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古本夜話337 「写真大講座」と福原信三「芸術写真総論」

所持するアルスの写真書に関して、前回加藤直三郎の『中級写真術』だけで終わってしまったので、今回は「写真大講座」を取り上げたい。しかもたまたま入手している四冊のうちの第一巻は「写真総論」、第十二巻は「芸術写真論」といった内容である。前者には三宅克己が「趣味写真総論」、高桑勝雄が「写真術の一般知識」を寄稿し、その他は実用写真、写真器と用具、暗室に関する具体的解説で、まさに第一巻にふさわしい入門編を形成している。
中級写真術

ところが後者の第十二巻は巻数が進んだこともあってか、そのまま一冊が「芸術写真」特集的色彩に包まれている。そこには「芸術写真総論」が三編、「人物作画法」が同じく三編収録され、それらの筆者は福原信三、森一兵、中島謙吉、淵上白陽、野島煕正(康三)、高山正隆で、彼らは前回記した写真雑誌の関係者にして写真家であった。とりわけ福原、淵上、野島、高山は大正時代を代表する写真家と見なせるだろうし、それは岩波書店『日本の写真家』全40巻の3が『福原信三と福原路草』、4が『野島康三』、5が『高山正隆と大正ピクトリアリズム』、6が『淵上白陽と満州写真作家協会』と続いていることからも明らかであろう。

福原信三と福原路草 野島康三 高山正隆と大正ピクトリアリズム 淵上白陽と満州写真作家協会

つまりこの第十二巻には当時の最も意欲的なアマチュア写真家たちが、文章による自らの写真論を寄せていたことになる。また近年になって彼らの写真はあらためて評価され、前述のように出版されているが、その文章はまだ埋もれたままになっているのではないだろうか。そうした意味からすれば、この一巻に収録された彼らの論考は、日本の近代写真史においても重要な一文と見なしていいかもしれない。

最初に置かれた福原信三の「芸術写真論」を見てみる。まず福原は「新興の写真芸術」について、次のように定義している。

 写真芸術といふのは、写真機、写真術から生れるものではなくて、芸術家が写真機、写真術を藉りて自分の心境を表現する事に外ならない。だから若し写真機写真術がなかつたたとしても、彼らは絵筆を握るか、詩を謳ふとか他の型式で自分の心境を表現するであらう。

ここで写真家が芸術家であり、写真が絵画や詩と同等の芸術に他ならないことが語られ、その写真芸術とは写真機や写真術を借りて作者の心境を表現するもので、それこそが写真の真価だという宣言が明確に打ち出されていることになる。それゆえに写真機や写真術よりも「何を写すべきが」に重きが置かれ、それが「光」とともにあるとされ、「光=太陽」と写真と自然の関係が語られ、「表現は光を通してのみゆるされる」として、その「光の顕現」たる芭蕉の次の一句を挙げる。

 あらたふと青葉若葉の日の光

そして次に「光」に伴う「影」が言及され、「写真即ち光と影という事」から、写真における「光と影」のメカニズム、それらを通じての自然の多彩な色彩とコントラストの解釈が述べられ、そのようなプロセスを経て、写真機を持って自然に同化する。そうした作品として、福原は再び芭蕉に例をとる。

 山路来て何やらゆかしすみれ草

ここに至って、「此十七字の簡単無造作なる詩形」が「科学的な簡単さにある写真の境地」と同一視される。福原の写真芸術とは「光と影がかもす瞬間の調子に永遠の形を握るのであり、瞬間が無限の姿をとつた絶対境の顕現なのである」。さらに彼は、俳句に親しみ、自然と俳句的境地に通じている詩人といっていい日本人こそが「写真芸術を光の短詩」として完成させるとまで言い切っている。

福原信三は明治十九年に資生堂創業者の福原有信の三男として生まれ、千葉医専を卒業後、同四十二年にコロンビア大学に留学し、当時の家業である薬局経営を学んだ。その一方で、中学時代から写真に熱中し、アマチュア写真家クラブの東洋写真会に入っていたこともあり、アメリカ留学を終えた四十五年から大正二年にかけて、ヨーロッパに遊び、パリでセーヌ河畔を中心とする写真を撮り、それは後に最初の写真集『巴里とセイヌ』として編まれることになる。また福原は同時にヨーロッパの新印象派、キュビニズム、未来派などの新しい芸術運動にも実地にふれ、大いなる刺激を受けたとされる。

巴里とセーヌ(『巴里とセーヌ』、国書刊行会

そして大正十三年に福原は資生堂二代目として化粧品部を設立するかたわらで、弟の路草、掛札功、大田黒元雄と写真芸術社を結成し、『写真芸術』を『カメラ』に続く写真月刊誌として創刊することになり、同十三年には福原を会長とする日本写真会が結成され、「写真大講座」第十二巻に挙げられた写真家たちも次々と参加し、戦前の写真運動の大きな流れを形成することになる。そうした写真運動の流れを受けて、アルスの「写真大講座」のような企画が成立したのだと了解される。

そのような福原の写真芸術論を読み、彼の軌跡をたどった後で、あらためて『福原信三と福原路草』所収の信三の写真を見てみると、彼がそこで自らの理論を実践していることがリアルに伝わってくる。それらの光と影のコントラストによる静謐な風景写真は芭蕉というよりも、ひとりの映画監督のシーンを彷彿させる。「麦」や「障子戸」といった写真は、小津安二郎『麦秋』のシーンを想起させてしまうのである。

麦秋

そういえば、福原の写真家として活動は、小津が『生れてはみたけれど』や、『一人息子』などを送り出し始めた頃と重なっている。何の確証もないけれども、ともにモダニストでもあり、福原の写真に小津が関心を寄せていたと考えても、それは不自然ではない。

生れてはみたけれど >『一人息子』

今回も福原にふれただけで、その他の写真家たちに言及できなかったが、森一兵、淵上白陽、野島煕正、高山正隆のそれぞれの論は福原と異なり、自らの写真などを例として掲げた具体的なものであり、これらもそれぞれに実践的な論として、興味深いことを書き添えておこう。

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