出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1128 吉澤義則、武藤欽、文献書院「全訳王朝文学叢書」

 前回の「大日本文庫」の各巻校訂者の名前を見ていて、「文学篇」の『物語文学集』を吉澤義則が担当していたることに気づかされた。

 f:id:OdaMitsuo:20210205114714j:plain:h110  f:id:OdaMitsuo:20210205115424p:plain:h110(「大日本文庫」)

 実はいつか取り上げなければならないと思っていた「全訳王朝文学叢書」の訳者の一人が吉澤だったからだ。まさにその第一巻『堤中納言物語・伊勢物語・大和物語・竹取物語』はすべて吉澤の手になるものだ。

 この「全訳王朝文学叢書」は大正十三年に京都の文献書院内王朝文学叢書刊行会から刊行され、『全集叢書総覧新訂版』で確認すると、全十二巻完結とわかる。第一巻の巻末目録から類推すれば、順不同だが、『源氏物語』が六冊、『狭衣物語』二冊、『落窪物語』『蜻蛉日記・土佐日記・和泉式部日記』『とりかへばや日記』各一冊の内訳である。

全集叢書総覧 (1983年)

 文献書院は『近代出版史探索Ⅲ』542で言及しておいたように、創業者の武藤欽が京都日々新聞初代社長を退いて興した版元で、国文学、英文学書を出版していたとされる。先の拙稿では京都帝大教授の片山孤村『現代の独逸文化及文芸』を紹介しただけだったが、ようやくここで文献書院の国文学書にもふれることができる。

近代出版史探索III

 第一巻の奥付は著作者とて吉澤、発行兼印刷人として、王朝文学叢書刊行会代表者の武藤欽の名前が記され、この「叢書」がやはり公的助成金などを得ての出版であることがうかがわれる。それに武藤が印刷人を兼ねていることからわかるように、文献書院印刷所も経営し、この奥付には見えていないが、本探索1121の五車楼と同じく、東京に支店も出していたのである。それに喜ばしいことに、この第一巻は昭和二年の再版で、それなりに売れたとわかる。そのことで巻末広告にある『国文学名著集』『歌謡俳書選集』といったシリーズも企画刊行されていったのだろう。それらは京都にも円本時代があったことを彷彿とさせる。

 それを支えたのは吉澤を始めとする京都帝大国文科の教授たちだったと思われるし、片山の独文学ではないけれど、武藤の前身が京都日々新聞初代社長というポジションもあって、京都帝大と文献書院は密接にコラボレーションしていたと考えられる。とりあえず、吉澤は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 吉沢義則 よしざわよしのり  明治九・八・二三~昭和二九・一一・五(1876~1954)国文学者、歌人。名古屋市中区老松町に木村正則の次男として生れ、のち吉沢家に入籍。明治三十五年、東京帝大国文科卒。大正七年文学博士となり、八年京都帝大教授。明治三十五年、和歌革新を目途して結成された若菜会の一員となったが、その後は国文学者として活躍。昭和五年、京大関係者を集めて雑誌「帚木」を創刊。歌集に『山なみ集』(後略)。

 この吉澤の意向がどれほど反映されているかは不明だが、「全訳王朝文学叢書」はタイトルと見合った菊判函入の雅な佇まい、造本見返し、また口絵にしても、京都風の趣がある。装幀は菊地契月、中村大三郎となっていて、訳者の吉澤を筆頭とする十人と並んでいるので、これらの人々が動員され、「全訳王朝文学叢書」が送り出されていったことになろう。

