出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

多島斗志之『〈移情閣〉ゲーム』

講談社ノベルスなどの創刊に始まる新しいプログラムノベルスの流れは多くの注目すべき作家たちを生み出していった。一作だけで消えてしまった作家もいたけれども。それらの人々と作品に関して、言及していくときりがないので、志水辰夫大沢在昌にとどめておくつもりだった。

しかし昨年の暮れに彼らのうちの一人が失踪し、家族の必死の捜索にもかかわらず、その消息がつかめないという事態が伝えられていることもあり、読者が彼のことを喚起するきっかけになればと思い、彼の実質的デビュー作にふれてみる。それは1985年に講談社ノベルスの一冊として刊行された多島斗志之『〈移情閣〉ゲーム』である。
移情閣〉ゲーム

その後、多島は様々な分野の小説を書き継いでいくことになるが、やはり彼の本領は『〈移情閣〉ゲーム』に始まる現代史に題材をとった歴史ミステリで、それはゾルゲ事件を背景にした近年の『汚名』(新潮社)にもよく表われている。
汚名

まずはここで彼の最初の長編『〈移情閣〉ゲーム』のストーリーを紹介してみよう。その前に記しておけば、この物語の時代設定は83年から84年にかけてで、現在とは世界情勢がほとんど異なっていることを念頭に置いてほしい。

国際的な広告代理店宣通に大がかりなイベント企画が持ちこまれた。それはシンガポール国籍の台湾出身の華僑から出されたもので、台湾の蔣経国総統と中国の訒小平が歴史的な握手を交わし、中国と台湾の融和という結果を示すに至るイベントだった。その舞台として想定されたのが神戸にある移情閣で、この三階建の洋館は神戸在住の華僑が舞子の浜海岸に建てた別荘で、辛亥革命成功後に孫文が来日した時、歓迎会が催され、孫文ゆかりの場所であった。

孫文こそは台湾政府が国父とあがめ、中国でも革命の礎を築いた英雄とされ、中台のまじわる接点にあたる人物だった。この移情閣を孫文記念館とし、オープンの日に照準を合わせ、何ヵ月もキャンペーンを繰り広げ、孫文ブームを巻き起こし、全世界の華僑代表が出席する開館記念式典に訒小平と蔣経国をおごそかに招聘し、その会場で劇的な和解の握手を交わさせるという壮大なイベントなのである。

宣通の企画部長塔原はプロデューサーとして、そのキャンペーンを担当することになる。彼は移情閣を見て、孫文をテーマとする映画、テレビ、スポーツを絡めた日中友好キャンペーンを企画していくのだが、そこに日本やアメリカ政府も介在し、仕組まれた謀略の中で、物語は様々な歴史の隠し絵を巻きこんで展開されていく。

これが『〈移情閣〉ゲーム』の現在、もしくは第一のストーリーといっていい。だが私がこの作品に注目したのは、様々な文献を駆使して、歴史の隠し絵とも称すべき第二のストーリーが物語の中に組みこまれ、このふたつのストーリーが両輪となって構築されていたことである。しかもそれらの柱となる文献は、私が高校時代に読んだ全集に収録されていたものだった。だから次に第二のストーリーを説明しよう。

塔原は孫文キャンペーンの資料として、孫文の『ロンドン被難記』に行き当たる。これは孫文のロンドン時代の清国による誘拐監禁事件を彼自身が記したもので、1897年にロンドンで刊行されている。塔原はこの著作を中心にして、キャンペーンを展開していこうとするが、そこに様々な事件と孫文をめぐる謎に突き当たることになる。

