は『奈落の作者』で指摘している。彼の居間には夏目漱石の長い手紙が額入りで掛かっていて、それは春石の『三四郎』 への批評に対する返信だったという。胸を病んでいた春石は関東大震災の前年に四十一歳で亡くなり、大正時代のひとつの「アジール」であった「春石部屋」も消えてしまったことになる。
三四郎

この大正時代に伊藤晴雨は一人の少女に出会い、彼女を情婦兼縛りのモデルとしている。おそらくそれらのことと晴雨の「春石部屋」通いは並行していたはずであり、漱石の額の下で晴雨はその情婦兼モデルのことを語っていたかもしれない。彼女について、晴雨はその自伝「今昔愚談」(『美人乱舞』 所収、弓立社)で、次のように述べている。なおこの自伝は『人間探究』に連載されたものである。

 その以前から私に情婦が出来て居た。東京美術学校に通つていたモデルで、俗に「嘘つきお兼」で通つている兼代という女で、五年許り関係を続けた。この女は田端の荒物屋の二階を借りて居て、母は納豆を売り、娘は美校へ通つて居た。秋田産れの、東北美人系の瓜実顔で、高島田に結わせ、縛つて写生するには絶対にいい容貌と体格の所有者で、五年間にこの女を写生した画稿が積んで山を成して居たが、戦火に焼かれて、今は一枚も無くなつてしまつたのは一寸惜しい様な気がする。今私の画いて居る女の顔は彼女の形見である。

『美人乱舞』 に収録されている原色の縛られた女はお兼がモデルだった。晴雨は明治十五年浅草で旧幕臣系の金属彫金師の家に生まれ、六、七歳の頃から女性に対する変態的サディズムマゾヒズムを覚え、十歳の時に見た芝居の責め場がきっかけで、責め絵を収集するようになった。一方で読書にふけり、芝居小屋の絵看板などを描き、新聞社に挿絵画家として入社した。だから挿絵画家や芝居の関係で、晴雨は春石のところに出入りするようになり、その一方で、「縛つて写生するには絶対にいい容貌と体格の所有者」であるお兼に出会った。そしてまた戦後になっても「今私の画いて居る女の顔は彼女の形見」だと言っているのだから、お兼こそは晴雨にとって「宿命の女」であったことになる。晴雨によって見出された縛られる女の原型としてのお兼。

しかしお兼は晴雨だけの「宿命の女」ではなかった。彼が述べているように、「魅力満点」のお兼は藤島武二のモデルも務め、同時に竹久夢二の愛人でもあった。晴雨の自伝の別の言によれば、お兼との関係は大正五年から七年にかけてで、彼女と夢二は同八年から十五年とされ、藤島のモデルだったのは同十四年後半だったと推測できる。お兼は十二歳から二十二歳まで異なる三人の画家たちのモデルとなり、晴雨の責め絵、夢二の叙情的代表作「黒船屋」「黒猫を抱く女」「青いきもの」、藤島武二のイタリアルネサンス的手法による装飾絵画「芳螵」の中にその永遠なるイメージをとどめている。

これまで彼女についてはお葉の名で、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』 講談社)や青江舜二郎の『竹久夢二』 (中公文庫)で言及され、前者では「黒船屋」がこのホテルで描かれたエピソード、後者では夢二を翻弄させた「日本のマノン」としての物語が述べられていた。だが一九九六年になって、金森敦子の『お葉というモデルがいた』 晶文社)が刊行され、夢二との関係に比重が割かれているにしても、三人の異なる画家に対して、稀有なモデルとして大いなる創造力を喚起させた「佐々木カ子ヨ」の大正時代を描き、その時代の様々な絵画表現における「宿命の女」であったことに肉薄している。
お葉というモデルがいた

金森はカ子ヨ=お兼の明治三十七年においける秋田県での複雑な出生と生活、及び大正五年の母との上京から始め、「妖少女」が生計のために上野の東京美術学校のモデルとなり、十二歳の「獲りたての果実のような新鮮さ」を放つ裸体によって、学生たちの「アイドル」となっていく過程を追っている。お兼の容姿を金森は次のように描写している。

 お兼はその年齢にしては背が高かった。ほっそりとした姿態と長いまつ毛、切れ長の大きな目は、東京でもひときわ目を引いた。透けそうな耳たぶにはほんのり桃色がさしている。重そうに見えるほど豊かな髪を結い上げると、肩の線も腰つきも、危なっかしいほどか細く見えた。それを持ちこたえるように、お兼は小首を傾げ、片足の膝から下を投げ出すようにしてゆっくりと腰を落とす。細い体はたちまち柔らかな曲線を描いて、風に揺らぐ野の花のような風情になるのだった。

このようなお兼が学生のみならず、晴雨、夢二藤島武二の「アイドル」と化すのは必然的成り行きだったであろう。『お葉というモデルがいた』 における金森の前述のような描写と表紙の写真、彼らによって描かれた絵を見ていると、私はブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』 パピルス)の中にお葉を取りこみ、ヨーロッパ世紀末の女性像のひとつの典型として位置づけたくなる。しかしそれは別の機会にゆずることにして、ここではお葉に象徴されているのは日本の大正時代におけるロリータ・コンプレックスの表出だったのではないかということを指摘しておきたい。ロリコンの帝王とでもいえる中勘助『銀の匙』 でデビューしてくるのも同じ大正時代だった。中のロリコンについては「小山書店と『八雲』」(『古雑誌探究』 所収)で既述している。

倒錯の偶像 銀の匙 古雑誌探究

そのように考えてみると、晴雨の責め絵、夢二の叙情画、武二のイタリアルネサンス的装飾絵画から浮かび上がってくるのは変幻自在のニンフのような「妖少女」の姿であり、それゆえに彼女が三人に画家にとって「宿命の女」であったことが了承される気がするのである。そして彼らの関係に感応するように、上村一夫『菊坂ホテル』 朝日新聞出版)を絵師として描き、大部の絵物語を完成させている。だがそれは上村だけで終わらず、ほんまりう『宵待草事件簿』 (古山寛原作、新潮社)、ひらりん『三ツ目の夢二』 大塚英志原作、徳間書店)として、コミックにおいても「宿名の女」のように描かれ続けている。

菊坂ホテル 宵待草事件簿 三ツ目の夢二

なお晴雨の証言によれば、お兼は夢二と別れた後、死んだとされていたが、彼女はノイローゼで入院した正木不如丘が経営する病院の医師と結婚し、幸せな生活を送り、昭和五十五年に七十六歳で亡くなったことを金森は最後に記し、お兼の七十三歳当時の写真を掲載している。そこには当然のことながらかつての「妖少女」の面影はいささかもない。「宿命の女」ではなく、ふつうの生活者として年老いたことを示すような穏やかな顔を見せている。だが彼女の「妖少女」にして「宿命の女」だった大正時代のイメージは三人の画家たちの作品の中で、色褪せることなく、その特異な輝きを保ち続けている。

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