 さてそこで気になるのはどうような訳文であるかだが、口絵は折り込みカラーの『伊勢物語』の「筒井筒」のシーンなので、それを見てみよう。

 昔、田舎廻りなぞして、儚い生計を立てゝゐる賎しい者に、男の子があつた。
 そして、その隣の家にすむ美しい女の子と、幼い同士、日毎ゝゝ門前の古井の傍で、遊んでゐたが、追々年を取つて、お互いに物心の付いて来るにつけて、表向には、他人行儀に、耻かしそうにしてゐたものゝ、内心に男は、是非あの子を妻にと思ひ込み、女もこの人にと心を寄せて、親達が勧める良縁にも、耳を傾けようとはしなかつた。さて隣の男から、
 つゝ井筒ゐづゝにかけしまろがたけ生ひにけらしなあひ見ざるまに
女の返歌
 くらべこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき
とこんなに、言ひ合うてゐるうち、到頭、願ひは叶へられた。

 歌の部分の訳は省略し、前半だけ挙げておいたけれど、この「筒井筒」と同様のシーンが、ゾラの十九世紀後半の第二帝政期の物語に他ならない『ルーゴン家の誕生』(伊藤桂子訳、論創社)に出てくる。そこで『伊勢物語』とゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」における神話や伝説の共通性を考えたことがあったけれど、そうした問題に手を出すと、それこそ神話や伝説という井戸にはまってしまうことになりかねないので、断念したことを思い出してしまう。

ルーゴン家の誕生 (ルーゴン・マッカール叢書)

 なお文献書院は昭和十年代に入って廃業したようだ。


odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1127 春陽堂「大日本文庫」

 ずっと続けて予約出版と外交販売による古典籍類の全集や大系などをたどってきたけれど、そうした企画は様々な出版社に持ち込まれ、おそらくスポンサーや公的助成金付きで、刊行されていったと思われる。まだ残されているそれらをいくつか取り上げてみたい。

 本探索1096で、昭和円本時代の「春陽堂予約出版事業」に言及しているが、「大日本文庫」は昭和十年代のシリーズで、その全容がつかめないこともあり、ふれてこなかった。それは書誌学の分野でも同様で、このところ重宝している『世界名著大事典』第六巻の「全集・双書目録」にも見当らない。また『全集叢書総覧新訂版』においても、A5判、「乙」は全46巻が29巻、「丙」は全57巻が26巻で中絶とあり、「乙」と「丙」を合わせた「甲」は100巻予定だったという記載で、よくわからない。

全集叢書総覧 (1983年)   

 私も一冊しか拾っておらず、それは「神道篇」の『復古神道』上巻、「荷造用函」入で、その底の部分に「(甲種)第五回配本(二冊のうちA)」、「(乙種)第五回配本」とある。この事実から類推すれば、私の入手した『復古神道』は四六判の二冊本なので「甲」、「乙」のほうはA5判の一冊本のように思われる。

 f:id:OdaMitsuo:20210205114714j:plain:h115  f:id:OdaMitsuo:20210205115424p:plain:h115 

 ところが『春陽堂書店発行図書総目録』を当たってみると、「大日本文庫」は五十三冊あり、そのうちの十三冊は「昭和年代(戦前)発行年月不明出版物」とされている。結局のところ、もはや「大日本文庫」の全巻を確認することは限りなく難しいということになろう。しかも各セクションは判明しただけでも「勤王篇」「芸道篇」「国史篇」「儒教篇」「神道篇」「地誌篇」「武士道篇」「仏教篇」「文学篇」となっていて、それぞれが最終的に何冊出たのかも定かでない。

春陽堂書店 発行図書総目録(1879年~1988年)

 ちなみに手元にある「神道篇」は『垂下神道』上下、『復古神道』上中、『吉川神道』の五冊だが、この他の巻も出されているかもしれない。だがいずれにしても、手がかりは『復古神道』上巻にしかないので、この一冊を見てみる。監修は『近代出版史探索Ⅲ』の井上哲次郎、本探索1116などの上田万年、校訂は田中義能である。田中は『神道辞典』の立項によれば、神道学者、国民道徳学者で、明治五年に山口県玖珂郡生まれ、東京帝大文科哲学科で井上哲次郎の薫陶を受け、大正五年東京帝大文学部に神道講座が開設されると、助教授として初めて神道概論を講じ、十五年は上田万年を会長とする神道学会を設立し、機関誌『神道学雑誌』を創刊している。こうした経歴、及び井上や上田との関係からしても、『復古神道』上巻の校訂に従うのは必然だったといえよう。もちろん中巻も同様である。

