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古本夜話287 その後の松岡虎王磨と南天堂

『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の中に、敗戦を迎えた昭和二十年の秋深くなった頃、出版物卸商業協同組合が立ち上げられたとの記述がある。それは同十六年の日配の成立以来、特価本業界も統制下に置かれ、市会も開くことができなかった状況に対して、再出発しようとする決意の表われでもあった。しかし敗戦直後の混乱状況下のことゆえ、その活動の実態は定かでないにしても、役員と七十九名に及ぶ組合員名簿は残されている。

その中に思いがけない人物を発見し、長年の謎が解けたような気がするので、それを書いておきたい。その人物の名前と住所を記せば、「松岡虎王磨[南天堂] 神田区西神田二−一三 二光社事務所内」。

高見順『昭和文学盛衰史』(文春文庫)で、「松岡虎王磨―面白い名前なので今もって忘れない」と書いているように、その名前は組合員名簿の中でもひときわ目立つ。以前にも「南天堂と詩人たち」(『書店の近代』所収、平凡社新書)において、松岡にふれている。拙稿は「松岡虎王磨の大正・昭和」というサブタイトルが付された寺島珠雄『南天堂』皓星社)などを参考にしての言及だったのだが、南天堂以後の松岡の消息が不明でずっと気になっていた。そのことに関して、寺島の『南天堂』にまったくふれられていないわけではないけれど、その記述が断続的で、松岡の晩年が曖昧なまま終わっている印象が強い。それは寺島にとって、南天堂を離れた松岡のその後の人生は「拾遺篇」の位置にあったからだと思われる。
昭和文学盛衰史  書店の近代   南天堂
私も松岡の晩年を意識的にたどろうと考えていたわけではなかったが、その後何度も名前を目にすることになったのである。それは印刷者としてだった。その名前は本連載で取り上げた円本類にも記されていたし、具体的に単行本も挙げてみれば、子母澤寛の『幕末巷談』の奥付の印刷者のところに名前があった。同書は昭和五年に発行者を塩川栄とする、京橋区の塩川書房から刊行され、印刷所は京華社となっていた。ちなみにその巻末広告に本田一郎『仕立屋銀次』が掲載され、中公文庫の元版が塩川書房本だったとわかる。ただ半生は判明している松岡に比べて、中公文庫編集部名で添えられた後記によれば、著者の本田はまったく不明の人物のようである。また塩川書房本とは別に、アナキズム文献をひとつの柱とする神田のりぶる・りべろの古書目録で、四冊の資文堂本の印刷者がやはり松岡とあるのを見ている。

仕立屋銀次 (中公文庫版)

そこであらためて確認するために、寺島の『南天堂』を再読してみた。すると忘れていたのだが、昭和二年に資文堂書店から刊行された生田長江他の『新しき詩の作法』の奥付がそのまま掲載され、印刷者は松岡で、やはり京華社印刷所とあった。寺島の指摘するところによれば、京華社は南天堂書房が出版していた「近代名著文庫」シリーズの印刷所だった。そして「南天堂と京華社は相当に密接な関係の版元と印刷所」で、『新しき詩の作法』の巻末広告に、「近代名著文庫」の『近代名詩選』上下の一巻本が見えることから、昭和初年の金融恐慌の中で、大正九年から始まった南天堂は危機に陥り、松岡が京華社、もしくは資文堂に紙型を譲ったのではないか、さらに京華社での彼の写真を示し、「虎王磨は南天堂と京華社の二重職業者だった」とも寺島は書いている。しかし資文堂とその発行者荻田卯一との関係は明らかではない。

寺島の追跡をたどれば、その後の昭和五年頃、夜逃げ同然に南天堂を離れ、七年には京華社の支配人だった須藤紋一と行をともにし、三鏡印刷の創立に参加している。須藤は白樺派で、新しき村の支持者だったという。そして寺島は三鏡印刷のメンバーの写真も示し、松岡が十七年まで在社していたことを確認している。そしてさらに寺島の、松岡への追跡は続く。

横浜の福富町への転居、十八年における、五十一歳を迎えていた松岡の美容院経営者との再婚、十九年の企業整備による三鏡印刷の大同印刷への統合、そして二十年の空襲で焼け出され、保土ヶ谷へ避難し、戦後を迎えることになる。この時、松岡は南天堂を復活させようとしたのだ。寺島は『新生』を例に挙げ、書いている。

 体裁は貧弱でも雑誌は続々と創刊・復刊している。取次店機能はわずかにしか働いていない。幸いにして虎王磨は横浜市内居住で、わが身の労を覚悟し現金準備さえすれば東京往復の仕入れは可能だ。南天堂書房の復活へ! 
 現実はこう単純ではなかったにきまっているが、虎王磨が南天堂書房復活を考え、行動したことは確かである。

この後 寺島はその場所を明かさず、一枚の日付不明の写真を提示する。そこには南天堂書房という看板を横にして、松岡と三鏡印刷の人たちが並んで写っている。寺島は「やや大きめな和風家屋に復活した南天堂」と記しただけで、いきなり松岡は昭和三十九年死去、享年七十二歳と記し、松岡の生涯を閉じている。それ以上南天堂の所在に言及しなかったのは、取材に絡んで遺族のことを配慮してだろう。

この南天堂復活の写真と寺島の記述に、『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』所収の名簿における松岡の記載を重ね合わせれば、戦後の南天堂がどのような方向で復活しようとしたのかが、それなりに推測がつく。おそらく京華社、三鏡印刷ルートで特価本業界と結びつき、写真の場所や家屋の佇まいから考えると、この業界特有の出版社、取次、書店も兼ねる南天堂が構想されたのではないだろうか。戦前の南天堂もそうであったように。

『三十年の歩み』の昭和五十六年の組合員紹介に、松岡康弘を代表とする南天堂書房がある。冒頭で示した住所に「先代が荷受所をおき、卸活動を開始する」と述べられていて、当時は横須賀市で煙草屋も兼ねた書店を営んでいたようだ。しかし、もはやその名前は見当たらない。

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