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古本夜話348 高梨由太郎、洪洋社『建築写真類聚』、『写真集失われた帝都東京』

現在はどうかわからないけれど、かつて柏書房は公共、大学図書館市場に向けた営業体制を重視していたこともあって、それらを対象とする高定価の復刻版をかなり刊行していた。そのひとつに本連載5で触れているように、フックスのドイツ語版原書『風俗の歴史』の復刻もあった。

風俗の歴史

その復刻や企画のシリーズに、前回取り上げた『写真集よみがえる古民家―緑草会編「民家図集」』を始めとする民家や建築関係のものもあって、『今和次郎民家見聞野帖』『復刻民家』『図面で見る都市建築の明治』などに加えて、大正、昭和の建築写真集成といえる藤森照信、初田享、藤岡洋保編著『写真集失われた帝都東京』が一九九一年に出されている。同書は後に『写真集幻景の東京』として改題され、新装普及版も見ている。

写真集よみがえる古民家―緑草会編「民家図集」 図面で見る都市建築の明治 写真集失われた帝都東京 写真集幻景の東京

これは大正四年から昭和十八年にかけて、洪洋社が刊行した『建築写真類聚』から選んだ八〇五点を、施設や商店や住宅といったテーマ別に編集したものである。この『建築写真類聚』は別巻まで含めると、第十二期まで出され、第十期までは各二四集、第十一期は第一一集、別巻は第一三集構成で、三十年にわたって、様々な建築写真を発行し、それらは二六三冊、一万三千点の多くに及んでいるという。このシリーズの出版目的は建築家や施主のための建築設計のカタログであったことに疑いはないにしても、おそらく戦前における最大の建築写真資料のアーカイブとして、また建築史や風俗史の資料庫として、再発見、再評価されるに及んで、アンソロジーが編まれたといえるだろう。

その『建築写真類聚』を一冊だけ持っている。それは第二期第一八集の『欄間(2)』で、大正九年三月発行、同十一年三月三版、定価一円拾銭とある。四六判のコロタイプ印刷による欄間の写真がばらで四五枚収録されているが、一冊に五〇枚とされているので、五枚は抜き出され、使われてしまったのかもしれない。これらはやはり四六判の帙に入り、紐で留めるようになっているので、正確には本といえないだろう。しかし帙の裏側が巻末広告と奥付を兼ね、洪洋社が月刊雑誌『新住宅』や同じく月刊の『近世建築』を刊行し、『日本建築細部図集』『近世建築図版』『図集現代の住宅』などを出版している、紛れもない建築書の版元だとわかる。

すでにおわかりと思うが、白茅会編『民家図集』の印刷所も洪洋社であった。その奥付には編輯兼発行者として、建築写真類聚刊行会と高梨由太郎の名前が印刷者と同じくして並び、洪洋社が写真印刷部も有する印刷所を兼ねた出版社であることを知らしめている。

そしてさらに興味深いのは取次名が入っておらず、洪洋社関西代理店として大阪の駸々堂書店、特約大販売店として名古屋丸善、京都の田中平安堂と若林書店の四点が掲載されているだけである。これは想像するに、巻末の「洪洋社刊行書要目」に、図面を含む建築書ゆえに、判型が四六倍判、四六四倍判と記されていることから、取次ルートに乗せられない出版物と考えてよく、それゆえに主体は通販で、それ以外の大学や専門職域への販売を、前出の四店が担っていたのではないだろうか。戦前において洪洋社が建築専門の出版社であり、日本近代建築史研究者の間ではよく知られているにもかかわらず、出版史に洪洋社が登場してこないのは、そうした流通販売事情も作用しているように思われる。

私にしても、『写真集失われた帝都東京』の「はしがき」における編者の一人の藤岡洋保の次のような言及を見るまでは洪洋社のプロフィルがつかめないでいた。藤岡は菊池重郎の「出版社『洪洋社』の創立と大正初年の出版活動」(『明治村通信』昭和五七年一、二月号)に依拠し、雑誌『建築画報』の編集者だった高梨由太郎が明治四十五年に創立されたと述べ、続けている。

 洪洋社の最初の事業は月刊誌『建築写真時報』の刊行で、それに続いたのがやはり月刊の『世界建築式図解』だった。いずれも図版を主体にした出版物である。図版を鮮明に見せるために、この二つのシリーズで率先して、微妙な色調を表現できるコロタイプ印刷を採用したこと(中略)、つまり、建築に関する情報を図版、それも特に写真というヴィジュアルな手段によって提供することが大正時代を通じて盛んになっていくが、洪洋社はそのパイオニア的存在だった(後略)。

そして写真を主としたシリーズ物を中心にして会員制による定期購読頒布システムにより、経営安定化が図られ、大正十一年にはその販促のための出版案内『洪洋社タイムス』も創刊されたようだ。洪洋社は市ヶ谷台町にあり、高梨は長野県出身であったので、六、七人の社員もすべて同様だったが、高梨が昭和十三年に亡くなり、二十年の空襲で市ヶ谷も倉庫も灰燼に帰してしまい、三人の息子はすべて建築家になったというエピソードを残しながらも、事実上洪洋社は高梨一代限りの出版社として消滅したと見なしていいだろう。

しかし出版物は残り、『写真集失われた帝都東京』として、半世紀を経て蘇ったことになる。

どの写真も興味深く、見ていると、大正から昭和初年の帝都の風景の中に引きこまれ、そこに映っている店の中に入っていきそうな気になる。とりわけ二ページにわたって掲載されている八つの出版社と書店の姿は圧巻であり、これらの大倉書店、博文館、丸善、丸善神田支店、紀伊國屋書店、紅玉堂書店、文求堂書店、三省堂書店が一堂に会している写真は、これまで目にしたことがない。とりわけ紅玉堂書店については、拙稿「西村陽吉と東雲堂書店」(『古本探究』所収)で言及し、その西村の歌集『晴れた日』のこと、紅玉堂が東雲堂の資本系列で、前田夏村が経営していたこと、昭和七年頃に廃業したことなどを記しておいた。

古本探究

その紅玉堂がイタリア未来派を彷彿させる建物で、それが近代数寄屋建築の開拓者吉田五十八の設計によるものだと知り、本当に驚きを覚えた次第だ。この建物は『晴れた日』の表紙に描かれたビルなのかもしれない。

また本連載342でふれたバラック装飾社が手がけたカフェー・キリンのその痕跡を明らかに遺している写真が掲載されていることも付記しておく。

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