近代出版史探索III

 田中はこの上巻収録の荷田春満「荷田大人創学校啓」、加茂真淵「国意考」「祝詞考」、本居宣長「うひ山ふみ」「真昆霊」「玉鉾百首」「くずばな」「馭戒慨言」の解題に続いて、「復古神道について」を寄せているので、その最初の定義の部分を引いてみる。

 神道は、我が国固有の大道で、上古から我が国に行はれ、我が国の根底となり、我が国民生活の原理となつて居るのであるが、後世、儒教、仏教の伝来後、此れ等と相混じ、惟神(かんながら)の大道としては、甚だ不純なるものとなつた。荷田春満こゝに出で、かゝる儒仏的神道を以つて、唐宋諸儒の糟粕にあらずんば、胎金両郭の余瀝と云ひ、儒仏伝来前の神道を復興せんとしたのである。之れを復古神道と云ふ。

 この田中の定義にとどめ、これ以上復古神道に立ち入らないが、この一巻が江戸時代の国学者の荷田春満から加茂真淵、本居宣長へと引き継がれていく復古神道の中枢ラインを提出していることになろう。またこの一文は京都国立博物館監修『神道美術』(角川書店)をかたわらに置きながら書かれたことを付記しておく。

f:id:OdaMitsuo:20210206150439j:plain:h120

 さてそれならば、この「神道篇」も含んだ「大日本文庫」とは何かということになる。奥付を見てみると、編輯兼発行者は大日本文庫刊行会の和田利彦で、彼は本探索1098の春陽堂二代目である。したがって刊行所は春陽堂となっているけれども、検印のところには「大日本文庫」の印が押されているので、著作権と印税は春陽堂ではなく、大日本文庫刊行会にあるとわかる。また「非売品」との記載は「大日本文庫」が予約出版にして、外交販売ルートによる企画だったのではないかと判断できよう。つまり和田と春陽堂は名義を貸したのであろう。

 おそらく「大日本文庫」の企画は、本探索1116、117の国民図書の『校註日本文学大系』『校註国歌大系』の関係者によるものと考えられる。『復古神道』に見られる上部に頭注、下部に本文という編集形式は同様であり、やはりそれらの監修者だった上田たちをかつぎ出し、スポンサーや公的出版助成金、及び春陽堂の名義貸しを得て、刊行に至ったのではないだろうか。しかしそのコンセプトと内容は求心的ではなく、どちらかといえば散漫で、外交販売ルートにふさわしくなかったように思える。それに昭和十年代に入り、外交販売の雄だった中塚栄次郎の退場に象徴されるように、支那事変が進んでいく中で、外交販売の時代も終わりつつあったのかもしれない。

odamitsuo.hatenablog.com
1116
odamitsuo.hatenablog.com
1117

 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1126 創元社『シェークスピヤ全集』一巻本

 これは戦後のことになってしまうが、坪内逍遥訳『シェークスピヤ全集』の再刊にもふれておきたい。

 それを意識したのは辻佐保子の『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中央公論新社)を読んだからでもあった。私は辻邦生のよき読者とはいえないけれど、『夏の砦』(河出書房新社)や『安土往還記』(筑摩書房)に続いて、昭和四十年代後半には『背教者ユリアヌス』(中央公論社)や『嵯峨野明月記』(新潮社)が出され、辻が小川国夫、塚本邦雄と並んで、三クニオの時代と呼ばれていたことを思い出す。

