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古本夜話984『郷土研究』と高木敏雄『日本神話伝説の研究』

 続けてサンカをめぐってきたが、その発端ともいえる柳田国の「『イタカ』及び『サンカ』」(『柳田国男全集』5 所収、ちくま文庫)が発表された時代に戻ってみる。

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 大正二年に柳田国男は神話学者の高木敏雄とともに、本格的な民俗研究雑誌『郷土研究』を創刊する。『柳田国男伝』 によれば、明治四十四年十一月の神道談話会の席で、柳田は高木と初めて出会い、急速に親しくなり、雑誌創刊が具体的な方向へと進んでいった。だがスポンサーが現われず、最初の一年分の刊行経費は柳田が負担し、高木が編集を引き受けた。そのために郷土研究社が設立され、その発行と編集事務はこれも岡村千秋が担うことになった。

f:id:OdaMitsuo:20191218102424j:plain:h120(創刊号、復刻)   

 『郷土研究』創刊号は柳田のペンネームも含めて、大半を二人が執筆し、思いの他の売れ行きで、創刊号千部は売り切れ、三版まで発行されたようだ。そこに高木は「郷土研究の本領」(『増訂日本神話伝説の研究』2 所収、東洋文庫、平凡社)を寄せ、「日本民族の文献学的研究の今日までの歴史」は「文明の科学的研究」「文献科学的研究」に基づいていないし、それが「現時の日本文献科学界の最大欠陥」「最大疲弊」であるとし、次のように述べている。

増訂日本神話伝説の研究 2

 この欠陥とこの疲弊とは、いかほど大なる苦痛を忍んでも、何物を犠牲にしても、ぜひともこれを除かねばならぬ、ぜひともこれを救わねばならぬ、という信念の上に立ち、かつ日本民族の文献学の完成は、日本の学者の天職である以上は、この完成の前提たるべき日本民族生活の根本的研究の完成に向かって努力するのは、我々の義務であり、努力するを得るのは我々の幸福である、という信念の上に立って、この方面の研究に向って貢献したい希望から、あえて自ら惴らず、ここに新雑誌『郷土研究』を発刊するに至ったのである。

 そして「この月刊雑誌の運命は」と続いていくのだが、柳田のほうは直接資料の採集や利用を提唱していたから、このような高木の昂揚した「日本民族の文献学の完成」への意志とコラボレーションが成立するはずもなかった。それに加えて、柳田は地方の知的青年層や教員などに向けての啓発的誌面をのぞんでいた。しかし高木は研究者向けのアカデミックな専門雑誌を志向し、新しい郷土研究というコンセプトの共有に至らなかったし、もちろん編集をめぐる二人の性格上の問題も絡んでいたはずだ。

 それらもあって大正三年に高木は編集から手を引いてしまった。わずか一年での柳田との訣別であった。また高木の個人的生活難も作用していた。『郷土研究』に発表した論考をまとめた『人身御供論』(編集山田野理夫、宝文館、昭和四十八年)所収の「高木敏雄小伝」によれば、明治四十五年に年俸六百円で東京高師のドイツ語教授に就任していた。だが大正二年に『日本伝説集』(郷土研究社)を三百円で自費出版したことで家計が逼迫し、そのために『読売新聞』の連載を続けていて、これが『郷土研究』から手を引く決定的な理由となったとされる。その後、高木は大正十一年に松山高校ドイツ語講師を経て、新設の大阪外語学校教授となり、ドイツ留学を控え、腸チフスで死亡している。

人身御供論 (『人身御供論』) f:id:OdaMitsuo:20191219114200j:plain:h110(『日本伝説集』)

 一方で柳田のほうは大正三年に貴族院書記官長に就き、多忙の身であったが、高木に対する意地もあってか、『郷土研究』を単独編集で続刊し、多くのペンネームを使って執筆し、大正六年まで刊行した。『郷土研究』は四年間の刊行だったけれど、柳田が目的とした中央と地方在住者の連携は身を結んだといえるし、折口信夫、早川孝太郎、金田一京助といった学徒も見出され、日本民俗学の歴史のベースを築いたともいえよう。

 しかしそれは柳田と高木の関係に微妙な陰影を伴ったように思われる。高木の死後の大正十四年に、これも本連載でお馴染みの岡書院から『日本神話伝説の研究 神話・伝説編』『同 説話・童話編』の二冊が出され、菊判並製だが、函入で合わせると五七〇ページに及んでいる。前書には高木の高等師範教授時代の写真も掲げられ、柳田の「序」が続いている。それは次のように始まっている。

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 高木君とは一年半ほどの間、殆ど毎日のやうに往来して居たことがあつた。其頃はまだ同君の学問が現今の如く盛に行はれぬ時節であつて、書物や資料の蒐集に色々の不自由が有つたのみで無く、一般に外部の事情には、慷慨せねばならぬやうなことが多かつた。(中略)その上に高木君の気質にも、ぢつと書斎の忍耐を続けて行けるだらうかを、危ましめるものが実は有つた。

 ここに『郷土研究』を去られた、柳田の高木に対するアンビヴァレンツな思いが滲み出ているように思われる。そして『比較神話学』に始まる「高木君の新し過ぎた学問」である神話学と、柳田のイメージする民俗学の相性の悪さが、問わず語りのようにほのめかされていよう。

f:id:OdaMitsuo:20191219111342j:plain:h120(『比較神話学』、ゆまに書房復刻)

 柳田の「序」が終わると、岡村千秋名での「凡例」があり、そこに著者も生前に本書の出版を企てたようだが、実現せずに帰らぬ旅に立たれたとあり、「今回はからずも本書の刊行を見、故人の霊前に捧ぐるを得たるは、偏に岡書院主人岡茂雄氏の好意の賜物である。茲に遺族と共に編者は深く感謝の意を表したい」と記されている。

 しかしそのためには柳田に対する大いなる配慮が必要であった。先述の高木の「郷土研究の本領」は『同 説話・童話編』の末尾に収録されているが、タイトルは「日本土俗学研究の本領」と改題され、しかも先に引用した部分と末尾の四行は削除されている。これが柳田における初期民俗学の政治的本領ということになろうか。


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