ところでこの『ロンドン被難記』であるが、これは筑摩書房『世界ノンフィクション全集』 17に収録されていて、多島や私たちの世代にとって、とても馴染み深いシリーズだと考えられる。なぜならば、このB6判のハンディな全集は必ず学校の図書館などにも入っていて、よく読まれたのではないだろうか。それにどこの古本屋でも黄色の箱入り本があり、安かったことと収録作品の多様性から考えても、『世界ノンフィクション全集』の名に恥じない先駆的な企画であったと思われる。それこそ『ロンドン被難記』も含めて、現在でもこの全集でしか読めないノンフィクションも多々ある。多島も私と同様の『世界ノンフィクション全集』読書体験を経ることで、『〈移情閣〉ゲーム』のような物語を紡ぎ出すきっかけを得たのではないだろうか。

『ロンドン被難記』が登場し、この小説の第五章に繰りこまれることで、孫文をめぐる第二のストーリーが浮上し、それは歴史ミステリの様相を帯びてくる。しかもそれはかならず本を介在して動いていく。移情閣に忍びこみ、床下を掘った男がガードマンにつかまった。それを知った塔原はプロダクションのライターの紺野を派遣し、その笠井という男に接触させる。笠井は近代ヨーロッパ政治史を専門とする元大学助教授だった。彼は紺野に言う。孫文のロンドンの誘拐監禁事件は「仕組まれた芝居ですよ。狂言です」と。その言葉を受け、紺野は図書館に向かい、あらためて『ロンドン被難記』を読み直す。それが第五章であり、この章題は同タイトルで、そのまま要約の章となっている。

再び訪れた紺野に笠井は語り出す。彼は長谷川如是閑が明治四十五年に刊行した特派員としてのロンドン滞在記『倫敦』を示すことで、孫文の新聞事件報道の不自然さを指摘し、これが「革命家孫文を売り出すための仕掛け」だと断じる。つまり第一のストーリーのみならず、第二のストーリーの中にももうひとつのキャンペーンがあったことになる。なお長谷川の1912年政教社刊の『倫敦』は『〈移情閣〉ゲーム』の刊行から十年余を経て、『倫敦!倫敦?』 と題され、岩波文庫としてようやく刊行された。
倫敦!倫敦?

笠井はさらに孫文が清国を倒し、中国を支配しようとするイギリスの傀儡で、秘密結社フリーメーソンの会員だったと述べ、移情閣がメーソンのロッジであり、床下に秘密の儀式部屋があったはずで、その痕跡を見出すために忍びこんだと語るのだ。そしてこのヨーロッパ史に暗躍するフリーメーソンの歴史も語られ、ユダヤ人の陰謀に関する『シオンの議定書』に至るのだが、ここまでくると、多島が依拠する文献が永淵一郎の『ユダヤ人と世界革命』新人物往来社)といった傾向本なので、リアリティが急速に薄れてしまったような印象を与える。『シオンの議定書』(『ユダヤ議定書』)について、私は「死者のための図書館」(『図書館逍遥』編書房)を書いているので、詳細はそちらを参照されたい。
図書館逍遥

それでも多島はフリーメーソンと『シオンの議定書』の紋切型の導入を補うかのように、孫文と同時期にロンドンにいた南方熊楠の日記と手紙を援用し、監禁事件の五ヵ月後に孫文が熊楠と出会い、熊楠の「願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり」との発言を聞き、フリーメーソンと手を切り、「大アジア主義」へと翻身したとの仮説を提出し、それが孫文毒殺に至った原因だという結論になっている。まだ二転三転するが、とりあえず、ここで、『〈移情閣〉ゲーム』への言及は終える。この小説は現在、綾辻・有栖川復刊セレクションとして講談社から刊行されている。

多島はこの仮説を『南方熊楠全集』平凡社)の大部の書簡と日記を読むことで、発想したと思われる。そういえば、私が南方熊楠という特異な存在を知ったのは、68年に筑摩叢書で出た『南方熊楠随筆集』を通じてだった。多島も同様だったのではないだろうか。だから彼も私も読書において同時代の隣人だったのではないだろうか。

南方熊楠全集 南方熊楠随筆集


また最初にふれた 『世界ノンフィクション全集』 は60年から64年にかけて全50巻が刊行されているが、この先駆的ノンフィクション全集については稿をあらためたい。