「たえず書く人」辻邦生と暮らして  背教者ユリアヌス (1972年)  嵯峨野明月記

 それらのことはさておき、この辻夫人による『辻邦生全集』(新潮社)の「月報」連載の単行本を読んでいると、次のような記述に出会った。辻は一人でパリに滞在し、福永武彦の勧めで、『婦人之友』に、キリシタン信仰をテーマとする『天草の雅歌』(新潮社)を連載していた。

辻邦生全集〈1〉 (『辻邦生全集』)

 出版社から送られてくる日本史関係の膨大な資料のほかに、精神を安定させる〈重し〉として、愛用していた分厚いシェイークスピア全集(坪内逍遥訳)がどうしても必要だと言われ、急いで航空便で送った。シェイクスピアとは、仲のよいなんでも相談にのってくれる友人のような気持でいたらしい。

 この「分厚いシェイクスピア全集」とは昭和二十七年に創元社から刊行された『シェークスピヤ全集』で、手元にある。この一巻本は函入、B5判上製、厚さ6センチ、一三四六ページに及ぶ大冊に他ならない。定価は四千円だから、当時の書籍としてもとりわけ高定価だったはずだ。

f:id:OdaMitsuo:20210202113701j:plain:h115(『シェークスピヤ全集』、創元社)

 その「序」は「今や新らしき文化日本の建設に際して、坪内逍遥博士が畢生の訳業たるシェークスピヤ全集を、一巻本として、文芸愛好家のみならず、ひろく一般家庭のために送り得るやうになつたことは、わたくしどもの非常に欣快とするところである」と始まっている。「今や新らしき文化日本の建設に際して」との言は、戦後日本の出版の位相を物語るものであるし、そのために坪内逍遥訳のシェークスピヤが文化の再建と演劇と新しい芸術運動への貢献を目的として提出されたのだ。それは「あらゆる日本語の語彙を豊富に駆使した、融通自在の訳文そのもののうちに、明治・大正・昭和三代にわたる日本近代文学の集大成」ともなっている。かくして「序」は「ここに、初めて我が国に生産された、画期的な一巻本シェイークスピヤ全集を高く捧げて、明るい生活の創造と、未来の演劇のために乾杯」と結ばれている。おそらく辻邦生もその乾杯に連なった一人だったことになろう。

 そして「凡例」も述べている。これは坪内訳『シェークスピヤ全集』としては第三回の改版で、「初刊は、早稲田大学出版部によって明治四十二年より昭和三年にわたり発行された四十冊本。第二刊は、中央公論社によって昭和八年より同十年にわたり発行された新修版であつた」。これは前回既述したとおりだが、創元社版はその「全作品を一巻本」としたのである。私見によれば、この一巻本全集フォーマットは本探索1101の改造社『日本文学大全集』に範を仰いでいると思われる。それにはどのような経緯と事情が絡んでいるのだろうか。

f:id:OdaMitsuo:20210203164227j:plain(早大出版部)ハムレット (新修シェークスピヤ全集第27巻) (中央公論社)f:id:OdaMitsuo:20201208130822j:plain:h100(『日本文学大全集』)

 「序」は編纂委員の日高只一、本間久雄、坪内士行、河竹繁俊の四人の連名で出され、「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館にて」と記されている。また奥付の著作権保有者は演劇博物館内の財団法人国劇向上会代表者の河竹繁俊で、坪内の著作権が国劇向上会へと移管されたことがわかる。その背景には演劇博物館の設立も大いに連鎖している。昭和三年に逍遥の古希と早大出版部の『シェークスピヤ全集』翻訳完成を記念して、有志の発起により、各界二千余名の寄付により、演劇博物館が建設され、公益機関として無料公開される。河竹は『近代出版史探索Ⅲ』424で言及しているように、演劇博物館の館長を務めていた。その博物館の後援団体が国劇向上会で、昭和六年には河竹たち四人を始めとする演劇雑誌『芸術殿』が創刊され、十年の逍遥の死後の追悼号まで出されたが、その翌年に廃刊となっている。

近代出版史探索III

 このように演劇博物館と国劇向上会の歩みは、出版と不可分であったことから、戦後になっても引き継がれ、それらは東京堂の『芸能辞典』(昭和二十八年)、本探索でも、しばしば参照している平凡社の『演劇百科大事典』(同三五年~三七年)へと結実していく。『シェークスピヤ全集』もまたそのひとつだったといえよう。それがどうして創元社だったのかだが、「序」に見えているように、日夏耿之介の尽力によっている。日夏はこの時代に、創元社から『鷗外と露伴』『ポオ詩集』 『ワイルド全詩』『日夏耿之介全詩集』を上梓し、深い関係にあったし、中央公論社との版権問題にも関わっていたのかもしれない。それで『シェークスピヤ全集』も実現の運びになったと推測される。

f:id:OdaMitsuo:20210203142436j:plain:h115 ポオ詩集 (1950年) (創元選書〈第189〉)

 しかし問題なのは版元の創元社のほうで、『シェークスピヤ全集』刊行後の昭和二十九年に倒産してしまう。多大な製作費を要するこの全集が足を引っ張ったとも考えられる。それに大部の一巻本全集、四千円という高定価は、まだ「戦後」に他ならなかった昭和二十七年には時期尚早だったのではないだろうか。

 それもあって『シェークスピヤ全集』の後日譚はまだ続いていくのだが、こちらは稿をあらためることにしよう。


odamitsuo.hatenablog.com

 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1125 正宗白鳥『人間嫌ひ』、坪内逍遥訳『新修シェークスピヤ全集』、松本清張『行者神髄』

 本探索1120で挙げた正宗白鳥『人間嫌ひ』はまったく読まれていないだろうし、『近代出版史探索Ⅴ』854の『人間』の、昭和二十四年における連載時の評判に関しても伝えられていない。
ただイニシャル表記であっても、戦後の混乱と再生の中にある出版界の出来事、新興出版社の内情にもふれているので、それなりに話題になったと想像することはできる。
近代出版史探索V

 そうした出版社にC社=中央公論社があり、C誌=『中央公論』の編集推移と歴史、戦後における前社長A氏=麻田駒之助と後の社長S=嶋中雄作の死が語られている。そして嶋中が麻田から中央公論を引き継ぎ、それまでの雑誌だけでは「時代遅れ」だとして、書籍の出版にも「乗出して、二兎を追はう」としたと述べている。だが正宗はルマルクの『西部戦線異状なし』のベストセラーが麻田時代としているが、それは誤認である。『近代出版史探索Ⅳ』603で既述しておいたように、『西部戦線異状なし』のベストセラー化は嶋中が社長に就任した翌年の昭和四年のことで、その中央公論社出版部の処女出版のベストセラー化によって、嶋中はまさに本気で「二兎を追はう」という気になったと考えられる。それで企画されたのが『新修シェークスピヤ全集』であった。白鳥は書いている。

f:id:OdaMitsuo:20180902201601j:plain:h120(『西部戦線異状なし』)近代出版史探索IV

 T先生の「シェークスピア」全訳の新形式の廉価版を、Sは社の大事業の一つとして計画した。これはW大出版部から長年月を費して刊行されたもので、それを他の書店で新たに出版するとなると、W出版部長の許可を得なければならなかつた。それで(中略)出版部長のT博士に出会つたので、その話を持出して許可を嘆願すると、(中略)「君はW校出身者でありながら、出版部の宝としてゐる書物を奪つて行かうとするのは怪しからんじやないか」と、SはT博士に罵倒されたのであつた。

 この「T先生」が坪内逍遥であることはいうまでもないが、「T博士」は高田早苗である。

 こうした経緯と事情は『近代出版史探索Ⅴ』818でもふれておいたように、『中央公論社の八十年』でも、同じく白鳥の証言が引用され、坪内と高田が仲たがいするはめになり、早大文科の有力者金子筑水や五十嵐力の奔走で、どうにか早大出版部を説得し、中央公論社「出版部創設以来の大事業」が昭和八年に実現の運びとなったとされる。

 しばらく前に、浜松の典昭堂で、早大出版部の『沙翁全集』第三十九編『詩篇其二』、及び中央公論社の『シェークスピヤ全集』第二十九巻『マクベス』、第二十四巻『タイタス・アンドロニカス』、第四十巻『シェークスピヤ研究栞』を見つけている。前者は昭和三年初版刊行、四六判上製、定価二円五十銭、巻末広告には一ページに二冊ずつ第一編『ハムレット』から第三十九編までが並び、第四十編が「わが国の沙翁研究社の為に至つて便利な至つて斬新な一著」として今秋刊行予定となっている。これは後者の第四十巻とほぼ同じものであろうし、それらの三冊は菊半截判、奥付の定価は七十銭だが、「予約期間中に限り特価五十銭」とある。

f:id:OdaMitsuo:20210203164227j:plain (『沙翁全集』)ハムレット (新修シェークスピヤ全集第27巻) (『シェークスピヤ全集』第27巻、『ハムレット』)

 早大出版部の『沙翁全集』全四十編は明治四十二年に第一編『ハムレット』から出され始め、先に見たように昭和三年十二月になって第四十編が出され、ようやく完結に至ったことになる。それに前述の巻末広告からわかるように、既刊三十八編はすべて在庫があり、『沙翁全集』は二十年にわたるロングセラーで、まさに名実ともに早稲田大学出版部の「宝としてゐる書物」だったのである。これまでの早大出版部との関係からしても、それを坪内が知らないはずもないし、中央公論社の『シェークスピヤ全集』の企画に高田が怒り、二人が仲たがいするまでになったというのも当然のことのように思われる。

 しかも『沙翁全集』完結の五年後に中央公論社から定価は実質的に五分の一の五十銭という安い文庫版が出されるならば、早大出版部版は売れなくなることが自明だったからだ。 もちろん嶋中が坪内の改訳の意向を承知していても、そうした同じ全集が競合することになる円本時代の出版事情を十分に弁えていたはずだ。それなのにどうして『シェークスピヤ全集』の企画を推進したのだろうか。

 そのことに関して、ずっと疑問に捉われていた。ところが松本清張の坪内逍遥を描いた『行者神髄』(『文豪』所収、文藝春秋、昭和四十九年)を読むに及んで、それが氷解したように思われた。この小説は逍遥が晩年を過ごし、そこで没した熱海の雙柹舎(双柿舎)を訪ねる場面から始まり、そこに『シェークスピヤ全集』全四十巻が備えられているとの記述も見える。
文豪 (文春文庫)
 小説家の「わたし」はある出版社から逍遥の評伝を頼まれ、そのために訪れてきたのだが、そこでやはり見学者である男とであり、彼から逍遥の知られざる内幕を聞かされる。逍遥は『小説神髄』で名をはせ、劇作と演劇運動に新機運を起こし、シェークスピアの翻訳の大事業を完成させ、教育界にも尽くし、功成り名を遂げ晩年を迎えたように見えるが、「悔恨、自己嫌悪、不満、憤り」の一生で、そのために自殺したというのだ。そして彼はさらに逍遥の「鬱憂の状態」にもふれていく。

 「精神病のほうでいる躁と鬱のある鬱憂です。だから彼にはもちろん躁もあった。躁のときの逍遥は、まったく有頂天になっているんですな。その後悔が反動として鬱になる。逍遥の生涯をながめてごらんなさい。躁と鬱の繰り返しですよ。人はそれを逍遥には楽天主義と懐疑主義とが同居しているように書いているが、躁揚と鬱憂とが交互に現われていると見たほうが分りがいい。自殺はその鬱憂の時間的な最高潮であり、クライマックスだったんですよ」

そしてその男は逍遥の生涯に関して、躁揚と鬱憂が交互に出て、その第五期は「家庭児童劇とか舞踊劇を起し、新修シェークスピヤ全集の翻訳にかかるなどの時期から晩年まで」だという。とすれば、昭和四年からその死の十年までである。
 
 それはちょうど『西部戦線異状なし』がベストセラー化した時期と重なり、逍遥が躁揚症に捉われていたように、嶋中もまた「二兎を追はう」とする一種の躁揚状態の中にあり、逍遥と嶋中の躁揚病が相互にコラボレーションし、『シェークスピヤ全集』の企画へと突き進んでいったのではないだろうか。

 『中央公論社の八十年』所収の「年表」をたどり、その関連事項を抽出してみる。
所収の「年表・中央公論社の八十年」を繰ってみると、昭和二十三年のところに、ちょうど入れ代わるように、高梨茂の入社と小瀧穆の退社が記載されている。
f:id:OdaMitsuo:20180816194441j:plain:h120

 * 昭和8年6月/『新修シェークスピヤ全集』宣伝のための実行委員会を設置し、宣伝標語を賞金付きで募集。『全集』に全力を注ぐため、新大衆雑誌『諸君』創刊延期。丸之内東京会館で坪内逍遥博士をめぐる会開催。
 * 〃 7月/帝国ホテルで坪内逍遥訳『新修シェークスピヤ全集』を語る会開催。
 * 〃 9月/東京朝日講堂で『新修シェークスピヤ全集』刊行記念文芸講演会開催。
      映画「坪内逍遥博士」上映。この記念講演会と映画上映は全国的に開催される。
      第一回配本として『ハムレット』と『以尺報尺』が刊行。
 * 〃 11月/嶋中雄作社長誕生記念日と『新修シェークスピヤ全集』成功祝賀を兼ね、会社員熱海の坪内博士を訪問し、老夫妻出席のもとに夜、宴会。
 * 〃 12月/帝国ホテルにて、朝野の名士百数十名を招き、『新修シェークスピヤ全集』出版成功記念祝賀会を開催。

 翌年に入っても、まだ続いているが、昭和八年後半だけにとどめる。何か熱に浮かされたような全集キャンペーンだと感じるのは私だけだろうか。

 おそらく嶋中はもはや円本時代は過ぎているのに、遅れてきた書籍出版社として、本探索1062の改造社『現代日本文学全集』などの円本キャンペーンを再現しようとしたのであろう。それは逍遥の躁揚症とともに展開され、『行者神髄』に従うならば、その自殺へとつながる最初の昂揚であったのかもしれない。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

古本夜話1124 大日本歌人協会『支那事変歌集 戦地篇』

 前回、松村英一が『田園短歌読本』を編むにあたって、改造社の『新万葉集』と『支那事変歌集 銃後篇』から選出したことにふれておいた。

f:id:OdaMitsuo:20210122105155j:plain:h110(『田園短歌読本』)f:id:OdaMitsuo:20210123125911j:plain:h115(『新万葉集』) f:id:OdaMitsuo:20210123113218j:plain:h115

 実は一年ほど前に、浜松の時代舎で、『支那事変歌集 戦地篇』を入手していて、こちらは昭和十三年に刊行され、同十六年の『銃後篇』に先行するものだった。A5判上製、函入、四一八ページで、タイトルは函背にだけ認められ、そこには大日本歌人協会編とあり、裏函下には「文部省後援」と刷りこまれていた。そこまでは購入の際に目にしていたが、奥付は見ていなかったので、あらためて確認してみると、編纂代表者は松村英一と明記され、彼が大日本歌人協会の理事、会長を務めたことを想起させた。

 幸いなことに、大日本歌人協会は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを要約してみる。大正三年に初めての歌人団体として歌話会が生まれたが、関東大震災によって消滅し、昭和二年に日本歌人協会が全歌壇の一丸とした集いをめざして結成された。ところが会員選考などに不満が続出し、脱退者も増え、昭和十一年に解散となる。その轍を踏まないために、綿密に会規が作成され、目的として歌壇の向上発展と会員相互の親睦共済が挙げられ、同年に大日本歌人協会が発足する。その事業は和歌史の編纂、年刊歌集の発行などである。会員は旧協会の二百人を中心にしてさらに増加し、年間歌集、及び『支那事変歌集』二巻(『戦地篇』『銃後篇』)が刊行された。その後の昭和十五年の、またしてもの解散、翌年の大日本歌人会結成に至る経緯と事情は省略する。

 さてここで『支那事変歌集 戦地篇』(以下『戦地篇』)に戻る。まず「凡例」が置かれ、昭和十二年七月七日の支那事変は「支那大陸に皇軍を進出され、東洋平和の為の聖戦を展開させる結果となつた」のであり、それは「目覚ましき日本精神の発揮」だと述べられ、次のように続いている。

 一切の文芸がそれを反映して新興の熱情に燃ゆる時、短歌もまた著しき進展を示すに至つた。即ち支那事変に関する戦地銃後二つの作品は、過去の如何なる場合にも嘗て見るを得なかつた夥しき数々となつて現れたことである。支那事変が稀有の大戦であり、日本の国運を賭しての聖戦であると共に、これを契機として生れた作品は、我が和歌史の上に特筆せらるべき特質のものでなければならない。後代に伝ふる為に今にして蒐集せざればやがて散佚の悓がある。大日本歌人協会が、歌壇の協力を得ての衝に当つた理由はこの為である。

 『戦地篇』編纂において、昭和十三年十月までに新聞雑誌に発表されたもの、及び協会に直接送稿されたものに限り、それらの歌数は三万首以上に及んだ。ところがすべてを収録すれば、あまりに大部になってしまうので、戦地詠の代表作を選出し、作者五百名、歌数二千七百余となった。作者は戦地にある将士、応召者、現役入隊者、現地居住者、赤十字看護婦、宣撫班、従軍記者、現地視察者、さらに満州国守備隊、軍病院勤務者などの支那事変の直接関係者で、それらの各方面の作品を集めていることが特色とされる。

 この「凡例」は大日本歌人協会として記され、それらの理事名も挙げれば、北原白秋、土岐善麿、石榑干亦、臼井大翼、川田順、土屋文明、松村英一、前田夕暮、吉植庄亮、依田秋圃、尾山篤二郎、折口信夫である。これらを主たる会員として、昭和十一年に大日本歌人協会が発足したとわかる。

 それから三七〇ページに二千七百首が収録され、それらを読んでいくと、『近代出版史探索Ⅳ』618の日比野士朗の描く『呉淞クリーク』の戦闘に加わった兵士たちが多くいて、その風景やそれにまつわるシーンを詠んだ歌=戦地詠に出会う。例えば、次の一首は「呉淞クリーク付近」として詠まれている。

 近代出版史探索IV  呉淞クリーク/野戦病院 (中公文庫) (中公文庫) 

  敵軍の少年兵が死の際まで防ぎまもりたるはあはれなるかな

 この作者の加藤正雄は巻末の「作者略歴」で見てみると、千葉県出身の銀行員で青垣会員、昭和十二年九月応召、上海派遣軍歩兵軍曹とある。この五百名を収録した「作者略歴」を繰っていると、加藤の「青垣会」に示されているように、ほとんどが「アララギ会」を始めとする結社、もしくは歌誌、同人誌などに属していて、職業は様々だが、実に多くの歌人が支那事変に出征していたことを伝えている。日比野と同じく、彼らの日本への帰還を願わずにはいられないが、この『戦地篇』収録のものが白鳥の歌となってしまった歌人兵士たちもいたにちがいない。

 彼らを送り、案じ、歌ったのが『銃後篇』だと見なせようが、それが刊行されたのはタイムラグのある昭和十六年だった。そこには何らかの事情が秘められているのだろうか。


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら